帰去来亭からの便り  RSSを登録する

文芸、旅行、絵画、画家、歴史、できごと、生活などジャンルを問わずさまざなことが出てきます。読めば元気が出ます。感動があります。興味がわきます。癒されます。人生の深みを実感できます。勉強になります。著者の生きてきた中から紡ぎだす珠玉の物語です。

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2009/10/20

『安宅の関』  2

義経は奥州に向かうに当たり琵琶湖のほとりの堅田(かただ)に行きます。
堅田から北陸路に向かいます。
義経一行は山伏に変装し、義経は大和坊、弁慶は荒讃岐(あらきぬき)、
義経の北の方久我(こが)大臣の姫は男装して羽黒山の稚児金王殿(こんおうどの)
と名乗ります。
北の方とは妻や母のことですが、この場合は妻のことです。久我家は村上源氏の
総本家で、当主である源通親は当時内大臣を務めておりました。
一般的には義経の北の方は川越重頼の娘ということになっていますが、義経記では
久我大臣の姫ということになっています。

『義経記』巻第7にこの時の弁慶のいで立ちが書かれています。
袖短かなる淨衣(じょうえ、僧が着る白い衣服)に褐(かちん)の脛巾
(はばき、茶色の脚絆)にごんづ(武者わらじ)はいて、袴(はかま)の括(くくり)
高らかに結(ゆ)いて、新宮様(しんぐうよう)の長頭巾(ときん、後ろに長く垂れた頭を
すっぽり覆う頭巾、熊野新宮の山伏が多く着用した)をぞ懸けたりける。
岩透(いわとおし)という太刀あひぢかに差しなして、法螺貝(ほらがい)をぞ下げたりける。

近江と越前の境にある愛発山(あらちやま)を越えると愛発関(あらちのせき)がありました。
愛発関は東海道の鈴鹿関、東山道の不破関とともに三関と呼ばれました。
現在の敦賀市疋田(ひきた)にあったと言われています。一行はさしかかります。
そこでは300人の関守をおき、「色白く、向歯(むかば)の反りたるなどしたる者」という
義経の特徴に似た者を捕え糾問しています。

義経の容貌を見た関守は一行をただちに留め置きます。
「これこそ判官(ほうがん、義経のこと)の正身(しょうしん)よ」
弁慶は落ち着いて
「休息できて幸いなことよ」とうそぶいてみせます。
「はて?」と関守達は人違いと思い一行の通行を許します。
弁慶は斎料(ときりょう)をいただきたいと申し出て兵糧米を無心します。
大和坊に受け取らせて、そのお礼に祈禱を行い、関を通り抜けました。

愛発関の次に一行は平泉寺(へいせんじ)に詣でます。
平泉寺では笛を所望されますが、義経の差配で無事に済ませ1泊します。
平泉寺は福井県勝山市にあります。
現在の呼び名は平泉寺白山神社。
義経一行が訪れた時は寺でしたが、現在は神社です。

わたしが平泉寺に行ったのは今から25,6年前。
梅雨時で激しい雨が降っていました。
参道以外は杉木立に囲まれ、堂塔があったと思われる場所は石垣と礎石が
残されているばかりです。
京都の西芳寺に勝るとも劣らない苔が、あたり一面に生い茂っていました。

平泉寺は1300年前、泰澄(たいちょう)によって開山されました。
僧兵を擁し、寺としての勢力もありました。
寺の歴史を見ると、「裏切りの寺」といえます。
木曽義仲は北陸路を通り京都に攻めのぼりましたが、その際、平泉寺の斎明(さいみょう)
は最初は義仲に味方しました。
ところが、義仲を裏切り平家に味方したのです。斎明は義仲に殺されます。

鎌倉幕府滅亡の時、幕府方の地頭である淡河時治(あいかわときはる)を攻め滅ぼし、
新田義貞に味方します。
新田義貞が戦死すると、すぐさま南朝方を裏切り、北朝方に味方したのです。

戦国時代、ここを治めた朝倉義景に従っていましたが、義景が信長に負けて一乗谷を
去るとき、義景のライバルである朝倉景鏡(かげあきら)と手を組み、義景を自殺に
追いやったのです。
翌天正2年、皮肉なことに一向宗の宗徒に攻められ、すべて焼かれてしまいました。
10年を経て再建されますが、一時期の勢いはありませんでした。
やがて時代は明治となり、神仏分離令が出ると、平泉寺は神社へと移行したのです。

