2009/10/15
『安宅の関』
1 石川県小松市。空を見上げると飛行機が飛んでいます。 旅客機と戦闘機、この町には小松空港と自衛隊の基地があります。 工業団地も見受けられます。そう言えば、ここは建設機器で有名な小松製作所の 発祥の地でもあるわけです。 街の中心から外れ、海に近い道を進みます。 左手に続く林は防風林です。 間もなく「安宅の関」と書かれた看板が見えてきました。 看板の隣には頭上に石を掲げた弁慶の石像がこちらを向いています。 弁慶の石像の隣には説明書きがあります。 「武蔵房弁慶(幼名鬼若丸)の像 京都比叡山の仏僧であったが、幼少の源義経(牛若丸)に信服して以来、 義経に仕え怪力無双の武名を挙げる。平家滅亡の後、義経は兄頼朝に追われ 北陸路を流浪するが、弁慶は忠実に随行する。 当初「安宅の関」では智力を尽くし主君を守り、後に奥州の戦いでは主君の盾となり 衣川館の前で立ち往生を遂げたと伝えられる。 西暦1189年没 寄贈 白山道路 源 彦恵 平成18年秋」 最近寄贈されたものだったんです。しかも、源 彦恵という方は姓が源だったので 義経にゆかりのある方かと思ったのですが、必ずしもそうではなかったようです。 2006年12月3日付け北国新聞に「歌舞伎「勧進帳」の舞台となった小松 市の安宅の関跡などがある安宅公園で2日、弁慶の石像入魂式が行われた。白 山道路会長の源彦恵さん(75)=同市小島町=が、勇敢な弁慶が盾(たて) となって災害や事故から人々を守り、安宅のにぎわい創出につながるよう願いを込 めて寄贈した。」と載っていました。 武蔵房弁慶の父親は熊野の別当であった湛増(たんぞう)、義経記(ぎけいき、軍記 物語で南北朝時代から室町時代初期に書かれた)では弁しょうと書かれた怪僧です。 熊野に参詣した二位の大納言の一人娘をさらい二人の間にできたのが弁慶、 幼名は鬼若です。 鬼若は母親の胎内に18ヶ月もいたという鬼子(歯が生えて生まれた)であつた と言います。 和歌山県田辺市で生まれたと伝えられ、市の駅前には薙刀(なぎがた)を持った 僧兵姿の弁慶像があります。 弁慶は幼少のころから乱暴者で、比叡山に僧として預けられます。 麓の三井寺には「弁慶の引きり鐘」が残されています。 延暦寺と三井寺が争ったときに三井寺の鐘を弁慶が持ち帰ったところ、 「もう去(い)のう」と鳴ったので、その鐘を引きずって三井寺に戻したと 伝えられています。 弁慶と牛若丸との出会いは五条の橋の上。 こんな歌もありました。 「京の五条の橋の上 大の男の弁慶が 長い薙刀(なぎがた)ふりあげて 牛若めがけて斬りかかる 牛若丸は飛びのいて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上にあがって手をたたく」 1000本の太刀を集めることを悲願としていた弁慶は1000本目の日に牛若丸に会い、 返り討ちにあってしまいます。それ以来、弁慶は牛若丸に信服して家来になる という話ですが、これは後世の作り話。当時五条大橋はまだできておらず、義経記 では二人の出会いの舞台は清水寺となっています。 五条の橋の近くには、黒御影石の台座に弁慶と牛若丸が戦っている丸々と太った コミカルな像が載っています。 駐車場に車を止め、案内板のわきから整備された小道に入っていきます。 周囲は防風林です。『金沢営林署』と書かれた杭がありました。国有林です。 しばらく行くと、右手に『安宅住吉神社』と案内板が出ています。 そちらに進みます。 往古の昔にはこの付近には北陸道が通っており、その近くにこの住吉神社が おかれたものと思われます。 住吉神社は住吉三神を祀った神社です。三神とは底筒男命(そこつつのおのみこと)、 中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)のことです。 古事記や日本書紀では、イザナギが禊(みそぎ、身のけがれがある場合や重要な 神事を行う前に体を川、滝、海などで洗い清めること)をしたときに、これらの神が 生まれたと伝えられています。 住吉は元来は澄江、清江と書き、スミノエと呼ばれたと言います。天皇が即位すると、 スミノエの海で清めの儀式を行ったと伝えられます。 安宅住吉神社の説明書には、「古来、人生における道先案内の神、開運厄除 (かいうんやくじょ)、交通案内、縁結びの霊神として多くの信仰を受けている。 縁ありて社頭に詣(もう)ずる人、心正しくして神前に祈願を捧(ささ)げれば、 その祈りは必ず成就(じょうじゅ)されん」とその霊験(れいげん)が書かれています。 境内(けいだい)には武蔵房弁慶の石像があります。勧進帳を手にして、 それを読み終わったところでしょうか。 勧進帳というのは社寺仏閣の建立、修復の寄付を募るための趣意書です。 弁慶の読み上げたのは東大寺の修復のための趣意書です。 顔を上げ、正面を向いています。 ひげを生やした顔、山伏姿です。 安宅住吉神社で参拝し、神社を出て海岸の方に歩いていきますと、『安宅関址』の 石柱があります。 安宅の関は、時の将軍源頼朝が意にそわぬ弟義経主従を捕縛するため設けた 臨時の関所でした。 関守(せきもり)は富樫左衛門尉(さえもんのじょう)。 弁慶、義経、富樫のやり取りは「勧進帳」ということで、幸若舞い、能、歌舞伎で 伝えられていますが、事実とは違うようです。 義経は壇ノ浦で平家を滅亡させましたが、三種の神器である神剣を海に沈め、 頼朝の許しを得ないで後白河法皇から伊予の守に任ぜられたことが頼朝の怒りを 買ったのです。 そこには梶原景時のざん言もありました。 義経は弁解のため鎌倉に向かいますが、腰越から先には入れてもらえませんでした。 京都に戻ると、追うようにして所領の没収、地位のはく奪があったのです。 続けて土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)の夜討、それが失敗すると頼朝自ら 義経討伐のために上洛してくるという話が伝わったのです。 後白河上皇は義経のために頼朝追討の院宣を発します。 義経はそれを受けて決起する気はありませんでした。 それを見て上皇は九州総地頭に任じます。 義経主従は西下して再起を図るべく船出しますが、淡路島付近で暴風に遭い ちりじりになってしまいます。 その後、吉野山、延暦寺、鞍馬寺と逃避行を続けます。 いよいよ居場所がなくなってしまった義経は、奥州の藤原秀衡を頼ることを決意します。 壇ノ浦で平家を滅ぼしたのが1185(文治元年)3月24日、弁解のため 京を発ち鎌倉に向かったのが同年5月7日、領地の没収が同年6月13日、 土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)の夜討が同年10月17日、 藤原秀衡を頼ることを決意し鞍馬寺を発ったのが翌1186(文治2年)正月2日。 義経は人生の絶頂期から1年を経ずして追われる身になってしまったのです。 人の栄耀栄華は続かないものです。まさに諸行無常です。


