幕末マガジン RSSを登録する

   

※このメールマガジンに読者登録しているメールアドレスのみお取り寄せができます。
読者登録していない場合は、個別ページから登録をお願いします。

メールアドレスを入力して送信ボタンを押してください。
入力したメールアドレス宛にバックナンバーの記事が届きます。

メールアドレス:
2005/12/18

■幕末マガジン■

☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★

  【幕末マガジン】 //  2005/12/18 //  Published by RyoMaX

★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆

I_N_D_E_X____________________________

マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】神戸海軍操練所・前後のはなし その6(最終回)
┣【2】幕末日本のきら星 <第七回:調所広郷> 
┣【3】往時雑感。
┣【4】中牟田倉之助と文久2年上海視察(2002年7〜8月配信済み)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■神戸海軍操練所・前後のはなし その6(最終回)
 神戸事件の舞台にもなった操練所 (執筆者:Mr.萌咲)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
勝海舟や坂本龍馬らが活躍した神戸海軍操練所は文久3年(1863)に建設計画が
出され、元治元年(1864)開校、慶応元年(1865)閉鎖と活動期間はわずかなもので
あった。

疾風の様に神戸にやってきて疾風のように去っていった神戸海軍操練所。その
活動期間の前後にも、操練所にまつわるドラマが展開されている。このコーナ
ーは、あまり知られていない「神戸海軍操練所・前後のはなし」を紹介する。

◆神戸事件の舞台にもなった操練所◆

読者のみなさんは、慶応4年(明治元年)に起きた「神戸事件」をご存知だろうか。

簡単にこの事件のあらすじを述べよう。
 徳川幕府が崩壊した直後の慶応4年1月11日。西宮の警備に向かう岡山
備前藩の軍隊が隊列を組んでの移動中、彼らが神戸の三宮神社の前に差し
掛かったとき、その隊列を横切ったイギリス人兵士を備前藩士が刺傷させる
という出来事が起きた。

イギリス人は軽傷だった。たまたま神戸に居合わせたイギリス公使パークスが
この出来事に激怒し、イギリスをはじめ外国の陸海軍を動かして神戸の港を
制圧するという非常に緊迫した状態に陥った。最終的には、備前藩の砲隊長の
滝善三郎が全責任をとり、切腹して事件が解決する。これが「神戸事件」
だ。

さて、この「神戸事件」の舞台に「神戸海軍操練所」が顔を出してくるのである。
操練所閉鎖から3年が経過し、神戸が開港した直後の慶応4年1月10日、
イギリス公使のハリー・パークス一行が神戸海軍操練所の旧学舎に入った。当時、
操練所跡はイギリス公使館として利用されていたのだ。パークスは神戸が開港した
状況の確認に余念がなく、あわただしい時間を過ごした。そこには通訳の
アーネスト・サトウもいた。

そして翌日の11日、神戸事件が勃発。軽傷を負ったイギリス人兵士が最初に駆け
込んだのが、イギリス公使館つまり海軍操練所旧学舎であった。事情を聞いたパー
クスは激怒する。公使館の屋上から電信で神戸沖に停泊している各国の軍艦に
緊急配備を命じ、自身は馬で現場に向かった。電信を受けた諸外国の軍艦は、福岡
藩や宇和島藩などの日本船を拿捕し、一時的に神戸港が外国軍に占拠されることと
なったのである。

このように、神戸海軍操練所は神戸事件という明治維新後初の国際紛争の舞台
にもなったのである。この事件は外国人の方は軽傷だったにもかかわらず、日本
側は1名の切腹と多額の賠償金を払うことで解決した。不平等極まりない解決の
内容であった。
まだ出来立ての新政府にとっては、試練の外交だったかもしれない。もし、龍馬が
生きていて、この事件の始末を任せられていたら、どのような結果になっていた
だろうか。

ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします 
執筆者メールアドレス
moesaki1115@yahoo.co.jp
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■幕末日本のきら星 <第七回:調所広郷>    (執筆者:半平太)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
前回(先々月号)にて「財政改革推進者」として、雄藩の一角、長州の村田清風
を取り上げましたが、今回は、もう一つの雄藩の一角、薩摩の「財政改革推進者」
である、調所広郷(笑左衛門:しょうざえもん)を取り上げます。


