■MM小学1855 荒木茂□江戸時代の藩校の暗誦教育
総発行部数 6103部
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■MM小学1855 荒木茂□江戸時代の藩校の暗誦教育
2008/2/07(木)蔵満逸司編集 wahaha@po.synapse.ne.jp
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連載(90)暗誦の教育史素描(その2)
江戸時代の藩校の暗誦教育
横浜 荒木 茂
http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/
今回は、「江戸時代の藩校の暗誦教育はどうであったか」について書く
ことにする。
本稿を書くに当たっては、下記の資料を使用した。
【A】石川松太郎ほか『図録・日本教育の源流』第一法規出版、昭和59
【B】石川松太郎『藩校と寺子屋』教育社、1978年
【C】市川寛明・石山秀明『図説・江戸の学び』河出書房新社、2006年
【D】今野信雄『江戸子育て事情』築地書館、1988年
【E】『神奈川県教育史・通史編上巻』神奈川県教育委員会発行、昭53年
【F】加藤秀俊ほか『人づくり風土記14(神奈川)』農山漁村文化協会発
行、1987年
上記の資料名の前に付いている記号は、以下に書いてある文章の一つ一
つに付いている記号と対応しており、その文章個所は主として上記のその記
号が付いた資料を引用したり要約したり参考にしたりして書いてあることを
示している。
藩校の概略
藩校とは
藩校とは、近世の諸藩が主として藩士の子弟を教育するために、17・18
世紀の江戸時代中葉より19世紀の後半の幕末・明治初期にかけての学校であ
る。
主として藩士の子弟に漢字の教養を施そうとした機関である。ただ生徒
を士族に限定しきっていたわけではなく、また同じ士族の子どもにむかって
も、入学を「強制」する藩、「奨励」する藩、「許容」にとどめる藩、とま
ちまちであった。が、士族の子弟には入学を「強制」した藩が大多数を占
め、「奨励」ないし「許容」の範囲にとどめた藩は僅少であった。藩校は武
士が真の「藩士」となるための義務教育機関であった。【A】
弘道館(水戸藩、佐賀藩、彦根藩)、致道館(庄内藩)、時習館(熊本
藩)文明館(松江藩)稽古館(日出藩)、明倫堂(名古屋藩)、明倫館(萩
藩、金沢藩)、日進館(会津藩)、学習堂(伊勢崎藩)などが代表的であ
る。【A】
藩校の普及度
明治初期の段階における藩校の数は25校に達し、ほぼ全ての藩に藩校
が存在していた。のち維新期に創設された36校と創設期不明の4校を除け
ば、江戸時代に創設された藩校の数は215校である。そのうち宝暦期
(1751〜63)以前に創設されたことが確認されるのは、28校にすぎない。
藩校が普及しはじめるのは、江戸時代の半ばを過ぎてからのことであった。
【C】
藩校への入学年齢
藩校への入学年齢は、7歳から10歳、なかでも8歳が最も多かった。
こうした年齢で入学する藩校は、初歩的な読み書きを教えるタイプであっ
た。
いっぽう、11歳を過ぎてから入学を許可する藩校も少なくなかった。
これらは初歩的な読み書きは家庭学習あるいは寺子屋で済ませており、その
後、さらに高度な知育・職育・武芸の教育機関として藩校であった。
【C】
藩校の教科書
四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩経・礼記・春
秋)を中心とする「経書」があらゆる部門に優先して絶対多数を占めてい
た。中心は漢籍であり「経書」であった。わけても維新前の素読科において
「経書」は698回にわたって採択され、歴史(和・漢)の35回、詩文の
19回を大きく引き離している。【A】
藩校の学習形態
一般的な漢学(四書五経)の指導形態は、素読・講義・会読・輪講・質
