2007/09/06
サポーター
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 〜充実した日々を送るために〜 第11号 (2007/09/06 発送) プログレディオール プリンシパル 今泉利英 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ みなさん、こんにちは! プログレディオール プリンシパル サポーター の 今泉 利英です。 さて、そろそろ気になっている方もいらっしゃると思いますが、僕って一体何者なんでしょう? 肩書きも、つい先日までは、「代表」と名乗っていたのに、 今日からは、この「プリンシパル サポータ−」ってのに変えてるし・・・。 僕は一体何をしたいんでしょう。 今更ですが、少し、自己紹介をさせて頂きます。 僕は、佐賀県の県庁所在地、佐賀市在住の31歳です。 東京大学・大学院を卒業後、世界的なコンサルティングファーム(会社のこと)に 就職し、そこで、システムコンサルタント、戦略コンサルタントとして仕事を した後、地元佐賀へ帰郷しました。 帰郷後は、中小企業向けの金融機関でしばらく働きました。 地元へ帰郷した原因は、厳しい競争社会からの事実上の戦力外通告と、 実母の末期がんによる危篤が重なって、精神的に滅入ってしまったからでした。 幼い頃から、「母親や父親にほめられたい」、という気分屋の性格だったため、 強い「夢」といえるようなものもなく、 「東大にいって、官僚にでもなるか・・・」くらいにしか考えていませんでした。 それも自ら主体的に望んで、というよりも、むしろ、「親の望む夢」・「親の期待」 に応えることだけが当面の目的で、そう思っていました。 「自分は一体何がしたいんだろう・・・」 学生時代は、いつもそんなことばかり考えていた気がします。 色々なアルバイトもしました。 交通量調査のバイトやら、引っ越しのバイトも、ビヤホールのウェイターもやりました。 塾の先生のバイトも、家庭教師もやりました。 結局、国家一種試験という、キャリア官僚採用試験の時期がやってきました。 地元の親は、相変わらず期待しています。 とりあえず、また試験勉強をし、なんとかこの試験にもパスしました。 しかし、なんだか、まだ釈然としません・・・。 「自分は一体何をしてるんだろう?」 そんな面持ちで面接に向かいました。 見事に見抜かれましたよ。 経済産業省の人事担当者も馬鹿じゃありません。 「君が本当に官僚になりたいと思ってるのか分からない・・・・」 見事に射抜かれました。 その通りでした。 恥ずかしい話ですが、面接の途中、日比谷公園から、親へ電話を掛けました。 自分に官僚になってほしいと思っている親なら、 「なぜ、自分に官僚になってほしいと思っているのか知ってるはずだ」 そう思ったからです。 ところが、その電話でいくら会話をしても、その動機は見えませんでした。 いや、むしろ、遥か以前から見えきっていたともいえるでしょう。 「自分と同じような苦労だけはしないでほしい」 私の期待とは裏腹に、「純粋な親ごころ」しか、見えませんでした・・・。 私の両親は、地元佐賀で、小さな電気工事の会社を営んでいました。 いつも社員や会社のことで、どなりあったり、いがみ合ったり、がまんしたり していました。 「自分と同じような苦労だけはしてほしくない」 このような親ごころは、今思えば本当にありがたいことでしたが、 だからといって、自分の「夢」とは全く次元の異なるものでした。 経営コンサルタントになれば、苦しい実家の稼業も救えるような、 素晴らしいアドバイスをできる先生になれるかもしれない・・・。 結局、自分のモチベーションはそちらへ向かいました。 念願かなって、世界的なコンサルティングファームへ就職し、 システムコンサルタントから戦略コンサルタントへ転身し、 さぁ、これから、華々しく世界を舞台に羽ばたくぞ! と思った矢先でした。 「あと一か月もつかどうか・・・・」 帰省した折に付き添っていった母の大学病院の主治医の先生のお言葉でした。 結局母はそれから1年半近く、力を振り絞り生き抜きました。 母はとても我慢強い女性でした。良妻賢母を絵に描いたような人間で、 高校時代には英語のスピーチコンテストで優勝する類の才女でした。 もともと比較的豊かで、才能あふれる家系の出で、 父(私のじいさん)は、一橋大学を出て、貿易会社を営み、 兄弟(私のおじ)は、東京大学を卒業し、内閣府に勤め、東大の教鞭も 握ったような秀才でした。 ところが、突然その兄に襲いかかった不幸(病気)に、事態は一変しました。 兄の病気を治すために奮起した父(私のじいさん)は、 自らの全財産・全資産をかなぐり捨てて、全力で「取り戻そう」としました。 母には、実家もなくなり、返る場所さえなくなりました。 結婚後は、3人の子供を産み育て、野心家の夫を内外で支え、 姑の面倒も見ました。 欲しい服の一枚さえ、買ったことを見たことがありません。 倹約家で、まったく贅沢などしませんでした。 我慢して、がまんして、がまんして、ようやく、 「充実したセカンドライフ」を過ごせるはずでした。 母は享年62歳でした。 62歳の誕生日の3日後に旅発ちました。 みなさんも、母と同じ時代を生き抜いてこられた方々だと思います。 多かれ少なかれ、似たような苦労や辛酸を味わってこられたと思います。 そして、今、このメルマガを読んでいらっしゃる、ということは、 少なくとも、まだ、天命を全うするには、「余力がある」ということでは ないでしょうか? 病は突然やってきます。それは事故かもしれません。 でも、あなたはまだ「生きている」ではありませんか? 私が母にしてあげられなかったことを、世界中のすべての母と同世代の方々に ひとりでも多く提供していきたい。 それだけでしか、もはや、親孝行もできなくなってしまいました。 私は、単なる「情報屋」ではありません。 私は、みなさんとともに、 みなさんが自分らしさを取り戻し、充実したセカンドライフを進む旅の、「サポーター」でありたい、 と考えているのです。 それが、プログレディオール プリンシパル サポーター 今泉 利英です。 興味を持たれた方がいらっしゃったら、是非ご一報ください。 また、単なるご意見・ご感想・ご相談などでも全く構いません。 (ご家族の方もどうぞ) みなさんの声、お待ちしています。 それでは、失礼いたします。 *************************************** プログレディオール プリンシパル サポーター 今泉 利英 ご意見・ご感想・ご相談など どしどしお寄せ下さい ⇒ toshipapataemama@vb1.bunbun.ne.jp ***************************************