<調所 広郷(ずしょ ひろさと)> (1776年−1848年)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
★ここが「きら星」 → 困窮にあえいでいた薩摩藩で、強引な借財整理、特産物
           の専売化、流通制度改正などの財政改革を行い、倒幕活
           動への大きな基盤となる巨万の財産を作り上げる。
           西郷隆盛、大久保利通らの活躍も、調所広郷の改革なし
           ではありえなかったかも?


◆広郷(ひろさと)の生い立ち◆

調所広郷(笑左衛門しょうざえもん)は、安永5年(1776年)薩摩藩の下級
藩士である川崎主右衛門兼孝の子として生まれ、13歳で調所清悦の養子となり
ます。これは貧困にあえいでいたための口減らしであったと言われています。

しかし養子先の調所家も裕福とはいえない家で、広郷は茶坊主として出仕するこ
とになります。茶坊主とは藩主一族の身の回りを世話する小姓で、年4石の給金
をもらえるのです。このことが出仕の大きな要因のようです。そうした究貧の中、
広郷に大きな転機が訪れます。23歳で江戸詰となり、元藩主で隠居の身となっ
ていた島津重豪(しげひで)付きの茶道となるのです。

ここで第25代島津家当主:島津重豪について少し触れます。


◆島津重豪(しまづ しげひで)について◆

1755年にわずか10歳で藩主となった重豪は、鎖国社会の当時としては珍し
く国際的な視野を持ち、かつ非常に豪胆な人物で、当時外様大名など近づけない
長崎に、参勤交代の折立ち寄りシーボルトなどと交友を持ったり、江戸屋敷には
洋風の別荘を建てたりするほどの西洋贔屓でした。

また素養が優れており、中国語はもとよりオランダ語も諳んじていたと言われ、
国際的視野や豪胆な性格の影響もあり、様々な社会への影響をもたらしました。
古いしきたりの廃止、江戸・上方・海外文化の庶民層への流布、大規模な編纂事
業、消費社会の推進などなど。天体観測施設まで作り、西洋時間を理解し24時
間制を取り入れたともいわれています。

重豪が当時の薩摩にもたらしたのは、新しいカルチャーと、消費社会推進による
好景気でしたが、良い面は長くは続きませんでした。分かり易く言うといわゆる
「バブル崩壊」となってしまったのです。

当時の経済基盤は「米」。米の収穫量は劇的には増えません。つまり収入は毎年
さほど変わらない。それなのに消費ばかりするのでは、一部の商人のみが潤い、
庶民や武士層は貧乏になっていくばかりです。島津家も例外ではなく、消費社会
についていくために商人からの「借金」がかさむこととなっていきます。

1787年に重豪は、家督を息子の斉宣に譲りますが、相変わらず実権は持ち続
けます。1809年、斉興(重興)が27代の当主となりますが、このときも重
豪は健在で「消費社会」は続いていったのです。


◆広郷の出世と薩摩の財政破綻◆

調所広郷が重豪付きの茶道となったのはそんなころ。依然として実権を握った状
態の重豪のもとに仕えることとなりました。

下級藩士出身の広郷にとって、薩摩の実権を握っている重豪に仕えてというのは
やはり大きなメリットになったようです。広郷自身の素養も優れていたのでしょ
う。御茶道頭、御小納戸頭取、御取次見習といった重豪と藩主:島津斉興の連絡
役を勤めた後、ついに47歳で町奉行に就任し、初めて諸政を担当することとな
ったのです。時間はかかりましたが異例の出世といえるでしょう。

この間、薩摩藩の財政は悪化の一途をたどり、全国豪商からの借金は120万両
を超えてしまいます。借金返済の目処もなく首の回らなくなったころ、重豪主導
で財政改革を実施します。ところが財政改革とな名ばかりで、実質は借金の踏み
倒し政策であったのです。これで完全に豪商の信用を失った薩摩藩は、まともな
ルートからの借金が出来なくなってしまったのです。