問などであった。
【素読】
漢学を学ぶにあたっていちばん初めにとりかかる学習段階で、声ををあ
げて文字を読み、文章をたどる学習段階である。けれども素読を、意味にも
内容にもかまわず、ただ棒読み・棒暗記だけの作業と解してはならない。同
じ「悪」という字でも「お」と読むのと「あ」と読むのとでは意味がまるで
ちがうし、「殺」という字も「さい」と「さつ」との読みかたの相違で、意
味がまったく別になる。
とりわけ近世で行われた素読というのは、漢文(という外国文)を国文
化して読む作業、意味を読みとる作業だったから、句読の切りかた、訓点に
つけかた(読みがな、送りがな)次第で、文章の意味がどのようにでもかわ
るのである。それゆえに素読は講義、会読、輪講、質問にまでつながりを
もって、学習体系の一環をなすだいじな基礎工作であった。
この素読には三つの段階があって、
〈第一段階〉一字一字、一句一句を正しく読みあげる学習
〈第二段階〉早く読み、長く読みつづける学習
〈第三段階〉ふつう「復読」と呼ばれた(復習の読み)で、とり読み、輪読
のような競争意識にうったえる集団学習も行われた。素読の力がすすんだと
ころで、まだ教えたことのない書物(多くは歴史の書)を自分の力で読ませ
たり、「広く読む」ことの読書を拡充する学習も行われた。ここまでくる
と、素読のうちにはちがいないが、しばしば「読書」と呼ばれた。【A】
【講義】
素読を終えた子どもは、教師から「講義」をうける。素読で用いたテキ
スト(主として経書)について、教師からの講義のもとに内容を理解して身
につける学習である。【A】
【会読・輪講】
こうして一定の読書力と理解力とができあがったところで、生徒が一室
にあつまって、所定の経典の所定の章句を中心として、お互いに問題をもち
だしたり、討論をしあったり、解決しきれないところは仲間とともに教師の
意見をきき指導をあおぐ共同学習である。【A】
小田原藩校「集成館」の例
以上、藩校の一般的な指導の形態を述べた。藩校はすべて同じ指導形態
や指導方法の制度であったわけではなく、各藩の地域ごとの特殊な事情に
よって、それぞれに違いがあった。
ここでは、相模国足柄下郡小田原にあった小田原藩が設立した集成館の
場合について書くことする。
小田原藩校・集成館の設立目的
寛政8年(1796)、藩主となった大久保忠真にとって、藩の財政再建の
ための藩政改革が急務であった。今までのような、代々の名門の出身者だけ
にたよった政治ではどうにもならない。たとえ下級武士でも能力があり努力
を惜しまない人材なら、登用して改革を図ることが必要だと考えた。それに
は学校を建て、子弟を教え、それぞれの資質をみつけ、実力を備えた適格者
を育成して政務の中枢に置かなければならないと考えた。財政再建の一歩と
して領内栢山村の農民・二宮金次郎を登用して分家領の農村復興を命じたり
したのもその一例である。
そこで大久保忠真は、主席家老の大久保忠洪に命じて藩校の創立にあ
たらせた。天保年間にできた小田原城下図によると、講堂(集成館)を中心
に、東側に槍場一棟、習書場、剣道場の一棟が配され、校庭には馬場・薬草
園・溜りがある。この集成館の跡地面積は、今そこに建っている市立小田原
小学校の約四千坪に相当するものと思われる。
【F】
小田原藩校・集成館の教育課程
小田原藩校の入学年齢は「藩の子弟およそ九歳になれば入学を許し、卒
業後といえども白髪になるまでその好むところ芸文にあそばしめ」たとあり
ます。集成館の教育課程は次のとおりであった。
筆道(ひつどう。習字の稽古、家庭で行うことが多かった)
素読(そどく。漢字、漢文を声をあげて読みこなす学習)
講釈(こうしゃく。教師の指導で、下記の教科書を熟読吟味して、その意味
をくみ取る学習。一般的には「購読」と言った。)
会読(かいどく。生徒相互が集団研究する学習、今日のゼミナールに近い。
