2009/11/27
飛鳥遊訪マガジン Vol.067
…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─… 飛鳥好きの貴方に贈る■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ◇ ◇ 飛鳥遊訪マガジン ◇ Vol.067 ◇ ◇ 2009.11.27.◇ 両槻会 http://asuka.huuryuu.com/ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓飛鳥時遊録 真神原風人 ┃□┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 飛鳥三昧 http://sanzan.gozaru.jp/ こんにちは♪飛鳥遊訪マガジン67号です。ごゆっくりお楽しみください。 飛鳥地域でも、紅葉のシーズンになってきました。周辺の情報を見てみ ると、12月初旬まで楽しめそうですね。残念ながら風人は、紅葉狩を目 的には出歩けそうにもありません。残念。(>_<) しかし、ウォーキングが てら、周辺の晩秋の風情を堪能出来ればと思っています。 11月21日には、明日香村発掘調査報告会が行われました。檜前遺跡 群と阿部山遺跡群の発掘を担当された先生方によるスライドを使った説明 がありました。例年に比べると参加者は少なく、残念に思った次第です。 明日香村を訪れる方そのものも、少なくなっているように思います。シー ズンオフ近しの印象は拭えませんでした。しかし、本来の魅力である落ち 着いた飛鳥は、これからですよ♪ さて、報告会の内容ですが、檜前遺跡群では、少なくとも三面に庇を持 つ掘立柱建物を中心とした7世紀後半の建物群があり、檜隈をその本拠地 とした東漢氏の中心的人物が居住した場所ではないかと考えられるようで す。一連の建物群は、檜隈寺跡の南に、北西方向に張り出した見晴らしの 良い尾根上にあります。 また、これらに先行する7世紀中頃に廃絶する大壁建物が検出されまし た。これまで檜前地区の周辺部では、大壁建物の遺構が検出されてきまし たが、檜前の中心部での検出は、今回が初めてになります。この大壁建物 は、場所を同じくする掘立柱建物に建替えられており、その変転に興味が 湧きます。 阿部山遺跡群の所在は、キトラ古墳の南に広がる丘陵地になります。こ の地区からは、6世紀中頃から中世にかけての墳墓が検出されました。と りわけ注目されるのが、「カイワラ1・2号墳」と名付けられた一辺約 11mの2基の方墳です。両古墳とも石室は失われていたそうですが、下 段に残存する石材が傾斜角を持っていることから窮窿式石室ではないかと され、石室内からは馬具やミニチュア土器などが出土することなどから、 6世紀中頃の渡来系の要素を色濃く持つ古墳であると考えられました。 檜隈地域に居住した東漢氏の墓域であったと考えられるようです。 檜隈地域は訪れる人も少ない場所ですが、長閑な景観の中を、古代に思 いを馳せながらのんびりと歩くにはとても良いところです。皆さんも足を 向けてみてはいかがでしょう。壺阪山駅からのウォーキングをお奨めしま す。 前号でお願いしました「あすかの地名」に、投稿をいただきましたので ご紹介いたします。 『スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメととも に営む宮について「宮つくるべき地を出雲国に求たまい、ここに須賀の地 に至り座し」 スカ(須賀・清)の地は菅の生ふる湿地との説と、砂州のある浄地とする 説もあり、アスカ、イスカ、ヨコスカなどもそれぞれの地の聖地とみたい。 (門脇貞二著「出雲の古代史」 古代を感じさせる風景の斐伊川の上流「赤川」近くに「須我神社」があ ります。』 ありがとうございました。投稿を読んでいると、「蘇我」も「スカ」に 近い音のような気もしました。引き続き、情報をお待ちしていますので、 ご投稿よろしくお願いいたします。