その結果、金利の高い高利貸しから借金をせざるを得なくなり、結局は新たな借
金が雪達磨式に増えていきます。積もり積もった借金が500万両。利息だけで
年間60万両であったと言われています。薩摩77万石の実勢収入が年間15万
両程度でしたから、到底返せるわけのない状態へと追い込まれていったのです。

そういった状況の中、広郷50歳のときに重豪に呼び戻されます。下級藩士出身
の調所広郷は、藩の実権を握る重豪の代理人として財政改革を命じられ、家老ら
にも広郷の指示に従うよう上意がなされたのです。今で言う「財務大臣」となっ
たわけです。とんでもない出世ですね。


◆広郷の行った財政改革◆

異例の出世を遂げた広郷でしたが、それからの道は困難を極めました。命ぜられ
た内容は、(1)500万両の借財を整理する(借金をなくす)、(2)10年
間で50万両の蓄財を作る、というもので、借金に首が回らず、具体的な対策も
考えられない状況の中で到底無理な注文でした。

まず広郷が手を付けたのは特産物の輸出品目の増加。当時の貿易は長崎のみで、
幕府の厳しい規制のもと、細々と行われていました。各藩が輸出できる物品は幕
府の許可が必要でした。広郷は粘り強く幕府に交渉し、輸出品目を増加させるこ
とに成功するのです。

しかしこの程度の財政改革では焼け石に水。絶望に暮れながらも、新たな支援者
(豪商)を求めて上方を駆けずり回っていた広郷に救いの手が差し延べられます。
大阪商人の出雲屋(浜村)孫兵衛が、薩摩御用商人の権利を条件に財政改革の協
力を申し出たのです。

まともな改革では命ぜられた結果を出すことは到底不可能。広郷と孫兵衛の行っ
た財政改革は、とんでもなく破天荒なものでした。

まずは500万両にのぼる借金の整理。

一説には借金を返済すると通知したか、もう一説には証文を新しく書き換えると
通知したかと言われていますが、全国の債権者から証文を取り上げることに成功。
新しい証文を渡すこととなりました。その内容は、借金は250年年賦で利息は
無し、という、とんでもないもので、実質借金の踏み倒しでした。

長州藩の村田清風が行った借金整理が37年年賦であったことを考えると、いか
にとんでもない条件であったことがわかりますね。

2つめに行ったのが砂糖の専売制。

薩摩藩領であった奄美群島の島々は、古くからさとうきびによる砂糖の生産を行
っていましたが、これをすべて藩の専売制にし、強制的にさとうきびを植えさせ、
米など他の作物の栽培は禁止します。また島民は、現金で他の必要品を購入する
よう強制します。島民に売る品々は藩が大阪あたりから購入してきたものを、利
潤をつけて島民に買わせ、島民の作るさとうきびは、藩が一括して買い上げ大阪
で売るという流通システムを確立してしまったのです。島民の生活は地獄のよう
なものであったと言います。

3つめに行ったのが琉球や琉球を通した清との密貿易。

海外貿易は幕府に全て握られており、許可を得て販売するのでは品目・量ともに
僅かなもので、よって利潤もさほどあがりません。そこで幕府ご法度の「密貿易」
に力を入れることとなりました。

薩摩と琉球との関係は古く、幕府も薩摩と琉球との密貿易は十分疑っていたよう
ですが、薩摩藩にとって琉球との関係は、徳川幕府との関係より古く、琉球との
密貿易はいっこうに手切れはなかったようです。その密貿易に債権者の豪商を活
用し、さらに強力に推進することとなったのです。

そのほか、横行していた役人の不正などを厳しく取締り、商業の中心であった大
阪との交通網(船)を整備することなどに腐心します。そうした財政改革の結果、
特に上記の「砂糖専売」「密貿易」によって莫大な利益をあげることとなります。
1840年ごろには、土木工事に200万両もの財政を使いながらも、50万両
も蓄財、大阪や江戸屋敷にも多くの米を備蓄できるほどになっていました。

