【児童書で教養】1「徳川家康とその時代」最終回
+++++++++++++++++++2008/6/8+++
児童書で身に付く大人の教養講座
++++++++++++++++++++++vol.10++
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人物歴史編 1.徳川家康(第6回・終)
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今回で、人物歴史編 1.徳川家康は最終回となります。
今回は文章が多いですが、これまでよりは興味深い内容もふくまれていて
読み応えもあると思いますので、ぜひ最後まで読んでいただければと思い
ます。
明智光秀のむほんにより、自害においこまれた織田信長。
その明智光秀を破って、信長の後継者に名乗りをあげたのが、
豊臣秀吉でした。秀吉は天下取りに突き進みます。
織田家に従っていた前田利家らの大名も、秀吉につきました。
これをおもしろくないと思っていたのが、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)
でした。信雄は、浜松城の徳川家康に手紙を送り、いっしょに秀吉とたた
かわないかと依頼してきました。
家康も、本来は新しい主人になるはず信雄をおしのけ、日に日に勢力を
のばしてくる秀吉をおもしろく思っていませんでした。
信雄の申し出に応じた家康は、いよいよ秀吉と戦うことになりました。
これが、1584年(天正14年)の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い
です。
両者にらみ合いが続き、たがいに相手の裏をかいた作戦を展開していまし
たが、結果的には、秀吉が信雄と講和を結び、家康も秀吉と戦う理由がな
くなり、戦いは終わりました。
さて、戦国大名として大きな勢力をほこり、朝廷からは関白に任ぜられた
秀吉は、もはや天下をとったのも同じ状況にありました。
しかし、秀吉は、全国の大名たちが心から自分を尊敬していないのをわ
かっていました。
それは、自分が百姓という身分からの成り上がり者であるから、というの
が大きな理由の1つです。
家柄を重視する当時の社会では、仕方なかったのかもしれません。
ですから秀吉は、源氏の地を引き、多くの大名から尊敬されている家康を、
自分の下につけたくてなりませんでした。
そうすれば、家康に従っていた大名や家来はもちろん、秀吉に従いながら
も家康をおそれ敬っていた大名たちも、「あの家康」を従えた秀吉を尊敬
するはずです。
また、家康の勢力も秀吉に劣るとはいえかなりのものでした。
そこで秀吉は、妹の朝日姫を家康にとつがせました。
これで家康も頭を下げに来るだろうと思っていた秀吉ですが、家康は秀吉
のいる大阪城にあいさつをしに行こうとはしません。
それならばと秀吉は、さらに母の大政所(おおまんどころ)を、人質とし
て家康のもとに向かわせました。
さすがの家康も、これにはおどろきました。実の母を人質に出すとは・・・。
これで秀吉のもとに行かなかったら、秀吉に攻め込まれても仕方ありませ
ん。家康は、秀吉の下につくことを決め、多くの家来を連れて大阪城に行
きました。
多くの大名が集まった大広間で、家康は秀吉にあいさつをしました。
両手をついて頭を下げた家康に、秀吉は「徳川三河守、大儀である!」と
言いいました。
家康が秀吉政権における、有力大名の1人となった瞬間です。
※徳川三河守(とくがわみかわのかみ)とは、家康のこと。「大儀である」
とは、人の労苦をねぎらってい言う、「ご苦労である」といった意味です。
家康が秀吉の下についたのを見た大名たちは、これで秀吉の天下に決まり
だとだれもが感じたのでした。
余談ですが、
実は、この前日、秀吉は大阪に入った家康のもとを訪れ、家康にふかぶか
と頭を下げ、この上ない感謝の意とお願いを告げたそうです。
「大名たちは自分のことを心から尊敬していない」と正直に家康に伝えま
した。そして、家康が頭を下げてくれれば、全国の大名が自分になびいて
くれる、と。
家康も、自分が頭を下げることで、日本から戦いがなくなるのなら喜んで
頭を下げましょう、と応じたそうです。
そして、その翌日、上に書いたような2人のやり取りがあったわけです。
源氏の子孫である家康が、農民の出の秀吉に頭を下げたのは、大名たちに
はことのほか衝撃だったようです。
しかも、秀吉はことさら尊大にふるまい、家康は必要以上にうやうやしい
態度をとったのですからなおさらです。
もう少し余談を続けましょう。秀吉は信長の家来でしたね。
家康は信長と同盟を結んでいましたので、家来ではありません。
実質は対等でなくとも、弟分といったところでしょうか。
こんな感じです。
信長 = 家康
|
秀吉
当然、家康は秀吉に従う理由もないですし、本人にもそのつもりはありま
せんでした。
そこで、秀吉は妹や母親を使って、家康をしたがわせようとしたのでした。
余談ここまで。
1590年(天正18年)には、秀吉は、家康がしたがったあとも秀吉にしたが
わなかった数少ない大名、小田原の北条氏を攻めほろぼしました。
こうして、ついに秀吉の天下統一が実現しました。
その後、家康は、秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国
を離れ、江戸に移ることになりました。
苦労して手に入れた領国を手放すのは残念でなりませんでしたが、ここで
逆らうわけにはいかない家康は、これに従い、関東の武蔵・相模・伊豆・
