下町スタディーズ No.1
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★下町スタディーズ★
創刊号(2008年3月発行)No.1
東京下町を探究する地域マガジン
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はじめまして。本誌「下町スタディーズ」発行人の星満天です。
下町とは何か?をめぐって楽しく真面目に探究していきたいと思います。
「第3の下町」(本号の最初の記事で説明してあります)を中心にして、多角的に、地域研究としての下町研究をめざしていく所存です。
地道にやっていきますので、よろしくお願いします。
■■■目 次--------------------------------------------------------
私的「東京下町分類学」
柴又の裏側──夏目漱石『彼岸過迄』の「謎」をめぐって
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私的「東京下町分類学」
東京の下町というのは、大まかにいうと、西から順に、隅田川、荒川、江戸川というほぼ南北に流れる3つの川によって区分することが出来るだろう。
つまり、隅田川以西の地域(=中央区、台東区など)、隅田川と荒川に挟まれた地域(=墨田区、江東区)、
荒川と江戸川に挟まれた地域(=葛飾区、江戸川区)の3地区に。
これら3つの地区を便宜上、それぞれを「第1下町(または、原・下町)」、「第2下町」、「第3下町」と呼ぶことにしよう。
なお、荒川区と足立区は、
地理上はそれぞれ「第1下町」(隅田川以西)と「第2.5下町」(隅田川〜中川。中川は荒川と江戸川のほぼ中間を流れる川)に属するといえるが、
実質的には「第3下町」的要素を持ち合わせるとも思える。
改めてまとめると、おおよそ、
隅田川以西の地域(台東区、中央区など)・・・・・・・・・第1下町(または、原・下町)
隅田川〜荒川の地域(墨田区、江東区)・・・・・・・・・・第2下町
荒川〜江戸川の地域(葛飾区、江戸川区など)・・・・・・・第3下町
という分類になる。
このうち「第1下町」と「第2下町」は江戸時代の朱引き線の内側にあるから、いわば「江戸の下町」だ。
ただし、「第2下町」は「第1下町」から「川向こう」などと蔑視されたという見方もあるが、
すくなくとも今日では、時代小説などで深川や本所が舞台となることが多いこともあり、
ともに「江戸の下町」と呼んでよいだろう。
他方、「第3下町」は事情が異なる。
つまり、このあたりは江戸時代、農村地帯だったから(今も畑を見かける)、「江戸の下町」とは区別されなければならない。
行政区画の上で南葛飾郡が東京市に編入されたのが昭和7年。
実感として葛飾が下町イメージを持たれるようになったのは、やはり「寅さん映画」が製作された昭和後半以降だろうか。
したがって、「第3下町」は、いわば「江戸の外の下町」であり、「昭和の下町」である。
もうひとつ付け加えれば、葛飾区・江戸川区は東京の臨界地点だから、ここより外へ東京下町が拡張することはないはずだ
(ただし、これは「東京」という行政区画に関しての話)。
その意味で、「第3下町」は「最後の下町」でもある。
さらに、「第3下町」には別の要素もある。
それは、「かつしか」という地名が本来指す地域の範囲がかなり広いということ。
大雑把にいえば、隅田川以東から千葉県などにかかる一帯を「かつしか」といったらしい(歴史的には下総国の葛飾郡)。
たとえば、ほんの一例をあげれば、千葉県市川市には今も葛飾八幡宮がある(永井荷風にとっての葛飾は市川を指すだろう)。
ということで、「第3の下町」は、実は、隅田川東岸の「第2の下町」を含み、さらには東京の外側の一部までカバーする、といえる。
言い換えると、この地区は、東京下町と地方に跨る広い境界地帯なのである。
こうなると、「下町」といっても、「第3下町」が介在することで、行政区画としての東京都を飛び越えてしまうことになる。
本誌ではあえて、このゆるやかで、あいまいな「下町」の定義を採用したいと考える。
──以上、かなりいい加減な「下町分類学」でした。
(注)本稿の主な部分は、ブログ「TOKYOかつしかスタイル」にすでに発表した記事をもとにしております。
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柴又の裏側──夏目漱石『彼岸過迄』の「謎」をめぐって
夏目漱石の『彼岸過迄』には少しばかり気になる箇所がある。
といって、それはなにか文学的な問題というわけではまったくない。
これから述べるのは、取るに足らないささいな事柄を思い切り拡張解釈してみせた針小棒大・誇大妄想にすぎません。
と、あらかじめお断りしたうえで、さっそくその「問題」のシーンを引用しよう。