平泉寺を出て金津(かなづ、現あわら市、北陸道の宿場町)の上野に一行は
さしかかります。
そこで「由々しげなる大名50騎」と出会います。
愛発関の大将軍井上左衛門と家来達でした。
義経一行が通った時は留守にしていたのです。
義経は笠で顔を隠し通り過ぎようとします。
ところが風が吹き、笠が上ってしまいます。井上と義経の目が合います。
井上は馬から降り、かしこまって義経に話しかけたと言います。
「山伏があいさつするのは恐縮。早々にお通りください」
義経と知っていて見過ごしたのです。
義経も振り返って「7代先まで弓矢の冥加あれ」と感謝したと言います。

さて、では安宅の関の「勧進帳」の部分は義経記ではどう描かれているでしょうか。
篠原(現加賀市篠原、義仲と平家で戦い義仲はこの戦いで恩人の斉藤実盛を
討ってしまう)に泊まり、翌日一行は富樫の領地に近づきました。
3月3日のことです。弁慶は単身宴たけなわの富樫の館に乗り込みます。
そこで富樫左衛門尉(さえもんのじょう)と会い、東大寺勧進のものだと称し、
熱弁をふるいました。
富樫は弁慶を信用し、加賀絹、白袴、八花形の鏡などのお布施を出したのです。
こうして、弁慶の機転により、富樫のところをとおりぬけたと書いてあります。
ということで、安宅の関では特別なことはなかったのです。

勧進帳は最初の頃は能、幸若舞、浄瑠璃に描かれています。
義経一行の北陸路のことは安宅一箇所にまとめられ戯曲化されました。
この戯曲は歌舞伎によって昇華され、完成度が高まっていったのです。

歌舞伎18番、「勧進帳」の初演は1840(天保11)年。
5代目市川海老蔵が弁慶、8代目市川團十郎が義経、8代目市川九蔵が富樫
左衛門という配役でした。

歌舞伎ではどう勧進帳は描かれているでしょうか。
義経一行は奥州へ逃れるため北陸を通りますが、小松市の安宅の関での出来事を
物語にまとめたものです。
東大寺再建のために勧進を行い諸国を歩いていると弁慶。
では、勧進帳を読んでみよと富樫。
弁慶は何も書かれていない巻物を勧進帳と称し、朗々と読んでいきます。
次に富樫は山伏の呪文などについて畳み掛けるように質問します。
弁慶は立て板に水を流すようにそれに答えます。

富樫「して、山伏の出立は」
弁慶「すなわち、その身を不動明王の尊容にかたどるなり」
富樫「頭に頂く兜巾(ときん)はいかに」
弁慶「これぞ五智の宝冠にて、一二因縁の壁をとってこれをいただく」
富樫「かけたる袈裟は」
弁慶「九会曼陀羅の柿の篠懸」

関の番卒の一人が義経に疑いを抱きます。
弁慶は金剛杖で義経を討ちすえ、疑いを晴らそうとします。
番卒は詰め寄り、義経の同行の者も色めき立ち緊迫した場面です。

弁慶「まだこの上にもお疑いの候はば、この強力め、荷物の布施物もろとも、
おあずけ申す。いかようにも糾明あれ。ただし、これにて打ち殺し見せ申さんや」
富樫「こは先達の荒けなし」
弁慶「いからば、ただいま疑いありしはいかに」
富樫「四卒の者が我への訴ったヘ」
弁慶「ご疑念はらし、打ち殺し見せ申さん」
富樫「早まりたまうな、番卒どものよしなきひがめより、判官どのにもなき人を、疑えばこそ、
かく折檻もしたまうなれ、いまは疑い晴れ申した。とくとくいざない通られよ」

富樫は義経と知りつつ弁慶の胸中を察し一行の通行を許します。
富樫はあやまり弁慶に酒を勧めます。弁慶はそれに答えて、舞を舞います。
義経らを先に行かせ、富樫に目礼して後を追います。

「安宅関」の石柱があるところから海岸の方に来ると、弁慶、富樫、義経のブロンズ像があります。
向かって中央に見得を切る弁慶、右側に弁慶を見つめる富樫、左側に笠をかぶり
控えた義経。
近くにある『銅像の由来』の中にこんな一節がありました。
「石碑に刻まれた智、仁、勇の文字は永井柳太郎氏の自筆で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、
勇は義経の勇気であり、わが国古来の国民性の美しさを端的に表現している言葉である」
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