帰去来亭からの便り  RSSを登録する

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2009/07/25

上時国家、下時国家 その1

前回は鎌倉、頼朝編でしたね。
頼朝は源氏でしたが、今日は平氏のことをお話ししましょう。
皆さんは「平氏にあらずんば人に非(あら)ず」と言った人は誰だか知っていますか?
平家物語には、こう書いてあります。
「此の一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も人にして人に非ず」。

忘れてしまいましたか?歴史を教科書で勉強したのは大分昔のことでしょう。
無理もありません。
言ったのは、平時忠(たいらのときただ)という人です。

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、
盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。
驕(おご)れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き(たけき)人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ」
これは『平家物語』の冒頭の部分です。
これに続いて、驕れるものも久しからずということで、異朝の例、
本朝の例が書かれています。本朝の例の最後に平清盛のことが
書かれており、要は清盛のことを書くために冒頭の部分を書いた
とも言えます。
私は平時忠のことを考えるとき、平家物語の冒頭の部分がなぜかしら浮かんでまいります。
折しも、現在の自民党の凋落のことも浮かんでくるのですが…。

平時忠は平姓ですが、平清盛らと同じ武門の出ではなく、公家の出です。
同じ桓武平氏ですが、時忠は高棟流(桓武天皇から3代目、
高棟王の時に直系と別れる)、清盛は直系であり、平氏の頭領です。
時忠は本来身分も低く貧乏公家で終わるべきはずが、清盛が保元の乱と平治の乱で
勝利を治め後白河上皇の信認を得て太政大臣になったことから、
出世の階段を登り始めます。
清盛は時忠の姉の時子の亭主だったのです。
当然、清盛の後押しもありました。

人の運命はあざなえる縄のごとし、よいこともあれば悪いこともあります。
それもその人の持つ性格や考えることに左右されます。
驕(おご)りや高ぶり、油断、考え違いもあります。運命もあるでしょう。
振り返ってみれば、まさに流転の人生です。
時忠もこの例にもれません。

1146(久安2)年、17歳で非蔵人(天皇の秘書的役割)、以後、翌年六位蔵人、
1148(久安4)年には検非違使左衛門少尉(けびいしさえもんのじょう、
京都の治安維持と民政を所管)、1149(久安5)年)には叙爵し、任を離れます。

1160(永暦元年)年、検非違使右衛権左となり、翌年、清盛が検非違使別当に
就任したことから、清盛のもとで配下を指揮しました。
1161(保元元)年には、妹の滋子が後白河上皇の第七皇子を出産しました。
皇子は憲仁親王となったのですが、この憲仁親王の立太子を画策した、
また、二条天皇を呪詛したのではないかと疑われ、出雲国(いずものくに)に配流
となってしまいます。

1165(永万元)年、時忠は呼び戻されます。3年間の配流でした。
二条天皇が崩御したことによります。
翌年、憲仁親王の立太子が実現します。
1168(仁安3)年、憲仁親王は高倉天皇となり、滋子は皇太后となります。
時忠は滋子の兄であったので、後白河上皇の側近として行動します。
同年には中納言となります。

好事魔多しとはこのことでしょうか。
1168(仁安3)年12月、延暦寺が院の近臣である藤原成親の
流罪を要求して強訴を起こします。
この強訴に関して、時忠は奏上に嘘があったとして官を解かれ、
出雲国に再び配流となってしまいます。
翌年正月、清盛は六波羅に武士を集結させ、後白河上皇に圧力をかけます。
六波羅は京都の東山にある場所ですが、その六波羅には清盛の館が過去
にあった場所であり、平家の屋敷が集中していた場所です。
後白河上皇がいた法住持殿とは近い場所です。
因みに、清盛はこの頃には西八条に住んでいました。西八条屋敷は現在の
京都駅付近です。
後白河上皇は清盛の圧力に屈し、時忠を召喚します。

1171(承安元)年、高倉天皇の元服の儀式が行われました。
同年には、清盛の娘徳子と高倉天皇の婚姻が合意に達したといわれています。
このころのことです。時忠が平家にあらざらんものは、といったのは。
清盛と手を携え栄耀栄華を思いのままとし、平家が絶頂期にあったのです。
叙位、叙目の権限をにぎり、平関白とも言われました。

1178(治承2)年、高倉天皇と徳子の間に子が生まれ、その2年後には天皇
となります。安徳天皇です。
高倉天皇は上皇となり、後白河上皇は法皇となります。

1180(治承4)年ごろから世情はめまぐるしく変化します。
以仁王の令旨が全国の源氏にもたらされ、木曽義仲、源頼朝などが蜂起します。
この頃、神戸の福原に遷都の話が出ます。
翌1181(治承5)年、高倉上皇は21歳の若さで崩御してしまいます。
後白河法皇は院政を復活。
この年に清盛も死去します。

1183(寿永2)年5月、北陸で木曽義仲に平家の軍勢が破れます。
いわゆる倶梨伽羅峠の戦です。
7月には義仲軍は延暦寺まで迫っていました。
平家は都落ちを決意します。時忠も同行します。
平家は安徳天皇と三種の神器(さんしゅのじんぎ、天照大神から授けられた剣、
鏡、玉)を奉じて、九州の太宰府に仮の皇居を構えます。
刑部卿であり、豊後守である三位頼輔は目代の頼経に平家追討を命じます。
九州の軍勢を目の当たりにした平家は、大宰府を退去します。

1184(元歴元)年、平家軍は一の谷で源氏軍に大敗してしまいます。
同年に安徳天皇の存在を無視し、後鳥羽天皇が即位します。
後鳥羽天皇と源氏は三種の神器がないことから、平家に対して
譲ってくれるように交渉します。
当然、平家は拒否します。

平家は讃岐国屋島で敗れ、長門国で滅亡します。
屋島はその名の通り屋根の形をした島です。
屋島の戦では扇の的の話が有名です。昼間は源平あい戦い、
夕刻になった時に平家方から小舟を源氏方に向かって漕ぎ出してきます。
その船には堂上の女性が乗り、竿の先に扇を掲げ、射ることを挑発します。

義経は畠山重忠に射ることを命じます。重忠は辞退し、下野国(しもつけのくに)
の住人、那須十郎を推します。
十郎も戦傷が癒えないことを理由に辞退し、弟の那須与一(なすのよいち)を推します。

与一は馬で海に乗り入れ、弓を構えます。
弓に矢をつがえ、「南無八幡大菩薩」と唱えます。他方、射損じた場合は
腹をかき切ることも念頭をよぎります。
矢は弦(つる)を離れ、的に向かって飛んでいきます。
波間に浮かぶ小舟に掲げられた的は揺れています。
与一のはなった鏑矢は見事に扇の柄にあたり、扇は中空に舞い上がり、海に落ちます。
両軍からは嬌声ともつかぬ喝采が上がります。
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