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2008/06/26

週刊マガジン・ワンダーランド 第100号






━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.wonderlands.jp/

   週刊マガジン・ワンダーランド(Weekly Magazine Wonderland) 

   2008年6月25日発行 第100号                          毎週水曜日発行
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【目次】
▼toi presents 「あゆみ」
 演劇の「交換可能性」と「単独性」
 松井周(「サンプル」主宰、劇作家・演出家・俳優)
▼演劇集団円公演「田中さんの青空」
 青空よ、広がれ−一人芝居の功罪
 因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)
▼Monochrome Circus「The Passing01-03 WASH」
 内と外が激しく渦巻くイメージ 全体を貫くのは意味世界かダンスか
 藤原央登 (劇評ブログ「現在形の批評 」主宰)
▼三条会「ひかりごけ」(なぱふぇす2008版)
 歴史と作品の「分からなさ」を引き受ける 7年間の進化から浮かぶ表現
 志賀亮史(「百景社」主宰)
▼ハポン劇場「人喰★サーカス」
 高架下の万華鏡空間
 鳩羽風子(新聞記者、演劇評論)

■web wonderland から===================== http://www.wonderlands.jp/ 
◇急な坂スタジオプロデュース「Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)」
 虚実がバランスよく混在 動物園で「動物園物語」
 藤田一樹
◇匿名的断片(手塚夏子・神村恵・捩子ぴじん・スズキクリ)「匿名的断片」
 相手の手法へすばやくスイッチ 交換可能性を高めて匿名化
 伊藤亜紗(レビューハウス編集長)

◇壱組印プリゼンツ「小林秀雄先生来る」
 小林秀雄先生、来る!?
 村井華代(西洋演劇理論研究)
◇マレビトの会「血の婚礼」
 松田正隆の「演出家宣言」
 中西理(演劇・舞踊批評)


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◆toi presents 「あゆみ」
 演劇の「交換可能性」と「単独性」
 松井周(「サンプル」主宰、劇作家・演出家・俳優)

 「私はどこにでもいる他の誰かと変わらないありふれた存在だ」という感覚
は、誰でも感じられることのように思える。これを仮に「交換可能性」と呼ぶ。
また、「私はただ一人であり、他人もそれぞれ唯一の存在だ」という感覚も誰
でも感じるであろう。これを「単独性」と呼ぶ。この二つは相反する概念のよ
うでありながら、演劇においては実はあまり矛盾しないかもしれない。

 元々戯曲というものは「交換可能性」を前提に書かれている。誰がどの役を
演じても構わないわけだ。それで何千年も何百年も生き残って来ているわけで。
また、「演じる」という行為そのものが「私」という垣根を取り払い、「他者」
になろうとする行為なのだから、「交換可能性」とは演劇の代名詞のようでも
ある。

 しかし、例えば舞台上の俳優たちがさしたる理由もなく次々と役柄を代えて
いったらストレスを感じる観客がいるかもしれない。「誰がどの役なのかわか
らない」という理屈がそこにあるだろう。つまり、この観客が俳優に要求する
のは、俳優自身と役柄を同一に見ようとする「装われた単独性」だ。それが確
保されていないと、感情移入できないという感覚。そして、俳優側の欲望とし
てもそれはある。役柄を自分に引き寄せるなり、自分が役柄に近づくなり、ど
ちらにしても「単独性」を獲得したいと願う。しかし、これも元々「演じる」
という行為の「交換可能性」を前提にしての欲望であることを忘れているのだ
と思う。その前提を元に考えれば、これも「装われた単独性」を求めることに
なる。ここで言う純粋な「単独性」とは「みんなと同じようにやっていたつも
りだったけど、俺だけ違うんだ。わからなかった。」と言ったりする時の、本
人にはよく意識できないその人固有の身体性のことを指している。この「交換
可能性」と「単独性」をめぐってしきりに考えさせられた舞台がtoiの『あゆ
み』である。

 ほとんど素舞台に近い舞台で、奥に白く大きいスクリーンのような布が一枚
かかっているだけ。物語上の主要人物は一人の女性。彼女が初めて歩いた時か
ら物語が始まる。父と母がそれを見守る。彼女は右から左へ歩いていく。父と
母もそれを追う。そして白い布の裏側に去っていく。彼らの動作とクロスする
ように、また一人の俳優が他の俳優に手を引かれながら、右から左へと歩いて
くる。スクリーンの前で立ち止まると、手を引いてる者におもちゃをねだる。
手を引く者はそれを聞かずに手を引っ張って左へ歩いていく。すると、今度は
また二人の俳優が現れて、一人が別のおもちゃをねだる。先ほどのおもちゃよ
り若干年齢層が高そうなおもちゃを。そしてまた二人は左へ去っていく。する
と、また・・・

 このループが続くうちに、これは親子二人の会話を異なる十人の女優達がバ
トンタッチしながらリレーをしていることがわかってくる。連続した時間であ
る場合も何年かの時間が経過している場合もある。親子だけでなく、時には友
達、犬なども含めて全ての役が歩き去ることによって、歩み寄ってくる後続の
女優達にバトンタッチされていく。

 会話の内容はとてもベタなものである。幼い頃、犬がついてきたから家に入
れてしまったけど父に「飼ってもいいか」と聞く場面であったり、仲のいい友
達を裏切ってしまったり。そのことを一瞬悔やんで立ち止まる主人公の背中を
押す友達は「数IIB」(?確かではありません)の話題を振るところから、も
う高校生になっていることがわかり、あっという間に時間が経過している。そ
こから今度は、憧れの先輩への告白→言えずじまい、上京、OL時代、結婚、出
産、育児、親の死などの場面がループしていく。先にベタと書いてしまったが、
改めて言い直すと、突出して平凡と言える。それは誰もがどこかで経験したか
もしれないと思わせる、つまり経験してなくてもそう思わせてしまうような純
度の高い会話であり、その切り取り方、貼り合わせ方が舌を巻くほどうまい。
どことなくスタジオジブリの映画を思わせる。