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓INDEX ┃□┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 1:両槻会からのお知らせ -----------------------------------------------------------+ 2:飛鳥ぶらぶら散歩 真神原風人 -----------------------------------------------------------+ 3:飛鳥咲読 真神原風人 -----------------------------------------------------------+ 4:TOMの飛鳥ほろ酔い語り TOM -----------------------------------------------------------+ 5:飛鳥情報 -----------------------------------------------------------+ 6:編集後記 -----------------------------------------------------------+ ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓飛鳥ぶらぶら散歩 真神原風人 ┃1┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 飛鳥三昧 http://sanzan.gozaru.jp/ 「太子道踏破レポート」 11月22日、法隆寺が主催する「太子道をたずねる集い」があり、 150名の参加者と共に、法隆寺から橘寺までの24kmを歩いてきまし た。一行には、第16回定例会で講師を務めてくださった清水昭博先生が 同行して、解説を加えてくださいました。3ヶ所だけでの解説で、風人に は物足りない思いもありましたが、なにせ長距離ですから仕方がありませ ん。 太子道は、聖徳太子に由来するといわれる古代道路で、斑鳩と飛鳥を結 びます。聖徳太子が、斑鳩宮より小墾田宮に通われた道とされることから、 通称「太子道」と呼ばれるようになりました。奈良盆地を斜めに一直線に 走るため「筋違道(スジカイミチ)」とも呼ばれています。 明確な記録はありませんが、法隆寺や斑鳩宮を中心にした地割りの方位 が、太子道の方位に合致する点などを考えると、太子道の敷設は、斑鳩宮 が造営された推古9(601)年頃であろうと推定されます。南北三道や 横大路も、同様にこの頃に計画をされたのではないかと、風人は思ってい るのですが、どうでしょうか・・。 法隆寺にて http://asuka.huuryuu.com/bunko/staff/huuto/taisimiti1.jpg 法隆寺を朝8時30分に出発、太子が晩年を過ごされたとされる泡波葦 垣(あくなみあしがき)宮ではないかと推定される「上宮(かみや)遺跡」 を通り、太子伝承が色濃く残存する三宅町に至ります。「太子腰掛の石」 や、愛馬黒駒を繋いだとする「駒繋ぎの柳」、また地名にも、太子の風除 けとして屏風を立てたことに由来する「屏風」などがあり、後世の聖徳太 子信仰の名残も感じることが出来ました。太子様にも1400年ぶりに腰 掛石にお座りいただいて、風人もここで昼食をとりました。 腰掛石の太子様 http://asuka.huuryuu.com/bunko/staff/huuto/taisimiti-2.jpg 三宅町の皆さんは、この太子道を誇りとされているようで、地場産業の 靴下のお土産や太鼓や踊りで、一行を温かく歓迎してくださいました。 温かい赤米のお粥は、とても美味しかったです♪ 昼からも、ひたすら太子道を南下します。黒田大塚古墳や保津・宮古遺 跡を過ぎ、多神社に到着する頃には、疲れが見え始めた方もいらっしゃい ました。先頭を歩く方が代わるのか、歩行スピードが急に変わり、列の後 ろでは調子を合わせるのが大変です。長距離走で、ふるい落としの駆け引 きをされているような気さえしました。(^^ゞ 多分、天候を心配されて のことだったのでしょう。 ウォーキング風景 http://asuka.huuryuu.com/bunko/staff/huuto/taisimiti-3.jpg 多神社は、古事記の編纂に携わった太安麻呂でも知られる「多氏」の本 拠地にあり、奈良時代には大神神社に次ぐ経済力を持っていたとされるそ うです。このような古代豪族の本拠地を通過するという事実も、太子道を 考える上で重要なことなのかもしれません。 多神社からは、バスに乗車、橿原市今井町の「華甍」まで移動しました。 しかし、乗車したバスが渋滞につかまり、雨に遭遇してしまうことにもな りました。(>_<) 今井町からは、飛鳥川に沿って明日香村に向かいます。この頃から小雨 が降り始めました。最後の4キロばかりは、傘をさしてのウォーキングで す。疲れた方には、お気の毒でした。雷丘の西麓あたりで、清水先生から 小墾田宮のご説明をいただき、第17回定例会と合わせて、小墾田宮探査 の面白さを改めて感じていました。どこに在ったのでしょう?皆さんも、 この謎解きにご参加されませんか。