2009/07/10
身体哲学からの提言(旧 「疲れた身体、疲れた心を癒す呼吸法!」)
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*==*=*=*= 身体哲学からの提言 (旧 「疲れた身体、疲れた心を癒す呼吸法!」) 身体哲学研究所 http://body-mind-philosophy.org/ 湧氣塾 http://www.you-ki-juku.co.jp/ =*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*==*=*=*= <身体哲学研究所通信第3号> □■―目次――――――――――――――――――――――――――――――――■□ 1.【第2回 身体哲学研究所活動報告】”身体哲学とは” 2.所長と研究員との対談 <研究員:堀井一弘>2 3.湧氣塾からのお知らせ 4.塾長の著書の紹介 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― みなさんこんにちは。 身体研究所研究員兼湧氣塾塾生のKです。 本日もメルマガをお楽しみください。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 1. 【第2回 身体哲学研究所活動報告】”身体哲学とは” ――――――――――――――――――――――――――――――――――― こちらのコーナーでは、今回からしばらく、 身体哲学研究所とはなにか、について お伝えしていきます。 今回は、”身体哲学とは”についてです。 ある人に、哲学の主要なテーマとして“生と死”の問題がある以上、 哲学には身体が含まれているのではないですか。 それなのになぜあえて“身体哲学”といわなければならないのですか。 と聞かれました。 この問いには私たちが身体哲学研究所を立ち上げた 問題意識の核心が隠されているように思われます。 確かにギリシアの哲学でも身体はある程度は問題にされました。 ロック、バークリー、ヒュームといったイギリスの経験論哲学は 感覚を哲学の柱にしましたし、フランスのベルグソンや メルロ=ポンティあるいはバタイユ、フーコー、ドゥルーズといった哲学者たちは より自覚的かつ総合的にある意味で身体の哲学を展開しています。 またドイツにしてもディルタイ、ニーチェ、ジンメルといった生の哲学 といわれるものは明らかに広い意味で身体の哲学です。 生の哲学の源流はドイツロマン主義ですが、 そこでは形態学を興したゲーテやクラーゲスが それこそ解剖学に則り身体の基本構造の解明に迫っています。 しかし、西洋哲学の身体への探求はどこまでも言語を介しています。 伝統的な西洋哲学という言語の世界の探求を 極限までつきつめたのはハイデガーでしょうが、 “言葉の最も根源的な様式は「沈黙」である”(『存在と時間』) と書いたハイデガーも結局最後まで言語から開放されることはありませんでした。 ロゴスとラティオをベースにした西洋哲学にとってこれは当然の帰結といえるでしょう。 では、言語を介さずに直接に身体を(人間を、存在を)探求する方法はないのでしょうか。 いやあります。東洋の行法がそれに当ります。 その中で最も高いレヴェルで完成されたものはおそらく仏教行法でしょう。 この方法によって感じ取られ観えてきた身体を私たちは“内部身体”と呼んでいます。 この“内部身体”は「直覚身体」とも「直観身体」とも呼ぶことの可能な身体です。 “内部身体”はあるレヴェルまで達すると世界全体、 あるいは宇宙につながっていくので「内部世界身体」、 あるいは「内部宇宙身体」と呼んでもいいのですが、 ハイデガーの「世界内存在」と区別するためにも、観念的なものに、 思弁的なものと誤解されないためにも“内部身体”と呼んでいます。 また、この“内部身体”は文字通りの意味で 主体の確立された身体でもあるのですが、 「主体身体」というと、西洋の主体・客体という対立概念における 主体ととらえられかねないのでこれもやめることにします。 “内部身体”にあい対する概念は二つあり、ひとつは“外部身体”で、 その典型は医学や科学があつかう「外部対象的身体」、 一般にいう「客観的な身体」です。 そして、もうひとつは、言葉を介した身体への対象化 というアプローチによって立ち現われる“間接身体”なのです。 その意味で“内部身体”とは人間にとっての“直接身体”だ ということになります。蛇足になるかもしれませんが、 “外部身体”とは知覚によって対象化した身体という意味で、 “間接身体”だということです。 鏡で見た自分の身体(間接身体)はすでに自分の身体(直接身体) ではないということです。 しかし、ここですべてをふり出しに戻すような難題にふたたび直面することになります。 “内部身体”、すなわち“直接身体”の感覚、手ごたえ、感応、 あるいはそこでの風景、情景はそのままのものとして 言語化できないのではないかということです。 その通り、できません。 まず、“内部身体”の本体は無意識の身体ですから、 一人称化した主観的表現としても客観的な指示表出(伝達) としても言語化できません。 しかし、私たち身体哲学者はこの前に立ち止まらずに ある意味では不可能への挑戦として前に進もうとする者たちだと思って下さい。 