 チェルフィッチュの岡田利規氏が桜美林大学の学生と創ったOPAPの『ゴース
トユース』も形式は『あゆみ』と似ていた。主には、多くの学生が一人の三十
五歳の主婦の時間を生きようとする試みであったように思う。どちらも一つの
役についての「交換可能性」を探る実験ということで似ている。
 しかし、『あゆみ』のように次から次へと俳優が入れ替わるわけではなく、
ある程度の時間が俳優に与えられていた。その時間の中で俳優は役柄との距離
を埋めようと試みる。徐々に現れてくる俳優自身の身体性が役柄のディテール
を作りあげようとする。しかし、他の俳優も同じ試みをすることにより、観客
は一人の主婦像をイメージすることを切断される。俳優それぞれの身体性のズ
レがノイズとなるからである。ただ、そもそも「単独性」とは俳優固有の身体
を指す言葉であり、役柄という概念は観客が俳優を観るときに幻視するものと
いう観点からすれば、複数の「単独性」と「交換可能性」は矛盾しなくなる。
一人の人間が別の場所では違う顔を見せるということは私たちの中でそんなに
違和感なく想像できる。

 では、『あゆみ』の場合はどうか?
 早いときには二言、三言で俳優が交代していくことを考えてか、歩くことと
会話のシンプルさに非常に神経を使っていたように思う。歩くスピードや歩き
方を前後の者で合わせることでリズムを作りだす演出により、観客はアニメー
ションのコマのように残像をつなげていくことが出来る。また、会話自体のシ
ンプルさも人物の関係性を観客にわかりやすく想像させる。つまり、俳優固有
の身体が出現することを最小限に食い止めること(「単独性」の抑圧)で、
「交換可能性」を引き出していた。様々な俳優が一人の役柄を演じながらも、
その役柄は統合されたわかりやすい主体として、はっきりと観客に伝わる。
 ただ、いくつかのシーンで俳優達は止まる。そこでは俳優も切り替わらずに
会話をする。俳優の固有の身体が出現してくる。ここに違和感があるかという
と、そうでもない。何故なら役柄の移動をずっと追いかけてきた観客の想像力
を少し休めてくれる場面でもあるからだ。しかし、俳優の固有の身体とベタな
台詞のバランスは多少危うくなる。それでも俳優が歩き出せば消え去るのだが。

 後半になって、主人公の女性は山登りをすることになり、今までとは逆に左
から右へと俳優を交代しながら歩き始める。鼻歌を歌いながら歩いていくと、
他の俳優達が右から左へ、今までの様々なシーンを演じながら、歩いてくる。
言わばフラッシュバックするシーンの中で、今まで提示されなかったシーンが
挟まっていることに観客は気付かされる。裏切った友達と和解したこと、憧れ
の先輩が女であったことなどが明かされる。キャストが全員女性であることを
逆手に取ってのアイディアであり、主人公の役柄が少しだけ修正される。と、
観ることも可能だがもう一つの可能世界を示したSF的な、あるいは妄想的なも
のと想像することも可能だ。この辺は「交換可能性」の面白さが現れていた。
もしかしたらここから全てが「交換可能性」の海というか、メチャクチャな発
想の飛び方をするかもという予想もあった。しかし、主人公はきちんと家族の
待つ家に帰っていく。その辺の抑制にも作家の余裕を感じた。

 最後は看護師(?)に付き添われた主人公が覚束ない足取りで、右から左へ
歩いていく。そこにリズム音が重なる。彼女を追い越したり、すれ違う者たち
や回想の自分などが様々な歩き方、別のリズムで重なる。ダンスシーンのよう
でもある。そのポリリズムが終わると、彼女は一人で最後の一歩を踏み出して、
暗転する。

 選りすぐられた平凡なエピソードの積み重ねにより浮かび上がる最大公約数
的な女性の一代記を、複数の俳優が厳格なシステムにのっとって作りあげたと
いうことの非凡さが『あゆみ』の特徴であった。

 「装われた単独性」が、俳優と役柄は一対一の関係であるという認識を指す
とすると、ここに挙げた二つの作品はそこを疑い、「交換可能性」という前提
にもう一度戻ってみることから始めたと見ることが出来る。そこで初めて「装
われた単独性」と「単独性」の区別もつく。「演じる」という前提から全ては
始まっていますよというルールの確認のようなものだ。だから、「単独性」と
は「交換可能性」という視点からの演出手法を取りいれたときのみに発見され
るものだと思う。「装われた単独性」を追求して作品を創ることを非難したい
わけではない。僕自身も作品を創るときにそれを手放そうとは思わない。しか
し、「交換可能性」にさらされて、その限界で受け身として見出される「単独
性」に惹かれてしまうのは確かだ。

 『あゆみ』という作品では「単独性」が抑圧されていると先に書いたが、そ
れでもこぼれおちる俳優の身体性はあって、歩き方や喋り方は俳優によってか
なり違う。しかし、それも「交換可能性」の強固なシステムによって縛ってい
るからこそ改めて見出されるものであったように思う。演出家がそのこぼれ落
ちたものを積極的に捉えているのか消極的に捉えているのかの判断は難しい。
どちらの面白さも現れていたように思うから。もしかしたら迷っていたのかも
しれない。それでもこれだけ刺激的な作品に出会えたことは、大きな喜びであっ
た。

【筆者略歴】
 松井周(まつい・しゅう)
 1972年東京生まれ。明治学院大学社会学部卒。1996年俳優として劇団青年団
に入団。その後、劇作と演出も手がける。青年団所属。「サンプル」主宰。次
回サンプル公演「家族の肖像」8月22日(金)〜31日(日)、五反田アトリエ
ヘリコプターで。
http://sample03.exblog.jp/
http://www.samplenet.org/

【上演記録】
toi presents 3rd「あゆみ」
http://toizuqnz.exblog.jp/
http://www.komaba-agora.com/line_up/2008_06/toi.html
こまばアゴラ劇場(6月18日-24日)

作・演出:柴幸男[青年団演出部]
出演:
黒川深雪[InnocentSphere]
宇田川千珠子[青年団]
内山ちひろ[インパラプレパラート]
小澤恵[劇がく杜の会]
斎藤淳子
桜井美弥乃[プロダクション・タンク]
高橋ゆうこ
立蔵葉子[青年団]
端田新菜[青年団]
廣野未樹[Unit woi]

スタッフ:
舞台監督=金安凌平
音響=星野大輔
照明=森友樹
照明操作=古川睦子
身体アドバイザー=野上絹代 [快快]
宣伝美術=セキコウ
制作=ZuQnZ
プロデュース=宮永琢生

アフタートーク詳細:
6月18日(水)19:30 GUEST/岸井大輔氏 [POTALIVE]
6月19日(木)19:30 GUEST/杉原邦生氏 [KUNIO/木ノ下歌舞伎/'g/こまば
アゴラ劇場 次期サミットディレクター]
6月20日(金)19:30 あゆみキャストオールメンバー

チケット料金:
前売・当日   2,000円
ペアチケット  3,000円 [日時指定 2枚]
平日マチネ割引 1,500円 [6/20(金)14:00 & 6/24(火)14:00]
「あゆみちゃん」&「あゆむくん」招待
※名前が「あゆみ」、もしくは「あゆむ」の方は特別招待。

企画制作 toi/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
協力 青年団/InnocentSphere/インパラプレパラート/劇がく杜の会/プロ
ダクション・タンク/Unit woi/Mrs.fictions/快快/RIDEOUT/and more...


