2009/07/04
飛鳥遊訪マガジン Vol. 056
◆◇◆◇◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇◆◇◆ ◆◇◆ 飛鳥遊訪マガジン Vol. 056 (2009.7.4.) ◇◆ ◆ 飛鳥好きの貴方に贈るメールマガジンです。 両槻会のイベントもご紹介します。 両槻会 http://asuka.huuryuu.com/ ━━━━━◇━━━━━━━━━━◇━━━━━━━━━━◇━━━━━━━ 梅雨の時期に入り、ムシムシ暑い日が続いていますが、みなさん体調の方 は大丈夫でしょうか?夏といえば、本薬師寺のホテイアオイの開花が気にな るところですね。今年も綺麗に咲いてくれることを期待しつつ、汗を拭き拭 き歩いてみたいと思っています。昨年は8月初旬頃から開花しはじめたよう で、今年はいつになるのか楽しみですね。 さて、今回のメルマガは・・・近江先生が「下ツ道」を寄稿して下さいま した。早くも5回目に突入!!下ツ道敷設時期をめぐるお話を年表も交えて わかりやすく書いて下さっています。そして、いよいよ15回定例会の咲読 も佳境に入り、いつにも増して気合が入っているようです。飛鳥話1も同時 進行で風人が頑張ってくれました。飛鳥話2は若葉の第二弾!!話はどんな 風に展開していくか興味を引くところです。飛鳥話3は両槻会の若手のエー ス氷月。一味違った飛鳥の話をしてくれています。と、見逃せない話がまた また目白押し!!どうぞご期待下さい♪ (P-saphire) ┏◆━index ━━◆◇◆ 〈1〉寄稿 ・・飛鳥のみち 飛鳥へのみち2 / 近江俊秀先生 -------------------------------------------------------------------- 〈2〉飛鳥話 NO.1 ・・風人の飛鳥ぶらぶら散歩 / 真神原風人 -------------------------------------------------------------------- 〈3〉飛鳥話 NO.2 ・・若葉マークの飛鳥雑記 / 若葉 -------------------------------------------------------------------- 〈4〉飛鳥話 NO.3 ・・飛鳥を氷月の目で見れば / 氷月 -------------------------------------------------------------------- 〈5〉飛鳥咲読 / 真神原風人 -------------------------------------------------------------------- 〈6〉飛鳥情報 -------------------------------------------------------------------- 〈7〉両槻会からのお知らせ -------------------------------------------------------------------- 〈8〉編集後記 -------------------------------------------------------------------- ┗━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━ ┏◆━━━━━━━━━━ 〈1〉飛鳥のみち 飛鳥へのみち 2 / 近江俊秀先生 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ 「下ツ道(5)-下ツ道敷設時期をめぐる研究」 壬申の乱の際には、下ツ道があった。このことは、下ツ道敷設時期を考え る上で大きな手掛かりになる。ご存知のように、天智天皇は近江大津宮に遷 都しているので、遷都後に奈良盆地に新たな道路をつくる必要性は見いだせ ない。そうすると、近江遷都前の、天智6年(667)以前に、これらの道 路がつくられたことになる。これで、敷設年代の下限は、決まった。 一方、上限はというと、推古16年(608)に日本へ来た隋使が、難波 から陸路をとおって小墾田宮へ行くには、通過する必要がない海石榴市(つ ばいち 桜井市金屋付近に比定される場合が多い)に迎えられていることか ら、この頃はまだ道路網の整備がなされていなかったため、隋使は大和川の 水運を利用したとする見方が有力である。 そうすると、敷設年代の上限は 608年ということになる。 つまり、608~667年の60年間の間に、これらの道路がつくられた ということになる。