「喜びの詩」 第12号 “運命”
「喜びの詩」 第12号 2008年5月16日
常識を超えて本当の答えを探る思考実験
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目次
□ 世界の成り立ちについて
■ 人のありようについて
○ 体との連動
○ 眠りと死
○ 逸脱現象
○ 可能性
● 運命
○ 他者
○ 神
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 運命
必然とは、原因があって起きること。
偶然とは、原因がなく起きること。
全くの無から有が生じることはない。とすれば、
原因のないところに、結果は生じない。
つまり、偶然のものごとは、本当には存在しない。
偶然という見方は、原因の探求をやめたときに成り立つ、便宜的なもの。
それは、認識の限界という見えない壁に当たるとき、往々にしてもち出されるもの。
原因が法則によって展開されて、結果が生まれる。
その「原因と法則」が、結果を生むための、広い意味での原因。
つまり、ある原因は、ふつう、よりさかのぼった原因と、法則からなる。
そのさかのぼった原因も、さらにさかのぼった原因と、何らかの法則から生まれたもの。
そうして原因の原因をさかのぼり、原因の探求をしていけば、いずれ最初の原因に行き着く。
それは、もはやそれ以上の「原因と法則」によらないもの。
それは、つまりそれ以上の必然によらないもの。
それは、自由に行き着く他ないもの。
ドミノが倒れていくのは、必然。しかし、最初のドミノを倒す原因は、自由。
実際、生物が関わる多くの現象の原因は、さかのぼれば、生物の意識の自由に行き着く。
さらに、生物によらない物理現象、ひいては宇宙生成の原因も、つまるところ自由に行き着く。
一切の法則が生まれる前に、それを生み出す主体があったとすれば、
その「生み出す」動きのきっかけは、主体の自由による他ない。
自由が最初の原因を与えることで、必然がそれに連なることができる。
必然は最初の原因を与えることはできない。
よって、あらゆる表現は、自由と必然からなる。
どちらが欠けても表現は成り立たない。具体的には、
自由を担う、つまりかじ取りを担うのは、生命体。
必然を担う、つまり法則性を担うのは、「自動の働き」。
そして、その両方を「演じ」る「もともとの意識」において、自由は必然より上位にある。
人生の体験も、同じく、自由と必然からなるもの。
つまりそこに、偶然のものごとは、本当には存在しない。
人生の必然にあたるものが、「運命」。
それは、自分の預かり知らない力によってもたらされる、現象との出会い。
それは、遠い過去から直近までの、自分や他者の、思いや行いが、
「因果作用」によって展開されて生まれるもの。
そこに映し出される内容は、こうしたいという望みや、他者に与えてきた影響。
原因になる思いや行いの、強さや重さ、方向が合わさって、運命は定まる。
思いが強いほど、また、行いが重いほど、運命は強いのものになる。
日常のささいな出来事をもたらす、あまり強くない運命は、「運」にあたる。
思いや行いを生む根本にあるのは、自由。よって、
運命という必然も、やはり自由が最初の原因を与えるもの。つまり、
運命は、真に初めから決まっているものでなく、自由がその始まりをつくっているもの。
全く避けられないような、まるで絶対的な運命があったとしても、それは、
圧倒的に強い思いがつくったものか、
束になった多くの思いがつくったものか、
多くの重い行いがつくったものか、いずれにしても、自由に端を発するもの。
自由による原因が、すぐに結果に表れれば、その不思議さは限られる。
しかし、「因果作用」が結果をもたらすまでには、相応の時間がかかる。
その時間が、往々にして、自由による原因を忘れさせ、運命をより不思議なものに見せる。
人々の自由に端を発した運命が、実際に実現するには、
人々が運命に従って、必然的に動いていくことも必要になる。
人の意識の活動も、「自動の働き」に補佐されながら成り立つもの。
つまり、その思いや行いは、全てが自由のみによらず、いくらか必然の部分も含むもの。
よって、自分が「因果作用」に従って動くということも、やはり成り立つことになる。
ただ、ふつうの認識の「鋳型」からは、そうした必然の部分は捉えられない。
自分が運命に従って動いていても、それはわからず、自由の感覚がある。
体験世界が運命に従って動いていても、それはわからず、偶然と思える。
こうした認識の制限は、ありありとした、自由な生を営むために、むしろ必要になるもの。
ありありとした表現を成り立たせるには、法則や仕組みによる縛りが必要であり、
それを縛りと感じないためには、認識の制限が必要になる。
認識の制限がある以上、その自由の感覚は、絶対の自由ではない。
しかし、自由の感覚の核には、本当の自由があることに変わりない。
そもそも絶対の自由とは、ありありとした個別の表現としてはありえず、
表現以前の「完全な状態」にのみありうるもの。
人は、意識の「目覚め」の高さに応じて、「因果作用」の結果を変えていける。
つまり、自由度の高さに応じて、運命を変えていける。