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◆演劇集団円公演「田中さんの青空」
 青空よ、広がれ−一人芝居の功罪
 因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)

 「この人、痴漢です!」
 暗闇を引き裂くように女の声が響く。明かりがつくと、なぜかテーブルの上
に若い女性(一人目の女/乙倉遥)がからだをねじ曲げて立っている。混雑し
た通勤電車の中で、誰かに触られたらしい。その犯人を逃がすまいと必死になっ
ているのである。彼女以外は誰も登場しない。一人芝居である。土屋理敬の新
作『田中さんの青空』は、冒頭から予想がつかなくなった。

 土屋理敬の舞台を初めてみたのは、二〇〇二年ステージ円オープニング公演
『栗原課長の秘密基地』(松井範雄演出)である。以前にNHK FM放送の芸術ジャー
ナルで演劇評論家の村井健氏が『そして、飯島君しかいなくなった』(松井範
雄演出 二〇〇〇年沼袋のステージ円で上演)を絶賛していたことが記憶にあっ
たので、新作の上演を知ってすぐにチケットを予約した。『栗原課長−』の上
演とどちらが先かは記憶にないのだが、NHKテントシアターで上演の『飯島君
−』がテレビ放送されたものをみることができ、いずれも強く心に残った。続
いて二〇〇三年『光の中の小林くん』(森新太郎演出 ステージ円)、二〇〇
五年『梅津さんの穴を埋める』(演出も土屋が担当 ステージ円)をみたのち
の、今回の『田中さんの青空』となった。

 どの舞台も少し特殊な設定である。主旨のよくわからない会合、超有名私立
幼稚園の面接、受賞者がなかなか決まらない文学賞の表彰式、キッチンの床が
崩落して身動きできなくなった家族など。そこで交わされるやりとりは、はじ
めこそ笑いの多い日常会話だが、何かの拍子に重く鋭い変化球になって、登場
人物はもちろん、客席の自分にまで迫ってくる。ごく普通にみえていた人々が、
想像もできないほどの複雑で重たい現実を背負っており、話が進むにつれて解
決に向かうどころか、さらに辛い状況に追い込まれ、解決を見ずに終わってし
まう。人々の日々はなおも続くのである。
 そうか、こういう話だったのか!「どんでん返し」と括れず、「謎解き」を
楽しむには内容が重すぎる。さらにこの現実を人々がどう受け入れ、折り合い
をつけていくのかと考えると、少々大げさな言い方になるが、絶望的な気分に
なるのである。いったいあの人たちは、どうやって生きていくのだろう?

 さて今回の『田中さんの青空』は、「五人の女優による一人芝居」と銘打っ
てあり、自分がこれまでみた土屋作品とは趣きが異なる。痴漢告発の一人目に
始まり、スーパーの事務室で万引きの取り調べを受ける二人目(山乃廣美)、
ファミリーレストランでおしゃべりの止まらない三人目(林真里花)、初めて
の出産を控えて不安におののく四人目(馬渡亜樹)と、四人の女性たちの生態
が一人芝居形式で描かれる。一見それらはバラバラで何のつながりもないよう
だが、彼女たちの話にはいずれも「田中さん」という女性が登場し、それぞれ
何かしらの影響を受けているらしいのである。そして五人目に登場する「田中
さん」とおぼしき初老の女性(片岡静香)は、友人たちとカラオケルームに陣
取り、マイクを離さない。いったい「田中さん」とは誰、彼女たちの関係は何?

 舞台には大きなテーブルのみ、それが電車や産婦人科の診察台、ファミリー
レストランや事務所のデスク、カラオケルームになる。空間がすべて異なるの
である。しかも五人の女性たちの話は二十年近い年月の流れの中にあり、それ
が行ったり来たりする。
 展開がたやすく読めないところはこれまでの作品と変らないが、本作の大き
な特徴は一人芝居形式をとった点である。一人芝居の醍醐味は、一人が複数の
人物を自在に演じ分けたり、その場にいない人物までも舞台上に生き生きと描
き出すさまをみるところにある。演じる俳優の個性やそれまでの経験、俳優本
人の人生までもすべてを注ぎ込むほどの気迫は、舞台でなければ味わえない。
しかし俳優の存在が前面に出過ぎて、演技が巧みであればあるほど俳優の独壇
場になって鼻につく場合もある。戯曲の書き手、演じての力量もさることなが
ら、なぜこの話をこの俳優で一人芝居にするのかという必然性が伝わってこな
い舞台は、みるのが辛い。

 当日リーフレット掲載の森新太郎の挨拶文によれば、今回五人の女優さんた
ちは、一人芝居形式であることに非常に驚き、稽古では大変苦しんだそうであ
る。少し不思議に思った。一人芝居をやれるということは、俳優として力量が
あると認められたからであり、共演者に左右されず演技できるのだから、もっ
と喜んでいいはずなのにと。
 『田中さんの青空』の一人芝居のあいだじゅう、何とも言えない居心地の悪
さがあったことを思い出す。万引き取り調べの山乃廣美には比較的余裕が感じ
られたが、皆いささか演技のテンションが高く、これまで自分がみてきたいわ
ゆる一人芝居に比べると不自然で不自由でぎこちなく、場面によってはわざと
らしいくらい嘘っぽく感じられるときもあった。あらま、一人芝居の短所ばか
りではないか。客席からは笑いが起こっていたが、いつもの土屋作品に比べれ
ば随分静かであったし、自分は先が読めない不安と、五人の女優さんたちのぎ
こちない一人芝居にいささか「引いて」しまって笑えなかった。