ただ、60年間という時間は、時期を限定したというに は、あまりにも長すぎるだけでなく、この間には、大化改新に代表されるよ うな様々な時代の画期がある。文献史学の研究者も、考古学の研究者も、当 然のことながら、もう少し時間を絞り込むため様々な視点からのアプローチ を繰り返している。 「敷設年代をより限定する」その場合に、誰しもが検討するのが、この間の 『日本書紀』の記載である。別表で示したように、推古16年から天智6年 までの間の記事で、交通に関わる記載は、思いのほか少ない。以下、順を追 って紹介しよう。 年表 http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/oumi-simotumichi/nenpyou.gif まず、最初に現れるのは、推古20年(612)の記事である。ここには、 軽街(かるのちまた)の文字が見える。街とは、道と道とが交わるところの 意味で、軽は橿原市大軽町付近の地名である。軽を通過する道路には、阿倍 ・山田道と下ツ道とがあることから、下ツ道はこの頃には存在したという見 方がある。しかし、この道路を下ツ道そのものとは見ずに、下ツ道に先行す る南北方向の自然発生的な道路であるという見方もあるなど、下ツ道が存在 したという決定的な証拠にはならない。 次の記事は、その翌年の推古21年の記事である。この記事には、「難波 から京に至る大道を置く」との記事があり、この大道とは、横大路であると する見方が強く、下ツ道の敷設を示したものではない。それから、しばらく 道路に関わる記事は、書紀には見えないが、白雉4年(653)には「処々 の大道を修治する」の記事がある。これに下ツ道敷設を求める見方もあるが、 断定はできない。 このように、史料のみからの検討では、さまざまな解釈が可能であり、下 ツ道の敷設時期を断定するのは難しそうである。一方、考古学の成果でも、 下ツ道の側溝から出土する遺物は、今回、紹介した事例を除くといずれも7 世紀後半以降のものしか出土しておらず、「壬申の乱の頃にはあった」とい う『日本書紀』の記載を裏付けることすらできていない。 どうやら、単純な史料解釈や、発掘調査成果の検討のみでは、下ツ道の本 当の敷設時期には、たどり着けそうもなく、和田先生が言われる「歴史的必 要性」という言葉が、重くのしかかるのである。 ┏◇◆━━━━━━━━━━ 〈2〉風人の飛鳥ぶらぶら散歩 / 真神原風人 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ 今回の飛鳥話1は、飛鳥咲読とも関連させて、先日行われました甘樫丘東 麓遺跡の現地見学会の模様をレポートしようと思います。 6月21日、前日までの雨予想が覆り、晴れ間も出て蒸し暑い一日となり ました。甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第157次調査)現地見学会の現場は、 木立に囲まれており、蒸し風呂のような状態の中で大汗をかきながらの見学 となりました。 マスコミ報道では、「蘇我邸の城柵跡?奈良の遺跡で7世紀の石垣35m が出土」・「蘇我入鹿邸の“城柵”」か!甘樫丘東麓遺跡から新たな石垣」 など、いつもながらにセンセーショナルなタイトルが目立ちました。 11時からの現地見学会には、終日で1,100人の見学者があったそう です。風人も見学会の1時間前には会場を訪れ、今回注目された石垣を興味 深く観察しました。 石垣 http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/56/isigaki.jpg 今回の調査区のほぼ中央付近に、幅8m、深さ1.2mの谷地形があり、 石垣は、東側の岸に積み上げられていました。南端部では50度の勾配があ り、高さは約1mを測ります。クランクする部分や階段状の石列、開口部 20cmの水口施設がありました。この石垣は、2006年度に検出された 石垣の延長部で、総延長が約34mであることが分かりました。石垣は、今 回の調査で検出された部分で途切れており、最南端だと考えられました。 石垣は、7世紀中頃に大規模な整地によって埋められています。このあた りが、歴史ファンにとっては、蘇我本宗家の滅亡時期と相まって、興味が尽 きない部分であるわけです。 また、石垣の他に調査区の南東部分には、石敷遺構がありました。幅1.5 ~3m、長さ8~9m分が検出され、西側には底石の無い溝が沿い、東の山 側は、端を揃えて縁取り状に石が並べられていました。北西方向に尾根に沿 って遺構が広がることが予測されています。 