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    <title>帰去来亭からの便り</title>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20091104191044000.html">
    <title>『真田幸村　　２』</title>
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    <description>　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東信濃においては、古くから滋野一族という名族の存在があります。&lt;br /&gt;滋野一族は海野氏、禰津氏、望月氏、根々井（ねのい）氏などに分かれたと&lt;br /&gt;伝えられています。海野氏はこの四家の中で本家筋です。&lt;br /&gt;真田氏の系譜については『寛永諸家系図伝』（江戸幕府により編纂に着手。&lt;br /&gt;１８１２（文化９）年脱稿）編纂にあたり、真田氏自から文書を提出しています。&lt;br /&gt;それによると、海野氏の海野小太郎幸恒より系を興すと書いてあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東信濃の滋野一族は分からない点が多く、どのような一族であるのかという&lt;br /&gt;ことが後世に至って論じられることになります。&lt;br /&gt;『信州滋野氏三家系図』（海野氏、禰津氏、望月氏）のなかで、&lt;br /&gt;「清和天皇―貞保親王（清和天皇の第４皇子）―目安王―善淵王（以下略）」&lt;br /&gt;とその系譜が書かれています。&lt;br /&gt;この善淵王が滋氏（しげうじ）と称し、滋野氏の祖となっています。&lt;br /&gt;しかし、清和天皇の末裔に目安王や善淵王は見当たりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東御市の本海野にある白鳥神社は目安王と善淵王を祀っていると言われます。&lt;br /&gt;本海野は海野氏が拠点とした場所です。&lt;br /&gt;この白鳥神社は、木曽義仲が平家方&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20091104191044000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20091025204531000.html">
    <title>『真田幸村　　１』</title>
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    <description>&lt;br /&gt;『歴女』という言葉をご存知でしょうか。&lt;br /&gt;私もこの言葉は知らなかったんですが、歴史好きな女子という意味だそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私の家から車で３０分ぐらいのところに上田城があります。&lt;br /&gt;その上田城で、４月の下旬に「上田真田まつり」が開かれました。&lt;br /&gt;まつりは真田獅子の舞い、赤備えという赤い甲冑（かっちゅう）で身を包んだ&lt;br /&gt;真田幸村率いる鉄砲隊の演武、太鼓の演奏、六文銭の旗を持ち鎧兜&lt;br /&gt;（よろいかぶと）姿の騎馬及び徒歩（かち）の出陣風景、神輿（みこし）や&lt;br /&gt;真田十勇士の登場等で彩られました。&lt;br /&gt;県内外から大勢の観光客が来たこと、中でも歴女と呼ばれる歴史好きな&lt;br /&gt;女性が訪れたことが地元紙で報じられました。&lt;br /&gt;そこで初めて歴女という言葉を知ったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;歴女という言葉で表現されることを嫌がる女性もいるようです。&lt;br /&gt;まあ、それもよいではありませんか。&lt;br /&gt;十把ひとからげで呼ばれるのが嫌というのも、個性の表れですから。&lt;br /&gt;ところで、歴女の好きな武将は&lt;br /&gt;１位　真田幸村&lt;br /&gt;２位　伊達政宗&lt;br /&gt;３位　直江兼続&lt;br /&gt;４位　石田三成&lt;br /&gt;５位　&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20091025204531000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-10-25T20:45:31+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20091020223116000.html">
    <title>『安宅の関』　　２</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20091020223116000.html</link>
    <description>&lt;br /&gt;義経は奥州に向かうに当たり琵琶湖のほとりの堅田（かただ）に行きます。&lt;br /&gt;堅田から北陸路に向かいます。&lt;br /&gt;義経一行は山伏に変装し、義経は大和坊、弁慶は荒讃岐（あらきぬき）、&lt;br /&gt;義経の北の方久我（こが）大臣の姫は男装して羽黒山の稚児金王殿（こんおうどの）&lt;br /&gt;と名乗ります。&lt;br /&gt;北の方とは妻や母のことですが、この場合は妻のことです。久我家は村上源氏の&lt;br /&gt;総本家で、当主である源通親は当時内大臣を務めておりました。&lt;br /&gt;一般的には義経の北の方は川越重頼の娘ということになっていますが、義経記では&lt;br /&gt;久我大臣の姫ということになっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『義経記』巻第７にこの時の弁慶のいで立ちが書かれています。