 年齢や背景は違っても皆孤独で、自分の人生をみずから生きにくくしてしまっ
ているような女性たちである。彼女たちの孤独や、周囲との違和感を表現する
ための一人芝居ではないだろうか。土屋自身、当日リーフレットの挨拶文に
「舞台に一人しかいないという不自由さを逆手に取れば…」と書いている。こ
れは一人目から四人目までの女性たちと、五人目の「田中さん」とは、同じ一
人芝居でも様相が異なるところにも示されている。舞台にいるのは一人でも周
囲に他の人がいて、会話をしていることがわかる作りは同じだが、カラオケボッ
クスのパーティルームで賑やかに歌う田中さんは、実はたった一人で広い部屋
を使っており、グループ客が来たために個室に追いやられる。田中さんは、ま
さに現実の日常生活で一人芝居を演じていたのである。
 舞台の一人芝居は受け入れられても、現実の一人芝居は異様である。舞台形
式としての一人芝居の功罪を、土屋はこのような形で鮮やかに示したと考える。
女優さんたちの演技がぎこちなくみえたのは、演技が未熟なのではなく、『田
中さんの青空』という作品が、まさにそのぎこちなさや不自然さ必要としてい
ることと、女優さんたちがいずれも奥ゆかしい方々であるからだと察する。こ
れが「一人芝居、待ってました!」と張り切るタイプであったら、本作は違う
ものになっていたかもしれない。

 五人の女性たちが、パズルの最後の一ピースがパチリとはまったようにつな
がったとき、「わかったぞ!」という喜びよりも、ぞっとするような寂寥感に
襲われた。女性たちの人生の、何という寂しさ。本作には男性も二人登場する
(大竹周作 上杉陽一)。この二人は舞台上手と下手に分かれてはいるものの
会話をする場面があり、同じ時空間に存在していると思われたが、終盤それす
らも違うことが示され、自分の心はいよいよ暗くなった。

 またしてもやりきれない気持ちでステージ円を後にした。土屋理敬はわかり
やすい救いの道をみせてくれない。厳しく、冷徹ですらある。しかし自分はそ
こに惹かれるのだ。生きていれば誰にでも辛いことや嫌なことがある。日常生
活からはそう簡単に抜け出せない。いっそ気が変になれば逃げられるかもしれ
ないが、あんがい人のからだや心は図太いものだ。土屋理敬の作品は、即効の
解決方法を示したり、慰めを与えるものではないが、現実を見つめる目を、ほ
んの少しだけ変える力がある。いっとき現実を忘れさせてくれる、夢のように
華やかな舞台の魅力は棄てがたいが、自分は終演後のやりきれない気分や、そ
れでもほのかに温かな心持ちになれたことを大事にしたい。
 一年で三万人を越える人がみずから命を絶つこの国。
 すべての人々の頭上に青空よ、広がれ。

*文中の台詞や舞台の状況は筆者の記憶によるものです。

【筆者略歴】
 因幡屋きよ子(いなばや・きよこ)
 1964年山口県生まれ。明治大学文学部演劇学専攻卒。1998年晩秋、劇評かわ
ら版「因幡屋通信」を創刊。2005年初夏、「因幡屋ぶろぐ」を開設。
http://inabaya-k.mo-blog.jp/inabayakmoblogjp/

【上演記録】
演劇集団円公演
http://www.en21.co.jp/index.html
ステージ円(2008年5月15日-25日)
作    土屋理敬
演出    森新太郎

出演    一人目の女    乙倉遥
    二人目の女    山乃廣美
    三人目の女    林真里花
    四人目の女    馬渡亜樹
    五人目の女    片岡静香
    一人目の男    大竹周作
    二人目の男    上杉陽一

美術    奥村泰彦
照明    沢田祐二
音響    穴沢淳
衣裳    koco    
舞台監督    田中伸幸
演出助手    林紗由香
宣伝美術    坂本志保
イラストレーション    木村タカヒロ
撮影    宮内勝
制作    桃井よし子 宮本良太
制作デスク    水野有実子
舞台監督助手    吉野知絵美
プロンプター    和田成正
照明操作    田中春佳(沢田オフィス)
音響操作    栗原亜衣(東京演劇音響研究所)
大道具    シー・コム舞台装置
小道具    高津映画装飾株式会社
衣裳    松竹衣裳株式会社
協力    吉田産婦人科医院
    アブアブ赤札堂田原町店
    田原町ゴルフプラザ
料金    前売4500円 全国の田中さん特別割引3500円


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◆Monochrome Circus「The Passing01-03 WASH」
 内と外が激しく渦巻くイメージ 全体を貫くのは意味世界かダンスか
 藤原央登 (劇評ブログ「現在形の批評 」主宰)

 己が身体を拠り所に世界のある断面を切り取り、そこに全てを凝集し且つ抽
象化を施して、舞台上に書き付ける。パフォーマンスやコンテンポラリーダン
スの担い手とはいわば身体を一つの焦点に、世界全体のバイアスを進んでまる
ごと引き受ける者のことを差す。時として文字(台詞)の意味内容から構成さ
れるテクストが紡ぎ出す文脈以上の直截性を持ち得るのは、身一つで茫漠とし
た荒野にそれでも立ちつくそうとする意志を滲みだす身体の純化された姿があ
るからだ。その身体が書き記す様々な手つきが批評となるからこそ、「同時代」
と冠されたことの価値へと接続されるのだろう。京都を拠点に海外でも活動す
るモノクロームサーカスの公演を、この点から即してみると、いまひとつ納得
し難いように思われた。

 今回が初見となったこの集団は、コンタクトインプロヴィゼーションという、
身体相互のふれ合いを根幹としたダンスを創っている。それは舞台開始直後に
窺い知れる。黒いフード付きレインコートを羽織った合田有紀の逐一の動きに
呼応して、他の三人のパフォーマーが追いかけ、つかまえるシーンである。逃
げる力と引き寄せる力、双方の微妙な力関係の変化に素直に応じて相手に身を
もたせ掛け、あるいは振り回されることで、ゴムのようなしなやかな運動体へ
と転換した身体から生成されるなめらかな動きが生まれる。この「共同作業」
はコートを着用する者をオニとして交代し、全員が受け持つ。私はこのシーン
にダンスが生まれる、プリミティブな地点にまで遡及した遊びの逐一を見る思
いがした。それは、スピードと重心移動をそのまま生かしてその時・その場で
取り交わされるまさにボディーコミュニケーションなのだ。

 この作品は、昨年12月の短編が基になっている。そのためか、一本の作品と
して全体像が浮かび上がるというより、断片を継ぎ足したコラージュに近いも
のである。ぶつ切りのように個々のシーンが提示されるため、飛躍しているよ
うに見える。パンフレットにもあるように、舞台空間は、取り壊されるマンショ
ンに張り巡らされた防音シートを思わせる物が三方(冒頭、客席入り口から登
場した合田が舞台内へ入るまでは四方)から垂れ下がっている。一見、外部か
らは変容がないように見えるが、着々と役割を終えた建物が更地へと向かって
激しい音と粉塵を撒き散らしながら解体されていく内部の謂いを、舞台上に屹
立させようとしている。崩壊という一点で留め置かれた場所で、内と外が静動
の両面で激しく渦巻くイメージは確かに劇性の発生装置に相応しい。