石敷き http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/56/isijiki.jpg 調査区の北端では、土器を廃棄した土坑があり、ほぼ完形な物を含めて 50点を超える土師器・須恵器が出土しています。これらの土器は、その形 式から7世紀中ごろの物だと判断されています。 出土土器 http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/56/doki.jpg このほかには、7世紀後半の長さ12mの石組溝や土器埋設遺構や柱穴列 も検出されました。 奈文研公式サイト内学術情報リポジトリのページ(PDF形式)を参照してください。 http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1238 さて、この甘樫丘東麓遺跡が、本当に蘇我入鹿の邸宅であって、石垣が日 本書紀に書かれる“城柵”であるのかどうかを、少し考えてみたいと思いま す。甘樫丘東麓遺跡は、これまでの発掘調査で、遺構の年代をI期(7世紀 前半)、II期(7世紀前半から中頃)、III期(7世紀末)に3区分して考 えられています。その間には、大規模な造成が繰り返し行われており、特に 7世紀中頃には、建物の建て替えなどを含めた度重なる土地利用の変更が行 われたようです。 遺構変換・参考図 http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/56/touroku-3.png これらのことは、645年の乙巳の変(大化改新)の影響を受けたものだ と考えられます。これまでの調査では、焼土や壁土や炭化した木材などが検 出されており、伝えられる蘇我邸炎上を思い起こされます。 しかし、これまでの調査では、甘樫丘東麓遺跡が蘇我氏の邸宅であるとは 断定出来ていません。 その一つの要因は、墨書土器や木簡などの文字資料が未だ検出されていな いこと。また、遺跡全体が谷地形を含む傾斜地であり、その複雑な地形を大 造成して繰り返し利用していることにも大きな要因があります。例えば、検 出した遺構がどの時期区分(地層)に含まれるのかだけをとっても、マスコ ミ発表のように簡単ではないようです。 状況証拠は、かなり蘇我邸の一部である可能性は高まってきました。7世 紀前半から中頃にかけて、飛鳥のこの地域に大造成を行える人物は限られて います。焼土や豊浦寺や飛鳥寺と同范の瓦が出土すること、石垣建設に渡来 系の技術が使われたとの指摘なども、その状況証拠の一つであるのかも知れ ません。 しかし、この遺跡を含む丘が、本当に甘樫丘であるのかという疑問すらあ るのです。(1970年頃までは、豊浦山と呼ばれていたようです。)今は、 誰しも甘樫丘として馴染んでいますが、それを断定出来る文字資料などは無 いのだそうです。風人は、この丘が甘樫丘だと思うのですが、他に適当な丘 が思い浮かばないと言った理由にしか過ぎません。(^^ゞ さて、その丘ですが、かなり広いのです。一般的には、豊浦展望台付近の みを甘樫丘としてイメージしますが、公園化されている遊歩道一周で、充分 1時間は掛かるほどの規模があります。参考に公園化されている部分を中心 に描いてみました。入り組んだ谷をたくさんに持っていることが分かります。 この内、実際に発掘調査が行われた場所は、僅かに二ヶ所(平吉遺跡・甘樫 丘東麓遺跡)です。 甘樫丘 http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/56/amakasi.jpg 甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥の中心部が見えません。川原寺西の丘陵が北 に張り出しているからです。日本書紀の記述を見ると、蘇我邸から飛鳥宮や 中心部が見えるのは蘇我氏の横暴であるとするような記事がありますので、 蘇我氏邸宅の中心施設は、別の場所に無くてはなりません。東側の北部に 「エベス谷」と呼ばれる小字があり、有力な候補地の一つとされますが、こ の谷は小さく、邸宅を建てるスペースとしては不向きです。案外、近世にで も「恵比寿さま」をお祀りした祠でもあったのかも知れませんね。(笑) 風人は、東麓遺跡の北側にある「南山」という場所が以前から気になって います。ここからなら飛鳥の中心部が見通せます。間口の広い谷地形をして おり、住環境としても良いのではないかと・・・。もちろん妄想でしかあり ませんが、いずれ奈文研さんが調査をしてくださるのではないかと、心待ち にしています。 考古学は、長いスパンで楽しまなければなりません。結果を追い求めがちで すが、我流の謎解きも楽しいことだと、風人は思っています。 今回の見学会で疑問に思ったことを箇条書きにしてみます。 ・石垣の傾斜が、前回(70度)と異なること。今回も、北側と南側で は、異なるように見えること。 ・北と南では、石の積み方が違うように見えること。 ・南端が曲がらずに、そのまま終わってしまうこと。囲まないのか? ・石敷遺構は、何を目的にしたものなのか。何を区切っているのか。 ・検出された柱穴は何なのか。 風人の妄想 今回の石垣は、蘇我邸の増設に伴う造り掛けなのではないかと・・。 645年に彼等は死ぬとは思っていないわけで、勢力の絶頂期に、より甘樫 丘全体を邸宅化・要塞化するために、南側を中心に造成途中であったのでは と思いました。石垣の尻切れトンボさ、石垣がある造成地なのに顕著な建物 がない点などです。石垣の反対側(西)に、倉庫などがあり、計画的な配置 とも思えない点も、増設途上の可能性を物語っているのかなと。妄想ですの で、何の根拠もありません。(笑) きっと明日には違う妄想を楽しんでい ると思います。 ━━━◇『飛鳥三昧』 http://sanzan.gozaru.jp/ ┏◆◇◆━━━━━━━━━━ 〈3〉若葉マークの飛鳥雑記 / 若葉 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ 前回(5月1日発行・50号)の『第二回 飛鳥検定』の問題・解説作成 時のお話の続きです。 やっと完成!と、喜んだのも束の間、検定終了後に自分の担当した問題の 内、(私の場合)1つを取り上げ皆さんの前で発表解説するというのです! すでに一問づつ解説を書きましたよぉ‥それ以上を調べねばならんという事 ですかぁ‥ 私の住む市の図書館には伎楽に関する本は余りありませんでしたので、仕 事帰りに大阪市立図書館に行く事にしました。さすがに蔵書数が違います。 伎楽に関するものをお願いすると、 「沢山ありますが、どういった内容のものをお探しですか?」 なーんて嬉しい事を聞いて下さいます♪ 何冊か目を通し書き写したりして、選んだ本をわくわく抱きかかえて持ち 帰りました。(重かった~) 当日の持ち時間4分を無駄なく使えるよう文章にまとめたのですが、あれ もこれもと書き込んで行くと、かなりのタイムオーバーとなるので簡潔化に 努めました。伎楽を全く知らない方にもイメージを掴んでもらえるよう伎楽 面の写真を用意し、簡単なシルクロードの地図も当日資料に付ける事にしま した。 東京国立博物館にある法隆寺宝物館の、光を必要最小限に落とした広い第 2室『金銅仏 光背 押出仏』の奥に、第3室『伎楽面』展示室があります。 数年前、初めて訪れた時「これが面?」と、自分のイメージする面の形とは 随分違うなぁと思いました。その大きさに驚き、着色が剥げ、毛も抜けたり など傷みの激しさから怖さ倍増であるのに、その個性的な面達の顔の造りや 表情が面白く、「すごくいいなぁ!好きだわ!」と思い、じ~っくり一つひ とつ見て行ったのを覚えています。(伎楽面展示の第3室は保存上、年3回 約1ヶ月づつの展示となっています。) 正倉院に残る伎楽面達の中には、もとの目の孔が更に大きく削り拡げられ ているものが多くあり、その殆どが面の内の墨書きから、752年の東大寺 大仏開眼法要に使われたという事が解るそうです。 その削り方は無造作で、左右が不同であったり歪みが生じているそうです。 直前まで役者とのサイズ合わせが出来なかったんでしょうか? 役者達がそれぞれの担当の伎楽面を何度も被り直し、視界を確かめ急いで 工人が調整してゆきます。開眼法要の直前、もしかしたらその作業は当日の 朝までかかってたりして‥ 準備の人々が忙しく行き交うすぐ近くで、膝に 大きな面を挟んで座り作業する者、手伝いの者に指示を出す人など大急ぎで 目の孔を削り拡げていたのでしょうか。「これで見やすくなりましたか」な んて聞きながら‥ 無造作に拡げられた孔から、その時の慌しさや、散らば る削りくずの中で働く工人の真剣な眼差し、周りのざわめきや砂埃などまで も見えてきそうです。(どんどん広がる妄想‥) 法要当日、面を被った役者は拡げられた小さい穴から、美しく荘厳された 大仏殿や大勢の僧侶達の姿がどのように見えたのでしょうか‥ と、こんな所でしゃべり足りなかった伎楽話ばかりとなってしまいました。 肝心の発表当日ですが、他の事務局員が落ち着いて慣れた話振りの中、ド キドキして声も小さめで、ほぼ書いた文をそのまま読むという(その予定だ ったんですが‥)反省点の多いものでした。人前で解説などと恐縮です。 この検定後の発表内容は、両槻会のサイトの『飛鳥路アーカイブ』の『第 二回飛鳥検定解説発表レポート集』にUPされていますので、まだ読まれて いない方、どんなのだったっけ?とお忘れのあなた!もう一度ご覧になって 下さいね。 