(笑) 最終目的地の橘寺到着は、午後4時20分くらいだったでしょうか。ほ ぼ予定通りの到着となりました。橘寺さんでも温かい飲み物をご用意いた だき、疲れた身体が癒されるようでした。 24キロというと長距離ウォーキングになりますが、両槻会にご参加い ただいている仲間たちと楽しく歩いていると、風人は特に疲れを感じるこ ともなく、踏破することが出来ました。解説の清水先生から、いろいろと 示唆にとんだお話を伺え、本当に楽しい一日となりました。古道歩きは、 楽しいです♪清水先生、お疲れさまでした。 今回とルートは若干違っていますが、よろしければ風人が以前歩きまし た太子道の地図をご覧下さい。 参考:太子道地図 http://asuka.huuryuu.com/bunko/staff/huuto/taisimiti.gif :::::::::::::::::::::::::::::::::: 今号は、都合で先生方によるご寄稿をお休みいたしました。楽しみにし ていただいている読者の皆さんには、申し訳ありません。次号より、通常 の構成でお届けいたします。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓両槻会からのお知らせ ┃2┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 両槻会サイト http://asuka.huuryuu.com/ ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 第17回定例会 +----------------------------------------------------------------+ http://asuka.huuryuu.com/yotei/teireikai-17/yotei-17.html 天候が唯一の気掛かりだった第17回定例会でしたが、雨上がりの澄み 切った空気の中で、無事飛鳥を満喫することができました。 一日ご案内くださった山田隆文先生、有難うございました。m(__)m ご参加くださった皆さんもお疲れ様でした。 定例会当日の様子と当日配布資料などを両槻会サイトにUPしています。 また、講師の山田先生が当メルマガにとお書きくださった飛鳥咲読を遊訪 文庫にまとめてUPしてあります。飛鳥の諸宮に関する詳細は、こちらを お読みください。 第17回定例会関連資料集(図表・地図・年表編) http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-17/teireikai17-1.html 第17回定例会関連資料集(周辺史跡編) http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-17/teireikai17-2.html 第17回定例会レポート http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-17/teireikai17-3.html 第17回定例会 飛鳥咲読(山田隆文先生 執筆) http://asuka.huuryuu.com/bunko/sakiyomi/17/sakiyomi-17.html ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 緊急企画 「飛鳥の諸宮をめぐる2」 +----------------------------------------------------------------+ 飛鳥の諸宮をめぐる2 http://asuka33.blog.shinobi.jp/Entry/284/ 山田隆文先生が案内くださった第17回定例会で、時間の関係上回れな かった百済宮・藤原宮・田中宮を訪ねます。 定例会当日に、教えていただいた地形を意識しながら歩くということを、 この企画でも自分たちなりに体感してみたいと思います。 なお、この企画は通常の両槻会主催の定例会・特別回ではありませんの で、資料や解説などは一切ありません。なかなか行けない宮跡をご一緒に 如何ですか?のお誘いです。(当日行われる「飛鳥藤原第160次の現地 説明会」へ立ち寄る予定をしています。) 