「この日彼等は両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた。
敬太郎は久し振に晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆懸舟だのを見廻した。
須永も景色だけは賞めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。
早く歩けば暖たかくなると主張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れた様な顔をして踉いて来た。
二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚という家へ這入って飯を食った。其所で誂らえた鰻の蒲焼が甘垂るくて食えないと云って、須永は又苦い顔をした」(A)
これは、敬太郎が須永を誘って「美くしい広い河」すなわち江戸川へ行く場面である。江戸川というのは東京と千葉の都県境の、南北に流れる川のこと。
物語はこの後須永の長い話が続くのだが、途中で二人は場所を移動する。
「柴又の帝釈天の境内に来た時、彼等は平凡な堂宇を、義理に拝ませられたような顔をしてすぐ門を出た。
そうして二人共汽車を利用してすぐ東京へ帰ろうという気を起した。ステーション停車場へ来ると、ま間だ怠るこい田舎汽車の発車時間にはまだ大分間があった。
二人はすぐ其所にある茶店に入って休息した」(B)
というわけで、(A)には国府台(鴻の台)から柴又までの移動、(B)には柴又内部の移動が描かれている。
このうちの(A)にこそわたしの小さな疑問が潜んでいる。
(A)をそのまま素直に読めば、二人は江戸川の土手を、一人は愉快に、もう一人は不機嫌に、歩いたことになる。
もちろん、そこにはなんら疑問を呈する余地はない。
けれども、国府台と柴又の間に江戸川が存在しているという事実は現地に趣かなくとも、地図を見れば一目瞭然なのだ。
ところが、(A)の描写からは、敬太郎と須永が江戸川を渡る場面が省略されている
(実際には国府台サイドから柴又サイドへ移動するには渡し舟(矢切の渡し?)を利用するしかなかったはずだ)。
だから、読者は二人があたかも川べりの片方の土手だけを歩いたかのように錯覚しかねない。
もちろん、そんなことはこの小説を読むうえで無視してよい些事である。
そもそも一般に、小説の作者がいちいち事実に即して正確に描写しなければいけないわけなどない。
にもかかわらず、一読者の勝手な読み方として広く歴史的文脈に置き直してみると(いいかえると、針小棒大・誇大妄想的に読むと)どうにもひっかかるのである。
なぜ漱石は江戸川渡航を描かなかったのか?
この疑問に答えるためのヒントは引用後半の(B)に隠されている。その移動ルートを改めて確認しておくと、「江戸川→川甚→帝釈天→停車場」である。
さて、この道順についてわたしたちはなんとなく柴又の裏側からやってきて表側に出たという印象を受けないだろうか。
国府台から寒いなかをひと気の少ない川沿いを延々と歩いてきてようやく辿り着いた柴又。しかしそこも田舎の退屈な空間でしかなかった。
(A)では散策を楽しんでいた敬太郎までも(B)になると一変する。つまり、二人は「すぐ」帝釈天を出て「すぐ」東京へ帰りたいと思うのだ。
そして、そのために駅へと向かう。都心とつながるのは鉄道であって田舎の川ではない。
かれらにとって(そしてわたしたちにとって)この町の中心=表側は鉄道の「ステーション」なのである。
わたしたちがこんなふうに感じるのは、文明開化以降、陸上交通中心の思考に慣れたためだろう。
したがって「ステーション」の反対方向にある江戸川は「裏側」でしかない。
しかしながら、歴史的には河川は交通の中心だったはずだ。
江戸川の場合、近世以前から関東の内川廻しの一環として一定の役割を担っていたが、
その役割が増したのはなんといっても江戸時代初期の大公共事業「利根川東遷」以降だろう。
古代以来「太日川」と呼ばれていた小さな川がこの時に改修されて「江戸川」として文字通り江戸の市中と北関東・東北とを結ぶ交易の大動脈となったのである。
江戸市中の中小河川や利根川の各所とともに江戸川にも大きな河岸(物資輸送の中継地)が形成され活況を呈した。
とはいえ、もちろん江戸市中のような大都市が江戸川べりに出現したなどといいたいわけではない。
その点は、鈴木理生の指摘するとおり江戸川沿岸の各地はいわば「高速道路」を頭上に仰ぐだけの通過地点にすぎなかったといえるのかもしれない(注1)。
それでも、鈴木も認めるように数は多くないとはいえいくつかの河岸がこの川に存在したのは事実である。
そうである以上は純然たる農村と同一視するわけにはいかないはずだ。
たとえ点在という程度であったとしても、いくつかやや大きめの河岸が実在したとあれば、
その周辺はそれなりに"ささやかな賑やかさ"があったにちがいない。