すっかり伎楽面を被りたくなっている若葉の『伎楽について』は、ちょっ と文が変だゾなんて所もあるかと思いますが、(広いお心で)お読み下さっ たら嬉しいな♪なんて思います。 第二回飛鳥検定解説レポート発表集 ーそれぞれの飛鳥ー http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-10/teireikai10-repo1.html ┏◇◆◇◆━━━━━━━━━━ 〈4〉飛鳥を氷月の目で見れば / 氷月 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ 皆さん初めまして。両槻会スタッフの氷月(ひづき)と申します。中学時 代に大津皇子に関する小説を読んで以来飛鳥が好きで、時折飛鳥を訪れては 遊んだり、(少しだけ)学んだりしています。ただそれだけの、他のスタッ フに比べて明らかに『飛鳥素人』な私ですが、今回初めてメールマガジンの 記事を書くことになりました。真面目な記事では先輩方に負けてしまいます ので、少し毛色の変わったお話を2号連続でさせて頂こうと思います。 それはずばり、日食の話! ――というのは、来たる7月22日に、日本 で皆既日食が起きるから、です。このタイムリーな天文ショーにかこつけて 飛鳥の日食について語ろうというのが、今回の記事の趣旨です。 <2009年7月22日に起きる日食> 7月22日の皆既日食。皆さんの中にはご存じの方もいらっしゃると思い ます。最近ではニュースでも取り上げられるようになりました。日食とは、 太陽の全部や一部が月によって隠される現象で、その特異性から、古代より 注目されてきた天文現象です。 今回は『皆既日食』――つまり、太陽が月によって完全に隠されるタイプ の日食です。ただし、完全に太陽が隠されるのは日本でもごく一部、トカラ 列島や硫黄島など日本の南の島々だけ。本州では、太陽が一部だけ隠される、 部分日食となります。 この日、明日香村では9時47分から太陽が欠け始め、11時6分頃に食 の最大を迎えます。日食の終わりは12時26分。最大食分0.825とい いますから、最大で太陽の8割程度が月によって隠されます。ちなみに、飛 鳥以外の地域では、福岡で食の最大10時56分(最大食分0.898)、 東京で食の最大11時13分(最大食分0.749)と、東に行くほど太陽 の欠ける割合が少なくなっています。 この日食は梅雨明け前後の天候が安定しない時期に起きますので、観測で きるほど晴れるかどうか分からないところです…。が、晴れたら是非観察し てみたいものです。辺りが暗くなったり、動植物に変化があったりするそう ですよ。 ちなみに、次に日本で日食を見ることができるのは、2012年5月。3 年近くも待たねばなりません。 <日本最古の日食記事、その内容> 日本で最古の日食記事は、『日本書紀』の推古天皇36年3月2日(西暦 628年4月10日)の記事とされています。古事記や日本書紀に出てくる、 天照大御神の天の岩屋神話が日食を示していのではないか、という説もあり ますが、古天文学(天文年代学)の計算できちんと確認されているのは、こ の『日本書紀』の推古天皇36年3月の記事です。 記事の内容は『三月丁未朔戊申 日有蝕盡之』(3月2日、日食で太陽が 全く見えなくなった)という一文のみ。かなり簡潔です。 この時の日食について、古天文学の分野で諸先生方が多くの論文を出され ていますが、いずれもこの日に実際日食が起きたことが検証されています。 斉藤国治先生の著書(『飛鳥時代の天文学』)によれば、当日の飛鳥地方の 日食の様子は次の通り―― 日食の初め:8時18分 食の最大:9時26分(最大食分0.92) 日食の終わり:10時38分 2009年7月22日の日食より太陽が大きく欠けたようですね。太陽が 全く見えない、は誇張表現でしょうが、二日月くらいに見えたのではないか、 ということです。 さて、この推古天皇36年3月の日食ですが、その前後の事件がとても印 象深いのです。日本書紀では、以下のように記事が書かれています。 2月27日、推古天皇が病臥された。 3月2日、日食。 3月6日、推古天皇の病が重くなり、なす術も無かった。田村皇子と山背大 兄をお召しになり、教え諭された。 3月7日、推古天皇崩御。享年75歳。 4月10日、雹が降った。 4月11日、再び雹が降った。 春から夏に至るまで日照りが続いた。 日食の5日後に亡くなる推古天皇。その後にも続く天変。まるで日食が暗 い影を落としているかのような気がしてなりません。推古天皇は、臣下は、 日食を見て何を考えたのでしょうか。少しの記事しか残っていない今となっ ては、本当の事は分かりませんけど…。 