帰去来亭からの便り  RSSを登録する

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2009/06/13

鎌倉  その3鶴岡八幡宮(4)


頼朝が血族を殺害していったのは、武家社会を構築するに当たって
秩序や節度を御家人たちに徹底するための見せしめであったと考えることができます。
他方、一般の権力者と同じように権力の中央集権化を図り、自らが権力を
手中に収めてその地位を子孫に伝えていくという二通りの考え方があったと思います。

頼朝が伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されてきた時には
周囲には世話をするためのわずかな下人を従えていたにすぎません。
彼自身になんの力もありませんでした。
最初に彼の後ろ盾となったのは舅(しゅうと)である北条時政一族と伊豆や
相模の小豪族だけだったのです。
現実に武士団が頼朝のもとに集まってきたのは石橋山の合戦で敗北し、
真鶴半島から安房(あわ、千葉県の南端)に逃れてからでした。

千葉介常胤(ちばのすけつねたね)、上総介広常(かずさのすけひろつね)、
安西景益、下河辺行平、葛西清重、豊島清光、足立遠元、小山朝光、
畠山重忠、川越重頼、江戸重長などが参集し、鎌倉入りの時には総勢
およそ2万7千騎であったと伝えています。
これらの武士団を統制して平家を討ち、武士の世を構築するためには
秩序や節度を徹底する必要があったのです。
頼朝が血族を殺害していったのはそのための見せしめと考えることができます。

一国は一人を以て興るといったのは中国の宋の時代の蘇老泉。
この言葉はすぐれた将がいることによってその国は隆盛を極めるという
意味の言葉ですが、考え方を換えれば、上に立つ人間はその地位に
ふさわしくない人間はその地位をすぐにでも去らなければならないという厳しい
現実的な内容も含んでいます。
次に、自らの判断で去るのか周囲の状況に促されて去るのかということが考えられます。
こうしたことは現在の日本の国政についても言えます。

一般の権力者と同じように権力を手中に収め、その地位を子孫に伝えていく
ということに関しては、因果応報とでもいいましょうか、頼朝の考えていたように
はいきませんでした。
頼朝が没し、2代将軍となったのが嫡男(ちゃくなん)頼家。彼は時に18歳でした。
18歳の若者が将軍職を継ぎ、頼朝と同じように采配をふるうことに対しては
だれの目にも力量不足に思え危ぶんだのは当然のことです。
早速、母政子は頼家の権限を縮小したのです。
訴訟の権限について頼朝同様独断専決していましたが、それを幕府の宿老
13人の合議制の裁決に改めました。
頼家は激怒します。

頼家は小笠原長経、比企三郎、和田三郎、中野五郎、細野四郎の
5名以外は目道理を許さず、またこの5名が乱暴狼藉を働いても
手出しをしてはいけない、とお触れを出したのです。
これを機に頼家の無軌道ぶりはエスカレートしていきます。
安達前九郎の息子弥九郎景盛の妻に横恋慕し、景盛の留守の間に妻を
奪い取り、足立一族を討ち果たすために兵を差し向けます。
その所業を政子に激しく叱責され、兵を引き上げたといいます

頼家にとって不幸なことは、帝王学が身についていなかったことがあります。
帝王学を身につけるには子供のころからの教育が大事ですが、
そうした教育が中途半端であったのではないかと思います。
中途半端であったのは乳母父(めのと)である比企能員(よしかず)の
教育が不十分であったということであり、
加えて頼朝が不慮の事故で突然亡くなってしまったこともあるでしょう。

サルトルの恋人であったフランスの作家ボーボワールは『第二の性』のなかで、
「女は最初から女ではなく女になるのだ」と書いています。
姿かたちは女性であっても、身体や精神の成長とともに女性としての生き方を学び
身につけていくということでしょうか。
女性だけではなく、人間はすべてこの通りだと思います。
人間は若いころは未熟です。
精神的な強さや職務を遂行する能力、また、自分を律し、他者と均衡を保ちながら
生きていく能力は徐々に身につけていくものです。
ましてや将軍職です。
一朝一夕にはだれもが認める将軍職としての能力が備わることは
不可能です。
江戸時代には「我は生まれながらにして将軍である」とうそぶいた将軍もいましたが、
組織が整っていたからそれが可能だったのでしょう。

頼家の近くに宿老を後見人としておき、政子が手助けをするということは
不可能だったのでしょうか。
頼家自身にもそうしたことを受け入れるという度量もなかったかもしれません。
政子という女性は、母親としての愛情が薄いのではないかと思われる節もあります。
頼家が12歳の時、頼朝とともに富士の牧狩りに行き鹿を射止めます。
頼朝は大いに喜んですぐに山神祭を行い、鎌倉の政子のもとにも知らせました。
政子は武士の子なら当然のこと、改めて騒ぐほどのことではないと使者を
叱ったといいます。

300年続いた徳川幕府。
その中には将軍としての資質や能力が備わっていない将軍もいました。
しかし、盤石の組織がありました。機構も整っていました。主従関係も
既定の事実として定着していました。人々の考え方も将軍を盛りたてるという
考えで一致していました。
鎌倉時代初期には武家社会の勃興期であり、すべてにおいて
未成熟であったということができます。
また、頼家にとって不幸なことは自らが強大な家臣団を所有しておらず、
微妙な力関係の上に立っていたということがいえるでしょう。

1203(建仁3)年7月、頼家は急な病にかかります。危篤状態に陥り、宿老達は
家督の問題を相談します。
その結果、弟の千幡(実朝)に関西38ヶ国を、嫡男一幡には関東28ヶ国を譲る
こととして発表しました。
病床でこれを聞いた頼家は憤慨し、義父である比企能員(よしかず)を呼び寄せ、
北条時政の討伐を命じます。
しかし、比企能員は時政に謀殺され、比企一族も滅ぼされてしまいます。
頼家は時政討伐を命じますが、すでに頼家に従うものはありませんでした。

間もなく頼家は政子に出家を命じられそれに従います。
将軍職は弟の千幡に譲り、伊豆の修禅寺に幽閉されます。
1204(建仁4)年7月18日、頼家は北条時政の命を受けた兵に殺害されます。
殺害された場所は叔父の源範頼と同じ修禅寺、また祖父の源義朝と同じ湯殿。
何か因縁めいたふうに思うのは私だけでしょうか。

暗愚な将軍頼家像を記しているのは北条氏の編纂による「吾妻鏡」です。
京都側の天台宗僧侶である慈円が著した『愚管抄』、太政大臣九条兼実
(かねざね)の日記である『玉葉』などを読むと必ずしもそうではありません。
北条氏の作為的な指導により著されたのではないかと思われます。
期待されない将軍、自尊心も取り払われ、母親にも愛されず、夢も希望も
見いだせず殺された悲劇の将軍です。

このように源氏は頼朝、頼家、実朝の三代で滅亡します。
すべてを失ったように思える政子、老境をどう過ごしたんでしょうか。
時には涙したことがあったんでしょうか。本当に幸せな人生だったんでしょうか。
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