小田原藩では「会釈」(かいしゃく)とも言っていた。
教科書
経書──「小学」(しょうがく)、四書〈「大学」だいがく、「論語」ろん
ご、「孟子」もうし、「中庸」ちゅうよう〉。「近思録」きんしろく。五経
〈「易」えき、「書」しょ、「詩」し、「春秋」しゅんじゅう、「礼記」ら
いき〉など。
史書──中国の歴史書(「左国史漢」「十八史略」)や日本の歴史書(「日
本外史」「律令格式」「日本政記」)など。
文学──「唐宋八家文」とうそうはっかぶん、「唐詩選」とうしせん、な
ど。
素読科から講釈科にすすむには、年四回の試験、二年に一回の復習試験
を突破しなければならなかった。そして講釈科を終了した場合、また卒業試
験があり、それぞれ優等の者には賞があたえられた。
こうした過程を経て、藩校の必修課程は終わりとなり、改めて武芸に励
むもの、医学へ進むもの、会読を志すもの、任官するもの、いろいろであっ
た。
武芸は「弓、馬、剣、槍、砲術、柔術、棒術」があり、これらは特定の
一流を教授するのでなく、多くの流派が並存し、それぞれが伝統を誇示して
いた。相互の交流は少なく、とかく閉鎖的・排他的であった。これは小田原
藩に限らず一般的な傾向だった。
【F】
小田原藩校・集成館の学習形態
筆道──手習いはもっぱら家庭で行い、素読科から藩校にかよう子、清書・
席書の日だけ出席して指導をうける子もいた。藩校での手習いは午
前8時から12時にかけての時刻に実施された。
素読──藩士の子どもの殆んどが入学した。藩校でもれなく学習するように
なっていた学科は素読科であった。学習時間は午前8時から正午、
夏季は午前6時から10時であった。素読は漢学を学ぶ最初に実施
される学習で、声をあげて文字を読み、文章を読みこなしていく学
習形態であった。素読は、講義・講読・会読までつながっていく、
たいせつな基礎学習であった。
講読──素読を終えた生徒は講読にすすむ。「講読」は「講釈」とも呼ば
れ、教師の指導を受けながら、教科書として指定された古典類を熟
読・吟味しながら、その意味を汲み取っていく作業であった。
講読の教科書をいえば、経科では、「小学」「四書五経」「三礼」
史科では「史記」「漢書」「春秋左氏伝」の類、「十八史略」「日
本外史」「国史略」の類であった。
会読──会読というのは「義理を討論し、精緻を講究する」学習作業であっ
た。教師が主導権をにぎって指導するのでなく、生徒が主役をつと
めて教師は助言者・審判者といった立場である。学力のほぼ似た幾
人かの生徒が一室に集まって、所定の経典の章句を中心に、互いに
問題を出し合って意見をたたかわせばがら集団研究をすすめていく
共同学習である。
【E】
昌平坂学問所(昌平黌)の素読吟味
松平定信(1758〜1829)の「寛政の改革」によって、かつては上級武士
のみに与えられていた学問が「身分を問わず」となり、太平の世とはい
え、太平なるが故に、その太平を維持していくための人材と機構が必要で
あった。
林羅山(1583〜1657)が上野に学問所を開いて私塾として朱子学を教え
ていたが、のち幕府の積極的な支援のもとに湯島に六千坪の土地をえて聖堂
を建立した。これがのちに官学の昌平坂学問所(昌平黌)となる。昌平坂学
問所(昌平黌)は、藩校ではなく、江戸幕府の直属の学問所である。
松平定信は、ここで内容を充実させて官吏登用試験にあたる「学問吟
味」をはじめた。定信はこれによって埋もれている人材を発掘し、おおいに
幕政を改革しようとした。【D】
「学問吟味」とは筆記試験のことである。試験では四書五経などの一節
が出題され、章意(文章の大意)、字訓(語句の説明)、解義(主題となる
詳しい解説)、余論(他の書籍からの引用を入れた解説)などを答えるテス
ト形式であった。【C】
「学問吟味」と「素読吟味」
こうした「学問吟味」にたいして、年端のいかない少年組には「素読吟
味」という試験があった。これに合格しないと「学問吟味」を受ける資格が