次号では、彼女らの心境を推測すべく、日食に対する当時の飛鳥人の考え 方を探ってみます。また、当時の天文学の事情についてもお話しできれば、 と思います。 ┏◆◇◆◇◆━━━━━━━━━━ 〈5〉飛鳥咲読 / 真神原風人 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ 第15回定例会用の咲読も最終回となりました。ということは、定例会も 迫ってきたと言うことになります。まだ、少し定員に余裕がありますので、 お申し込みをお待ちしております。 飛鳥話1にも書きましたが、先日、甘樫丘東麓遺跡の現地見学会が行われ ました。今回の講演会のサブタイトルは、「大化改新の時、蘇我氏はどのよ うな武器で戦ったのか?」です。そこで、最終回の咲読は、甘樫丘の蘇我邸 の防備や乙巳の変を取り上げてみようと思います。 皇極3年(644)11月、蘇我蝦夷と入鹿は、甘樫丘に家を建て並べま す。書紀の記述を引用すると、「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘 に並べ建て、大臣の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門 (はざまのみかど)とよんだ。また、その男女を王子(みこ)とよんだ。家 の外には城柵(きかき)を造り、門のわきには兵庫(つわものぐら)を造り、 門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(きかぎ)数十本とを置いて火災に備え、 力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。」とあります。 また続けて、「大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山(おおに おのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、また畝傍山の東にも家を 建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、い つも五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。これら の力の強い男たちを、東方の*従者(しとべ)と名付けた。諸氏の人々の、 入ってその門に侍する者を、祖子(子偏に需)者(おやのこわらわ)と名付 けた。漢直たちは、大臣と入鹿との二つの門に侍するのをもっぱらとした。」 と書かれています。〔*=人偏に賓〕 蘇我氏の専横ぶりと、武装化が目を引く記事です。甘樫丘東麓遺跡で検出 された石垣は、マスコミ報道によると、この城柵ではないかという記事が目 を引きました。また、現地見学会でも城柵の可能性が話されました。昨年の 調査では、総柱建物が検出され、兵庫ではないかと報道があり、多くの方が 現地説明会に詰めかけました。その調査を担当されたのが、講演会でお話を いただく豊島直博先生です。 遺構図 http://asuka.huuryuu.com/magazine/photo/56/touroku-1.png 蘇我氏の中心的な施設ではないでしょうが、東麓遺跡は蘇我氏の邸宅の一 部である可能性が非常に高いと思われます。ここが、乙巳の変の舞台になっ た場所なのでしょうか。発掘成果に期待せずにはおれません。 皇極4年(645)6月12日、乙巳の変が勃発します。 「天皇は大極殿におでましになった。古人大兄がそのかたわらに侍した。中 臣鎌子連は、蘇我入鹿臣が疑い深いたちで、昼も夜も剣をはなさないことを 知っていたので、俳優(わざひと)を使ってそれをはずさせようとしたとこ ろ、入鹿臣は笑って剣をはずし、入って席についた。倉山田麻呂臣は、進み 出て三韓の上表文を読みあげた。そこで中大兄は、衛門府(ゆげひのつかさ) に警戒させ、十二の通門をいっせいに閉鎖して往来をとめ、衛門府の人々を 一ヶ所によび集めて禄物を賜うように見せかけた。」 「そして、中大兄は、みずから長い槍をとって大極殿のわきにかくれ、中臣 鎌子連らが弓矢をもってそれを護衛した。中大兄は、海犬養連勝麻呂に命じ、 箱のなかの二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授け、‘ぬかる なよ。いっきに斬るのだ’といわれた。」 「ヤアとさけんで、子麻呂らとともにおどり出し、いきなり剣で入鹿の頭や 肩に切りつけた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂も剣をふるって入鹿の 片方の足に切りつけた。