 アフタートークゲストの服部滋樹(graf代表)は、現実世界でこのところ起
こっている不可解な出来事(秋葉原の連続刺殺事件、岩手・宮城内陸地震を想
定しているのだろう)をフラッシュバックさせると評した。主宰者の坂本公成
は、冒頭のシーンは逃げてはいるが捕まえてほしいと願う人間を表していると
発言した。それを、孤人として存在する者の我侭にも似た複雑な介入願望へと
パラフレーズすれば、まさに秋葉原の犯人の犯行動機を思わせもする。また、
単純にダンスを見せる作品にしたかったが、意味を喚起させる創りになったと
も語った。私はこれらの発言のように、日常との連続性を想起させる強度を手
放しで感じることに躊躇いを覚える。それは、個々のシーンが詰まるところ動
きの審美眼的な機能内で留まっているように私に思われたからだ。確かに、ダ
ンサー個々の身体能力の高さは目を見張るものがある。コンタクトインプロヴィ
ゼーションがワークショップに積極的に取り入れられていることからも、この
スタイルが身体を通したコミュニケーションツールとして有効であることは、
冒頭のシーンを見ても納得できる。だが、その動きのシークエンスが有機的に
連関していかないことで、現前する動きの技巧に大きく視点を引きずられ、全
体で効果を出すには至らないのである。

 冒頭のシーンに時事ネタを想起させようと、単線的な意味に身体を隷属させ
ればそれ以上の何物も生まれはしまい。反対に、その他のシーンのように、荘
厳なクラシックが流れる中でのドラマティックな動き、あるいは十分に取った
静謐な間とのコントラストといったようにダンスへ傾注すれば先述したように
審美眼的な技巧を云々するしかなくなる。断片が断片のままで燃焼しきれない
のは、作品全体を貫くのが意味世界かダンスかの視点が定まっていないからで
はないか。ダンスの生成するプリミティブな瞬間を始めに恣意的にでも見出し
たように、純化されて凝集された、そのものでしかない素朴さの中に、思わぬ
豊穣さを伴って見るものを刺し貫く要諦がある。設定された舞台空間の閉鎖性
を反転させるような力強い意志を湧出させるための、根源的な部分に降り立っ
た地点からの表現をこそ私は見たい。

 では、この舞台に私が求めるいかなるものがないかと言うとそうではない。
その場面を記しておこう。スポットライトが当たる中、下着一枚の姿になった
合田が、直立してぴたりと静止している。やがて、ゆっくりと身体がさながら
ショーアップされた人形のように左回転してゆく。筋肉の微妙な動きを維持し
コントロールする集中力はやはり感心させられる。その合田の頭上から突然、
大量の小さな粒が降りかかり、倒れてしまう。その空間に巻き散らされた粒は
ダンサー・荻野ちよがモップで片付ける。合田がその間にも激しく動いて粒を
拡散させている中、客席に何かのはじける音と匂いが伝わってくる。それはポッ
プコーン!なのであった。モップで集められた粒は舞台上手前に置かれたホッ
トプレートへと乗せられ、時限爆弾よろしくカウントされていたのだ。後ろの
方へ座っていた私はしばらく気付かず、それが飛び上がる様を認めてようやく
得心した。私はこの一連のシーンがこの舞台で一等大きな意味を持っていると
考える。日常、不意に襲い掛かる外部の圧力とはその対象者のあらゆる感覚中
枢に揺さぶりをかける。それは、埋没させた自らの存在を改めて想起させる内
向きのベクトルを覚醒させるばかりか、同心円状にその余燼を振り巻き周りを
も取り込む外部への作用を孕むだろう。不意であるが故にそれは恐怖にもなる。
秋葉原の事件や宮城県での地震のシーニュになり得るのはまさにこういったシー
ンなのである。物質同士の単純な配合は、簡素であればあるほど、峻厳で壮大
な意味作用の生成による単一的な押し付けから開放される。

 そういった場面に出くわした時、観客は個々自らの問題意識を自由に照射す
るものだ。舞台空間が創り出した特性が云々されるのは、このシーンに見られ
る、被害と加害の複雑な両義性が観客をも侵犯することで初めて可能になるの
だ。閉塞に荘厳さとダイナミズムを対置させるばかりでは外部への通低路は開
かれず、図式的に映らざるを得ない。

 その後、いつの間に用意したのか、ポップコーンの入った容器を荻野が合田
とすれ違った時にすっと手渡す。それが私にはもはや危険な檸檬爆弾のように
見えていたため、何の躊躇もなく食べながら立ち去る合田の行動のあっけなさ
がどうにも解せなかったのである。
(6月15日 アトリエ劇研 マチネ)

【著者紹介】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと)
 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。劇評ブログ『 現在形
の批評 』(http://plaza.rakuten.co.jp/playplace83/)主宰。Wonderland 
執筆メンバー。国際演劇評論家協会会員。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=17


【上演記録】
 第6回アトリエ劇研演劇祭参加作品
 Monochrome Circus『The Passing01-03 WASH』
 http://www.monochromecircus.com/index.html
 アトリエ劇研(2008年6月13〜15日)
 http://festival2008.gekken.net/

【演出・振付】坂本公成
【振付・ダンス】
 Monochrome Circus 森裕子+荻野ちよ+合田有紀+野村香子

【スタッフ】
 舞台美術:井上信太
 舞台監督:渡川知彦
 照明:川島玲子(GEKKEN Staff Room)
 音響制作:take-bow
 音響オペレーション:Shinommy
 衣装:石野良子
 宣伝美術:sheep design works
 写真撮影:清水俊洋
 映像撮影:松村陽・加藤駿介
 制作:小鹿由加里(Underline)・Monochrome Circus
 協力:茶水・大藪もも・木村麻耶・福井幸代・小寺昌樹・琴塚恭子・出川晋
・野上裕里恵・前田さん・高木すずな・アトリエ劇研ボランティアスタッフ

【主宰】NPO劇研
【共催】Monochrome Circus
【助成】平成20年度文化庁芸術拠点形成事業・京都芸術センター制作支援事業


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◆三条会「ひかりごけ」(なぱふぇす2008版)
 歴史と作品の「分からなさ」を引き受ける 7年間の進化から浮かぶ表現
 志賀亮史(「百景社」主宰)

