帰去来亭からの便り  RSSを登録する

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2009/06/27

鎌倉  その4 頼朝の墓


鶴岡八幡宮から東側に向かって歩いていきます。
閑静な住宅街の道です。
しばらく行くと左手に学校らしきものが見えてきました。
小学校でしょうか。
そこを過ぎて北側に向かいます。
相変わらず住宅街が続きます。
突き当たると、石段があります。
あまり長い石段ではありません。

登り切ると、目の前に頼朝の墓があります。
五輪の塔でも宝塔でもなく、層塔と呼ばれる石塔です。
頭の部分には相輪(そうりん)があり、その下には笠が五層重なっています。
苔むしており、いまにも崩れ落ちそうな気もいたします。
日本で初めて武家社会を築いた頼朝の墓というには意外なほど質素です。

この墓は1779(安永8)年、薩摩藩の第8代藩主島津重豪(しげひで)によって
再建されました。
それまでは、現在よりさらに小さな五輪の塔だったそうです。
重豪は、島津家が頼朝の子孫と伝えられていることから行ったのです。
墓前の香炉には島津家の家紋が刻まれています。

島津氏は秦(はた)氏の子孫である惟宗広言(これむねひろこと)が
近衛家の荘園である日向の国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官となり、
その子の忠久が頼朝により同地の地頭に任じられ、島津姓を称したのが
初めです。
秦氏は渡来系の人々で主に近畿地方に住み、京都の太秦(うずまさ)
にいた秦河勝という人はかなりの力を持っていました。
弥勒菩薩で有名な広隆寺を建立しています。

重豪が頼朝の子孫と考える根拠は忠久が頼朝の落胤(らくいん)である
ということが『島津国史』、『島津正当系図』に記されていたからです。
忠久が地頭職に抜擢されたことからこの話が生まれたのではないかと推測され、
学界では頼朝の落胤であるか否か、その答えはいまだ出ていません。

頼朝の墓のある場所は、当初には持仏堂が建てられていました。
その後、法華堂に改称されたのです。
大倉法華堂といいました。
この法華堂に頼朝は葬られました。
当時の貴族や力のあった武士たちは法華堂を墓所とすることが多かったのです。
法華経が生前の罪をなくすと信じられていたからです。

頼朝が亡くなったのは1199(正治元)年正月13日。
前年の12月、稲毛重成(いなげしげなり)が亡き妻(政子の妹)の供養のため
相模川にかけた橋の落成供養を行いました。頼朝はそこに参列し、帰途に落馬したのです。
以後床につき、ほどなく亡くなりました。
享年53歳。あっけない最期でした。

法華堂の南側には鎌倉幕府の初代幕府である大倉幕府がありました。
頼朝の墓は幕府跡を見下ろすように建っています。

頼朝のことを考えるとき、NHKの大河ドラマ『草燃える』が頭に浮かびます。
放映が1979年ですから、30年も前のことです。配役は頼朝が石坂浩二、
政子が岩下志麻、頼家は郷ひろみ、義経は国広富之、
静は友里千賀子が行いました。語りは森本毅郎です。
頼朝役の石坂浩二は、神護寺の頼朝肖像画(足利直義という研究者もいる)
と伝えられる絵に似て、ハンサムで品がありました。
政子役の岩下志麻は、勝気で北条政子本人もこんな人だろうなと、
思わせるものがありました。
その二人が恋に落ちるのです。

頼朝は1147(久安3)年4月8日に源義朝の三男として生まれました。
出生地は不明ですが、名古屋市の熱田区の誓願寺の門前には、
頼朝生誕の地の石碑が建っています。
母は熱田神宮大宮司藤原季範(すえのり)の娘由良御前。
母の出が高貴だということで源氏の嫡男となっています。

平時の乱に敗れた義朝は、頼朝ら八騎を従え本拠地である東国を目指します。
馬上で疲れから居眠りをした頼朝は途中ではぐれ、平頼盛の家人平宗清に
捕えられます。
父義朝は尾張の国で、長田忠致(ただむね)に風呂場で謀殺されてしまいます。
義朝は最後に、せめて1本の木刀(こだち)たりあればと言ったそうです。

後日、頼朝は征夷大将軍となり、義朝が殺害された尾張の国美浜町野間で
義朝の大法会を行いました。
長田忠致父子を義朝の墓前に引き出し、板に逆さに磔(はりつけ)にし、
生木で打ち殺したといいます。
頼朝が亡父のため建立した大御堂寺は七堂伽藍の大寺院だったといいます。

捕えられた頼朝は、刑死が当然でしたが、救いの神が現れました。
清盛の継母である池野禅尼が早世した我が子・平家盛に似ていると
いうことで、清盛に頼朝の助命を願ったのです。
清盛は渋々それを受け入れ、頼朝を伊豆の国・蛭ヶ小島に流しました。
現実には、蛭ヶ小島は後世の記述であり、真偽は不明とのことです。
伊豆の韮山に行きますと、「蛭ヶ小島公園」には大きな碑が建てられています。
江戸時代の学者・秋山富南が、頼朝が配流になった蛭ヶ小島はこのあたりであった
と推定したところから、この碑が建てられたのです。
公園内には幕末の代官・大野太郎左衛門の屋敷が移築されています。
その隣には、市の博物館が建てられています。

伊豆の国で頼朝は流人の身とはいえ、乳母の比企の尼や母の実家である
熱田神宮から援助を得て、比較的自由な身であったでしょう。
狩りをしたり、源氏の菩提を弔うために読経の日々であったことが予測できます。
曽我物語の記述では、伊東祐親(すけちか)の監視のもとにあったが、
祐親が京に上った間に祐親の三女八重姫と恋仲となり、千鶴丸を成したといいます。
帰って来た祐親は激怒し、千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を
江間小四郎に嫁がせます。
祐親は頼朝のことを討たんとしてつけ狙います。
頼朝は走湯権現(そうとうごんげん、熱海市にありました)に逃れます。
これは頼朝29歳の時の事件です。
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