・・・・」 「佐伯連子麻呂と稚犬養連網田とは、入鹿臣を切り殺した。」 「中大兄はすぐ法興寺に入り、ここをとりでとして備えを固めた。皇子・諸 王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造のことごとくが、みなそれに従った。中 大兄は、人を遣わして鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。このとき漢直たちは、 族党をみな集め、甲をつけ、武器をもって、大臣を助けて陣を張ろうとした。 ・・・。」 中大兄は、巨勢徳陀臣を遣わして、東直たちを説得させます。漢直は、 「剣をはずし、弓を放りだして去ってしまった。」 「蘇我蝦夷らは、誅殺されるにあたって、天皇記・国記、および珍宝をこと ごとく焼いた。」 こうして、蘇我本宗家は滅亡します。この記事中、「剣」が普段の武装で あるように書かれています。「大刀」でなく「剣」であるのは、大化改新時 代には「剣」が一般的であったということなのでしょうか。あるいは、日常 的には「剣」、戦時には「大刀」と言うことになっていたのでしょうか。先 生にお伺いしたいと思っています。 長々と書いてきましたが、今回の咲読は大変でした。これを書いています 風人が、予備知識を全く持っていなかったからです。どれだけ、皆さんのお 気持ちを定例会に繋げることができたでしょうか。また、飛鳥時代を武器と いうキーワードを使って見てみることを、楽しんでいただけたでしょうか。 自信はありませんが、少しでも興味を持っていただければ風人の役目は果た せたことになります。お付き合いありがとうございました。m(__)m ━━━◇『飛鳥三昧』 http://sanzan.gozaru.jp/ ┏◇◆◇◆◇◆━━━━━━━━━━ 〈6〉飛鳥情報 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ ◇━ 大和を掘る27 橿原考古学研究所付属博物館で、毎年恒例の「大和を掘る」の今年度の予 定が決定されています。展示は、おもに2008年度に奈良県内において発 掘調査された遺跡の中から38遺跡が選ばれて出土遺物や調査写真パネルが 展示されるようです。 「大和を掘る27」 会 期:7月18日(土)~ 9月6日(日)(月曜休館) ・主な展示品: 縄文土器・土器棺・土偶 (観音寺本馬遺跡) 弥生土器・炭化米 (大福遺跡) 車輪石・籠 (島の山古墳) 船形埴輪・円筒棺 (巣山古墳外堤北) 瓦・土師器・須恵器 (石神遺跡) 奈良三彩・播磨産瓦 (平城京左京五条四坊九・十坪) 瓦類・須恵器小壺 (新薬師寺) 瓦類・瓦器 (金剛峯寺) ・土曜講座 (13:00開始・聴講無料) 7月25日 観音寺本馬遺跡 松浦憲冶氏・橿原考古学研究所 巣山古墳前方部外堤北 恵影悠氏・橿原考古学研究所 石神遺跡 青木敬氏・奈良文化財研究所 8月8日 島の山古墳 見須俊介氏・川西町教育委員会 飛鳥京跡 鶴見泰寿氏・橿原考古学研究所 平城京朱雀大路 重見泰氏・橿原考古学研究所 8月29日 中宮寺跡 荒木浩司氏・斑鳩町教育委員会 片岡王寺跡 佐藤麻子氏・橿原考古学研究所 額安寺宝筺印塔 山川均氏・大和郡山市教育委員会 9月5日 京奈和自動車道茅原地区 岡田圭司氏・御所市教育委員会 平城京左京五条四坊九・十坪 大原瞳氏・奈良県埋蔵文化財センター 金剛峯寺 小池香津江氏・奈良県教育委員会 橿原考古学研究所付属博物館公式サイト http://www.kashikoken.jp/museum/top.html ::::::::::::::::::::::::::::::::::: ━◇飛鳥資料館 夏期企画展 飛鳥資料館では、8月1日から「甦るクメール文明」と題した夏期企画展 が始まります。 カンボジア内戦直後から世界遺産アンコール遺跡群の写真を撮り続けてい る写真家BAKU斉藤氏の写真展示で、過去現在未来へと受け継がれるアン コール遺跡の素顔が紹介されるようです。 「甦るクメール文明」-世界文化遺産 アンコール遺跡群- 会 期 : 8月1日(金)~30日(日)(月曜休館) ・特別講演会 「甦るクメール文明」 日 時 : 8月2日(日)14:00~16:00 会 場 : 万葉文化館企画展示室 ゲスト : 今川幸雄氏(元カンボジア日本特命全権大使) 岩崎好規氏((財)地域地盤環境研究所専務理事) BAKU斉藤氏(写真家) ホスト: 杉山洋氏(奈良文化財研究所) ・トークショー「クメール建築を撮る」 日 時 : 8月15日(土)14:00~15:30 会 場 : 飛鳥資料館特別陳列室 ゲスト : 西本真一氏(サイバー大学世界遺産学部教授) BAKU斉藤氏(写真家) ホスト : 杉山洋氏(奈良文化財研究所) 各催しに関する詳細は、下記アドレスでご確認下さい。 