帰去来亭からの便り  RSSを登録する

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2009/08/01

上時国家、下時国家 その2

壇ノ浦は現在の山口県下関市です。この壇ノ浦の合戦で平家は滅亡します。
壇ノ浦には本州と九州を隔てる関門海峡があります。
関門海峡は潮の流れの変化が激しい場所です。
現在では中国縦貫自動車道の関門橋が本州と九州を結んでいます。
関門橋の下にみもすそ川公園があり、そこには『安徳帝御入水之処の碑」、
『壇ノ浦古戦場の碑』が建てられ、武将のブロンズ像も2体あります。

1185(元歴2)年3月24日、源平の戦いの火ぶたは切られます。
平家は海上戦に長けていましたが、兵の数が少なかったのです。
源氏の舟数は800艘(そう)、平家の舟数は500艘。
九州側の門司岬の陸地では、源範頼の大軍が両者の海上戦を静観していました。
最初、平家は潮の流れに乗って矢攻めで源氏を押していきますが、
途中から潮の流れが変わると、壊滅的な状況となります。

平家の最後が平家物語に描かれています。
平知盛はもはやこれまでと、建礼門院(こんれいもんいん、安徳天皇の母)、
二位ノ尼(平時子、清盛の正室であり、清盛との間に宗盛、知盛、重衡、
建礼門院を産む、頼朝を助命している)らがいる船にやってきます。
船内を片づけ、見苦しいものは海中に捨てます。

二位ノ尼はすべてを察し、安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽
(しんじ、三種の神器の一つである玉、つまり二位ノ尼は三種の神器の二つまで
持っていたということになる)を抱えます。
安徳天皇が「いずこへ行くべきぞ」と聴くと、二位ノ尼は「浪の下にも都の候ぞ」と答え、
安徳天皇を抱えて身を海中に投じました。時に安徳天皇は4歳。
続いて建礼門院、平家一門の女御たちが次々と海中に身を投じます。
源氏の兵たちは絡め取ろうとして寄ってきます。
建礼門院は助けられ、京へ護送され出家。大原の寂光院で安徳天皇と一門の
菩提を弔い余生を送ったと伝えられています。

平家一門の教盛、知盛、有盛、経盛、教経は入水若しくは討ち死にしてしまいます。
宗盛、清宗の父子は死にきれず捕虜となりました。
時忠は最初から死ぬ気はなく、源氏に投降したのです

4月26日、時忠は京都に護送されます。
内侍所(三種の神器の一つ神鏡)を守ったことで減刑を願いました。
しかし、時忠は壇ノ浦で捕えられた時に皮の書類入れを押収されていました。
その書類には時忠にとって都合の悪いことが書いてあり、場合によっては
死罪となる証拠でもあったのです。
時忠は子息の時実に相談します。

時実は時忠の娘を義経の妾にすることを勧めます。
そこで、時忠は長女である28歳の娘を妾にすることを義経に勧めます。
義経はこれを受け入れます。このとき義経は、すでに川越太郎重頼の娘を
妻にしていました。
義経と時忠が心のつながりができたのでしょう。義経は頼朝に追われ、
奥州への逃避行の途次、能登の配所にいる時忠のもとを訪れています。

1185(文治元)年9月23日、時忠は能登の鈴の御崎、子息の時実は周防へ
流謫(るたく)の身となったのです。
鈴の御崎は現在の石川県珠洲(すず)市大谷です。
珠洲市は能登半島の先端にあります。

時忠が配流された大谷の海岸に行きますと、揚げ浜式製塩法が行われています。
この製塩法は650年前から行われているとのこと。
砂を敷いた塩田に海水を桶で霧状に撒きます。塩を含んだ砂を
天日で乾かします。
乾いた砂を大きな桶の中に入れ、再度海水をかけ、砂と塩と分離させます。
濃度の高い塩水を大釜で沸かし、その後、不純物をとるためろ過し、
煮詰めます。最後にニガリと塩を分離し、甘みのある塩に仕上げます。

この塩田には小さな博物館があります。
円形の施設で、製塩法の製法を壁面の映像で順を追って見ることができます。
製塩に関しては、すべて人力で行っています。
しかし、この博物館はすばらしく近代的で、製法との大きなギャップを感じます。
ここで売られる塩は、掌に載るほど小さな袋ですが、昔は一袋400円で
三袋限定の販売でした。
現在はもっと値段が上がったでしょうね。

荒波が押し寄せる能登の大谷、そこから上陸した時忠主従16名の一行は
烏に導かれたと伝えられています。近くを流れる川に烏川の名が残っています。
時忠一行を迎えたのは、荒涼たる風景が広がる原野でした。

