帰去来亭からの便り  RSSを登録する

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2009/03/07

鎌倉  その3鶴岡八幡宮(1)

鎌倉駅の東口を出て駅前広場を通り抜けます。
やがて大通りに出ます。これが若宮大路。
1182(治承6)年、源頼朝が妻政子の安産を祈願して建設した道路と
伝えられています。
葛石(かずらいし)を並べて造ったので、段葛(だんかずら)とも呼ばれています。
段葛は現在では二の鳥居から三の鳥居までの間に残っています。

二の鳥居を過ぎ三の鳥居に向かって進みます。
わずか行くと、右手には宇津宮辻子(うつのみやずし)幕府跡、
さらに進むと若宮大路幕府跡があります。
頼朝が最初に開いたのは大蔵幕府、その後45年経った1225(嘉禄元)年、
北条泰時が大蔵幕府を廃し、宇津宮辻子に幕府を遷(うつ)したのです。
1236(嘉禎2)年、若宮大路に再び御所を建てることになります。
これが若宮大路幕府。
若宮大路幕府は宇津宮辻子幕府と同一敷地内にあったと考えられています。

三の鳥居を過ぎるといよいよ鶴岡八幡宮の境内です。
鶴岡八幡宮は1063(康平6)年、源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して、
油比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)に建立したのです。
1180(治承4)年、鎌倉に幕府を開く意図で鎌倉入りを果たした頼朝は
源氏の守り神である八幡宮を小林郷に移築することを決め、
竣工したのが翌年の治承5年。
それ以来、応神天皇を祀る鶴岡八幡宮は武家の間では
武門の神とあがめられたのです。

1191(建久2)年3月、小町大路から起こった大火によって
八幡宮は焼亡してしまいます。
翌年、頼朝は8カ月かけて再建します。
それまでの茅葺(かやぶ)きの屋根を瓦葺にし、山上に建てたのです。
1828(文政11)年には徳川氏によって本殿が建て替えられました。
これが現在の鶴岡八幡宮です。

現代の私たちは鶴岡八幡宮が神社だと思っていますが、明治の神仏分離令が
政府から出されるまで神社とお寺が一緒になった神宮寺でした。
中世には園城寺(おんじょうじ、別名三井寺)の末寺のひとつでした。
神仏分離令が出るまでは仁王門、薬師堂、大塔などがあったのです。

三の鳥居をくぐると石の太鼓橋があります。
赤橋。そりがきつい橋です。
橋の下の左右には源平池があります。
右手東側の池を源氏池、左手西側の池を平家池。
当初は源氏池には白蓮が植えられ、平家池には紅蓮が植えられていたといいます。
現在は混じり合っています。
ここを通りかかった頼朝の妻政子は双方の池に島が四つあることを見て、
四は死に通じるということで源氏池の島を一つきり崩し三として
三は産に通じるので目出たいと考え、作事奉行に改修を命じたと
伝えられています。

源平池を過ぎ、左手に県立美術館を見て前に進むと交差する道路があります。
これが流鏑馬(やぶさめ)道です。
東鳥居と西鳥居の間250メートル、毎年9月16日に流鏑馬神事が
行われるのです。
流鏑馬が始まったのは1187(文治3)年、『吾妻鏡』に記述がみられます。
「鶴岡放生会なり。流鏑馬あり。射手(いて)5騎、各まず馬場に渡り、次に
各射おわんぬ。皆的(まと)にあたらざるはなし。」
頼朝はこの神事を奨励しましたが、鎌倉衰退期には中断したといいます。

流鏑馬道を通り過ぎると、目の前に舞殿があります。
1193(建久4)年に舞殿は造られたといいます。
現在の舞殿は昭和7年に再建されたものです。
私はこの舞殿を見ると、静御前がここで舞ったであろう情景が想起されます。
静御前が八幡宮の社殿で舞を舞ったのは1186(文治2年)4月8日。
そのときには舞殿は造られていませんでした。
『吾妻鏡』では回廊と記されています。
社殿の一画の廊下で舞ったのでしょう。

その時のことを江戸時代の頼山陽(らいさんよう)は自作の漢詩『静御前』
の中で次のように表現しています。
工藤銅拍秩父鼓 幕中挙酒観汝舞
(くどうのどうひょうちちぶのつづみ ばくちゅうさけをあげてなんじのまいをみる)
一尺之布猶可縫 況是繰車百尺緀
(いっしゃくのぬのはなおぬうべし いわんやこれそうしゃひゃくしゃくのいと)
回波不回阿に心 南山之雪終古深
(かいはめぐらずあにのこころ なんざんのゆきとこしえにふかし)

鶴岡八幡宮で頼朝は、工藤祐常(すけつね)に銅拍子をうたせ、
秩父の畠山重忠に鼓をうたせて酒宴を開いていました。
頼朝は静御前を呼んで舞うことを命じたのです。
静御前は辞退しますが、再三の頼朝の命に抗しきれず舞い始めます。

しずやしず賤(しず)のおだまきくり返し
昔を今になすよしもがな

しずやしずと繰り返し私の名を呼んでくれた日々、糸をまくおだまきのように昔を
今に引き戻すすべがあればよいのにと、自作の和歌を謡いながら舞います。

漢の時代、文帝の弟である劉長(りゅうちょう、淮南王(えなんおう))が反乱を
計画した罪により、蜀に配流となったがその護送途中亡くなった。
民衆の間では「1尺の布でも縫うことができる。2人だけの兄弟なのに
許すことができないのか」という歌ができたというが、いわんや糸車の百尺の糸、
反逆者でもない弟のことを許せないなんて。
吉野山の雪が永久に深く積もるように、私の恨みも消えることはない。

よしの山峰(やまみね)の白雪(しらゆき)ふみわけて
  入(い)りにし人(ひと)の跡(あと)ぞ恋しき

吉野山に降った峰の白雪を踏み分けて義経が去っていった、そのことを思うと
恋しい気持ちが湧き起こってくるという自作の和歌を静御前は謡いながら
舞いおさめました。
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