川名登は、利根川の水運に即して考察した『河岸に生きる人びと』(1982、平凡社)のなかで、
河岸とは「村の中の都市」であったとして、近世には河岸という行政単位はなく田畑があり年貢も納め村役人・町役人もいて普通の村と変わりはなかったが、
「その中に一歩足を踏み入れてみると、その景観は一般の農村とは大分異なるものであった」と述べている。
この本には柴又の対岸の松戸──ここは陸上交通たる水戸街道との接点でもあるのだが──にも言及が見られるとおり、
川名説は江戸川に適用してもそう大きな誤りとはいえないのではないだろうか。
江戸市中のような本格的な都市とは比べるべくもないが、ささやかな「村の中の都市性」はあったといっておきたい。
ささやかな傍証をひとつ付け加えておくと、柴又より少し上流の金町に位置しこの地方の総鎮守社である葛西神社の正面鳥居がかつては川に向かっていたらしい。
実際現場に行くと、神社の裏門(?)側にひっそりと佇む古い鳥居は今も江戸川のほうを向いている(門が閉ざされているので出入りはできないが)。
「現在は嘉永7年(1854)に造られた大鳥居が新道に面して建っているが、
この鳥居(古い鳥居のこと=引用者注)は江戸川堤に通じる旧道に建てられていた正面鳥居だと思われる」(『葛飾の文化財』葛飾区教育委員会)。
幕末に正面鳥居が変更されたと思われるが、少なくともそれまでは川が村の中心だったからこそ川側に"表玄関"を用意したと考えられる。
だが、問題は近代だ。
近代に入ると事情が異なるのも確かである。
明治30年には常磐線金町駅が開設され、そこから人車鉄道(明治32年〜大正元年)で帝釈天に参拝するコースが人気を呼んだ。
その後、京成電鉄が開通し押上方面とも接続され(人車鉄道は京成が買収)、
『彼岸過迄』が書かれる頃には柴又に行くには鉄道によるのがポピュラーになっていたものと思われる。
それでも、繁栄した水運がそんなにすぐ消えてなくなるとも思えない。川と密接に結びついていた人びとの生活が容易に変わるものではないだろう。
柴又についていえば、大正の途中までは江戸川の川際まで河川敷に集落が存在していたらしい。
住宅だけでなく店舗も川の方角に立地していたらしい。
その代表が、漱石も触れている料亭の川甚である。現在、観光客向けの店は帝釈天の門前から京成電鉄の駅に向かう側に連なっているが、
かつてはそれとは反対方向の江戸川方面に伸びていたのだ(川甚は当時の名残なのか、いまも帝釈天からみて江戸川寄りにある)。
ほかにも、どれだけ証拠能力を有するかはともかくとして、江戸川の「表側」感を示唆してくれそうな事例を列挙しておこう。
・明治時代の地図を見ると、金町の北部の川際(松戸の対岸)に大鳥神社がある。
商売繁盛の祈願で知られる同社が存在したのも、純然たる農村には似つかわしくない光景ではないだろうか
(いまは葛西神社に合祀され、毎年酉の市が開かれている)。
・現在の日本通運はもともと文明開化の象徴のひとつともいうべき蒸気船「通運丸」の運営からスタートした会社であるが、
その通運丸は東京と北関東の間を運航し利根川や江戸川の各地に寄航していた。
江戸川沿岸の主な寄港地は、行徳、市川、松戸、流山、野田、関宿など。
さらに、通運丸の各時期の寄港地を記した明治20年12月版の運賃表によると、それまではなかった柴又が新たな寄港地として追加されている。
しかしながら、その後の明治43年4月版になると再び柴又の名は消えている。
ごく短期間ではあるが、柴又も寄港地になっていたのだ(山本鉱太郎『川蒸気通運丸物語』1980、崙書房、より)。
・千葉県側の河岸だった流山にも触れておくと、
実は常磐線の停車駅としてこの地が建設候補にあげられていたにもかかわらず、地元住民の反対で鉄道ルートが変更されるという一件があった。
いまから考えると、せっかく駅開設という町の発展には願ってもないチャンスが到来したのに、
みすみす手放すとは住民の先見の明の欠如を示す出来事のように思える。
しかしながら、反対運動の背景には流山が江戸川の水運で繁栄したために鉄道への抵抗感が強かったからともいわれる。
とすると、この一件は住民の頑迷固陋を証するというよりもそれほどまでに江戸川が賑わっていたのであって、
むしろ鉄道を不要と思うほどの都市性を表していたとはいえないだろうか。(注2)
というわけで、近代に入って陸上交通が支配的となりつつもまだ水運が健在だったとみるのが妥当だろう。
川名登もヨーロッパの産業革命には運河を主要な輸送路とする「運河の時代」があったのであり、鉄道はそれより一歩遅れて出現した、と述べている。
さらに、日本にも短期間ながら「運河の時代」は存在したのであって、
その後急速に鉄道が普及したものの実際には鉄道と結んで発展する河川交通もあった、とも指摘している。
川名によると、河川交通を決定的に終わらせたのははるか後の高度経済成長期の大型トラック輸送であるそうだ。
明治に入ってもなお存続したであろう江戸川を含む諸河川の「村の中の都市性」は日本版「運河の時代」の事例だったのかもしれない。
