伝道者の書6章
本来、聖書の一語一句は語られたものです。
読むのではなく、聖書の言葉に聞きましょう。
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伝道者の書6章
「しあわせな目に会わなければ」(6)
富と財宝と誉れ(2)、子どもと長寿(3)、さらに美食(7)とそして智恵(8)すらも
含めて、幸せのためにあるということを伝道者は考察します。
幸せを得ることが、人生に於いて最も重要なことです。私たちの幸せは何処
にあるのでしょうか。伝道者が虚しいこととして列挙している項目に満たされ
ることが幸せだと考えていることが普通であるように思えます。特に男性はそ
のように思っている傾向が強くないでしょうか。愛する家族にそれらのものを
もたらすことが幸せを約束していると信じているように思うのです。しかし、
伝道者の列挙する項目から外されているものにこそ、人間の幸福の鍵が潜んで
いるのです。それは愛する者との深い信頼によって結ばれた関係です。お互い
を喜び合う関係に入れられた時、男性であろうが女性であろうが関係なく共通
に幸福感を味わうことができるのですないでしょうか。つまり伝道者は人間の
世界には、その深い信頼感を形成できる愛の関係がないことを訴えているので
す。このことに私たちは真実に同意しなければならないでしょう。どのような
関係においても、その関係には終焉が予定されているのであって、私たちは絶
えずその関係からの処払いを恐れなければならないのです。その原因はさまざ
まであって、もはや私たちには数えることすらできません。そのような関係の
終了は、ほとんどの場合、未完了の事項であることを指摘しなければならない
でしょう。私たちにできる関係は、突然の終了が内包しており、絶えず不安の
種を宿しているが故に関係を完成できないのです。完成を見ることなく終了す
るという、未完了の終了を私たちは恐れ、くり返すという宿命を負っているの
です。
未完了の終了は主の前に罪です。何故なら、未完了の終了は神さまの聖なる
お姿と反対だからです。神さまのみ業は必ず、完了の継続だからです。そのみ
ことばが虚しく主の元に帰ることはありません。そのお姿から的を外している
形態なのです。私たちが全てのことについて、この未完了の終了という宿命を
負っていることを主に憐れんで頂き、そこからの救済を祈り求めなければなら
ないのです。主にはそれがおできになるからです。主イエスが十字架の上でみ
業を完了して下さったことが、それ故に根拠となるのです。主イエスは十字架
によって、購いを完了してくださり、死からの甦りをもって完了を継続してく
ださったのです。そこに私たちの希望があります。主にあってと私たちが告白
するとき、それは主イエスが死を克服されたように、私たちも未完了の終了か
らの甦りを託しているのです。私たちの生活に主イエスの足跡を尋ね求める巡
礼としての要素を求める可能性もそこにあるのであって、私たちの生が主イエ
スとともに永遠のいのちを生きることになるのです。それが救われた私たちへ
の神さまからの約束であることを覚えましょう。
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古池 哲三/koike@brainsnet.cc
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