ここではひとまず三つの道を考えています。 ひとつ目は文字通り文学的エッセイとして語ることがありうると思っています。 しかし、ここには多少exclusiveな条件が付け加えられます。 まず、私たちの主宰する身体哲学道場の行法(呼吸身法)あるいは、 それに準ずる身体行法をあるレヴェル以上の水準で 日々実践している人があくまで身体表現、身体表出として書くこと。 もう少し詳しくいうとあるレヴェル以上の身体能力の持ち主、 すわなち“言語知”(頭脳知)を相対化しうる“身体知”を 確立するレヴェルまで行法を修めた人が書くということです。 しかも、その内部身体に立ち上がってくることを虚構化せずに ありのままにイマジネーションやフィクションを極力交えずに書くということ。 したがって、ここで文学的とは詩的に美しくということでも 小説的におもしろくということでもありません。 例えばそこで参考になるのは道元の『正法眼蔵』です。 “内部身体”の言語化への挑戦への二つ目の道、 それは“内部身体”で実感したことを理念化あるいは理論化すること、 あるいは逆に言語の理念化の解体、脱理論化を行うことです。 おそらくそれは言語によるもっとも本質的な哲学的創造だと思っております。 このことは自然科学のそれのようにその理念も理論も 固定化することがともすると命取りになってしまうようなことを おのずと避ける最高の意味で人文学の総合知への 飽くことなき挑戦になるであろうと思われます。 ここで参考になるのはシャカや大乗教典の言葉、禅語録、 老子、荘子の言葉、およびエックハルトやマルチン・ブーバなどの 神秘主義哲学者の言葉でしょう。 もうひとつ最後に、“内部身体”の言語化への三つ目の道も私たちは考えています。 この道はある水準の“内部身体”が確立された時に“内部身体”と パラレルに現われる“外部身体”を理論化する方法です。 さらには、ある水準に“内部身体”(身体知)を高めるための方法、 あるいは方法論としての言語の構築ということです。 したがって、この第三の道は、厳密にいえば“内部身体”そのもの(内実・時間と空間) の言語化ではなく、“内部身体”を成立させる構造物(伽藍)の構築法 についての理論だと、さらにいえば、ある身体的高みまで登るために、 仮に創る“はしご”の創り方の理論だと (当然この“はしご”は高みまで登った時点で不用になります。)いえるかもしれません。 最後にまとめておきましょう。 身体について展開している従来の西洋哲学は、 言語を介してあくまで身体に“ついて”の哲学であり、 私たちのいう直接的な身体“の”哲学ではなかった。 そこで、行法に慣れ親しんでいる日本人(東洋人)である私たちは、 これまで西洋にはなかった身体(の)哲学を西洋近代の ラショナリズム(理性主義・合理主義)にしばられずに 頭脳的だけではなく、身体的に、そして実践的に試みようというわけです。 いい換えれば、身体について対象化して客観的に語りうること、 つまり“外部身体”については、とことんexplicite(明瞭)に語り、 客観的に明瞭に語れないこと、体験を通さなくては語れないこと、 つまり暗示的(implicite)にしか語れないことは、レトリックを用いずに、 ゴマカサズ、韜晦(トウカイ)せずにとことん突きつめて、 示唆的に、しかし、あくまで真摯に語るということです。 もうひとつ最後に身体哲学について大切なことを付け加えておきます。 頭脳知の世界ではイノセント(innocent)つまり、「無垢」、「無邪氣」は しばしば「お目でたい人」、「まぬけ」、「アホ」というネガティブな意味になります。 確かに頭脳知の哲学者にとってイグノランス(ignorance・無知) に通じるイノセントは悪徳であるのかもしれません。 しかし、身体知をめざす身体哲学者にとってイノセント(無垢・無邪氣)は 最大の美徳なのです。 なぜならば、身体知は最終的に邪氣(狡知・分別知)の対極にある 不邪氣な正氣(無分別知)に満ちた世界をめざすからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 2.所長と研究員との対談 <研究員:堀井一弘>2 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― このコーナーでは、所長とともに 身体哲学に取組もうと研究所に参画した研究員と、 所長との対談をお送りします。 今回は先週に引き続き、堀井研究員との対談です。 堀井研究員については、こちらから。 http://body-mind-philosophy.org/member/ K:「前回は、堀井研究員からの “悟るために本来苦行は必要なんですか“という問いに所長が…。」 所長:「“悟るために苦行が必要だ”というロゴスの構造自体が 言語に規定された西洋哲学的な世界の発想で、 それは行法的身体の世界にはふさわしくない。 なによりも、“真理はひとつある”という問題設定が 言語が仕組んだものである。 身体は一人一人違うのだから、悟るということも一人一人違うはずで、 しかし、死を覚悟せざるを得ない難行、苦行をそこにもってくると ほとんどの人が納得してしまうというわけです。」 