けれども、日本の近代はあたかもそれを隠蔽するかのごとく大急ぎで陸上交通の時代へと移行していった。
ヨーロッパと比べて短期間に近代化を達成したといわれる日本にとって、実在したはずの「運河の時代」が歴史から消去されてしまったかのごとくである。
うがった見方をすると、大至急の近代化のためには、
人びとの脳裡からいち早く水上交通の記憶を消し去り、陸上交通中心の思考へと導かなければならなかったのかもしれない。
ひょっとすると、そうした事情が文学作品に反映された一例が『彼岸過迄』のあの江戸川シーンなのではないだろうか。
だから、江戸川を描くとき、「運河の時代」を彷彿とさせる代わりに、田舎の「美くしい広い河」の側面だけに特化する。
そこでは、寒い時期の散策を嫌う須永でさえ「景色だけは賞め」るのであり、江戸川の「帆懸舟」は河川交通(=「表側」イメージ)としてではなく、
「水だの岡だの」と並んでのどかな田園風景(=「裏側」イメージ)として描かれるのである。……
もちろん、このことはひとり漱石に限った話ではないだろう。
多くの近代文学者たちが同じような事情のもとで健筆をふるったのかもしれない(例えば田山花袋の紀行文などは小説以上に効果的だったかもしれない)。
かくして文学は近代化の要請にこたえるべく陸上交通中心の思考法と河川の田園イメージの強化に貢献した、とはいえないか。
近年、東京では水辺空間や水上交通の評価が高まりつつある。これは近代化の歴史を見直そうとすることの反映なのだろうか。
川の再評価が例えば江戸川にまで及ぶとき、あの「村の中の都市性」も再認識されるのだろうか。
そして、いつかわたしたちが江戸川から柴又を見やるとき、
鉄道の駅を「表側」と感じ江戸川方面を「裏側」と感じるあの感覚になにか変化が生じる日が来るのだろうか。
* * *
やはり話が随分と大きくなってしまった。
とりわけ甚だご迷惑をおかけしたのが文豪・夏目漱石先生だ。江戸川を渡る場面を書かなかっただけで、なんだか大げさなヌレギヌを着せられてしまったようだ。
もちろん本稿は、はじめにお断りしたとおり、針小棒大・誇大妄想にすぎません。川の話だけに、どうか水に流してください。
(注1)鈴木理生は、江戸幕府が内川廻しの再編成のために新しい水路として江戸川を創設したとしてこう述べる。
「…新設の江戸川沿岸は、江戸時代から集落の発達の少なかったことが特徴的である。
江戸川沿岸の目ぼしい集落といえば、関宿、野田、松戸くらいのもので、江戸時代の地図を見ても宿駅の路線でないこともあって、至って淋しい状況を示している。
明治以後の鉄道時代に入っても、ついに伊勢崎線に相当するような路線は、江戸川に平行して敷設されなかった。
この江戸川沿岸の淋しさの理由は、人工河川であり、いわば「内川廻し」専用水路としての役割だけの、現在でいえば高速道路的な機能しか持っていなかったためで、
ついに地元との「縁」が生じないまま、現在に至ったといえる」(『江戸はこうして造られた』2000、ちくま学芸文庫)
しかし、同書に掲載された地図には、
元禄3年以降に成立した主な河岸として江戸川沿岸の松戸、金町、市川、関宿、野田、流山などが表示されている。
本文中で鈴木が指摘するより多くの河岸が存在したらしい。
(注2)東京府の調査によると、明治22年3月5、6日の江戸川(葛飾橋付近)における通船実数は5日=218、6日=380(『葛飾区史』より)。
明治以前との比較ができないので一概にはいえないが、一日の通航量としては少なくはないとはいえるのではないだろうか。
■■■編集後記--------------------------------------------------------
本号掲載の「柴又の裏側」では、「第3の下町」を代表する町である柴又を取り上げました。
どうもわたしには、この「第3の下町」という東京の端っこ(=「江戸東京」の周縁)の視座から下町を考えてみたいという思いが強いようです。
こんな調子でこれからも、楽しく真面目に、のんびりやっていくつもりです。
なお、本号の記事中の引用文には、メルマガ編集上の都合のため、原文とは異なる改行がなされている箇所があります。どうぞご了承ください。
また、「柴又の裏側」で言及した川名登氏は最近、河岸に関する新著『河岸』(2007、法政大学出版局)を上梓されましたが、
わたしはまだそれを読んでおりませんので、本稿では参照できませんでした。この点も併せてご了承ください。
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発行人:星満天 kstyle_2007@mail.goo.ne.jp
発行人のブログ:「TOKYOかつしかスタイル」http://blog.goo.ne.jp/kstyle_2007/
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