「飛鳥の諸宮をめぐる2」 日 時: 11月29日(日) 10:20 近鉄大福駅集合 距 離: 約8.5km 近鉄大福駅前 → 吉備池廃寺(百済宮)→ 藤原宮 → 田中宮 → 橿原神宮前駅 定 員: 10名 ご注意: 弁当持参 雨天中止 申 込: 明日28日正午まで 両槻会宛にメール asukakaze2@gmail.com ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 第18回定例会 +----------------------------------------------------------------+ http://asuka.huuryuu.com/yotei/teireikai-18/yotei-18.html 第18回定例会は、今まで21次にわたって調査されてきた石神遺跡に ついて、奈良文化財研究所都城発掘調査部の青木敬先生にご講演頂く予定 になっています。 青木先生は、第21次調査を担当されていました。 第18回定例会 「石神遺跡について(仮題)」 講 師 : 奈良文化財研究所都城発掘調査部 青木敬先生 開催日 : 2010年1月9日(土曜日) 会 場 : 飛鳥資料館講堂 開 演 : 13:00(予定) 定 員 : 40名 参加費用: 1,000円 (飛鳥資料館入館料別) 事前散策: 未定 申込受付: 2009年11月15日~2010年1月4日 (定員に達し次第締切) 詳細予定は、順次両槻会サイトやブログでご案内いたします。皆さんの ご参加をお待ちしております。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓飛鳥咲読 真神原風人 ┃3┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 飛鳥三昧 http://sanzan.gozaru.jp/ 「風人と芋峠」 山田先生のきっちりした咲読から一転して、今回は、風人が特別回「旧 道芋峠越え宮滝行の咲読」を書かせていただきます。思い入れだけの記事 ですので、どうぞ寝っ転がってお気楽にお読みください。って、寝転がっ て読むのは、ネットの場合かえって難しいですかね。(^^ゞ 歩いて初めて分かることもあるはず。そう思って最初に芋峠を越えたの は、2002年5月であったように記憶しています。 風人と芋峠の出合いは、それから20数年前に読んだ黒岩重吾氏の小説 「天の川の太陽」にまで遡ります。まだ、歴史好きとは言えない頃でした が、その物語にどっぷり浸かり、今尚その影響を受けているところもあり ます。人名・地名などは、全てこの小説で覚えたと言って過言ではありま せん。その後、歴史に興味を持ち、芋峠の存在を改めて認識した日、いつ か越えてみたいと思っていたのですが、山道を一人で踏破することが躊躇 いを生んでいました。 何がきっかけとなったのかは今となっては忘れてしまいましたが、単独 で行ってみることを決めたようです。最初に越えた頃には、旧道は整備さ れておらず、倒木や崩れた路肩に難渋したものでした。(現在は、整備が 進み格段に歩きやすくなっていますが、10月の下見行では大雨の影響も あり、荒れた所もありました。)結局その初回では宮滝までは行けず、上 市駅までたどり着くのがやっとでした。芋峠越えの経験は、今回の企画で 6回目になると思います。この他に、芋峠を高取城址や竜在峠からのウォ ーキング途中に通過することは頻繁にあり、その折にも必ず旧道を通るよ うにしています。 これほど歩いているのですが、歩いて分かることもある・・・、ぅ~む! 未だに何が分かったのやら・・・。(笑) では、若干ですが、壬申の乱をおさらいしてみます。 668年、近江大津宮において正式に即位した天智天皇を苦慮させる問 題の一つとして、皇位継承が浮上してきます。天智天皇は10年(671) 正月、皇太弟(大海人皇子・後の天武天皇)を差置いて、実子の大友皇子 を太政大臣に就任させます。 その年の8月、天智天皇は病に倒れました。行く先に不安を抱く天智天 皇は、10月17日大海人皇子を呼び、譲位の意を告げました。大海人皇 子は、病と称してこれを辞退します。「皇位は皇后(倭姫王)に、皇太子 は大友皇子に任せるべきものです。私は今日出家して、天皇のために祈り ます。吉野に籠もって修行したい。」と告げました。 この一連の経緯には、いろいろの意味合いがあると思います。天智天皇 が大海人皇子の真意を推量る意図もあったでしょうし、返答によっては即 座に大海人皇子の命が失われることになっていたのかも知れません。ある いは実際に大海人皇子を皇位につかせ、後に大友皇子に譲位する確約を取 るなどの妥協案があったのかも知れません。また、大海人皇子は天智天皇 亡き後の再起の計画を既に持っていたのかも知れないとも思います。 すべては推測するしかないわけですが、書記の編纂が天武天皇の命によ って始まっていることも考慮されるべき事実であるように思います。天武 天皇の正統性の強調こそが、書記編纂の大きな課題の一つだったように風 人は思っています。 