K:「だから、死ぬ可能性のあるような行、 つまり、“苦行をすれば悟れる”といういい方が 言葉のトリックだと僕がいったら、所長がそれはそうなんだけど、 やっかいなことにそこにもある真実があると…。 確か、前回そこまで行って、ではその真実とは何なんですか と私が聞いたところで、終っていたはずですが。」 堀井研究員:「はい、そうでした。」 K:「では、その続きを所長さっそく説明して下さい。」 所長:「衣食住の満たされ、死の危機感から解放された 人間の身体の最大の欠点は、環境になれてしまうことです。 “なれる“は普通“慣れる”と書きますが、 私は“なれる”という言葉を“狃(な)れる”や狎(な)れる”と書くこともあります。 “狃(な)れる”や“狎(な)れる”という字は、 人や環境に対してなれて気ままになったり、あなどるようになる感じ、 ともかくなれっこになって感覚が甘くなった感じが 多少表わせるかと思っているからです。 つまり、飽くことなく感覚が甘くなっていく人間の身体を、 ピリッとさせるのは簡単で、多少とも死の恐怖感を感じさせる“場” に置くことなのです。 人間の身体には無意識に属する自然とつながっている部分と、 意識と欲望にひきずられた自分(自我)としての部分があります。 死を目の前にすると、初め意識的な自分が多少動揺しますが、 次第に腹がすわってきて無意識の自然と通じた 身体的自己が優勢になってくるのです。 そんなわけで、死がちらつく苦行が普遍的な意味でも 自己を脱却する契機になり得るというわけです。 しかし、今、伝統的なお寺で行われている行で 死ぬ人はいないでしょう。」 堀井研究員:「昔はいたんですか。」 所長:「たくさんいました。 白隠禅師の墓の回りに、小さな石の墓が点在していますが、 それらはみな、修行半ばで死んでいった若い僧侶の墓なのです。 文字通りの難行苦行ならば、当然そういうことになりましょう。 しかし、現在使われている難行苦行という言葉は、 さっきK君がいった言葉の世界の仮想としての“難行苦行”になっていて、 本当は難行ではなくて易(い)行(ぎょう)だという人もいます。」 堀井研究員:「易行って、“平易な行”、やさしい行だという意味ですよね。」 所長:「そうです。 ただ、法然や親鸞といった浄土系の人たちは、 誰にでもできる念仏行を易行といっています。」 K:「だから、現在お寺で行われている難行苦行は 形骸化した形式にすぎないと…。」 堀井:「なるほど、よく分りました。」 所長:「堀井君は、私の説明というより、 K君の言葉にえらく納得している様子ですね(笑)。」 堀井:「両方です(笑)。 それでさきほど所長から、悟りという言葉が出ていますが、 私の今回の研究テーマは、”呼吸身法と悟り”としました。」 所長:「それはまた、壮大なテーマですね(笑) しかし、その真正面から取り組もうとする姿勢は、 堀井君らしい。」 堀井:「ありがとうございます(笑) ハードルは高いかと思いますが、頑張りたいと思います。 私はドイツ哲学の研究やいろんなところでの行の体験では飽き足らず、 ようやく湧氣塾に出会うことができました。 そしてこの身体哲学研究所では、なんとか言葉を超えた哲学を 見出したいと思います。」 K:「堀井さん、素晴らしい意気込みですね。 ところで所長、一般的な現代の寺で行われている坐禅をはじめとした行と、 坐禅身法などの湧氣塾での行とでは、一体なにがちがうのでしょうか。」 所長:「分りやすくいえば、湧氣塾では、身体の個別性を前提とした 指導をしているということでしょう。 伝統的な寺では、坐る環境はそれなりにすばらしいのですが、 臨済宗なら臨済宗、曹洞宗なら曹洞宗、 また、建長寺なら建長寺、円覚寺なら円覚寺の 代々踏襲してきた方法を、ほとんど一様に指導します。 これでは行が形式化してしまっているといっても なかなか返す言葉がないでしょう。 本来、10人いれば10通りの指導の仕方が必要なのです。 悟るというのも10人いればみな微妙に 異なっているのが本当なのですから。」 堀井:「それはとても身体的ですね。 西洋哲学では、ロゴスにしばられている分だけ たったひとつのことを真理としたがりますから。」 所長:「よく”一流になるには一流から学べ” と言いますが、それは芸を興した人、武道を創始した人、 禅でいえば悟った本人から直に学べということで 形式を学んでも何にもならない。 形式というのは身体でいえば死んだものですから。 結局のところ、どんな方法であろうとも、 本当に指導者が一流ならば、弟子は育ちます。 そして一流の指導者というものは、 必ず個別のふり幅を調整していて、 状況に対応した指導をしているものです。」 K:「時に所長が、まるで正反対のようなことを仰るのも、 そういうことだったんですね。」 所長:「そうですよ。今頃気づいたのかなK君は(笑)。 例えば私はある時、ある人に対して“足の骨が一番大切だ“といい、 またある時、ある人に“腰の骨、仙骨が一番大切だ”といい、 さらにある時、ある人に“アゴの骨が一番大切だ”といいます。 これは決して煙に巻いているのではないのです。 その場にいるその人には、分るようにいっているのです。」 堀井:「出発点のところに戻りますが、 西洋哲学も言語の限界に氣づいてはいると思うのですが、 解決法が見出させないでいると思うんです。 