 5月3、4日栃木県那須町で行われた「なぱふぇす2008」で三条会「ひかり
ごけ」を観た。三条会が「ひかりごけ」を上演するのは、この「なぱふぇす
2008」で10回目である。そして私が「ひかりごけ」を観るのも10回目。実を言
うと、私は運のよいことに10回すべてのバージョンを観ているのである。ただ
まあ、正確に言うと海外公演(中国、韓国、台湾)はさすがに現地では観てい
ない。稽古場で観させてもらったのではあるが。

 しかし、今回の「なぱふぇす」での公演は、過去10回の中でも一番よい舞台
だったように感じる。三条会の主宰・演出家の関美能留が利賀のコンクールで
最優秀演出家賞を受賞したのが2001年なので、7年近くたっているのにも関わ
らずまだ進化しているというのは驚くべきことではないだろうか。作品ができ
た当初は勢いでみせられるかもしれない。しかし、7年という月日がたって色
あせないどころか進化をみせるということは、関美能留と三条会がこの7年と
いう月日を闘いつづけてきた証のように思える。また三条会にとって「ひかり
ごけ」という作品は、他の作品でやってきたことの集積がわかりやすく出る作
品なのではないか。もちろん「ひかりごけ」でやってきたことが最新作には生
きているが、同様に最新作で新しい冒険をしたことが次の「ひかりごけ」では
如実に出るのである。だから、三条会の「ひかりごけ」は過去10回振り返って
もその都度少しずつ変化してきていたし、おそらく集団の節目節目に「ひかり
ごけ」という作品があったのではないかと思う。そういう意味で、「ひかりご
け」は三条会にとって鏡のような存在なのかもしれない。

 劇作家のいない劇団において、こういう作品を持てるというのは日本では稀
なことではないだろうか。そしてまさに、劇団がレパートリーを持つことの意
味とはこういうことにあるのだということに気づかされるのである。しかし、
なぜこのようなことが可能なのか?それは関美能留という演出家のものの見方
に隠されているように思われる。そしてそのような関の考え方は、「ひかりご
け」という作品と切り離せない関係にあるように私は思うのである。

 「ひかりごけ」は武田泰淳の作品で、戦時中徴兵され軍属となった漁民たち
が、北海道沖で遭難した事件を題材に描かれたものである。遭難し、食べるも
ののなくなった登場人物、船長、西川、八蔵、五助は人を食って生き延びるか、
食わずに死ぬかという極限状況に追い込まれる。結局、船長だけが生き延びる
ことになるのだが、その後、生き延びた船
長は、裁判にかけられることになる−。

 関はこの戯曲に対して、学校という場所を設定し、「ひかりごけ」のストー
リーとは別のもうひとつのサブストーリーを用意している。学校の男子生徒た
ちが、女教師(立崎真紀子)と転校生(大川潤子)に導かれながら、「ひかり
ごけ」の朗読を始める。そしてやがて、作品の登場人物となって作品世界へ入
り込んでしまう。この構成は、初演当初からまったく変化していない、極めて
シンプルな仕掛けなのであるが、この仕掛けが非常に利いている。しかし関は
決して学校という私たちの分かりやすい世界に武田泰淳の世界を矮小化はして
いない。むしろ、泰淳の言葉と自らの用意したサブプロットを注意深く並べ、
私たちの分かりやすいとしている日常の持つ別の側面を浮き彫りにしようとす
るのである。例えば、三条会の「ひかりごけ」において、船長、西川の食べる
人肉のかわりに、マクドナルドのハンバーガーを食べるシーンがある。「人肉
を食べる」というグロテスクな行為と「マクドナルドのハンバーガーを食べる」
を並べたとき、私たちは「マクドナルドのハンバーガー」とはなにかを考えざ
るを得ない。そして、「マクドナルドのハンバーガー」という今ではポピュラー
となった食べ物のグロテスクな側面に気づかされるのである。こうした関のや
り方は、全編において、まるで武田泰淳「ひかりごけ」とはどういう作品なの
かをその場で関自身が理解するかのように、もしくは男子生徒たちが理解する
かのように繰り広げられていく。

 関のこうしたやり方はなぜ生まれたのか。コンクールに参加したときの演出
ノートにそのヒントが隠されている。

 残念ながら、戯曲「ひかりごけ」を演出するにあたって、観客の皆様に確か
 なものを約束することはできない。祖父の時代を取り扱う距離感は、やっぱ
 り分からない。歴史を「ふざけること」や「開き直ること」や「嘘にしてし
 まうこと」は、演劇的に正しくないと考えている。(中略)
 「出来事」から離れずに「歴史」を考えるための、ささやかなレッスンとし
 て、始めてみます。無責任さゆえに、劇にまきこまれて、登場人物と化して
 いく過程を視覚化することで、現代に生きる人間の感受性を検証してみたい
 と思います。

 戦争を知らない世代がほとんどを占めるようになった日本において、「ひか
りごけ」の世界は理解しがたい世界になってしまっていることは事実といえる
だろう。実際、人肉食という極限状態を経験することは現在の日本では不可能
に近い。関が「やっぱり分からない」というのは、私たち観客にとっても極め
てスタンダードな感覚である。しかし、関は「分からない」ことを言い訳にし
て、「開き直ること」や、自分勝手な解釈をし、歴史を「嘘にしてしまうこと」、
また「ふざけること」をよしとしない。ではどうするか?関は「分からない」
から「分かろう」とする。今「分からない」時点からはじめ、遠くなってしまっ
たとされる武田泰淳の「ひかりごけ」の世界を真剣に考え、「分かろう」とす
る。安易に作品世界を解釈することは、確かに戦争という出来事を矮小化する
危険がある。また武田泰淳のように、その時代を生きざるを得なかった人間の
苦悩それ自体は決して私たちが理解できる質のものではない。なぜならば、そ
れはあくまで武田泰淳個人のものであり、その苦悩を簡単に理解したつもりに
なることはむしろ武田泰淳を愚弄することにもつながりかねない。そこで関は、
「ひかりごけ」を演出する上で、解釈を放棄する。しかし、それは「分からな
い」ということを放棄し、「開き直る」ことを意味しない。むしろ、「分から
ない」という実感を頼りに「分かりたい」と思い、今現在の私たちが歴史から
学べることとは何かを「検証」しようとしているのである。そして実際、その
「検証」の結果、関は「歴史から学べるなにか」に到達している。

