2009/07/12
鎌倉 その4 頼朝の墓2
頼朝が北条時政の娘政子と出会って一緒になったのは31歳。 政子は21歳。 曽我物語に出てくる話ですが、政子には「夢買い」の話があります。 政子の妹はあるとき不思議な夢を見ます。 世間が自分の思い通りになる夢です。そのことを政子に話しました。 政子は、その夢は不幸になる夢なので自分に売るように言いました。 不吉な夢を人に売ると幸福に転化するという話があったのです。 政子は妹に小袖を与え、夢を買いました。政子は買った夢を吉夢と思ったのです。 その夢を考えた時に、政子の脳裏に浮かんだのは頼朝でした。 頼朝と政子の仲を知った時政は、平家を畏れ、伊豆目代である山木兼隆と 一緒にさせようとしました。 山木兼隆のもとに足入れ婚をした政子は、伊豆山権現に誓うことがあるからと言って 出奔してしまいます。 それを手引きしたのは、頼朝の側近である安達盛長と弟の北条泰時であったといいます。 伊豆山権現は頼朝と懇意にしており、僧兵を擁していたので山木兼隆も手を 出せませんでした。 1178(治承2)年、頼朝と政子の間に大姫が誕生します。 時政はその頃には山木兼隆にあきらめさせ、自分も二人の仲を認めていました。 現在もそうした考えの方がおりますが、当時は家の盛衰といったものが大きな価値観を 占めていました。一族郎党が栄えるか滅びるか、大きな問題です。 流人と自分の娘と結婚させ、将来自分の家はどうなるだろうかと、 時政は苦しんだに違いありません。 しかし、時政は頼朝にかけたのです。 後に時政は競合する御家人達を滅ぼし、執権職を子である泰時に継がせるという 天才政治家ぶりを発揮します。 このころ、既に平家の滅亡も予測していたかもしれません。 1180(治承4)年、後白河上皇の次男以仁王(もちひとおう)は平家追討の令旨(りょうじ) を出し、全国の源氏に伝えました。 令旨は皇太子や親王の命令を書いたものです。 頼朝のもとにそれを伝えたのは、叔父である新宮十郎(源行家)です。 山伏姿に身をやつした新宮十郎は、木曽の義仲にも伝えています。 頼朝、時に34歳。 以仁王はことが露見し、源頼政と共に大津の園城寺で平家の追手と戦い敗走し、 宇治で敗死してしまいます。 平家は令旨を受けた源氏を追討することを考えます。 頼朝のもとには、この情報が都から伝えられます。 追い詰められたと感じた頼朝は挙兵を決意します。 頼朝は安達盛長に全国の源氏累代の家人に使いさせました。 このことが源平盛衰記に書かれています。 波多野義常は返答を避け、山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし)は「佐(すけ) 殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」 と嗤(わら)いました。 大庭景義は快く承知し、三浦義明は落涙して感激したといいます。 千葉常胤、上総広常も承諾しました。 頼朝は1180(治承4)年8月17日に伊豆目代である山木兼隆を襲撃する ことを決めます。 山木兼隆という人は本当についていない人ですよね。 政子にはふられるし、頼朝には襲撃されますし。 8月17日は三嶋大社の祭礼の日でした。 三嶋大社は伊豆一ノ宮であり、現在でも大きな神社です。敷地面積は5万坪。 山木館の郎党は祭礼に出かけていました。 そこを頼朝は狙ったのです。 最初、早朝に襲撃することを計画したのですが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱 の兄弟が遅参したことにより、明朝を待たずして夜半に襲撃することを決めました。 夜半に一同は北条館を出ます。 頼朝は北条館で待機。 一行は二手に分かれます。一方は山木兼隆の後見役である堤信遠の館、 もう一方は山木兼隆の館。 佐々木兄弟は矢戦の後、信遠と組み打ちとなり、これを討ちとりました。 本体を率いる時政一行は、山木館に到着すると矢攻めを行います。 山木側も矢で応戦。 北条館で待機していた頼朝は、いつまで経っても火の手が上がらずいら立ちます。 残っていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱、堀親家を時政の支援を するよう命じます。 