2009/03/14
鎌倉 その3鶴岡八幡宮(2)
酒宴に参列した御家人たちは、静御前の舞にさぞや感動したことでしょう。 しかし、頼朝だけは別でした。 反逆した義経を慕う和歌を公然と吟じた静御前に対して激怒したのです。 頼朝をなだめたのは政子でした。 糟糠(そうこう)の妻、頼朝亡き後、尼将軍と呼ばれる政子の言葉には 説得力がありました。 政子は言います。 「あなたは流人として伊豆にいたころ、私はあなたとよい仲になった。 私の父親である北条時政は平家を畏(おそ)れ、私を家に軟禁した。しかし、 わたしはあなたのことを思い、暗い夜や激しい雨の時もあなたのところに行った。 石橋山の合戦の際、私は一人伊豆に残り、あなたが生きているのか 死んでいるのか分からず日夜心細い思いをした。 そうしたことを考えれば今の静御前と同じである。 義経から多年愛情を注がれたことを忘れて、義経のことを思わない というのなら貞女ではない。 あなたはそういう気持ちになれないかもしれないが、ほめるのが道理というものだ」 頼朝は怒りを鎮め、静御前をほめたたえたといいます。 私は夫婦のつながりの強さというものもあるかもしれませんが、 心の深い部分で頼朝は政子に頭が上がらなかったのではないかと思います。 頼朝は北条一族の後押しがあってこそ、源氏の頭領としての地位が 認められていったのです。 北条の後押しは、頼朝に対する勝気な政子のゆるぎない信頼感と愛情があったれば こそ行われたことだと思います。 聡明な頼朝はそうしたことを十分承知していました。 糟糠の妻ということだけではなく、頼朝は政子に心の中で負い目が あったのではないかと思います。 静御前は義経の寵愛(ちょうあい)を受けた白拍子(しらびょうし)です。 頼朝に反逆した義経とともに逃避行を続けていましたが、途中で分かれ、 吉野山で捕まったのです。 京都に送られ、その後尋問を受けるために母の磯禅師(ぜんじ)とともに 鎌倉に送られてきたのです。 静御前は義経の子を宿していました。 1186(文治2)年7月29日、静御前は出産。 男の子でした。 頼朝は即座に殺すことを命じます。 頼朝の命を受けたものが静御前のもとを訪れた時に、静御前は「子供を衣に まといて抱き臥(ふ)し」泣き叫び続けたといいます。 子供を渡したのは磯禅師でした。 子供はすぐに由比浦に捨てられました。 同年9月16日、静御前は母とともに鎌倉を去ります。 その後の静御前の消息は杳(よう)として知れず、といいます。 鎌倉時代は権謀術数、権力争いが絶えず行われ、多くの御家人一族 が命を落としました。 頼朝が亡くなってからそれは激しさを増したのです。 和田一族、比企一族、梶原景時などが権力闘争に敗れ、歴史の闇の中に 葬り去られたのです。 ここでは先述した工藤祐常(すけつね)と畠山重忠の最後について簡単に触れて みたいと思います。 工藤祐常は権力闘争に敗れたのではなく、かたき討ちによって討たれたのです。 このかたき討ちは当時の人々の共感や同情を呼んだらしく『曽我物語』として、 謡曲などに残っています。 1193(建久4)年5月、富士のすそ野で大規模におこなわれていた巻狩りに、 工藤祐常も参加していました。 同月28日、祐常は宿舎で宴を楽しんでいました。 彼は歌舞音曲をたしなむ武士で、当日も遊女たちを集め、備前の王藤内(おうとうない) を相手に酒を飲み、音曲を楽しんでいたのです。 その最中、忍び込んだ二人の男によって祐常と王藤内は討たれてしまったのです。 「祐成(すけなり)兄弟、父のかたきを討つ」 二人は大きな声で叫びました。 曾我十郎祐成、同五郎時致(ときむね)兄弟。 騒ぎに駆けつけた新田四郎忠常に兄の祐成は斬られ、弟の時致は捕えられ、 頼朝のもとに引き出されました。 「祐常をうつこと、父の死がいの恥を雪(そそ)がんがために、ついに身の鬱憤(うっぷん) の志を露(あら)わしおわんぬ」 時致は頼朝に向かって話し始めます。 彼らの父河津祐泰(すけやす)は1176(安元2)年、伊豆の狩場で工藤祐常の 郎党の放った矢によって落命します。 父河津祐泰が亡くなった時、兄の祐成は5歳、弟の時致は3歳。 母は夫のいとこである曾我祐信(すけのぶ)と再婚します。 兄弟は長じて父の死因を知り、工藤祐常を父のかたきとしてつけ狙い始めます。 ようやくかたきを討ちこうしてあなたさま(頼朝)の前に引き出されてきました。 拝謁を遂げて話をしたのは死ぬためであったと時致は話を結びます。 頼朝はこの話を聞きどうしたものかと迷います。 当時は武士の台頭期であり、武士としての心構えなどが求められる時代でした。 しかし、工藤祐常の子である犬房丸が涙ながら訴えてきます。 頼朝はやむなく時致を斬ります。 これが工藤祐常の最後にまつわる話であり、曽我物語です。 頼朝が亡くなってからの権力闘争は熾烈なものでした。 結果として北条氏が権力を掌握していくわけですが、縁戚関係や親子関係、 また、頼朝が蜂起した時からの仲間など複雑に絡み合った人間模様の中で 行われています。 出る釘は打たれるといいますが、まさにその言葉通りいくらかでも権力を掌握 したものは排除されたのです。 畠山重忠の場合もその例にもれませんでした。 ことの発端は息子の重保が平賀朝雅(ひらがともまさ)と京都で口論となったことでした。 畠山氏は武蔵の最有力御家人であり、重忠は2代将軍頼家の補佐を頼朝に 託されていました。 平賀朝雅は武蔵守ということで、軋轢があったかもしれません。 重保の母は北条時政の娘、平賀朝雅は北条時政の後妻である牧の方の娘婿です。 こうした縁戚関係にもかかわらず、北条時政がどう考えたかということです。 『吾妻鏡』では牧の方が夫の北条時政に畠山親子が謀反を企てていると箴言(しんげん) したためとなっています。 時政にすれば、妻からそうした箴言があったとしても単純に言うことを聞いたと いうものではありません。 やはり、朝雅の後見人でもあり、武蔵国の実権を握っていることから、 武蔵国の最有力御家人である畠山氏をこの際、排除したいという打算が 働いたのではないかと思います。 1205(元久2)年6月16日、重保は京都から鎌倉に戻ります。 同月の22日、由比が浜に呼び出された重保は時政の意を受けた三浦義村 らによって殺害されます。 畠山六郎重保が討たれた場所は鶴岡八幡宮の一の鳥居付近。 その場所には現在、大きな宝篋印塔(ほうきょいんとう)が建てられています。 地元のものはその宝篋印塔を「六郎さま」と呼んでいるそうです。 畠山重忠は重保が討たれたもことも知らず、わずかな手勢で鎌倉に 向かっていました。 武蔵国二俣川付近で北条義時率いる大軍は襲いかかりました。 多勢に無勢、勝敗は一瞬にして決しました。


