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正法眼蔵を20歳位から読みたかったのですが、なんとか読めるようになったのは50歳。紀野一義先生のおかげで読めるようになりました。西嶋和夫老師、岸沢惟安老師のご著作にもお世話になっています。

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2009/04/19

162  般若心経 第三掲目ですね  ^^  7

おぼろげながら、夢のような世界としてしかぼくにはとらえることができません。
解説不可能な世界です。

ここからはじめる解説は「無」です。

洞山禅師のはなしをまずもってきますが
その前にすこし、曹洞宗の名前の由来を。

曹洞宗の名前にはいろいろと説があります。

臨済宗には臨済禅師という人がいますのでわかりやすいのですが、
曹洞宗がわかりにくい。

曹洞宗の開祖というべき洞山禅師のあとをついだのが直系ではないのですが、
曹山禅師といいます。
曹洞宗の系統は洞山禅師の系統なのですが、2代目だけが曹山禅師になっています。

その後は洞山禅師の直系になります。直系というのはさかのぼれば釈尊にたどりつく
というようなことでしょうか。

曹洞宗の由来がこの2代目の曹山禅師と開祖である洞山禅師の名前をあわせたもの
だと書いている本が多いのですが。

たぶんそうじゃなくて、曹谿山(そうけいざん)の六祖・慧能という禅宗を発展させるのに
力のあった方の曹を採っているものだと思います。
そうすれば曹洞宗として曹が前に来るのは当たり前なんですから。

六祖・慧能が正法眼蔵の解説にたびたび書いているように、禅者の系統を上にたどれば、
すべてこの方のところへ集まってしまうのです。

それで、洞山禅師のはなしにもどります^^

禅師がはじめて小僧さんとして、寺にあがり、そこの和尚様にいろいろと教わっている時、
ある日、般若心経 を和尚様が教えてくれるのですが、まあわからんかったのでしょうね^^
とうとう、無眼・耳・鼻・舌・身・意、のところで、
「あのう、おしょうさま、鼻も耳もわたしにはちゃあんとついていますけど」
と問いかけました。

おとなしく教わる小僧さんばかりだったのに、この小僧は見所があると和尚様は思い、
ちゃんと学問を教えてくれるお寺へつれていくことにします。
そして洞山禅師となるわけです。
もっともこのはなしもうそくさいですけどね^^;;

25 無

なんもない 両手で 受ける

というのが尾崎放哉の俳句ですが、ほんとうに「なにもない」ということばほど
おそろしい言葉はないです。

尾崎の場合はこじきさんみたいな生活をしているし、悪いことはしません。

でも「わしら失うものはなにもないんや。どうしてくれるねん」と因縁をつけられたら
おそろしいですよ。
ぼくもまあ60年も生きていますと、脅迫めいたことも受けたこともあります。
そんな場合はおとなしく身を引くことにしています〜〜;;

もっとこわいのは、「なんでももっているんや。金なんかうなるほどある。
金をいくらかけてもいいからお前をほろぼしてやろうか」という脅迫ですね。
これにはお手上げ。

ばくちみたいなもんですから。絶対に負ける。

ぼくのもち金が100万円として、相手が100億円持っているとしたら
こんなばくちはぜったいに負けます。
ぜったいに勝てない〜〜

そういう相手に出会うと、ところがぼくは俄然はりきってしまい、
ばくちをやってしまうのです。
(じっさいのばくちはしたことがありませんよ^^
 負ける試合とわかっていても意地でも出て、半殺しの目に会うのが好きなんです。
 変わってますよね)
とうぜん、ぼろ負けして、一文無しになるわけで〜〜;;

でまあ。なにもないのとめちゃくちゃあるのとは怖いというはなしでした〜〜

なにもない まったく気にしないというような境地が理想なんですが、
ぼうさまになるか、こじきになるか。

好きな女性がいると、ぼうずになるほうがいいですね。こじきだと結婚できない。

いつでしたかね??20年前ぐらいでしょうか??