人生には、様々な強さの運や運命が、いわば網のように掛かっていて、
人は自由度を高めるにつれ、それに応じた強さの網を破れることになる。
ただ、肉体を通して、限られた期間を生きる以上、全ての網を破るには至らない。
事実上、人生は何らかの運命の中にあることになる。
つまり、人の自由は、運命から全く開放されることにあるのでなく、
どの運命を変え、どの運命を受け入れるかにある。
運命をつくった思いや行いを凌ぐ、新たな思いや行いを、
限られた時間の内に、結果に実らすことができさえすれば、その運命は変えられる。
その範囲の中では、運命を変えることもできるし、そのまま受け入れることもできる。
結局、未来の具体的なありようは、
過去の自由によって方向付けられているとともに、
今の自由によって常に動かせる余地をもつもの。
限られた時間を超えて眺めれば、運命をどうつくるかと、運命を受け入れるかどうかは、
ともに自由のもとにあり、自由は運命より上位にある。
ふつう、運命の網は見えもせず、感じられもしないもの。
よって、運命を変えるのは、
運命の結果が現れてから、それを受けて、意図して変えようとする場合と、
望む未来を実現しようとして、それと異なる未然の運命を、意図せずに変えてしまう場合。
そして、運命の網は、破られると同時に、次々に新しくつくられていくもの。
何らかの特殊な方法で、見えない因果関係の網が捉えられれば、運命の予言も成り立ちうる。
予言の内容は、予言者がどこまでの因果を捉えているかによって、違ってくる。
予言の当たり外れは、自分がどこまでの運命を変えるかによって、違ってくる。
つまり予言の有効性は、予言者と自分の、意識の「目覚め」の具合によって、違ってくる。
運命は、「自動の働き」によって取りまとめられた、脚本にもたとえられる。
「舞台での舞」は、基本的に、用意された脚本に沿って進んでいく。その一方、
脚本にない動きを加えたり、時に脚本に反した動きをしたりする自由も、「舞手」にはある。
そうした動きは、新たな脚本の原案として、「自動の働き」に与えられる。
運命を変えるとは、自由によって新たな脚本を引き寄せ、それに沿って「舞う」ことにあたる。
もちろん、単に運命を変えることに意義がある訳ではない。
望む結果が得られれば、それ以上運命を変える必要はない。
また、望まない結果しか得られなかったように見えても、
何が本当に望ましいことだったかは、後々になってみなければわからない。
そもそも運命は、「因果作用」がそうであるように、
喜びという目的にかなったもので、人生を最善のかたちで補佐するもの。
その網や脚本は、人生を縛るというより、豊かに彩るもので、最終的に、よいように導くもの。
人生が常に何らかの運命の中にあるのは、常に何らかの補佐の中にあるということ。
勝敗を競う、多くの遊技は、自力と運を試そうとするもの。
自力は、今の自分が自覚できる力で、自由のもとにある力。
運は、今の自分が自覚できない力で、必然のもとにある力。
ある瞬間に、自力だけを試すなら、頑張る余地はあっても、およそ結果はわかってしまう。
ある瞬間に、運だけを試すなら、結果はわからないとしても、自分の頑張る余地がない。
今の自分の頑張る余地があり、結果がわからないところもある、そこに遊技の面白さがある。
人生を試みる面白さも、遊技の面白さと共通する。
自由だけでもなく、運命だけでもなく、その両方があることで、豊かな体験が成り立つ。
さらに人生では、その期間の中で、自力を高めたり、よい運をつくったりもできる。
人が自由に展開させていく、生という体験も、「もともとの意識」の中に刻まれる情報。
時間の枠組みの外からすれば、それは、いわば非時間的にそこにあるもの。
とすると、「もともとの意識」にとっては、全てがわかっていることになる。ただそれは、
多角形の無限の展開の全体が、円に行き着くことがわかっている、というようなこと。
それは、展開の途中にある具体的な未来が、決まっているかどうかとは別の話。
時間の枠組みの中では、表現の個々の展開は、やはり自由にゆだねられている。
ただ一つ、未来にわたって確かなことは、
表現の展開が、喜びという正の方向を失わずに、無限に続いていくということ。
個々の具体的な展開がどうあれ、その全体をもって、表現は「完全な」ものになる。
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あとがき
ここでは、運命というもののメカニズムを考察しました。ちなみに、
「偶然」と「必然」は、対象について論ずる言葉で、
「自由」は、主体について論ずる言葉にあたります。そして、
「偶然」は理由のないもの、「必然」は他から与えられた理由によるもの、
「自由」は文字どおりそれ自身に理由があるもの、を指します。
こうした点を整理をすれば、運命について考えやすくなると思います。
次号では、「他者」というものの根本について考察します。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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