天智10年(671)冬10月17日、譲位を辞した大海人皇子は、即 日出家して僧形となり、武器を官司に納めます。19日には、病に伏した 天智天皇の近江大津宮を去りました。左右の大臣など近江朝廷の人々が宇 治まで見送っていますが、中には「虎に翼を着けて放すようなものだ」と 言う人もあったと書記は伝えています。 大海人皇子に付き従ったのは、ウ野讃良皇女(うののさららのひめみこ ・後の持統天皇)・草壁皇子・忍壁皇子と近親に仕える舎人・女孺(めの わらわ)達だけであったと伝えられています。総勢50人ばかりであった のでしょうか。 大海人皇子の一行は、当日夕には嶋宮(明日香村島庄)に着いています。 2点間の距離は、おおよそ65~70キロくらいだと思われますので、移 動には馬を使っているものと推測されます。翌20日には、吉野に到着し ていますが、この間の行程に関しては、書記は何も伝えてはいません。 (*ウ=盧偏に鳥) 万葉集に天武天皇の御製歌とされる歌があります。 『み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降り ける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を』 万葉集 巻1-25 この歌は、実際にはいつ誰が詠んだものかは確証がないそうですが、天 武天皇(大海人皇子)が壬申の乱の序曲となる宮滝行における峠越えの心 境を詠んだものだとされています。 彼等は、どのようにして、どの峠を越えて行ったのでしょうか。 参考地図 http://asuka.huuryuu.com/bunko/sakiyomi/imotouge/map.gif 飛鳥島庄から吉野宮滝への道は、竜在峠・芋峠・壺阪峠・芦原峠などを 越える方法と、巨勢を迂回する車坂越えなどが考えられますが、芋峠越え はその最短ルートとなります。 近江朝廷からの追手があるかも知れない状況ですから、迂遠な巨勢ルー トを通るとは思われません。また芦原・壺阪の両ルートも、さしてメリッ トがあるとも考えにくいように思います。一方、竜在峠は、冬野または入 谷経由で高所に登ってからの南下となり、標高差が大きいなどの理由で、 やはり芋峠ルートには劣るように思えます。風人がルートを選択するなら、 やはり標高差はややあるものの、最短の芋峠越えを選ぶだろうと思います。 芋峠越えで、おおよその行程は16~17km程度になります。 芋峠越えはたやすい行程ではなかったでしょう。ほとんどの者が徒歩に よる芋峠越えであったように思います。幼少の草壁皇子や忍壁皇子は、背 負われて越えたのでしょうか。ウ野讃良皇女はどのようにして越えたので しょうか。 そして、大海人皇子は何を考えながら吉野へと歩みを重ねたのでしょう。 「思ひつつぞ来し」万葉歌のフレーズを噛みしめるように、特別回「芋峠 越宮滝行」を歩いてみたいと思います。実行日12月5日は、旧暦10月 19日にあたり、大海人皇子より僅かに1日早い行程となります。 (特別回「旧道芋峠越え宮滝行」の参加受付は終了しています。) 参考:芋峠・宮滝行レポ(遊訪文庫) http://asuka.huuryuu.com/bunko/finish/huuto/huuto.html#8 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓TOMの飛鳥ほろ酔い語り TOM ┃4┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 「蘇我一族考 その2」 飛鳥と言えば石舞台、石舞台と言えば蘇我馬子と言うくらい馬子は飛鳥 では避けて通れない人物です。彼の住んでいた家の庭には、嶋を浮かべた 池があったことから「嶋大臣」とも呼ばれていました。敏達天皇のときに 大臣となります。以後、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と4代の天皇にわ たり仕え、「在官55年」(公卿補任)に及び蘇我一族の最盛期を築いた人 物です。ここで一寸馬子の容姿を見てみましょう。書紀に敏達天皇の殯の 場での馬子と守屋の遣り取りが書かれています。 『馬子宿禰大臣は、刀を佩びて死者を慕う誅をのべた。物部弓削守屋大連 はあざ笑って「猟箭(けものを射る大きな矢)で射られた雀のようだ」と いって、小柄な身に、大きな太刀を帯びた馬子の不恰好な姿を笑った。次 に弓削守屋大連は、手足を震わせわなないて誅を読んだ。馬子宿禰大臣は 笑って「鈴をつけたら面白い」といった。』(宇治谷孟訳より)どうやら 馬子は小柄だったと見ていいのでしょう。