http://www.nabunken.go.jp/asuka/topics04.html#topic63 飛鳥資料館公式ホームページ http://www.nabunken.go.jp/asuka/index.html ::::::::::::::::::::::::::::::::::: ◇━ 木津川馬場南遺跡のセミナー 万葉歌木簡に神雄寺と書かれた墨書土器や四天王像の塑像片も見つかった 木津川の馬場南遺跡に関するセミナーが行われます。 第114回 埋蔵文化財セミナー 「木津川馬場南遺跡が語るもの ‐神雄寺と万葉歌木簡‐」 会 場: 京都府 向日市民会館 大ホール 〒617-0002 京都府向日市寺戸町中野段17-1 日 時: 8月15日(土)13:20~16:40 基調報告: 馬場南遺跡の調査成果から 伊野近富氏(京都府埋蔵文化財調査研究センター次席総括調査員) 特別講演:(仮)木津川市馬場南遺跡が語るもの ‐神雄寺と万葉歌木簡‐ 上田正昭氏(京都大学名誉教授・調査研究センター理事長) 講 演 :(仮)万葉歌木簡と万葉集研究 上野誠氏(奈良大学教授) 講 演 :(仮)神雄寺と古代仏教 上原真人氏(京都大学教授・調査研究センター理事) なお、聴講は無料ですが、事前申し込みが必要になります。 詳細は、下記アドレスをご覧ください。 第114回 埋蔵文化財セミナーのページ http://www.kyotofu-maibun.or.jp/event/114semi.html 京都府埋蔵文化財調査研究センター http://www.kyotofu-maibun.or.jp/ ┏◆◇◆◇◆◇◆━━━━━━━━━━ 〈7〉両槻会からのお知らせ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ ━◆ 第15回定例会のご案内 奈良文化財研究所の豊島直博先生を講師にお招きして、第15回定例会を 下記日程で開催します。 また、前号でもお知らせしましたが、今回講師の豊島先生が、キトラ古墳 出土の「銀装黒漆塗大刀」復元品(レプリカ)をはじめとする講演に関わる 資料をお持ち下さることになりました。とても貴重な機会だと思います。 申し込み締め切りは、明日(7月5日)深夜になります。両槻会宛にメー ルでお申し込み下さい。お待ちしております。(^^) 開催日 :7月11日(土) 演 題 :飛鳥時代の戦いと武器 ‐大化改新の時、蘇我氏はどのような武器で戦ったのか?‐ 講 師 :奈良文化財研究所都城発掘調査部 豊島 直博 先生 会 場 :飛鳥資料館講堂 開 演 :午後1時予定 定 員 :40名 参加費用:1,000円 (飛鳥資料館入館料別) また、講演会関連の遺跡を、事前散策として、講演会当日午前中に訪ねる 予定です。詳細は下記アドレスをご参照下さい。 第15回定例会予定ページ http://asuka.huuryuu.com/yotei/teireikai-15/yotei-15.html ┏◇◆◇◆◇◆◇◆━━━━━━━━━━ 〈8〉編集後記 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇━━━━ これからの季節、外歩きには、水分補給と暑さ対策に加えて、かなりの覚 悟が必要だと思います。(^_^;) お出掛けの際は、お気をつけ下さいね。 で、そろそろ夏の特別展や企画展、それに伴う講座などの案内が出始めて います。こんな季節だからこその講座巡りも楽しいかもしれません。^^ 空調の整った部屋で専門の先生方のお話を聞く♪ももは、この夏この手で いこうと思ってます。(^^v あ・・辿り着くまでが大変か・・・^^; (もも) ┏━━◆◇◆━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━━━┓ 発行 :両槻会 http://asuka.huuryuu.com/ 飛鳥遊訪マガジンへのご意見ご感想は、 http://form.mag2.com/viuounelio または asukakaze2@gmail.com 両槻会事務局まで 登録/解除は http://www.mag2.com/m/0000259444.html 発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/ ┗━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━━━◇◆◇━━┛ …─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