ない、家督相続すらできないとあって、子どもより親のほうが夢中になっ
ていた。
試験の素読は四書五経であった。受験資格は一応17歳と決めてある
が、14歳ぐらいで17歳といつわって願書を出しても受理されたという。
幕府としては「年若いのに感心の至り」というわけだったのだろう。
この「素読吟味」の日は湯島の聖堂へ七ツ(午前四時)までに行かなけ
ればならなかった。夜道をちょうちんを下げて少年達は歩いたという。ここ
では勤番支配役が受験のための注意を与えたり、本人かどうかを確認したり
した。受験開始は四ツ(午前十時)。その六時間もの間、元気さかんな子ど
も達はちょっとしたことから喧嘩を始める。喧嘩のもとはたいてい身分の差
によるやっかみであった。身分の差は服装によって分かれていた。御目見以
下(二百石以下)の者は黒紋付に麻の裃、御目見以上(二百石以上)の者は
同じ黒紋付でも上下の色が違う紬の裃であった。御目見以上の者は、以下の
者を「イカ」と呼び、以下の者は以上の者を「タコ」と呼んで、しばしば一
触触発の気配になったりしたこともしばしばだった。
さて「素読吟味」は八十畳ほどの大広間で正面に十人ほどの儒者が居並
び、その前の赤塗りの唐机で一人ずつが素読をする。結果は一か月後に判明
する。三年続けて落第するともはや受験資格がなくなったという。それで嫡
子ならば大問題であった。次男、三男のいわゆる「厄介」は養子予備軍で、
この資格をとっていなければ、養子に迎えてくれるところもなくなるので真
剣だった。
こうして受験地獄は江戸時代からつづいており、かくて日本は諸外国が
うらやむ官僚天国となったのであった。
【D】
結び
藩校では「素読」がとても重要視されていたことが分かる。藩校での初
等教育は「素読」と「習字」だったといってよい。
「素読」のテキストは四書五経であった。これらは儒学の基本となる漢
文の書物で、江戸時代の修身教育の教科書でもあった。これら漢文を読み下
すには仮名やオコト点、返り点などの符号をつけて日本語読みにしなければ
ならない。藩校の教師の仕事は子ども達に漢文の訓読の素読(読み方、読み
下し方)にほとんどの指導の重点をおいていたことが分かる。
ところで「素読」といえば、世間一般には「意味内容の理解はどうでも
よく、ただひたすらに機械的に文章をそら読みで声に出して読むこと」とい
う理解がある。
殆んどの国語辞書にもそう書いてある。以下、四冊の国語辞書から「素
読」の字義の個所を引用してみよう。
●広辞苑・第五版(岩波書店)より
文章の意義の理解はさておいて、まず文字だけを声にたてて読むこ
と。漢文学習の初歩とされた。「論語を──する」
●大辞林・三版(三省堂)
意味を考えないで文字だけを声に出して読むこと。そよみ。すよみ。
●国語大辞典・新装版一版(小学館)
書物の意味内容を考えることなく、ただ文字だけを音読すること。そ
よみ。すよみ。
●江戸語辞典(東京堂出版)
書物を読み習うとき、意義を解するのでなく、文字だけを声をたてて
読むこと。
ところが、藩校・寺子屋の研究第一人者の石川松太郎(元日本女子大教
授)が執筆した著書の「藩校と寺子屋」や「図録・日本教育の源流」などの
書物には「素読は、漢学を学ぶのにあたっていちばん初めにとりかかる学習
段階で、声をあげて文字を読み、文章をたどる作業である。けれども、素読
を、意味にも内容にもかまわず、ただ棒読み・棒暗記だけの作業と解しては
ならない。」と書いてある。これにならって他の研究者たちも石川の文章の
一部を引用して、このように「素読」を説明している文章が多く目につく。
これは世の中一般で理解されている、そして国語辞書にも書いてある
「素読」の概念内容とは違っている。このことに注意しなければならない。
つまり、「語句の注釈」や「文章の解釈」を取り入れた素読指導であった、
ただ棒読み・棒暗記だけの作業ではなかった、ということについてである。