 泰淳「ひかりごけ」において、登場人物船長は裁判の中で検事に今の心境を
答えるように強制され、「私は我慢しています」と答える。この「我慢」とは
なにかは泰淳「ひかりごけ」を理解しようとするとき、必ず議論になる部分で
ある。しかし関の姿勢からこの「我慢」を眺めたとき、それは先に書いた関の
歴史や「ひかりごけ」に対する態度と変わりがないことに気づかされる。つま
り、もし仮に船長が、自分が人肉を食べたことを後悔したとする。それは、自
分が今生きて裁判を受けていること自体を否定することにつながる(なぜなら
食べなければ死んでいるからだ)。自分が今生きることを否定するということ
は、つまり自分が食べた仲間の存在を「嘘にしてしまうこと」につながる。そ
れは結果として、仲間の犠牲を否定することであり、ぎりぎりまで生きたこと
を無視することにもつながる。ゆえに船長は自分が食べたことを否定し得ない。
また、しょうがなかったと「開き直ること」も自分が食べたことを忘れるとい
うことだから、船員たちを無視することにつながる。だから船長は決して謝る
ことはできない。また、仲間の死を忘れることもできない。自分の罪を自覚し、
どのような非難にさらされようともその生を「我慢して」全うするより仕方が
ないのである。そして自分の罪を引き受けて生きようとしたとき、逆に最も自
立した人間として存在する(それが物語終幕のキリストのメタファーにつなが
る)。

 罪を強烈に自覚し、なおかつ過去を引き受けることで自立するというこの船
長の姿から、関は現在に生きるわたしたちが、歴史を知らないことから逃げず、
なおかつ歴史を嘘にせずに引き受けることはできないかと考えたのではないだ
ろうか。そしてひとつの結論に達しているように思われる。「分からない」か
ら入った関は、逆に「分からない」ということを徹底的に生きることで、歴史
を引き受けるというところに到達する。つまり現在の「分からない」という実
感を手がかりに「考える身体」を舞台上にそのまま置くという表現を発見する
のである。

 実際、三条会「ひかりごけ」2幕のシーンでは船長役の榊原は、屹立し決し
て動かない。終幕に至るまで考えることをやめない。考え続けることを引き受
けた身体は、このとき歴史を考えること、泰淳「ひかりごけ」を考えることに
よって、そのどちらにも依らず、自立した演劇表現となって私たちの目の前に
現れる。「考える身体」は現在進行形である。決して歩みを止めることはない。
三条会「ひかりごけ」は、ゆえに決して武田泰淳「ひかりごけ」と同化しない。
先に書いたように「鏡のように」対峙し、その結果文学「ひかりごけ」を内包
しながらも、自立した演劇作品「ひかりごけ」になっている。だからこそ、三
条会「ひかりごけ」は初演から7年を経ても、進化しつづけるのである。

 最後になったが、実を言うとなぱふぇす2008での「ひかりごけ」では過去もっ
とも大きな改変が加えられている。そのことに触れて終わりにしたい。これま
での「ひかりごけ」は学校を舞台に、原作とのダブルプロットで行われていた。
しかし今回の上演では、もうひとつそれをくくる大きな枠組みが付け加えられ
た。素の三条会がまず舞台上にあって、「ひかりごけ」を上演するというとこ
ろから演劇が始まるのである。また、終幕西川、八蔵、五助役であった橋口、
中村、関は学生服を着替えて元の三条会メンバーとなって、舞台に戻ってくる。
その3人を演劇世界に取り残された船長役の榊原が喰らうのである。この改変
は、2001年初演時から現在に至る三条会という集団の変化のみならず、社会情
勢の変化をも含んだものように感じる。2001年はまだ9・11テロ前の世界であ
る。その後の世界情勢・社会情勢の変化から考えるとこの改変は非常に興味深
い。9・11テロ後、私たちの日常においても、環境問題や経済の問題の中で弱
肉強食といった風潮を感じるようになっている。2001年に比べ、明らかに泰淳
の「ひかりごけ」から感じる印象は変わってきているように思われる。船長役
の榊原が日常の三条会を喰らうとき、私たちがもはや「ひかりごけ」の世界と
まったく無縁ではいられなくなる可能性を感じさせるのだ。三条会「ひかりご
け」は、ここ7年の歴史すら含みつつ、進化している。

【筆者略歴】
 志賀亮史(しが・あきふみ)
 1979年生まれ。筑波大学在学中に百景社を設立、主宰。以後つくば市を活動
拠点に、全ての百景社作品の構成・演出を行う。舞台芸術財団演劇人会議
(JPAF)会員。


【上演記録】
三条会「ひかりごけ」−なぱふぇす2008(Nasu Performing Arts
Festival2008)参加
A.C.O.A.アトリエ(栃木県・那須町、5月3日-4日)
原作:武田泰淳「ひかりごけ」
演出:関実能留
出演:大川潤子、榊原毅、立崎真紀子、橋口久男、中村岳人、関実能留


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◆ハポン劇場「人喰★サーカス」
 高架下の万華鏡空間
 鳩羽風子(新聞記者、演劇評論)

 「鶴舞高架下に、サーカス小屋現る!!」。そんなコピーが踊る公演チラシ
を目にした。寺山修司が好きで演劇にはまった私は、すぐに「観に行ってみよ
う」と思った。チラシからして、誘い込む不思議な引力があった。

 公演期間は当初、4月18日から5月11日までだった。名古屋では珍しい
ロングラン。のんびり構えていたら満席続きで評判だと聞いた。その後、5月
22日までの6回が追加公演になった。ようやく足を運んだのは15日の夜公
演だった。

 夕闇迫るころ、JR鶴舞駅近くの高架下の会場前に並んだ。そこへ一人の老
ピエロが現れた。彼が作・演出の原智彦。年の瀬の恒例、ロック歌舞伎が人気
の名古屋の劇団「スーパー一座」の座長だ。還暦を過ぎたが、個人の立場で取
り組む今回の「ハポン劇場」というプロジェクトでも、作、演出、振り付け、
主演などを一手に手がけ、ますます意気軒高だ。

 黄昏に響く老ピエロのアコーディオンの音色は、ちょっと古くさくて、いか
がわしくて、でも肌になじむ闇のよう。小銭を握りしめて、夏祭りの夜店へと
急いだ幼いころを思い出した。開演前に抱いたそんなイメージが、芝居全体を
包んでいた。
 会場はいつもはライブハウス。2階席の上に、特設の3階席を作っても、5
0人入れば満席の小さな空間だ。舞台の広さも正面に6畳ほどと、上手脇に2
畳ほど。