&lt;br /&gt;袖短かなる淨衣（じょうえ、僧が着る白い衣服）に褐（かちん）の脛巾&lt;br /&gt;（はばき、茶色の脚絆）にごんづ（武者わらじ）はいて、袴（はかま）の括（くくり）&lt;br /&gt;高らかに結（ゆ）いて、新宮様（しんぐうよう）の長頭巾（ときん、後ろに長く垂れた頭を&lt;br /&gt;すっぽり覆う頭巾、熊野新宮の山伏が多く着用した）をぞ懸けたりける。&lt;br /&gt;岩透（いわとおし）という太刀あひぢかに差しなして、法螺貝（ほらがい）をぞ下げたりける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;近江と越前の境に&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20091020223116000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20091015200704000.html">
    <title>『安宅の関』</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20091015200704000.html</link>
    <description>　　１&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;石川県小松市。空を見上げると飛行機が飛んでいます。&lt;br /&gt;旅客機と戦闘機、この町には小松空港と自衛隊の基地があります。&lt;br /&gt;工業団地も見受けられます。そう言えば、ここは建設機器で有名な小松製作所の&lt;br /&gt;発祥の地でもあるわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;街の中心から外れ、海に近い道を進みます。&lt;br /&gt;左手に続く林は防風林です。&lt;br /&gt;間もなく「安宅の関」と書かれた看板が見えてきました。&lt;br /&gt;看板の隣には頭上に石を掲げた弁慶の石像がこちらを向いています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;弁慶の石像の隣には説明書きがあります。&lt;br /&gt;「武蔵房弁慶（幼名鬼若丸）の像&lt;br /&gt;京都比叡山の仏僧であったが、幼少の源義経（牛若丸）に信服して以来、&lt;br /&gt;義経に仕え怪力無双の武名を挙げる。平家滅亡の後、義経は兄頼朝に追われ&lt;br /&gt;北陸路を流浪するが、弁慶は忠実に随行する。&lt;br /&gt;当初「安宅の関」では智力を尽くし主君を守り、後に奥州の戦いでは主君の盾となり&lt;br /&gt;衣川館の前で立ち往生を遂げたと伝えられる。&lt;br /&gt;西暦１１８９年没&lt;br /&gt;寄贈　白山道路　源　彦恵&lt;br /&gt;平成１８年秋」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近寄贈された&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20091015200704000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20091003080000000.html">
    <title>最近の為替動向について</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20091003080000000.html</link>
    <description>９月２８日、外国為替市場で米ドル・円相場は円が１ドル８８円台前半まで上昇。&lt;br /&gt;８カ月ぶりです。&lt;br /&gt;米国の金融緩和が長引くとの見方で投資家が円買いに走ったのです。&lt;br /&gt;これに加えて、藤井裕久財務相の発言も大きな影響を与えています。&lt;br /&gt;藤井財務相は２８日朝、「（円相場の）トレンドは異常でも何でもない」と発言。&lt;br /&gt;これによって、９１円４０銭台の円が８８円前半まで急上昇したのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;藤井財務相はそれ以前にも「安易に円売り介入はしない」と発言しています。&lt;br /&gt;２８日正午には「やや円高に偏ってきている」と牽制しました。&lt;br /&gt;円は８９円台後半まで戻ります。&lt;br /&gt;さすがにこれではまずいと思ったのでしょう。&lt;br /&gt;同日の講演会では「円高是認とは言っていない」、講演会終了後には&lt;br /&gt;「（為替介入について）それは言うべきことではない」と言っています。&lt;br /&gt;翌日午前、記者団に対しては「異常な事態になれば（介入など）&lt;br /&gt;いろいろなことがあり得る」とこだわりだしています。&lt;br /&gt;続いて同日午前の閣議後の記者会見では、「（相場が）異常に動いたら&lt;br /&gt;国益のためにしかるべき措置を取ることもあり得る」と言っています。&lt;br /&gt;私にすれば今、異常な事態ではないですか？とお聴きし&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20091003080000000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-10-03T08:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090927130047000.html">
    <title>国の借金</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090927130047000.html</link>