神戸星電社の店の前を歩いていますと、でかい冷蔵庫の箱が両脇にあるんです。

午前8時ごろでしたっけ??映画を見に神戸に出ていたのですが。

その箱のふたがとつぜん開きまして。たぶんおとこだろう!!
「おーーい おはようさん」と声を上げるんです。
思わず返事しようとしましたが^^;;

片方の冷蔵庫の箱のふたが開きまして、たぶん女性でしょうね
「おはよう、あんた、今日はいい天気だねぇ」

わたくしめもぎょっとしました。夫婦で冷蔵庫の箱の中で生活しているんですよ。

こじきさんでも結婚はできるわけだ!!  Hはどのようにしてするのだろうかと
いま思い出しました^^  吹き出しそうです^^

女性のほうもおとこのほうも髪の毛がいっぱいで、まあとてもこじきさんに
そっくりでした。

感動的な夫婦愛ですねぇ!!!!!!!!!!!!



24章のはじめに書いたように、

1番の立場から訳すと、存在もないし、眼や耳もないという訳文(上に書いています)になります。

2番目の立場から訳すと、 ちょっとややこしい。
1番目のとはお互い様にややこしいんですが^^

訳文のような解説のようなものを::

このゆえに、ありのままに見えるこの世の中には、存在もあるし、受想行識もあるし、
眼・耳・鼻・舌・身・意、もあるし、それの対象であるいろんなものも存在している。
しかし、それらをそういう言葉で表していいものかどうかは不明である。
存在するものを存在するものとしてくくりきって表現できるものだろうか??
受想行識のようなものも実在するものだろうか??

くっきりと区別できるようなものがあるのだろうか?

眼・耳・鼻・舌・身・意にしてもまとめきって表現できるもんだろうか??
たとえば眼だが、両眼あるひとが大部分だとは言え、片目の人もいるし、両眼とも
ない人もいる。視力のすばらしい人もいるし、まるでど近眼もいる。

ましてや、目の前にあるものが見えない人はたくさんいるのだ。

見ても見ないという人は会っても会わないと思っているだろう。

そういう風にものごとをありのままに見ていく場合には、なにか表現できないものが
現れてくる。

こういったことにどう対処するべきだろうか??

というような具合になるので、無、無、無とつづけていわゆる固定観念をかっさらって
しまうのです。

だからこの無眼・耳・鼻・舌・身・意、などにしても実際にはなにもないと言っているわけ
ではなくて、無とすればどうなるかと問いかけている文章と解せるわけです。

ありのままとか、そのままとかが空ということの理解のひとつであると書きました。
そこからいくと上のような文章になるのですが、もうひとつ加えると。

ありのままとか、そのままとかは、もう加えるものがなくてそのままでいい、ありのままでいい

そういった理解もできるわけです。

それで、

「ありのままの観点から見ると、つけくわえる存在もないし、つけくわえる受想行識もないし、
 つけくわえる眼・耳・鼻・舌・身・意、もない・・・・・・・・・」

という風な結論になります。

そして仏教で言う「無」には、言葉に対する否定の意味および超越の意味を含みます。

それが次に提示する仏教の知恵、仏智慧・仏性であるところの「無」です。


眼というのでたとえれば、両目のある人はまあ置いて。
片目の人あるいは目の見えない人。
その生活の大変さは、想像を絶するでしょう。

自分をののしることから始まります。ののしり疲れて、それとの妥協点を見出し、
そしてそれを脱却する。もちろん真の脱却は無理です。
でも脱却のような脱却はできるでしょう。それが超越ということです。
(ぼくの経験からの考えなので、違うのかもしれません。
 僕の場合は、左足の不自由さでした。右足の半分ほどの太さです。
 走るのがだめ。階段がだめ。段差がだめ。歩くのが遅すぎるなどですが)

26 無という巨大空間

しかしまあ、2週間書かないとなんとなく忘れたものが多いような気がします。

うろうろと彷徨するのが人生なんです。この般若心経 の解説も彷徨しまくっています^^

人生というものに彷徨すると、まず無常を感じますでしょう。

次に現状を肯定するために、このままでいいと思い込もうとする。

そして人生体験がすすむにつれて、自分は生きているというよろこびが
まあ増してくる。 このあたりが仏性というもんでしょうかね?

