帰去来亭からの便り  RSSを登録する

文芸、旅行、絵画、画家、歴史、できごと、生活などジャンルを問わずさまざなことが出てきます。読めば元気が出ます。感動があります。興味がわきます。癒されます。人生の深みを実感できます。勉強になります。著者の生きてきた中から紡ぎだす珠玉の物語です。

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2009/05/30

鎌倉  その3鶴岡八幡宮(3)


舞殿の横を通り過ぎ本殿に向かいます。
石段を登っていきます。
石段左手には三代将軍実朝を暗殺するために公暁(くぎょう)が隠れていた
と伝えられる大イチョウがあります。
この大イチョウは樹齢千年とも言われますが、仮に千年だとしても実朝暗殺のころ
には人が隠れているほど大木ではなかったでしょう。
多分、後世の者の創作であったのではないかと思います。

公暁は二代将軍頼家の遺児です。ですから公暁と実朝は甥と叔父の仲でした。
頼家の子であったのですが、将軍にはなれず、鶴岡八幡宮の別当を勤めていました。
別当とは大寺や神宮寺において寺務を司った職の最高の地位にいるものをいいます。

実朝は北条氏の傀儡(かいらい)である憂さを晴らすかのように蹴鞠(けまり)や
和歌に没頭していましたが、同時に階位の昇進も望んでいました。
内大臣まで昇進していましたが、さらに右大臣を望んだのです。
朝廷は実朝に請われるままに右大臣に任じようとしました。

1219(建保6)年正月27日、実朝は右大臣拝賀の式を鶴岡八幡宮で
行うこととしました。
実朝の出発に先立ち、鎌倉幕府の政所初代別当(長官)大江広元(おおえのひろもと)
は不吉な予感がすることから涙ながら束帯の下に腹巻きをつけることを勧めます。
実朝は前例がないということで腹巻きをせず出かけます。

出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
実朝も不吉な予感があったのでしょう。
庭の梅に託して自らが不帰の客となる歌を詠み、髪の毛一筋を
近習に与えたといいます。

実朝に従い剣を持って拝賀に臨む役目であった北条義時は
鶴岡八幡宮の楼門をくぐるときに白い犬に遭います。
その際に「心神違例(いれい)して」剣を源仲章(なかあきら)に預け退出して
しまいます。
最近では心神喪失という言葉もよく使われます。
精神の障害のため行為に対して責任を問われない場合に使われます。
違例というのは普通の例とは違うという意味ですから、
精神的に何か感じるものがあったんでしょうね。

実朝は拝賀の式を終え石段を仲章とともに降りてきます。
そこに公暁が襲いかかったのです。
実朝は首を討ちとられ、仲章も斬り殺されてしまいます。

公暁は三浦義村に「我は東国の大将軍である」と書状を出し、それに対し
義村は「お迎えの使者を送ります」と偽りの返書を出します。
公暁の乳母は義村の妻であり、義村の四男の駒若丸は公暁の門弟であるなど
公暁と義村の仲は浅からぬ仲だったのです。
義村は公暁を裏切り討手を差し向けます。

公暁は義村から迎えの使者が来ないことにいらだち別当坊を出ます。
裏山で義村が差し向けた討手に遭遇し戦います。
やっとのことで討手を振り払い、義村の屋敷の塀を乗り越えようとしたところで
討たれました。
ここで源氏の血脈の本流は潰えたのです。

実朝の殺害に関しては多くの憶測があります。
実朝の出発に際して涙した大江広元はある程度これから起こることを知っていた
のではないだろうか、八幡宮の楼門をくぐったところで退出した北条泰時が
裏で糸を引いていたのではないだろうか、公暁をそそのかしたのは三浦義村であり、
義時を同時に殺害しようとしたが失敗したので、公暁を殺害したのでは
ないだろうかなど、様々なことが言われています。
当然、真実は分かりません。それだけ不自然な成り行きだったと
多くのものが思ったということです。

公暁によって実朝が殺され、公暁も殺害され源氏の本流は絶えたのですが、
源氏ほど身内同士で殺し合いが行われた氏族はないといえるでしょう。
1185(久寿2)年、義朝(頼朝の父)の弟である義賢は甥の義平(義朝の長男)
に殺害されます。