    <description>国の借入金をご存知でしょうか。&lt;br /&gt;０９年６月末、推計で８６０兆円。&lt;br /&gt;な～んと、国民一人当たり７１２万円です。&lt;br /&gt;４人家族であれば２８４８万円。&lt;br /&gt;われわれに係るこのほかの借金は地方自治体の分があります。&lt;br /&gt;この額が２００兆円。いや～、やんなっちゃいますね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平成２０年度一般会計を見てみると、歳出総額が８３兆６１３億円、&lt;br /&gt;うち国債費が２０兆１６３２億円、全体に占める割合は２４．３％。&lt;br /&gt;歳入総額に目を転じると、公債金収入が２５兆３４８０億円、３０．５％を占めています。&lt;br /&gt;収入の３割は借金に頼り、歳出の２４％は借金返しに回している&lt;br /&gt;というありさまです。&lt;br /&gt;サラ金地獄と同じです。&lt;br /&gt;金がないから借金をし、その借金を返すためにまた借金するという繰り返しです。&lt;br /&gt;日本は一般家庭であれば、夜逃げをしてもおかしくない状態と言えるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平成２１年度は１００年に１度という金融危機で、例年以上に政府は借入金を&lt;br /&gt;増やしています。&lt;br /&gt;決算を見るのが怖いですね。&lt;br /&gt;少し前までに、２０１１年度までにプリマリーバランス（基礎的財政収支）の&lt;br /&gt;黒字化を目指していました&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090927130047000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-09-27T13:00:47+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090917204104000.html">
    <title>『人口減少』　　２</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090917204104000.html</link>
    <description>　&lt;br /&gt;日本の都市の人口順位（ベスト５０）０９年７月１日現在&lt;br /&gt;順位　　　都市名　　　　　　　　推計人口（人）　　　　種別&lt;br /&gt;１　　　　横浜市　　　　　　　　　3,670,411　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;２　　　　大阪市　　　　　　　　　2,660,584　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;３　　　　名古屋市　　　　　　　 2,257,426　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;４　　　　札幌市　　　　　　　　　1,889,352　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;５　　　　神戸市　　　　　　　　　1,536,229　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;６　　　　京都市　　　　　　　　　1,466,641　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;７　　　　福岡市　　　　　　　　　1,447,932　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;８　　　　川崎市　　　　　　　　　1,407,919　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;９　　　　さいたま市　　　　　　　 1,176,314　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;１０　　　広島市　　　　　　　　　1,169,648　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;１１　　　仙台市　　　　　　　　　1,032,516　　　　　　　政令指定都市&lt;br /&gt;１２　　　北九州市　　　　　　　　 983,016　　　　　　　政令&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090917204104000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-09-17T20:41:04+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090822080000000.html">
    <title>『人口減少』　　１</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090822080000000.html</link>
    <description>&lt;br /&gt;日本では少子高齢化と言われて久しいですが、それが顕著になってきました。&lt;br /&gt;また、全総計画が策定され、実施されていたころは『国土の均衡ある発展』という言葉が&lt;br /&gt;もてはやされていましたが、ここにきて一極集中が顕著になってきました。&lt;br /&gt;全総計画とは国土総合開発法に基づき地方の過疎や社会資本の遅れに対して、&lt;br /&gt;都市と同じように地方も共に発展させる目的で10年ごとに策定された計画でした。&lt;br /&gt;全総計画は第5次（1998年）まで策定され終焉を迎えるのです。&lt;br /&gt;終焉を迎えた理由は日本の人口減少が見えてきたからです。&lt;br /&gt;現在のように地方が疲弊してきたのは、小泉内閣時代に地方交付税が削減&lt;br /&gt;されたことばかりではないのです。&lt;br /&gt;全総計画の策定が廃止されたことも大きいのです。