重豪のみならず現藩主:斉興にも信任の厚くなり、家老まで上り詰めた調所広郷
の人生は、このまま順風満帆のままに終わるかと思われました。

が、思わぬ騒動に巻き込まれることになるのです。


◆島津斉彬(しまづ なりあきら)とお由羅(ゆら)騒動◆

それは世に有名な「お由羅騒動」。藩主:斉興の長男、斉彬(なりあきら)と、
斉彬の異母弟、久光(ひさみつ)の跡目争いです。

島津斉彬。幕末史に燦然と輝く名君として、その名を広く知られた人物ですね。
この斉彬。江戸にて生まれ、曽祖父にあたる重豪に可愛がられて、その聡明さに
磨きがかけられます。国際的視野の持ち主で「蘭癖」と呼ばれていた重豪に育て
られたのですから、斉彬も当然ながら国際的視野を持つようになります。

このことが「お由羅騒動」の原因の一つと言われています。

藩主:斉興は、祖父:重豪の「蘭癖」が薩摩の財政破綻を招いたと感じていまし
た。重豪に育てられた斉彬が藩主になれば、あの悪夢のような借金生活に戻るの
ではないか。そう警戒したのも無理はないのかもしれません。そのような背景か
ら藩主:斉興は、跡目に長男の斉彬ではなく、愛妾・お由羅の子である久光に継
がせたいと考えたのです。

広郷にとっても重大な問題でした。自ら指揮して苦労に苦労を重ねて行った財政
改革。その改革によって薩摩藩は裕福な藩に変貌を遂げました。蓄財した財産を
湯水のように遣われることを承服できるはずもありません。当然ながら広郷は、
跡目・久光擁立派の中心人物として立ち上がったのでした。

対する斉彬派は、斉彬側近が久光派側近を暗殺しようと計画しましたが、情報が
漏洩してしまいます。首謀者は切腹、また連座した約50名が切腹・遠島・謹慎
という厳しい処罰が課せられました。これで久光擁立派が勝利したかに見えまし
た。

しかし斉彬は反撃します。縁戚である福岡藩主・黒田長溥に仲介を求め、さらに
親しい間柄であった宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平春嶽ら、全国有力藩
に事態収拾の協力を依頼します。また幕府老中の阿部正弘を通じで、調所広郷が
中心となって進めていた、琉球や清との密貿易に関する情報を幕府に流してしま
います。こうした反撃によって嘉永元年(1848年)、ついに広郷が江戸城に
出仕した際に、密貿易の証拠を突きつけられてしまったのです。

こうして「お由羅騒動」は、久光擁立派が敗れる結果となったのでした。


◆調所広郷の最後と改革の功罪◆

薩摩藩の密貿易の嫌疑をかけられた広郷は、江戸の薩摩桜田門藩邸で自害します。
これは密貿易の責任が、藩主:斉興にまでおよぶのを防ごうとしたためであると
言われています。薩摩の財政を救った男は、今度は薩摩への嫌疑を一身に背負っ
て、その生涯を終えたのです。享年73歳。

その後、ついに嘉永4年(1851年)、薩摩藩種:斉興が隠居し、斉彬が藩主
に就任したのです。斉彬は広郷が死亡した後も追及の手を緩めず、広郷の遺族は
斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられてしまいます。

その後の薩摩の躍進は周知のとおり。新藩主:斉彬は、広郷の改革による蓄財を
利用し、藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガ
ラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興し、幕末史最高の名君として名を馳せ
ます。また斉彬によって引き立てられた西郷隆盛や大久保利通が、幕末期に大活
躍できたのも、おおいなる蓄財があったおかげといっても過言ではないでしょう。

困窮にあえいでいた薩摩藩を富ませ、「金」という幕末維新の礎を築いたことが
広郷が行った改革の功罪の「功」であるとしたら「罪」はなんでしょう。

薩摩藩の500万両にのぼる借財整理は、250年年賦という実態は踏み倒し。
この年賦は明治5年まで35年間支払っていたものの、やはり債権者に多大なる
迷惑をかけています。ただ債権者には、他の財政改革に多少なりとも関わりを持
たせ、利益を享受させたりしていたので、まだ救いはあります。