上総・下総・安房・上野・下野の8か国をおさめることになりました。
そのころの江戸はほとんど開発がされていませんでしたが、関東平野の広
大さを目にした家康は、この地をおおいに発展させることができると確信
したのでした。
その後から現在に至るまでの、江戸・東京を中心とした関東の発展は、こ
のときから始まったのです。
その後、野心をいだく豊臣秀吉は、朝鮮を攻めます。1592年(文禄元年)
と1597年(慶長2年)の文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
です。
このとき、家康は朝鮮には行かず、肥前(ひぜん、現在の佐賀県)の
名護屋(なごや)城でとどまりました。家康は、関東の国づくりに力を入
れたかったのです。
家康が秀吉と大きく違ったのは、家康は、これからはいくさのない、平和
な世の中にしなければいけない。すぐれた武将ではなくすぐれた政治家に
ならなければいけない、と感じ取り、それを実行したことでした。
1598年(慶長3年)、農民の子に生まれ、天下人にまでのぼりつめた
豊臣秀吉が亡くなりました。
これで、徳川家康の上に立つ者は、だれもいなくなりました。
家康はおさないころに苦しい人質生活を送り、今川義元なきあと独立する
も、信長の命で妻と子を失い、秀吉の下につきしたがっては5か国を手放
すことになるなど、たいへん長い忍耐の日々を過ごしてきました。
そしてようやく、天下を取る機会がめぐってきたのです。
家康は57歳になっていました。
1600年(慶長5年)、有名な関ヶ原の戦いが起こります。
関ヶ原の戦いは、どのようにして起こったのでしょうか。
秀吉なきあと、家康は最大の勢力をほこるようになりましたが、これをお
もしろく思わないのが、石田三成らでした。
石田三成は家康にとって目障りな存在でしたが、したがわないからといっ
て、自分の方から戦いをしかけて討ちほろぼすわけにもいきません。
戦う理由がないのです。
そんなとき、会津(現在の福島県)の上杉氏がむほんをおこしているとい
う疑いがおこりました。
大阪城にいた家康は、これを機に上杉征伐として会津へ兵を進めれば、
がら空きになったこの地域を石田三成が攻めてくるだろうと考えました。
そうすれば、石田三成を討ち取る理由ができる、ということです。
具体的には、徳川方が守る京都の伏見城を攻めさせることが必要でした。
伏見城を守る役割を願い出たのが、家康の人質時代から50年にわたって
忠誠を誓っていた鳥居元忠でした。元忠は62歳になっていました。
その夜、最後の別れとなる家康と元忠は酒を交わし、遅くまで語り合いま
した。
家康が出発した後、家康の思惑通り、三成は兵を挙げました。
その数、4万。伏見城を守る元忠の兵は、わずか1800でした。
元忠は必死の抵抗ののち、討ち死にしました。
元忠の死を知った家康は、涙を流して悔やみ、その死を決して無駄にはし
ないと誓いました。
その後、家康は軍を引き返し、三成の軍と戦います。こうして、関ヶ原の
戦いがおこりました。
結果、家康ひきいる東軍が、石田三成、毛利輝元らの西軍に勝利しました。
1603年、征夷大将軍に任ぜられた家康は江戸幕府を開きました。
これでついに家康の天下となり、平和な世の中になったというかというと、、、
そうではありませんでした。
豊臣氏の存在です。秀吉の子・秀頼(ひでより)は、65万石の大名となり
ましたが、家康にとっては油断できない力をもっていました。
もし、もともと秀吉についていた大名が秀頼のもとにあつまれば、また大
きな戦いが起こってしまします。
ここでも、大阪を攻める理由が必要となります。
家康は、京都の方広寺(ほうこうじ)の鐘にきざまれた、
「国家案康 君臣豊楽(こっかあんこう くんしんほうらく」
という文字の「国家案康」は、「家康」を2つに切ろうとするものだ、
これはむほんの疑いがある、と言いがかりをつけました。
これがもとで大阪の陣が起こりました。
1614年と1615年(慶長19・20年)の2度にわたって大阪城を攻め、秀頼と
その母・淀殿(よどどの)は自害し、豊臣氏はほろぼされました。
これが、大阪冬の陣、大阪夏の陣です。
最後の戦いを終え、以後250年にわたる太平の世の基礎をかためた家康は、
翌1616年、75歳の生涯を閉じました。
家康の遺言により、家康は駿河の久能山(くのうざん)にほうむられ、
翌年、日光の東照宮(とうしょうぐう)に移されました。
おわり
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【今回登場したおもな人物】
石田三成(1560〜1600):関ヶ原の戦いで家康に敗れ、処刑された。
豊臣秀頼(1593〜1615):秀吉が死んだときは幼少であったため、大名をまと
めきれなかったこともあり、家康は行動をおこした。
淀殿(1569〜1615):秀吉の側室、秀頼の母。家康とは最後まで対立した。
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今回で、ようやく徳川家康編は終わりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回からは、また別のテーマで進めていく予定ですので、ご期待下さい。
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「児童書で身に付く大人の教養講座」
●発行責任者:堀井氏
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