&lt;br /&gt;それに安い労働力、高い法人税などから、日本企業が海外に工場を移転したことも&lt;br /&gt;大きいでしょうね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世界でも類をみない速さで少子高齢化が進展している日本は、これからどういう&lt;br /&gt;方向に向かうのでしょうか。&lt;br /&gt;折しも総選挙、政治の力によって国民の意識は変わるのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしが人口のことを書くのは恒例のことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090822080000000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-08-22T08:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090801080000001.html">
    <title>上時国家、下時国家　その2</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090801080000001.html</link>
    <description>壇ノ浦は現在の山口県下関市です。この壇ノ浦の合戦で平家は滅亡します。&lt;br /&gt;壇ノ浦には本州と九州を隔てる関門海峡があります。&lt;br /&gt;関門海峡は潮の流れの変化が激しい場所です。&lt;br /&gt;現在では中国縦貫自動車道の関門橋が本州と九州を結んでいます。&lt;br /&gt;関門橋の下にみもすそ川公園があり、そこには『安徳帝御入水之処の碑」、&lt;br /&gt;『壇ノ浦古戦場の碑』が建てられ、武将のブロンズ像も2体あります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1185（元歴2）年3月24日、源平の戦いの火ぶたは切られます。&lt;br /&gt;平家は海上戦に長けていましたが、兵の数が少なかったのです。&lt;br /&gt;源氏の舟数は800艘（そう）、平家の舟数は500艘。&lt;br /&gt;九州側の門司岬の陸地では、源範頼の大軍が両者の海上戦を静観していました。&lt;br /&gt;最初、平家は潮の流れに乗って矢攻めで源氏を押していきますが、&lt;br /&gt;途中から潮の流れが変わると、壊滅的な状況となります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平家の最後が平家物語に描かれています。&lt;br /&gt;平知盛はもはやこれまでと、建礼門院（こんれいもんいん、安徳天皇の母）、&lt;br /&gt;二位ノ尼（平時子、清盛の正室であり、清盛との間に宗盛、知盛、重衡、&lt;br /&gt;建礼門院を産む、頼朝を助命している）らがいる船にやってきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090801080000001.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-08-01T08:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090725071308000.html">
    <title>上時国家、下時国家　その１</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090725071308000.html</link>
    <description>前回は鎌倉、頼朝編でしたね。&lt;br /&gt;頼朝は源氏でしたが、今日は平氏のことをお話ししましょう。&lt;br /&gt;皆さんは「平氏にあらずんば人に非（あら）ず」と言った人は誰だか知っていますか？&lt;br /&gt;平家物語には、こう書いてあります。&lt;br /&gt;「此の一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も人にして人に非ず」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;忘れてしまいましたか？歴史を教科書で勉強したのは大分昔のことでしょう。&lt;br /&gt;無理もありません。&lt;br /&gt;言ったのは、平時忠（たいらのときただ）という人です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「祇園精舎（ぎおんしょうじゃ）の鐘の声、諸行無常の響きあり。&lt;br /&gt;沙羅双樹（さらそうじゅ）の花の色、&lt;br /&gt;盛者必衰（じょうしゃひっすい）の理（ことわり）をあらわす。&lt;br /&gt;驕（おご）れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。&lt;br /&gt;猛き（たけき）人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵（ちり）に同じ」&lt;br /&gt;これは『平家物語』の冒頭の部分です。&lt;br /&gt;これに続いて、驕れるものも久しからずということで、異朝の例、&lt;br /&gt;本朝の例が書かれています。本朝の例の最後に平清盛のことが&lt;br /&gt;書かれており、要は清盛のことを書くために冒頭の部分を書いた&lt;br /&gt;とも言えます。&lt;br /&gt;私は平&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090725071308000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-07-25T07:13:08+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090712213706000.html">