またそこから空にたいする理解が生まれてくる。


空(くう)=空(そら)=虚空と、連想でくるのですが、虚空となると大宇宙のそこばくとして
底知れない無限の世界です。 

無      だけの世界。

むかしの人たちも星の世界を見ていろんな想像をしたのでしょうが、世界を歩くといっても
ふつうの人なら100キロ程度が最大距離でしょうし、
冒険者、マルコポーロのような人でも5000キロを超えることはなかったでしょう。

現代人は数万キロをほんのすこしの時間で行き来するわけですが、
昔は数年にわたるとか、10年20年にわたるとかがふつうだったようで、
人間の価値観などもいまとはぜんぜん違うわけですね。

仏教では三千大千世界といいまして、世界の広さを示しています。

世界といっても、仏の世界なのですが、まあ穢土といわれるこの地球が
ひとつの単位の世界になります。 こういうのが千あつまると
小千世界。まずは太陽系みたいなものでしょうか?やや大きさが違うようではありますが。

その小千世界が千集まると、中千世界。
これは銀河系というべきでしょうね。

そして中千世界が千集まると大千世界。大宇宙ですね。

かなり大きな世界を考えていたようですね。

現実の地球は太陽系の惑星です。
太陽系はひとつの太陽があるだけですが、二つの太陽を持つものもあり、
三つの太陽を持つものもあり、まだよくわからないようです。
とにかく広すぎるし、星も多すぎるので。

太陽系は銀河(われらの)のはしっこのほうにあって、
太陽系のような星系が億単位で集まっています。もっと多いのかも??

われらの銀河系は大宇宙の中では標準的な銀河のようです。
銀河系が数千とか数百とか集まっているのが銀河団というものです。

わりとかたまる性質があるのですね。なんでも。人間もそうですし^^

その銀河団がまた無数というか。数のわからないほどありまして、
大宇宙がある。


ここで一言注釈を。

無限とはなにかですが。無限とは無限なんです^^

それで無限を2で割ると、あるいは10で割るといくつぐらいの数になるでしょうか??

答えは無限です。 無限というのはそういう数です。

以下はぼくの宇宙に関する知識です。
間違いが多いかとも^^;;

大宇宙の広さは推定されています。おおよそ光の速度で走ってみると、
幅がというか、直径なのかわかりませんが、
おおよそ数百億年かかる広さです。

ちなみに光の速度は、一秒で地球を七回り半します。

われらの銀河系(天の川)は光が通り過ぎるのに、10万年かかるとか言われています。

おおよそ理解も想像も絶する世界です。

この大宇宙のなかに、物質はどのぐらい存在しているか??

宇宙空間に行くと、一メートル四方に酸素なり、水素なりの元素がひとつあるといいます。
すこし違うかな?? ごみがひとつぐらいあるということでないようです。
ごみ以下の小さいものが、ひとつあるということです。

地球の大きさが一メートル四方と想像すると、そのごみの大きさは
普通の人間の大きさということです。

地球の大きさで人間が一人ぐらい。

大宇宙の平均を取ると、まあ、一定の空間にごみがひとつぐらいはある程度なのでしょうか。
ふたつ、みっつとしてもたいして差はありませんが。

真空というのはそういうことのようです。

そしてそのほこりのようなものがひとつ、ふたつ、みっつと集まっていくのです。
無数に集まるには無限の時間がかかるわけですが(億年単位でしょうか?)

それが星として成立していくのです。
地球の年齢は40億年ほどとかいわれています。
ひとつのほこりがまわりのほこりを集め始めてからなら、どれぐらいの年月が
かかっているでしょうか?

仏典で説明しているもうひとつの無限の例があります。
前に書いた、大きな石の塊を一年に一度、羽のような衣で撫ぜるといつになったら
大きな石の塊は磨耗してなくなってしまうか??でしたが

(法華経・如来寿量品ーにょらいじゅりょうほんーの比喩が有名なんです)

それによると、地球というものをすりつぶして、砂粒のようにします。
その一粒を、となりの仏国土に行くたびに落としていきます。
まあとなりの火星に行くあるいは木星に行くごとに一粒ごとというような感じでしょうか。

そしてその地球をすりつぶした全部の砂粒が落とし終わったすべての星(惑星でも、
恒星でもいいですが)を全部集めて、すりつぶして砂粒にして、その数を数えて、
その年数ぐらいの過去の時代までさかのぼって、釈尊は修行していたと、あるいは、
弟子たちを教えていたと。

こうなると、10000000000000000000000000000000000000と無限に
0がつく数字になると思います。

インド人の想像はもう途方もないものです。

宇宙の年齢が、数百億年の年数なので、(たぶん400億ぐらい
400,0000,0000年ですから、上の数字が途方もないんです)
釈尊はその前から、地球やほかの惑星で弟子たちを教えていたということになります。

まあ比喩でそう言っているだけですが、しかし途方もないはなしです。

無というものは大宇宙になぞらえることができます。
大宇宙に存在する全部の星を、砂粒にして大宇宙に撒き散らすと、やはり、おそらく、
たぶん、きっと、1メートル四方に一粒か二粒の砂粒しか撒き散らせないでしょう。

それほど宇宙は広大で、中に存在している物質は少ないんでしょうね。
というようなことをなんで?書いているのか?わからない??

