2009/11/04
『真田幸村 2』
東信濃においては、古くから滋野一族という名族の存在があります。 滋野一族は海野氏、禰津氏、望月氏、根々井(ねのい)氏などに分かれたと 伝えられています。海野氏はこの四家の中で本家筋です。 真田氏の系譜については『寛永諸家系図伝』(江戸幕府により編纂に着手。 1812(文化9)年脱稿)編纂にあたり、真田氏自から文書を提出しています。 それによると、海野氏の海野小太郎幸恒より系を興すと書いてあります。 東信濃の滋野一族は分からない点が多く、どのような一族であるのかという ことが後世に至って論じられることになります。 『信州滋野氏三家系図』(海野氏、禰津氏、望月氏)のなかで、 「清和天皇―貞保親王(清和天皇の第4皇子)―目安王―善淵王(以下略)」 とその系譜が書かれています。 この善淵王が滋氏(しげうじ)と称し、滋野氏の祖となっています。 しかし、清和天皇の末裔に目安王や善淵王は見当たりません。 東御市の本海野にある白鳥神社は目安王と善淵王を祀っていると言われます。 本海野は海野氏が拠点とした場所です。 この白鳥神社は、木曽義仲が平家方の越後の城助織(じょうすけもと)と 横田河原(現千曲市)で戦う前に戦勝祈願をした神社です。 本海野というのは元来の海野という意味で、上田城下に海野町がありますが、 それに対して本の海野ということです。 本海野には現在、北国街道の宿場町であった海野宿が昔日のまま 残され、観光客が訪れにぎわっています。 1703(元禄15)年、江戸時代の高名な学者である新井白石は、徳川家宣の命 により徳川幕府に仕える大名家の系譜を著した「藩翰譜(はんかんふ)」を 編纂しました。 藩翰譜の第九上において白石は善淵王が存在しないことを指摘しています。 清和天皇の皇子、皇女たちは873(貞観15)年、臣籍降下する際に 源氏姓を賜りました。 滋野氏も清和天皇系列であれば源氏姓でなければならないし、同様に 真田氏も源氏姓でなければなりません。 当時、都では名門としての滋野氏が存在していたことは事実です。 当然この滋野氏は清和天皇の係累であったわけではありません。 853(仁寿3)年に没した滋野貞主は参議と宮内卿を兼ね、その娘たちは 仁明・文徳天皇の妃となり、親王を産んでいます。 貞主の弟の貞雄も宮内卿や摂津守を歴任しています。 このように滋野氏は皇室と関係のあった名門だったのです。 868(貞観10)年、滋野恒蔭(つねかげ)が信濃介(しなののすけ、 いまでいえば副知事)、870年に滋野善根(よしね)が信濃守(しなののかみ、 いまでいえば知事)として国府に赴任してきています。 当時の信濃の国府は松本市にありました。(倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう) 巻第5信濃国条) 中信の松本市に赴任したものの係累が、何らかの理由で東信の 上田市付近に住むという考えは、距離的に無理があるような気がしますので、 この話は現実的ではありません。 平安中期の頃、貢馬(くめ)という制度がありました。 貢馬とは朝廷に献上する馬のことです。 馬はもともと日本の動物ではなく、大陸から朝鮮半島を経て日本に伝わったと 言われています。 大和朝廷が日本を統一する当たり大きな戦力となったのです。 朝廷は馬を育てるため、直轄の牧を経営しました。それを御牧と言います。 御牧から朝廷に馬が献上されたのです。 『延喜式』によりますと、甲斐国(かいの国、山梨県)3牧、信濃国(しなのの国、 長野県)16牧、上野国(こうずけの国、群馬県、桐生市は入らない)9牧、 武蔵国(埼玉県、東京都の大部分、神奈川県の一部)4牧、計32の御牧が ありました。 年間の貢馬数は甲斐国60疋(ひき)、信濃国80疋、上野国50疋、武蔵国50疋 と書かれています。 こうしたことから信濃国が群を抜いた産地であったことが分かります。 東信濃においては明らかに御牧と伝えられる牧がいくつかあります。 望月牧、塩野牧(御代田町)、塩原牧(青木村)、新張牧(みはりまき、東御市)です。 中でも望月の牧は信濃国最大の牧で、主に佐久市望月町にありました。 牧場の跡は現在では御牧が原と呼ばれています。 周辺には牧場に関連した高良社(こうらしゃ、朝鮮半島から渡来した牧場 関係者が作ったと伝えられる神社。国重要文化財、佐久市浅科村)、 駒形神社(佐久市塚原)などの建物、御馬寄、駒寄、牧寄、駒込、厩尻、鍛冶田、 タタラ、吹上などの地名も残されています。 東信濃の御牧を管理した牧監(ぼくかん)の職には海野氏、禰津氏、望月氏、 根々井(ねのい)氏が就いたと言われます。 こうした土着の勢力者や荘園を管理した勢力者が、武士として保元(ほうげん)の乱、 平治の乱には中央に進出していきました。 海野小太郎幸親が保元の乱において源義朝に従い名を上げ、その子の 彌平四郎幸廣は木曽義仲に従い、備中(岡山県西部)の水島合戦において 討ち死にしたと『源平盛衰記』に記されております。 