    <title>鎌倉　　その４　頼朝の墓２</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090712213706000.html</link>
    <description>頼朝が北条時政の娘政子と出会って一緒になったのは31歳。&lt;br /&gt;政子は２１歳。&lt;br /&gt;曽我物語に出てくる話ですが、政子には「夢買い」の話があります。&lt;br /&gt;政子の妹はあるとき不思議な夢を見ます。&lt;br /&gt;世間が自分の思い通りになる夢です。そのことを政子に話しました。&lt;br /&gt;政子は、その夢は不幸になる夢なので自分に売るように言いました。&lt;br /&gt;不吉な夢を人に売ると幸福に転化するという話があったのです。&lt;br /&gt;政子は妹に小袖を与え、夢を買いました。政子は買った夢を吉夢と思ったのです。&lt;br /&gt;その夢を考えた時に、政子の脳裏に浮かんだのは頼朝でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頼朝と政子の仲を知った時政は、平家を畏れ、伊豆目代である山木兼隆と&lt;br /&gt;一緒にさせようとしました。&lt;br /&gt;山木兼隆のもとに足入れ婚をした政子は、伊豆山権現に誓うことがあるからと言って&lt;br /&gt;出奔してしまいます。&lt;br /&gt;それを手引きしたのは、頼朝の側近である安達盛長と弟の北条泰時であったといいます。&lt;br /&gt;伊豆山権現は頼朝と懇意にしており、僧兵を擁していたので山木兼隆も手を&lt;br /&gt;出せませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1178（治承２）年、頼朝と政子の間に大姫が誕生します。&lt;br /&gt;時政はその頃には山木兼隆にあ&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090712213706000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-07-12T21:37:06+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090627072924000.html">
    <title>鎌倉　　その４　頼朝の墓</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090627072924000.html</link>
    <description>&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;鶴岡八幡宮から東側に向かって歩いていきます。&lt;br /&gt;閑静な住宅街の道です。&lt;br /&gt;しばらく行くと左手に学校らしきものが見えてきました。&lt;br /&gt;小学校でしょうか。&lt;br /&gt;そこを過ぎて北側に向かいます。&lt;br /&gt;相変わらず住宅街が続きます。&lt;br /&gt;突き当たると、石段があります。&lt;br /&gt;あまり長い石段ではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;登り切ると、目の前に頼朝の墓があります。&lt;br /&gt;五輪の塔でも宝塔でもなく、層塔と呼ばれる石塔です。&lt;br /&gt;頭の部分には相輪（そうりん）があり、その下には笠が五層重なっています。&lt;br /&gt;苔むしており、いまにも崩れ落ちそうな気もいたします。&lt;br /&gt;日本で初めて武家社会を築いた頼朝の墓というには意外なほど質素です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この墓は１７７９（安永8）年、薩摩藩の第８代藩主島津重豪（しげひで）によって&lt;br /&gt;再建されました。&lt;br /&gt;それまでは、現在よりさらに小さな五輪の塔だったそうです。&lt;br /&gt;重豪は、島津家が頼朝の子孫と伝えられていることから行ったのです。&lt;br /&gt;墓前の香炉には島津家の家紋が刻まれています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;島津氏は秦（はた）氏の子孫である惟宗&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090627072924000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-06-27T07:29:24+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090613080000000.html">
    <title>鎌倉　　その３鶴岡八幡宮（４）</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090613080000000.html</link>
    <description>&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頼朝が血族を殺害していったのは、武家社会を構築するに当たって&lt;br /&gt;秩序や節度を御家人たちに徹底するための見せしめであったと考えることができます。&lt;br /&gt;他方、一般の権力者と同じように権力の中央集権化を図り、自らが権力を&lt;br /&gt;手中に収めてその地位を子孫に伝えていくという二通りの考え方があったと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頼朝が伊豆の蛭ヶ小島（ひるがこじま）に配流されてきた時には&lt;br /&gt;周囲には世話をするためのわずかな下人を従えていたにすぎません。&lt;br /&gt;彼自身になんの力もありませんでした。&lt;br /&gt;最初に彼の後ろ盾となったのは舅（しゅうと）である北条時政一族と伊豆や&lt;br /&gt;相模の小豪族だけだったのです。