最悪なのはやはり奄美群島の島民の人々でしょう。強制的なさとうきび栽培労働
に僅かな収入。さらに生活用品を高いお金で買わされる。薩摩藩が日本屈指の雄
藩になれたのも、この奄美群島の島民の人々の犠牲があればこそだったのです。
その政策を推進した広郷が憎まれても、何ら不思議はありません。

以上のような「罪」に値する部分があまりにインパクトが大きいため、現代でも
調所広郷の功績はあまり認められていません。広郷の家系の方々も肩身の狭い思
いをされてきたようです。

広郷が改革を行わなければ、薩摩は全国屈指の雄藩として名を馳せることはあり
ませんでした。これは東の地方の大藩が「天保の改革」に軒並み失敗し、幕末維
新の時代においてほとんど活躍できなかったことを見ればよくわかります。

またもう一つの雄藩である長州藩の財政改革も、推進者である村田清風は広郷の
改革を参考にしたと言われています。広郷があれだけ「強引な改革」をしていな
ければ、長州も思い切った改革が出来なかったかもしれません。

裕福な薩摩藩・長州藩がなかったら維新は成ったのでしょうか?

おそらく無理だったでしょう。歴史に「もしも」はいけませんが、幕末期にもし
も薩摩藩と長州藩がいなかったら明治維新はおきず、徳川主導の君主制民主主義
のような形の日本になったかもしれません。

調所広郷が行った改革は、一方では多大なる犠牲を払いながらも、もう一方では
大きな歴史の流れの礎を築いた改革でもあったのです。


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→kazu-nishi@est.hi-ho.ne.jp

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■往時雑感。       (執筆者:瀬田の唐橋)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
歩くということ。その1.

極月を迎え、日ごとに寒さが厳しくなっています。こんな時は、暖かい部屋で、
のんびりと読書をするのもまた楽しいことです。

最近、作家の佐伯泰英氏にはまっております。(密命シリーズ・居眠り磐音シ
リーズ)江戸中期が時代設定となっていますが江戸の文化・風俗を知るには
良いかと思います。(勿論魅力は、それだけではなく読み始めたら止まらなく
なります。)

 さて、この本を読んでもそうですが、昔の人は本当によく歩いたものだ、
と感じます。勿論、交通手段が、現代とは違うゆえ当たり前と言えば当たり
前ですが・・・、

それでも、現代比べ、足腰が強かったことでしょう。

幕末、多くの若者が勤皇の志のもと京を目指したわけですが、その行程は、
大変であったと推察します。例えば、今でこそ東京から京都まで新幹線で
2時間弱ですので遠いと言う感覚はありませんが、これは現代の感覚であり、
江戸時代では約2週間かかっています。国事に奔走する情熱が行動を可能
にしたものと思われます。

皆さんご存知の、吉田松陰先生も諸国遊歴をされていますが、その短い生涯
において、長崎、大阪、京、江戸、東北各地とそして青森にまで足を延ばされて
います。知識・情報を得たいという情熱がこのような行動につながったものでは
ないでしょうか。現代のように、座して情報を得る時代ではなく、自分の目で見、
自分の耳で聞くことが知識・情報を得る手段だったのです。

坂本龍馬さんも同様に、鹿児島、長崎、下関、京、江戸と何度も行き来をしてい
ます。
現代人の我々は、江戸時代とは比較にならない便利な交通手段をもっていま
す。
しかしながら、点の行動は出来ても、線の行動が出来ていないのではないで
しょうか。

江戸から京へ2時間弱よりも2週間かけての行程が多くの情報を、知識をもたら
せてくれます。たまには、各駅停車でふらっと自分の周辺の町に行ってみる
・・・、そんな町並みを歩くなかで今まで、得られなかった知識・情報・出来事に
遭遇するのではないでしょうか。

