2008/11/16
藤田直哉さんがBLOGを更新
■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第195号 2008/11/16日発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 0藤田−ざもすきペア公式BLOG http://d.hatena.ne.jp/fujita_xamoschi/ 文学フリマ当日かなりの精神的ダメージを受けていたであろう 藤田さんがBLOGに無事生還されてうれしく思います。 1情報の移動 吉本隆明がマス・イメージ論で少女漫画を論じた時 吉本を読んでいた50代の学者がカバンに少女漫画を入れて 大学に通うようになった。 当時、自分の親が大学教授だったので、 その手の変化は生で感じていた。 吉本隆明は自分の娘(吉本ばなななど)から少女漫画の情報を仕入れて マス・イメージ論を書いたわけだが、 女子中学生・女子高校生が読む少女漫画の情報を 吉本隆明の読者層である40代から60代辺りのインテリ層に 届けたのが面白かったのであって、 女子中学生文化を女子中学生が学校の教室で語っていても そこには情報の移動がないから翻訳者(文化の運び屋)としての 仕事量はゼロである。 東浩紀が美少女ゲームやライトノベルやインターネットについて 語ることに意味があるのは、 東浩紀には批評空間時代からの年長の固定ファンが付いているからだ。 ライトノベルのファンクラブ内で、 誰かが既に語ったライトノベル論を繰り返し語り合うのは 情報の移動量としてみたとき、ゼロに近いと思う。 藤田直哉さんがインターネットについて語るとき それに近いものを感じる。 藤田さんの読者は、 ・ SFマガジンを通じての読者 ・ ゼロアカ道場(ファウスト・パンドラ含む)を通じての読者 ・ ネット・ブログ・2ちゃんねる・ニコニコ動画を通じての読者 と大きく三つに分かれると思うが、 ゼロアカがネット中心に展開されている以上 もしくはゼロアカを通じての読者が世代的に ネットに親しんでいることを考えれば、 下二つの読者に対して、売られたXamoschi誌上で 2ちゃんねるの祭りがどのような物かという説明に終始するのは 情報の移動量がゼロだと感じる。 2自著要約 http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/youyaku/05.html 藤田さんの第三関門の自著要約で 筒井康隆/清涼院流水/笙野頼子という並びが出てくる。 これはすごい並びだと思うし、 この並びに目をつけた藤田さんはすごいと思う。 私の目から見て、この三人の共通点は文学の枠からはみ出した作家だ。 普通の人が文学と言われてイメージする通俗的な文学の枠から はみ出した物を書いて、それを文学だと認めさせた作家達だと思う。 1970年代の筒井康隆は、いまでいう高橋源一郎のような 前衛作家だったと思う。 文学の枠からはみ出すような作品を書くと同時に 前衛というジャンルの中で守られた作家だったと思う。 これが80年代に「七瀬、ふたたび」「時をかける少女」などの ジュニアノベルでヒット作を出し、大衆作家になると 前衛というジャンルから、ジャンルノベルというジャンルへ ジャンルの移動をするわけで、 前衛というジャンルからは裏切り者扱いされるし まあ、批判もあるわけで。 「ジャンルの枠からはみ出す前衛」というジャンルから、 本当にはみ出してしまうと色んな混乱がおきるわけで、 その後も純文学を名乗ったり、絶筆宣言して俳優業を始めたりと 色んな意味で枠からはみ出しているわけですよ。 清涼院流水は、検索すれば色々出てくるとは思いますが 言葉遊び・ダジャレやなんかを極限まで追求した小説を書いていると。 笙野頼子は、中島梓との論争を見ても、他の人との論争を見ても 抽象的で論理的な体裁を使わずに、 文学的で小説的な体裁で論争をやるわけです。 哲学の起源は、神話から物語を排除するところから始まるわけですが 彼女は哲学や論理が扱うべき話題とされる題材から 抽象的思考や論理を排除して、物語の形式で話を進めようとします。 例えば国家論を小説として提示する。 