&lt;br /&gt;現実に武士団が頼朝のもとに集まってきたのは石橋山の合戦で敗北し、&lt;br /&gt;真鶴半島から安房（あわ、千葉県の南端）に逃れてからでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;千葉介常胤（ちばのすけつねたね）、上総介広常（かずさのすけひろつね）、&lt;br /&gt;安西景益、下河辺行平、葛西清重、豊島清光、足立遠元、小山朝光、&lt;br /&gt;畠山重忠、川越重頼、江戸重長などが参集し、鎌倉入りの時には総勢&lt;br /&gt;およそ2万7千騎であったと伝えています。&lt;br /&gt;これらの武士団を統制して平家&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090613080000000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-06-13T08:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090530080000000.html">
    <title>鎌倉　　その３鶴岡八幡宮（３）</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090530080000000.html</link>
    <description>&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;舞殿の横を通り過ぎ本殿に向かいます。&lt;br /&gt;石段を登っていきます。&lt;br /&gt;石段左手には三代将軍実朝を暗殺するために公暁（くぎょう）が隠れていた&lt;br /&gt;と伝えられる大イチョウがあります。&lt;br /&gt;この大イチョウは樹齢千年とも言われますが、仮に千年だとしても実朝暗殺のころ&lt;br /&gt;には人が隠れているほど大木ではなかったでしょう。&lt;br /&gt;多分、後世の者の創作であったのではないかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;公暁は二代将軍頼家の遺児です。ですから公暁と実朝は甥と叔父の仲でした。&lt;br /&gt;頼家の子であったのですが、将軍にはなれず、鶴岡八幡宮の別当を勤めていました。&lt;br /&gt;別当とは大寺や神宮寺において寺務を司った職の最高の地位にいるものをいいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実朝は北条氏の傀儡（かいらい）である憂さを晴らすかのように蹴鞠（けまり）や&lt;br /&gt;和歌に没頭していましたが、同時に階位の昇進も望んでいました。&lt;br /&gt;内大臣まで昇進していましたが、さらに右大臣を望んだのです。&lt;br /&gt;朝廷は実朝に請われるままに右大臣に任じようとしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１２１９（建保６）年正月２７日、実朝は右大臣拝賀の式を鶴岡八幡宮で&lt;br /&gt;行うこととしました。&lt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090530080000000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-05-30T08:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://archive.mag2.com/0000262373/20090314080000000.html">
    <title>鎌倉　　その３鶴岡八幡宮（２）</title>
    <link>http://archive.mag2.com/0000262373/20090314080000000.html</link>
    <description>&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;酒宴に参列した御家人たちは、静御前の舞にさぞや感動したことでしょう。&lt;br /&gt;しかし、頼朝だけは別でした。&lt;br /&gt;反逆した義経を慕う和歌を公然と吟じた静御前に対して激怒したのです。&lt;br /&gt;頼朝をなだめたのは政子でした。&lt;br /&gt;糟糠（そうこう）の妻、頼朝亡き後、尼将軍と呼ばれる政子の言葉には&lt;br /&gt;説得力がありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;政子は言います。&lt;br /&gt;「あなたは流人として伊豆にいたころ、私はあなたとよい仲になった。&lt;br /&gt;私の父親である北条時政は平家を畏（おそ）れ、私を家に軟禁した。しかし、&lt;br /&gt;わたしはあなたのことを思い、暗い夜や激しい雨の時もあなたのところに行った。&lt;br /&gt;石橋山の合戦の際、私は一人伊豆に残り、あなたが生きているのか&lt;br /&gt;死んでいるのか分からず日夜心細い思いをした。&lt;br /&gt;そうしたことを考えれば今の静御前と同じである。&lt;br /&gt;義経から多年愛情を注がれたことを忘れて、義経のことを思わない&lt;br /&gt;というのなら貞女ではない。&lt;br /&gt;あなたはそういう気持ちになれないかもしれないが、ほめるのが道理というものだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頼朝は怒りを鎮め、静御前をほめたたえたといいます。&lt;br /&gt;私は夫婦の&lt;br /&gt;&lt;a href="http://archive.mag2.com/0000262373/20090314080000000.html"&gt;続きを読む&lt;/a&gt;</description>
    <dc:date>2009-03-14T08:00:00+09:00</dc:date>
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