                            瀬田の唐橋

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■中牟田倉之助と文久2年上海視察(3) (文:松ノ落葉)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
前回は太平天国について説明したが、中牟田、高杉らが上海滞在中最も悩まされた
問題はおそらくコレラであったろう。納富介次郎はコレラについて

「此度ノ上海行、最モ艱苦ニ甚ヘザリシハ濁水ナリ」

と、記している。
このコレラに感染したという事実は従者碩太郎、傳次郎、水夫の紋蔵の3人が死亡
したことでも明らかであろう。

納富も上海滞在中の多くは病床で過ごすことになった。中牟田、高杉も上海渡航の
直前に、長崎で流行していた麻疹に罹り上海到着後も体調は万全ではなかった。
体調不良を押して視察等を続けた中牟田も帰国後は完全に病人となり、しばらく
病床に伏してしまった。

中牟田らは病のため、思うように視察ができなかったことは残念であるが、上海滞在
中の5月11日、病床に伏せっていた中牟田を高杉が看病しつつ、2人は航海が極め
て重要であることを論じ、中牟田が高杉に航海術とは、運用術、航海術、蒸気術、
砲術、船造術の5科であることを教え、高杉がその情報を注意して記録した。のちに
高杉は長崎に帰るとまもなく、独断で長州藩に船を購入させた。その動機は言うまで
もなく、上記中牟田の航海術論の影響であろう。

帰国した後、中牟田と高杉の間にはどんな交流があったかは、「史料がないため
はっきりとした特定に近づくことができない」と「幕末佐賀藩の対外関係の研究」
の著者、Aコビング氏が表した通り、詳細は不明だが、中牟田は上海で高杉以外にも
グラバーらとも交際を持ち、これら英商人との交際は維新前後まで続いていたこと
は、明治元年に中牟田は独断でグラバーから孟春丸を購入したことでもわかる。

最後に今回主に登場した2人の人物(中牟田倉之助・高杉晋作)のその後の生涯を
簡単に説明すると、中牟田は戊辰戦争において英雄的役割を果たし、後に日本海軍
創設に尽力し、明治11年11月に海軍中将となる。その他要職を歴任し、大正5年
80歳で死去。一方、高杉は帰国後、攘夷活動に奔走し、長州藩が外国艦隊の砲撃
によって惨敗した直後、奇兵隊を創設。その後脱藩し、入獄させられるが、四国
連合艦隊との和平交渉で、すばらしい手腕を発揮する。しかし、また藩論が左幕に
傾いたため、高杉は九州に亡命する。しかし、慶応元年(1865)高杉は背水の陣
で決起したクーデターを成功させ、再び藩論を討幕に転換させた。第二次長州征伐
でも九州で指揮を執るなど活躍したが、病のため維新を見ることなく慶応3年、高杉
は29歳でこの世を去った。


高杉の上海以後の履歴を簡単に記そうと思いましたが、あまりにも波瀾万丈すぎて、
少し長い文章になってしまいました。ざっと見ただけでも高杉の生涯は普通の人間の
2〜3倍は内容が濃く、忙しい生涯のような気がします。

ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで 

参考文献

久米・中野編纂  「鍋島直正公伝」第5・6編  侯爵鍋島家編纂所
中村孝也著    「中牟田倉之助伝」(復刻版)  大空社
           「文久2年上海日記」       全国書房
アンドリュー・コビング著 「幕末佐賀藩の対外関係の研究」
田中彰著      「開国」              岩波書店
宮永孝著     「高杉晋作の上海報告」    新人物往来社

=====================================================================
        
                             END

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

[メルマガ名] 【幕末マガジン】

[発行者]  RYOMAX   http://page.freett.com/ryomax/
このメールマガジンは、「まぐまぐ」「melma!」「めろんぱん」を利用して
発行しています。

「まぐまぐ」マガジンID:0000061080  http://www.mag2.com/
「まぐまぐ」登録・解除 → http://www.mag2.com/ 

「めろんぱん」マガジンID:007195 http://www.melonpan.net
「めろんぱん」登録・解除 ↓
http://www.melonpan.net/melonpa/mag-detail.php?mag_id=007195

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/