また、根々井小弥太行親は木曽義仲の四天王の一人としてあまりにも有名であり、 その子・盾六郎親忠も義仲に従い侍大将として活躍しました。 藤原行成(972~1028)は『権記(ごんき)』という日記を残しています。 この権記は主に摂関期のことを記しており、日記の中には滋野善言という人物も 登場してきます。 この人は苗字と名からして滋野善根の子孫ではないかと思われます。 諸国から貢馬されてくる馬のことを司る高官であったといいます。 諸国の中で最も多くの御牧があり、最も多くの貢馬を献じてくる信濃国、 その中でも最も大きな御牧の牧監一族と滋野善言が知り合いであったことは 想像に難くありません。 いまの若い人はあまり意識しないと思いますが、少し前の人々は門地のことを 極めて意識したのです。 源平藤橘とは日本における貴種名族の代表を言った言葉です。 牧監一族は権威を高めるために中央の勢力と結びついて、何らかの方法で その系譜に入り勢力を伸ばしていったのです。 これが東信濃の滋野一族です。 真田氏は海野氏から系を興したといっています。 系譜において何ら関係がなかったとは思いませんが、その出自においては 違う性格をもっていたのではないだろうかと、一志茂樹博士(1893~1985、 信濃史学会創立者)はいっています。 一志博士の説は『創置の信濃国府跡その確認の研究』(昭和54年5月1日発行、 発行元:上田小県(ちいさがた)郷土研究会)に載っています。 平安時代初期には信濃国府は松本市にあったとは先述したことですが、 それ以前には上田市にあったのです。 信濃国府の存在は真田氏と大いに関係があったと説きます。 上田市教育委員会は昭和47年から4カ年にわたって発掘調査を行い、 初期の国府の位置を確認したのです。 この国府の政治的実力者は真田氏であった考えています。 東信濃の滋野氏一族は御牧の管理者でしたが、真田氏は国牧の管理者でした。 国牧は古代において諸国におかれた国府直属の牧です。 国府には軍団がおかれていました。 一軍団は兵士1,000人、馬600頭で構成されていたといいます。 その馬を育成したのが国牧でした。 国牧があったのが上田市の真田地方と推測しています。 その理由として 現在の上田市の真田地方は、古代の牧場地名や遺跡が極めて多いのです。 その例として四阿山(あずまやさん)、山家神社(延喜式内社)には駒形神社が あります。 古刹である実相院には馬頭観音を祀った観音堂があります。 牧の平(ひら)、鞍掛(くらかけ)、馬建(まだて)など牧に関係する古地名が 随所に見られます。 東信濃全域にわたって荘園がありましたが、真田地方には荘園があったという 記録がありません。 また荘園に地名を苗字とする管理者がいたが、真田地方にはそうした管理者の 名前が現れてきていません。 真田氏の名前が現れてくるのは室町時代です。 真田氏は国府の役人であったので名前が現れることはなかったというのが、 一志博士の考えです。 さらに一志博士は言います。 真田氏、東信濃の滋野一族は大伴氏の末裔ではなかったかと。 大伴氏は古代、信濃国に入ってきた中央の有力な氏族です。 氏族とは祖先を同じくする親族集団のことです。天皇から有力な氏族である大伴氏 に与えられた姓(かばね)は連(むらじ、家臣で最高位)、684(天武13)年に 新たに制定した八色の姓(やくさのかばね)では宿禰(すくね)という神別氏族に 与えられた姓でした。 大伴氏が最も栄えたのは武烈(ぶれつ)天皇の時代(489~507)、大伴金村 (おおとものかなむら)が大連となったときが全盛期であったといわれます。 その後の奈良時代にかけては大納言、中納言、参議等を輩出したが、藤原氏との 政争の中で衰退していったものと思われます。 このころから大伴氏は信濃の国に入ってきたと考えられます。 信濃に最初にできた御牧、埴原真樹(はいばらのまき、松本市)の埴原氏、 猪鹿牧(いがのまき、南安曇郡)の細萱氏、嬢里(おうなのさと、東御市)の大伴氏、 これらはすべて大伴氏です。 佐久市望月には大伴神社(式内社)が祀られています。 小諸市の鹿島神社も大伴氏系列の神社です。 こうしたことから、海野、望月、禰津、真田の地に入った大伴氏は、それぞれの 地名を姓にしたのではないだろうかと一志博士は結論付けています。 海野氏の滋野一族説は、海野氏自身が残した資料によるものです。 同様に、海野氏から系を興したとする真田氏も真田氏自身が残した資料 によるものです。 真田氏と海野氏は系譜において関係はあったとは思いますが、出自が違うという 一志博士の考え方の方が説得力はあるような気がします。 歴史はさかのぼって確認しようがありません。 綿密な現地踏査、残された資料を精査して、それらをつなぎ合わせ、 総合的に判断するよりほかはありません。