源平盛衰記に記されています。
「日数ふれば能登国鈴の御崎に著(つ)き給ふ。立渡り見給へば、岩間に
生(お)いたる浜松の、岸打つ波に顕(あら)はれて、其の根あらはに有りけるを
見給ひて、浮名を流す旅の空、打ち解け寝入り給はねば、我身の思ひになぞらえて、

白波の打ち驚かす岩の上にねいらで松の幾世へぬるらん

いとあわれにぞ聞こえし」

1189(文治5)年2月24日、時忠は配所にて60歳で病没します。
時忠主従の墓は、珠洲市大谷町則貞の国道249号線から入った所にあります。
現在では柵に囲まれておりますが、私が訪れた20年ほど前は柵がなかったように思います。
胸の高さほどの五輪の塔が並んでいます。
五輪の塔の石の肌は滑らかではなく、風雪によって荒れています。
時の流れと平家物語の諸行無常を感じずにはいられません。

同年5月、頼朝は奥州の藤原氏追討の院宣を下すことを
後白河法皇に要求しました。
これに合わせて、法皇は時忠の子息時実の赦免を頼朝に申し入れたのです。
頼朝はこれを受け入れ、時実は帰京しました。

時忠の墓近くに則貞家があります。
時忠の長男の末裔と伝えられています。
時忠の末裔としては上時国家、下時国家がよく知られています。
時国は時忠の五男であったそうです。現在では時国という名前を苗字にしています。
住所は輪島市町野町南時国。珠洲市の隣の市ですが、時忠の墓に近い場所です。

上時国家が本家、下時国家が分家です。
上時国家の当主は現在25代目、下時国家は13代藤左衛門時保の
長男の子である千松が分家をして下時国家を名乗ったと伝えられています。
共に栄え、豪壮な屋敷が残っています。

上時国家の館は石畳の坂を登っていきます。
入口には大きな門柱が両側に建てられ、武者窓や門番がいた小部屋があります。
石畳の坂道の近くには溜池があり、かつてはこの館が堀で囲まれていたことを
うかがわせます。
外敵から守るため、こうした造りになっています。
無理もありません。母屋は1483(文明15)年、台所は1590(天正18)年に
建てられたと言いますから、室町時代後期から戦国時代の建物です。
中世の地方豪族の館です。

門の前に立つと、母屋が正面にあります。母屋の中央付近には瓦葺きの
唐破風の大きな玄関があります。
その上には入母屋づくりの茅葺きの大きな屋根があります。
高さが18メートルと言いますから、現在の建物では4階から5階の高さです。
建設当初は総建築面積479坪、現在は189坪あります。
土間には梁に京風の駕籠が3基架けられています。
大納言の間は圧巻です。分厚く大きな欄間には見事な鶴と松が彫られています。
天井は金ぶちの折上格天井(おりあげごうてんじょう)、襖には平家の家紋である
丸にあげは蝶が描かれています。

下時国家は、背後にうっそうと木々が茂った山が立ちはだかり、周囲には垣根を
めぐらしています。
門はなく、平屋の大きな茅葺きの建物です。
分家したのは江戸時代でしたが、桃山期の書院造が中にはしつらえており、
大黒柱が2本、簡素にして豪壮な建築物です。
総面積151坪、玄関を入ると40坪の土間、土間に続く部屋は板敷き、
中央には6尺四方の炉があります。
下時国家は昭和38年、上時国家は平成15年に国の指定重要文化財の指定を
受けています。

上時国家は天領に属し、下時国家は加賀藩に属していたといいます。
上時国家は多畑を開墾によって広げ、製塩と交易によって財を築き、
天領の大庄屋となったのです。
下時国家も同様に財をなし、前田藩の十村役を歴任しています。
十村役とは加賀藩独特の機構で、庄屋に十の村を単位に治める代官所としての
役割を与えたものです。ただし、代官ということではなく、代官は加賀藩から
十村役の家に出かけていました。
双方の家は江戸期には苗字帯刀を許され、昭和の農地解放が行われるまで
発展していました。

私たちが現在ここに存在していること、それにはルーツがあり、
長い歴史がそれぞれにあります。
歴史の中に名を成した家系の方もいるでしょう。
でも、名を成さなかった家系の方がほとんどです。
こうしたことはともかく、それぞれの祖先の皆さんは一生懸命に生きてきました。
だから私たちはここに存在しています。今あることに感謝し、一生懸命に生きましょう!
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