そういう意味では、東洋、特に日本は ものすごく可能性があると思いますが。」 K:「特に日本、というのはどういうことでしょうか。」 所長:「それは、幕末から明治の頃、 19世紀の半ば頃から短期間で、 西洋文化をひとまずマスターできた東洋の国は、 インドでも中国でも韓国でもなく、日本だったのです。 しかも、日本は世界でもめずらしい文武両道の国ですから。」 K:「文武両道って、頭と身体のバランスが取れた 知ってことですよね。」 所長:「西欧近代の知はレヴェルの高い言語知(頭脳知)ですから、 これをマスターすることがまず大変なんです。 しかし、次にこの言語知を身体性を失わずに獲得することは さらにむずかしい。」 堀井研究員:「それを明治時代の漱石、鴎外は実現してきたのですね。」 所長:「さすがに堀井君、そういうことなんです。 そして、西洋的な言語を中心とした合理的な近代文明を 完全に取り入れられなければ西洋の頭脳主義や、 合理主義を批判することもできない、いわんや乗り超えることなど 不可能だということでしょう。」 K:「日本こそが、21世紀の新しい哲学、身体の哲学を打ち立てる国に ふさわしいということですね。」 所長:「ナショナリスティックな発言にならないように 気をつけなければならないと思いますが、 私たち日本人にしかできない歴史的な役割りというのも あると思いますから、“日本人よ氣骨をとりもどせ”ぐらいは いいたいですね。」 堀井:「今日はいろいろとありがとうございました。 今後の研究にいろいろと参考になりました。」 K:「この対談は2009年4月に行いました。 前回と(2009年7月3日)と今回(2009円7月10日) のメルマガに載せたものは4月の対談のテーマをもとに 僕がドラフトを作り、後に所長と堀井研究員が 修正して出来上がりました。 次回は、その前回と今回のメルマガを改めて読んで感じたことを、 追加のまとめとしてまたお二人に語っていただきたいと思います。」 所長:「それは大変いい試みですね。 普通、言葉だけの哲学だと、一回言ったことは 訂正や付け加えがきかないことになりがちですが、 これは本当はおかしいと思うんです。」 K:「身体哲学は、どんどん付けたしていい、訂正していい、 変わっていってもいいんですよね。」 所長:「はい、いいんです。 身体が変われば考えも変わりますから。」 K:「僕にぴったりだ(笑)。」 堀井研究員:「それを聞いて僕も少しほっとしました(笑)。」 所長:「けっこうイイカゲンでもいい。 でもできれば“良い加減”に“足し”たり“引い”たりして欲しいんですが(笑)。」 K:「では次回もよろしくお願いします。」 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 3.湧氣塾からのお知らせ ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 1.湧氣塾からは、2本のDVDを発売しています。 ご興味のある方は是非お求めになって、 日常の中でご自身の身体を調整してみてください。 ・DVD 『坐禅身法』 『女性身法』 詳しくはこちら http://www.you-ki-juku.co.jp/dvd_info.html 2.女性身法チケット制導入ついて 購入後、二ヶ月間有効のチケット(4枚綴り)ができました。 忙しくて行きたいけど、なかなか時間が取れないという方、 この機会にぜひご利用下さい。 詳しくはこちら http://you-ki-juku.co.jp/femail.html ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 4.塾長の著書の紹介 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 『脳ひとり歩き時代 ヴァーチャル脳を身体が救う』(河出書房新社) 『「阿修羅」の呼吸と身体-身体論の彼方へ』(現代書林) 詳しくはこちら http://www.you-ki-juku.co.jp/chosho_info.html ------------------------------------------------------------------------ ●発行者 身体哲学研究所 http://body-mind-philosophy.org/ 身体哲学道場 湧氣塾 http://www.you-ki-juku.co.jp/index.html ●バックナンバー http://blog.mag2.com/m/log/0000239398/ ●お問合せ:info@you-ki-juku.co.jp ----------------------------------------------------------------------------- この情報はまぐまぐの無料メルマガ配信システムを利用して、 ご希望いただいた方に配信しています。 万が一ご登録の覚えがない場合は、 お手数ですが以下のページにアクセスし、 配信を解除してください。 http://www.mag2.com/ * ご意見、ご感想など、ぜひお気軽にお寄せください。