 舞台設定は喰う−喰われる人間関係が丸見えになった1000年後の世界。
「赤紙」で招集された人間は、新たな命の代わりに、この世から消える仕組み
になっていた。サーカス一座の「ブランコ姫」にも「赤紙」が届く。彼女のた
めだけに、特別のお別れショーが開かれる。

 クモ女の格闘や額縁美人、のぞき男にシカ女たちのラインダンス…。舞台の
床の穴を出入り口にしたり、奥の戸を開いて外の風景を取り入れたりしながら、
次々と繰り出される芸に、見せ物小屋のような雰囲気へ。それでも猥雑一色に
ならないのは、加速する映像や甘美なバイオリンの生演奏の調べと溶け合って、
万華鏡のような美を醸し出すからだ。葬送曲にもなっている童歌の力も大きい。

 「赤紙来ると人選び、選ばれし者は消えていく」−。無邪気に繰り返し歌わ
れるが、この歌詞には、死の真実が一片が詰まっている。ショーの一つひとつ
は、完成度が高いとはいえない。ダンスもひたむきさが伝わるが、洗練にはほ
ど遠い。時折、電車が会場の上を通り、きしんだ。それでも有無をいわさず、
異次元へ導く力に満ちていた。

 終幕近く、これまで人の命を喰らって生きてきたサーカスの団長にも、最期
が訪れる。何千、何万もの命のしずくを封じ込めたという水晶玉を、ポーンと
宙に放って、姿を消す。自分の芸を継ぐ者に「恐れず喰え」と言いのこして。
水晶玉は、ピエロの兄役の巧みなジャグリングによって、きらきら光りながら
宙に浮く。そのきらめきが脳裏にやきついた。

 生命の継承を主題にした物語が、この公演を通じて、実は芸の継承にもつな
がっているのではないかと思った。40人近くいる出演者のほとんどは学生や
社会人など20代中心だ。彼らの半分以上は、昨年のハポン劇場の芝居を見て、
オーディションにやってきた人たちだという。狭い会場に、大勢の出演者のた
め、楽屋が車内という人もいた。

 終演後、路上で着替えていた社会人の女性と立ち話をした。「練習が終わっ
てから仕事に戻ったこともあったんですよ」。汗で光る体をぬぐいながら、彼
女は底抜けに明るい笑顔で話していた。

 原智彦という年老いた演劇人から、若い世代へ。芸の心は確かに引き継がれ
ていると実感した。観客から役者へ、役者から観客へ。以心伝心する魔力が、
高架下につかの間の夢空間を現出させた。

 「あなたも来年、出てみませんか」。来年の公演は出演者の数がさらに増え
そうだ。

【筆者略歴】
 鳩羽風子(はとば・ふうこ)
 横浜出身。日本女子大学人間社会学部文化学科卒。新聞記者の傍ら、劇評を
「シアターアーツ」や「ワンダーランド」に発表している。AICT(国際演
劇評論家協会)日本センター会員。
・wonderland寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=55

【上演記録】
ハポン劇場『人喰★サーカス』−ハポンフェスティバル2008
http://hitokui08.exblog.jp/i2
K.D.Japon(ケーディーハポン、名古屋市中区・鶴舞高架下)2008年4月18日-5
月22日
http://www2.odn.ne.jp/kdjapon/

作・演出:原智彦
出演:
団長(ピエロ親) 原智彦
ピエロ 兄 TEMPEI
ピエロ 妹(4月公演出演) 夕沈
ピエロ 弟(5月公演出演) 森川アオイ(コント)
バイオリン弾き 黒田かなで
ブランコ姫 大澤鮎美(シカ)
ボクサー 野原よしひで
力男 野畑幸治
のぞき男 ジェット達(ムシ)
あべこべ姉妹 安藤鮎子(シカ・ムシ)、奥村明日香(シカ・ムシ)
額縁美人 柏木綾子(コント)、中西桃子(コント)、生野智子(クモ女)
クモ女 中西菜津希、トン子(シカ)
コント・ムシ・シカのロケットガール 新美清彦、伊神多恵子、脇山康貴、大
林丘奈、遠藤由梨、西村公一、平沢源、鏡味ちえこ、久田恵里、森井瞳、前垣
聡子、鈴村まどか、高木愛香、古澤慶一、はらだいくみ、矢島与萌、三輪栄江、
原大樹、山口勇二、竹内咲衣

音楽・振付・美術:原智彦
振付:夕沈
主題歌:知久寿焼(ex.たま)
劇中音楽作曲演奏:黒田かなで
映像:真月洋子
映像オペレーター:鎌田千香子
衣装:すう、久野周一
舞台装置:永澤こうじ(是々堂)
劇場空間・小道具:ヨコヤマ茂未、ハポン劇場美術部
音響証明:星裕久
宣伝美術:アマノテンガイ
記念写真:安藤吉郎
制作:森田太朗、武村モモジ、小瀬木いづみ、鈴木えいじ、丹羽勝彦、西尾和
行、田端良広、高木絢子、黒岩美枝、沖本紘子、飯沼絵美、板倉尚子、宗広耕

主催:ハポン劇場project
楽曲提供:知久寿焼、たま、ICHI、どんと
入場券:予約 2,500円 当日 2,800円(別途ドリンク代500円
必要)


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【編集日誌】
☆マガジン・ワンダーランドはとうとう100号を迎えました。最終号というこ
とで、原稿が一度に5本も集まりました。力作投稿もあったのですが、スペー
スなどの制約で載せきれませんでした。
☆それぞれ読ませますが、toi presents「あゆみ」評は「交換可能性」と「単
独性」というキーワードで舞台の不思議に切り込んだ論考です。いまの時代や
演劇を考える上で示唆に富んだ劇評として印象に残ります。
☆2年前にマガジン始めたときは最後まで歩き通せるかちょっぴり不安でした
が、多くの執筆者のおかげでなんとかゴールできました。その数はざっと60人。
多彩な切り口と思考で毎回、公演の記録、報告、分析などに力を発揮しました。
☆これで一区切りですが、小劇場の活動をもう少し継続して見届けたいと考え、
夏以降、態勢を整えてマガジンを再スタートします。詳細はもう少しお待ちく
ださい。近々臨時のメールマガジンでお知らせします。暫時の休憩です。では、
再会を楽しみにしています。
(北嶋)
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