上のような話の遣り取りが本当 にあったかどうかは定かではありませんが、馬子の容姿を思い浮かべるに は良い資料となります。 書紀ではこの後、続けて「それから二人は段々怨みを抱きあうようにな った」とありますが、何か書紀編者の作為があるような気もします。敏達 天皇が亡くなったのは585年ですから、公卿補任の記事から、もし馬子 が550年の生まれとすると上の話は馬子35歳のときの話となります。 既に結婚して子供もいた筈です。そしてその結婚した相手とは守屋の妹だ ったと言われています。馬子から見て守屋は義理の兄だった訳です。政略 結婚にしろ何にしろ蘇我と物部は血縁関係にあった訳です。お互い争わず に職務を所掌していこうとの気持ちがあったのかもしれません。人柄を示 すものとして馬子の死亡したときのことが書紀の推古34年5月20日の 記事として載っています。『馬子大臣が亡くなった。桃原墓に葬った。大 臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にも優れ、仏法を敬って、 飛鳥川の辺りに家居した。』(宇治谷孟訳より)即ち、戦をすれば戦略に 長け且つ政治家として優れ、また仏教を崇拝していたといった人物像が浮 かんできます。 先ず、「戦略に長け」と謳われていますから、戦上手だったことから守 屋との戦いを思い浮かべますが、具体的にどう上手かったのかは書紀から だけでは読み取れません。守屋の軍勢は強く3度引き返したとある位で、 何処が戦略に長けていたのか分かりません。寧ろ、物部氏以外の諸豪族を 纏め上げた政治的な力の方が、評価されても良いのではないかと思ってい ます。守屋との戦に勝利した馬子の周りには敵対する勢力はなくなってい ました。守屋との戦いに勝利して直ぐに始めたのが法興寺(飛鳥寺)の創 建です。百済から建築技師や瓦職人を呼び寄せ、我が国初の仏教寺院を建 立することになります。推古朝に完成しますが、寺司には馬子の長子、善 徳臣を任命します。仏教に対する並々ならぬ意気込みが感じられます。 もう一つ、馬子のことを考えるとき重大な出来事があります。崇峻天皇 弑逆事件です。用明天皇亡き後、物部守屋が穴穂部皇子を立てて天皇とし ようとしていたのを先回りし穴穂部皇子を殺害、蘇我の血を引く泊瀬部皇 子を立てて崇峻天皇とします。しかし、天皇が猪を献上されたとき「憎く 思う奴をこの猪みたいにしたいものだ」と呟いたのを馬子が聞き付け、東 漢直駒をして天皇弑逆事件を起こします。このとき既に守屋はおらず、諸 豪族達は任那復興の目的で九州に行っていました。普通なら天皇が弑逆さ れる事件が起これば家臣は飛んで帰るところですが、馬子は早馬を使って 筑紫にいた将軍達に「国内の乱れで外事を怠ってはならぬ」と伝令します。 そして崇峻天皇はその日のうちに埋葬されます。これだけ見ても馬子の権 力がいかに絶大なものであったかが分かります。これには後日談があり、 馬子の差し向けた刺客、東漢直駒が崇峻天皇の妻となっていた馬子の娘、 河上娘を妻としたかどで殺されてしまいます。念には念を、死人に口なし を徹底して実行した人物だったようです。 次回は馬子の息子蝦夷と、その息子入鹿の時代の蘇我氏を見ていきたい と思います。お楽しみに。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓飛鳥情報 ┃5┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 薩摩遺跡現地説明会 +----------------------------------------------------------------+ 橿原考古学研究所 http://www.kashikoken.jp 高取町の薩摩遺跡から、奈良時代から平安時代にかけてのため池の堤部 分で年代の異なる3種類の「木樋」が発見されたことから、、少なくとも 3回は木樋の改修が行われ約400年にわたり、使用され続けたと考えら れるようです。 木樋は、長さおよそ15m、幅50cm。刳り貫いた丸太を2本繋いで、 水が漏れ防止用に挟まれたとみられる木の皮が、継ぎ目などに残っていた ようです。 薩摩遺跡現地説明会 日 時: 11月28日(土)11:00~15:00 (説明は11:00と13:00の2回) 場 所: 高市郡高取町薩摩・松山 (近鉄吉野線市尾駅より徒歩15分) ご注意: 公共交通機関をご利用のうえご参加下さい。