ようやく山木兼隆を討ちとり、館に火をつけます。 明け方、一行は北条館に帰還し、頼朝は首を検分したといいます。 8月20日、頼朝は土肥実平所領の相模の国土肥郷(湯河原)に行きます。 そこから、箱根越えをして小田原に出て、23日には300騎の軍勢で石橋山に 陣を敷きます。 平家方の大庭景親は3000余騎を率いて迎撃すべく向かいます。 頼朝の後方には伊東祐親が300騎を率い、海沿いを通って 挟撃すべく陣を敷きました。 頼朝は三浦一族が来るのを待っていたのです。 この日は大雨となりました。三浦勢は酒匂川(さかわがわ、現在では鮎沢川と呼ばれ、 足柄平野を南下し、小田原市で相模湾に注いでいます)の増水で、渡川することが できません。 大庭景親勢は三浦勢が来る前に雌雄を決するべく、頼朝勢に襲いかかります。 多勢に無勢、頼朝軍は総崩れになりますが、この戦の中で佐奈田与一の戦ぶりが 『源平盛衰記』と『平家物語』に載っています。 佐奈田与一の父の岡崎義実は三浦義明の弟。相模国岡崎 (神奈川県平塚市岡崎)に住み、頼朝に味方する土肥実平とも 関係が深かったのです。 嫡男の与一は、岡崎の近くの真田の地を領したことから佐奈田与一と呼ばれたのです。 彼は山木館の襲撃にも参加しています。 激しい雨、闇夜の乱戦、与一は敵を探して馬で駆け巡ります。敵方の俣野景久 に出会います。両者は馬上で組み合い、大地に転げ落ちます。 与一は景久を組み伏せます。 闇夜であり、泥にまみれてどちらが上か分かりません。 そこに大庭方の長尾新五が駆け付けます。長尾新五は両者に問います。 「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」 与一は「上が景久、下が与一」と言います。すかさず景久は「上ぞ、与一、下ぞ景久、 間違えるな」と言います。 長尾新五が迷っていると与一が蹴り飛ばしました。そこに長尾新五の弟の新六が 背後から与一を襲い、首を切り落としてしまったのです。 小田原市石橋部落にある石王山地蔵院宝寿寺は佐奈田与一の菩提寺です。 やはりこの地区には、与一を祀った佐奈田霊社があります。与一塚も残っています。 与一を慕う人々が大勢いたんですね。 総崩れになった頼朝軍は箱根に逃げ込みます。 大庭軍は追撃します。頼朝軍は激しい抵抗をしながら退きます。 頼朝は土肥実平所領の相模の国土肥郷(湯河原)に逃げ込みます。 そこの洞窟に部下とともに隠れます。大庭軍は山中をくまなく探します。 洞窟に入っていった梶原景時は頼朝がいることが分かったが、情を持ってこれを隠し、 向こうの山があやしいといつて、軍勢を他に誘導したのです。 この時のことが源平盛衰記に載っています。 大庭景親と梶原景時が現れ、景親は洞窟に向かって矢を射かけようとします。 それを景時は押しとどめます。洞窟内からは頬白が飛び立ちました。 「武者のいるところに小鳥がいるはずはない。他を探そう」と景時は言ったのです。 後、梶原景時は頼朝に有力御家人として召抱えられます。 頼朝が隠れたという岩屋が湯河原町に行きますと、しとどの窟として現在では 観光名所になっています。しとどとは頬白の異名です。 残った頼朝軍は、各地に落ち延びて再起の時を待つことになりました。 頼朝とその側近は真鶴から安房(あわ、千葉県の南端)に落ち延びます。 真鶴は湯河原の隣にあり、海沿いの町です。 漁港があり、海の幸が豊かなところです。 中川一政の美術館があり、近くにはサボテン公園もあり、温暖な気候にも恵まれています。 リゾートマンションも林立しています。 鶴の顔のように細長い半島(真鶴半島)が相模湾に突き出し、半島から見ると、 正面には房総半島が遠望できます。 安房に上陸した頼朝を迎えたのは千葉介常胤(ちばのすけつねたね)、 上総介広常(かずさのすけひろつね)などの大豪族でした。鎌倉入りしたのは 10月6日のことです。 その時の頼朝の軍勢は2万7千騎に膨れ上がっていました。 そろそろ薄暗くなってきました。今日は本当によく歩きました。 心地よい疲れが、足を覆っています。 今度来るときは、鎌倉の寺巡りをゆっくりしたいと思います。