わたしが考えるに、これが一般的だったとはいささかの疑問を感じる。
「ただ棒読み・棒暗記だけの作業でなかった」というのはほんとうだっ
ただろうか。当時の「素読」の実際の授業事例を書いた資料をわたしは知ら
ない。そうした実際の授業事例の資料がない(わたしは未だ読んでない)か
ら分からないが、漢文の読み下しは当時の子ども達にとっては外国語を読む
ようなものであったろうと思われる。藩校の教師、寺子屋の教師の素読の指
導はいろいろな方法だったと想像する。指導者によって、全く語義の解釈を
入れなかった教師もいただろうと思う。語義の解釈を少々入れた教師、かな
り入れた教師、全然入れなかった教師、さまざまだっただろうと想像する。
いろいろだった、という確かな資料・証拠は持ち合わせていないが、だ
からそうだと断定はできないのだが、当時の藩校や寺子屋の開設の仕方、そ
の数の多さから考えて、日本全国にあまねく存在したこれら藩校、寺子屋の
ことから考えて、教師の数の多さ、教師の漢学の素養・能力の程度にはかな
りのばらつきがあったことが想像できる。藩校の教師は別にして、とくに寺
子屋は4,5人を集めて「読み書きそろばん」を教えるだけの、ひまな親が
近所の子どもを集めて教えるだけの寺子屋もたくさんあったし、寺子屋の全
ての教師が漢学の素養があったとは考えにくい。ちょっとした語句の注釈は
多少は入れた教師、全く入れなかった教師も多くいたことは想像できる。も
ちろん、寺子屋では四書五経は高等学年の指導内容であり、初等学年のテキ
ストは漢籍漢文でなく、「往来物」といわれるものの「素読」であった。こ
れについては次号の「寺子屋の暗誦教育」で詳述することにする。
いずれにせよ、藩校の初等教育では漢籍漢文を日本語化して声に出して
読み下す読み方指導が中心であった。藩校における最初期の指導内容は漢籍
漢文の「素読」の指導であり、「素読」がとても重視された。漢籍漢文を声
を張り上げて読み下す「素読」という読み方の指導で、そこでは漢籍漢文の
読み下しの訓点の符号化やオコト点の書き入れ指導もあったことだろう。
「素読」は同一文章を繰り返して声に出して読みあげるという読み方指
導だ。教師は、子どもをひとりひとり教師の前に呼び出して漢文を音読させ
たことだろう。漢籍漢文が声に出して読めるか読めないかで、ひとりひとり
の成績(指導の成果)を判定し、教師は次の指導の与え方を考えたことだろ
う。
子供達は教師の前に出て、声を張り上げて四書五経を読み上げ指導を受
けた。テキストを繰り返して声に出して読めば、いつのまにか部分的に、あ
るいは全文を暗誦してしまう子もたくさんいたことだろう。
藩校においては四書五経を暗誦することが最終の目標ではなかったよう
だ。暗誦がそれほど重視されてなかったようだ。
が、昌平坂学問所(昌平黌)における「学問吟味」や「素読吟味」の例
をみると、ここでは四書五経の暗誦能力の優劣で頭のよしあしが決定された
と言ってよいだろう。幕府や各藩の官吏の登用試験では暗誦能力の高さが合
否を決定する大きな要因となったようだ。今日の高校や大学の受験学力とい
ささか似ているところがみられておもしろい。
...。o○.。o○.。o○ 編集者からメッセージ .。o○.。o○.。o○
知らないことばかりです。
私のように、記憶することが苦手な者には、辛い時代だったのかもしれないな
あと思いました。
当時の様子が登場する時代劇があれば、見てみたいのですが・・・。
映画マニアの読者の方・・・ご存じないですか。
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編集者のひとりごと
小三教育技術4月号に原稿を書きました。
初登場になります。
よかったらご覧ください。
発売されたらまたお知らせしますね。
蔵満逸司 くらみつ いつし
wahaha@po.synapse.ne.jp