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 飛鳥藤原第160次(藤原宮大極殿院回廊)発掘調査の現地説明会 +----------------------------------------------------------------+ 奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp/ 奈良文化財研究所によって継続調査されている藤原宮大極殿院周辺の現 地説明会が開催されます。これまで付近からは、大極殿院南門や幢竿支柱 の柱穴列、藤原宮造営に関わる運河などが検出されています。 日 時: 11月29日(日) 13:30(説明は1回) ※小雨決行 場 所: 奈良県橿原市高殿町 「飛鳥藤原第160次(藤原宮大極殿院回廊)」発掘調査現場 現地案内図(案内図に道順に従ってお行きください。) http://www.nabunken.go.jp/record/setsumei/img/2009/20091129/160map.jpg 報 告: 都城発掘調査部 遺構研究室 研究員 高橋知奈津氏 ご注意: 公共交通機関をご利用のうえ、ご参加下さい。 奈文研トピックス http://www.nabunken.go.jp/topics/index.html#160gensetu1129 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 木簡に「軽坊」の文字を確認 +----------------------------------------------------------------+ 奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp/ 2001年に藤原宮の朱雀門南約300m地点から出土した木簡の削り 屑(長さ約6cm、幅約2cm)に、藤原京の地名と思われる「軽坊(か るのぼう)」の墨書があったことが、奈良文化財研究所の調査でわかった そうです。 「軽」は、「軽の衢」と呼ばれた古代幹線道の下ツ道と阿倍山田道が交差 する現在の橿原市石川町・丈六交差点付近の地名とされ、木簡にある「軽 坊」は、その周辺地域だと考えられるそうです。藤原京の地名が判明した のはこれで、3例目となり重要な成果となります。(現在までに分かって 藤原京の地名は、続日本紀に「林坊」、平城京跡で出土した木簡に「左京 小治町」とある2例) この木簡は、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室で現在開催中の「藤原京 跡出土木簡の展示」に陳列されています。 【藤原京跡出土木簡の展示】 期 間 : 12月7日(月)まで*平日のみ開館 場 所 : 奈良文化財研究所藤原宮跡資料室 (橿原市木之本町94-1 展示内容: 藤原京跡左京七条一坊西南坪(衛門府推定地)出土木簡 20点 「木簡から古代人を垣間見る-藤原京衛門府関係木簡の展示-」解説資料 http://www.nabunken.go.jp/topics/img/hujiwara_mokkan2009.pdf ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 連続ミニ展示・所長トーク +----------------------------------------------------------------+ 橿古研付属博物館 http://www.kashikoken.jp/museum/index.html 平城遷都1300年記念行事の一つとして、橿考研付属博物館で行われ ているミニ展示の第3回「瓦と鴟尾」が始まります。飛鳥・奈良時代の様 々な瓦や鴟尾が展示されるようです。また会期中には、恒例となった所長 ・菅谷氏と研究所員の先生とのトークもあります。 第3回 ミニ展示「瓦と鴟尾」 会 期: 12月5日(土)~12月20日(日) 場 所: 博物館特別展示室 観覧料: 無料 第3回 所長トーク 日 時: 12月12日(土) 13:00~14:30(予定) 場 所: 橿原考古学研究所講堂 テーマ: 天平の甍 話 者: 菅谷文則氏 VS 廣岡孝信氏 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■「魏志倭人伝を読む・纒向遺跡を掘る」シンポジウム +----------------------------------------------------------------+ 奈良県立図書情報館 http://www.library.pref.nara.jp/index.html 先日、大型の建物遺跡などが検出され現地説明会も行われた桜井市・纒 向遺跡に関するシンポジウムが行われます。 