平凡で通俗的な文学観からは、 大きく外れた領域で活動する三人の文学者を並べて 文学と文学でないものの境界線、文学の臨界点について論じる とかだと、すごい論文になりそうな気がするのですが、 そこで藤田さんが出してくる結論が 三人ともインターネットについて言及している という話で、あまり面白くならない。 かなり異なる方向に異端な複数の作家を並べて、 これらの作家に共通な点として、衣服に関する記述があるとか 人間に関する記述があるとか、食事に関する記述があるとか 書かれても、まあ、どの作家でも、 その手の記述はするのではないですか? としか思わない。 3インターネットは本当に新しいのか 石原慎太郎が今の若者は携帯電話の話しか書かないと嘆いて 携帯電話を書くことが新しいのではなくて 携帯電話によって人間の内面や人間関係がどう変わったのかを 描くことが新しいのだと言われて久しい。 若い世代が新人賞なり何なりに応募して 自分よりも三十年四十年長く生きている選考委員の 知らない情報を開示しなきゃいけないとして 古典や学術書やを読んでその知識を披露しても 選考委員はその知識を既に得ている可能性が高い。 だから若者としては携帯電話やインターネットなどの ハイテク関連の話をしようとするのだが、 単にハイテク機器を持っています、使ってみました。 では選考委員は感心してくれない。 それこそ「パヒュームのニューアルバム買いました。 発売されたばかりのアルバムで、 選考委員の人達は持っていないと思います。」 と言っても、あまり相手にされない。 「そんなのただの流行歌で、自分達の時代にも 美空ひばりや石原裕次郎はいたよ。」と言われたら、それまでだ。 じゃなくて、そのハイテク・新商品によって、 社会がどう変わるのか、人々の内面や社会とのつながりが どう変わるのかを描かなくてはいけない。 でも、さもすきで藤田さんが展開している論は ネットに新しいことは起きていなくて、 昔からある村社会の祭りみたいな物が繰り返されているだけです。 という話で、それは 「パヒュームという新しいミュージシャンが人気あるみたいだけど あんなの美空ひばりや石原裕次郎と変わらないよ」という 話で古い世代に安心感は与えるかもしれませんが 新しい情報としての価値はゼロというか 「インターネットによって新しい世界が広がるんだ」 という新情報を打ち消すマイナスの価値しかない。 ゼロアカ第三関門を見ても書評を書く能力が藤田さんは高い。 本の広告や要約でなく、 書評単体で独立した論として読ませる書評を書く。 小説の読解能力が高いのだけれども、 それだけに、ネットについて言及しだすと 何か違うよなと思うことが多い。 藤田さんの語るインターネットのイメージは ザモスキp61下段一行目 「アンダーグラウンドな内容を匿名で書き込む掲示板」 なわけですが、いまはネットの匿名性が失われて、 ネットの透明性が行き渡っているように、見えるわけです。 誰かが犯罪予告を2ちゃんねるに書くと、すぐに通報されて 誰がどこからアクセスして2ちゃんねるに書き込んだかが すぐにバレるわけです。 少し前だったら、会社のイントラネットで、仕事中、女子社員に 「今日、どこに飲みに行こうか?」みたいなメールを送って 周囲の社員にバレないよう二人だけでやり取りをする みたいな幻想があったのですが、いまは社内イントラネットには 社内にサーバー管理者がいて、管理する以上、 すべてのメール内容を見たくなくても見てしまうという現実を 皆知っているわけで。 2ちゃんねるのサーバー管理者は、たとえ相手が警察でも ユーザーの匿名性を守るためにサーバー情報を公開しないなんてのも 二〇〇三年ぐらいまでの都市伝説で、 いまは警察から捜査協力要請されたら、結構普通に見せているでしょうし 海外のプロクシ通せば、匿名性確保できるから大丈夫。 みたいな幻想も国境越えたネット犯罪に対する国際協調が ある程度できている昨今、サーバーがハワイにあるから 「覚醒剤売ります」と書き込んでも大丈夫!とは行かないでしょう。 とか、上から目線で水に落ちた犬を叩くお前は何様なのだと いまさらながら思わないでもない。すまん。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□