運命のいたずらといえばそれまでですが、1156(保元元)年に起きた
保元(ほうげん)の乱において、義朝は父である為義、兄弟である頼賢(よりかた)
を殺害してしまいます。
保元の乱は崇徳(すどく)上皇と後白河天皇が対立し、
後白河天皇が勝利した事件です。上皇方には源為義、頼賢、為朝などが味方し、
天皇方には源義朝、平清盛、源頼政などが味方しました。
義朝は自分の戦功に換えて為義、頼賢の助命を嘆願しますが聞き入れられません。
天皇は義朝に二人を斬首することを命じたのです。

義賢の子、義仲は木曽で育ち、長じて北陸から京に攻めのぼり、
旭将軍と呼ばれました。
1184(寿永3)年、頼朝の命により義経と範頼(のリより)の軍は京に攻め入り、
義仲を殺害します。
義賢と義仲の親子は義平と頼朝の兄弟に殺されたことになります。

範頼は源義朝の六男であり、頼朝の弟。
遠江国(とうとうみのくに、現在の浜松付近)で生まれ育ち、蒲冠者(かばのかんじゃ)
と呼ばれます。
1180(治承4)年、以仁王の令旨(りょうじ)により挙兵した頼朝に合わせ挙兵
したものと思われます。
頼朝の命により義仲追討の大将軍となり上洛します。京を平定した後は
平家追討のために一の谷、九州と転戦し平家を滅ぼします。
その後、頼朝に従い奧州藤原氏征伐。
1193(建久3)年、謀反の疑いを掛けられ、伊豆の修禅寺に幽閉されます。
幽閉されてから間もなく、頼朝の命により誅殺。

源義経はあまりにもよく知られた武将ですね。
幼名牛若丸、源義朝の九男、頼朝の弟。
京都の五条の橋の欄干に牛若丸のユーモラスな小さな像があります。
鞍馬寺にあずけられた牛若丸は天狗相手に剣術のけいこ、
なんて話もありましたよね。
16歳になると鞍馬寺を出奔し、途中元服して奥州平泉の藤原秀衡の
庇護をうけます。
頼朝が挙兵すると馳せ参じ、義仲の討伐、平氏の追討と天才的な戦の
名手として大活躍します。

1184(元暦元)年、一ノ谷の合戦後の朝廷の行った論功行賞に義経の名は
ありませんでした。
頼朝の推挙がなかったからです。
義経は後白河法皇によって佐衛門尉(さえもんのじょう)と検非違使尉(判官)に
任ぜられ、従五位下に叙せられて院の昇殿を許されます。
頼朝は推挙を得ずに任官したことに激怒します。

九州で平家を滅ぼしてから頼朝の義経を見る目は不信感を強めます。
その理由として
・先述したとおり頼朝の推挙を得ずして任官したこと。
・平家追討に当たり軍監として使わせられた梶原景時の意見聴かず
独断専行で進めたこと。
・壇ノ浦の合戦後、頼朝の命にはない九州まで平家追討を行ったこと。
・義経の戦功に対する声望が朝廷内で高まり頼朝にとって脅威となったこと。
・平家の重鎮であった平時忠の娘をめとったこと。
・壇ノ浦の性急な戦により安徳天皇と二位尼(にいのあま)が入水自殺をし、
三種の神器の一つである宝剣を紛失したこと。

もっともな理由が挙げられているようですが、頼朝のことです。
要は気に入らなければ、殺してしまったのです。
頼朝はこのほかに叔父である源行家も殺しています。

義経は奥州の藤原秀衡を頼って落ち延びます。
秀衡は鎌倉幕府の支配下となることをよしとせず義経を奥州の将軍とするよう
遺言を残し、1187(文治3)年病没します。
後を継いだ泰衡は鎌倉幕府の圧力に屈し、500騎の兵で義経を
衣川の館で襲いました。
義経は戦うことをせず、持仏堂にこもり妻子を殺害し自害して果てました。
享年31。
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