「魏志倭人伝を読む・纒向遺跡を掘る」 日 時: 12月13日(日)13:00~17:30(開場 12:00) 場 所: 奈良県立図書情報館 1F交流ホール 定 員: 300名・入場無料 申 込: 12月6日必着(申込多数の場合抽選) 往復はがき・FAX・メール(koen@library.pref.nara.jp) または来館による申込み 詳細は下記アドレスでご確認下さい。 http://eventinformation.blog116.fc2.com/blog-entry-302.html プログラム: 基調講演 「邪馬台国と纒向遺跡」 京都大学名誉教授 上田正昭氏 基調報告1 「纒向遺跡発掘の成果」 桜井市教育委員会文化財課 主査 橋本輝彦氏 基調報告2 「纒向遺跡調査の意義」 兵庫県立考古博物館・香芝市立二上山博物館々長 石野博信氏 シンポジウム 「邪馬台国と纒向遺跡をめぐって」 パネラー: 上田正昭氏、石野博信氏、辰巳和弘氏、 橋本輝彦氏、千田 稔館長 コーディネーター: 高橋 徹氏 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 干支の考古学 +----------------------------------------------------------------+ 橿古研付属博物館 http://www.kashikoken.jp/museum/index.html 年末年始の展示として恒例の橿考研付属博物館の「干支の考古学」が開 催されます。来年の干支である寅(虎)は、今は動物園でしか見ることが できませんが、一万年以上前には日本にも生息していた痕跡があるそうで す。弥生時代以降には、中国の思想とともに「モノ」として現れてくるそ うです。この「モノ」として現われた虎から、当時の人々の考え方や想い というものを探ろうという展示になっているそうです。 会 期 : 2009年12月12日(土)~2010年1月17日(日) 主な展示品: 青銅製十二支神像・キトラ古墳 十二支像「寅」 池ノ内5号墳 三角縁龍虎鏡・黒塚古墳 三角縁神獣鏡 行者塚古墳「金銅製龍文帯金具」・青銅製虎子など 展示内容は、「虎を知る」「十二支の寅」「表現された虎」「身近なト ラ」「トラにまつわる伝承やことわざ」などに分けられた展示で、様々な トラの形態が紹介されるようです。また、関連で講演会も開催されます。 日 時: 2010年1月9日(土) 13:30~ 場 所: 橿原考古学研究所1階講堂 講 師: 山本 忠尚氏(天理大学文学部教授) ∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ■ 橿考研友史会 山田先生案内のウォーキング +----------------------------------------------------------------+ 橿考研友史会 http://www.oct.zaq.ne.jp/kashiko_yushikai/index.html 両槻会主催・第17回定例会で飛鳥の諸宮をご案内くださった橿考研付 属博物館主任学芸員の山田隆文先生のウォーキングが開催されますので、 ご紹介します。 「大和郡山の石塔と城」として、近鉄平端から、額安寺(額田寺)・忍性 墓・郡山城石垣などを廻るようです。 「大和郡山の石塔と城」 案 内: 山田隆文先生 日 時: 12月20日(日) 集 合: 近鉄・平端駅 コース: 額安寺→額田部窯跡・鎌倉墓→筒井順慶五輪塔覆堂→筒井城跡 →丹後庄環濠集落→杉環濠集落→本庄環濠集落→大井環濠集落 →大和郡山城(柳大門跡→外堀→町屋地区→五軒屋敷→二の丸 →本丸→天守台) 山田先生のご案内によるウォーキングの楽しさは、第17回定例会にご 参加くださった皆さんは、よくご存知だと思います。 この催しは、橿原考古学研究所友史会主催の行事になりますので、詳細 は、友史会サイトや会報などをご覧ください。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ┏━┓編集後記 もも ┃6┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┗━┛ 今回は、諸事情により事務局長・風人が時遊録で明日香村発掘調査報告 会のご報告に、連休中の行事への参加レポというふたつの長大な(笑)記 事を書いております。ということで、年末に向けてお忙しい先生方には、 一息ついて頂こうということになりました。(噂によると両槻会は人使い がアライとか・・・(^_^;))たまには、事務局スタッフオンリーのメルマ ガをお楽しみ下さい。(^^)