それで宇宙に関する知識をネットで探しました。
ほぼウィキペディアで。

宇宙の年齢は、140億年程度だそうです。
地球から見る一番遠方の星?というか究極の果ては450億光年
それが前も後ろも450億光年あるそうなので、
そうすると、地球は真ん中になるのかと疑いますが、
そういうわけでもないのが宇宙物理の不思議なところです。

それで直径900億光年の案外と平たい、ケーキのような宇宙像
となるようです。

そうすると、上と下(宇宙に上も下も右も左もないようです)は
どうなるねん?

宇宙のビッグバンが始まってから、140億年ほどで、大きさが
900億光年ほどになるって矛盾ですからね。

宇宙はぼくらの常識感覚とはまた違った思考方法を必要とするのでしょう。
わからんもんですね。
だいたいが、光がまっすぐに進まないで、まがりくねるというのも
理解を絶しますし。

まあ、そういった具合に、大宇宙は想像を絶した世界であると!!

そして、その中はほとんどが、「無」で
物質は少ししかない。

これが仏教の提示してる問題に関係があるのかな?? ^^;;

物質を言葉とすると、大宇宙を構成している?「無」はあまりに
広大すぎて、説明できない。

ことばは有限、説明することは無限。

しかし、「無」がないとなにもできないのも事実。

これでもまだ「無」の問題には入らないのですから、
ぼくもねちこい^^^^^^^^;;;;;;


27 宇宙のリズム  「1/fゆらぎ」

「1/fゆらぎ」(Fぶんの1 ゆらぎ)は、むかしは騒がれた内容でした。

気持ちのいい音楽、気持ちのいい声、気持ちのいい風の音、波の音、には「1/fゆらぎ」が入っているといわれていました。

これは音波、音の波の波形です。ぼくもあまり知りません。

たとえばモーツァルトの音楽が「1/fゆらぎ」だらけといわれています。
病院で流れている音楽はモーツァルトが圧倒的に多い。
次がショパンでしょうか。

ベートーベンなんか出ませんよ^^
なにしろ「運命」ですけんに。


宇宙にもこの「1/fゆらぎ」があちこちで大量に存在していると聞いています。

このゆらぎが命をもたらしたのかもしれません。

たとえば南無妙法蓮華経を唱え続けること。
「題目」といいますが、これを数時間つづけると
汗も出ますが、気持ちがいいようになるそうです。
「1/fゆらぎ」が入っているのかもしれません。

法華経自体の第2章・方便品(ほうべんぽん)の初めの部分も
「1/fゆらぎ」がはいっているような
また第16章の後半の部分も

法華経の場合は、音楽的にすばらしい翻訳なので
「1/fゆらぎ」だらけといっていいぐらいに
きもちを安楽にする文章が多いのです。
全部じゃありませんよ^^

観音経に相当する第2?章では全文が
「1/fゆらぎ」入りではないかと思えるぐらいです。

南無阿弥陀仏を法然上人は一日、1万遍以上は念仏していたそうです。
数万遍におよんだことの方が多かったとか。

なんみょーほーれんげっきょーー は 比較的言い安いのですが

なむあみだぶつ→なんまいだぁ(番町皿屋敷みたい^^)は
案外といいにくいのですよね。

紀野一義先生が、大学を中途でほおり出されて、
台湾で数十人の部下を持っていたとき、
しょっちゅう、アメリカの戦闘機が飛んできて、
銃撃するそうです。爆弾も落としますけどね。

爆弾を落とした後、ついでに機関銃を撃ちまくるそうです。

そうすると逃げまくらないといけません。
あんがいと当たらないもんなんですけどね。
ぼやっとしてたら、当たりますよ^^;; 
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