第37回 場のお話(その4)
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ばなな先生の
こどもとおとなのための
おきらく 作文教室
NO.37
2008.2.22
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こんにちは。
「作文教室ばなな」の講師
「ばなな」ともうします。
いよいよ
「場」についての
最終回となりました。
最後までお付き合いいただいたことに
心より感謝いたします。
この話を、一週間以上、
朝から夕方まで、
遊び遊び(笑)
書き続けていましたが……、
面白いことに、
自分の中でバラバラだった
教育に関する考えが
どんどん統合されて、
ある一つの形にまとまっていく
のがわかりました。
それは、自分にとっては
生まれ変わりの作業に似ていて、
不思議な時間でした。
ひとえに
このPCの向こうにいらっしゃる、
皆様のおかげです。
誰かがこれを読んでくれている、
という意識がなければ、
自己の混乱やその難解さから、
わたしなりの回答を出すことを
やめてしまうところでした。
この場を借りてお礼申しあげます。
本当にありがとうございました。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
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場のお話(その4) 書くことが場をつくる。
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わたし自身のためのおさらいです。
場とは、中心から、
波のようになった
(知恵)エネルギーが及ぶ範囲
をさします。
場の例として、
算数の難問をあげました。
最初の一人が解けたとたん
教えてもいないのに、に次々に正答者がでてくる、
というあの事象です。
最初の一人を育てることで
知恵は、フィードバックされ、
やがて自己増殖していきます。
場は、生き物です。
場の中では、
最初に成功していく人、
それらを解説する人、
後からついてくる人など、
自分の適性に応じて役割が生まれます。
それが個性です。そこに優劣はありません。
最初の一人を応援すると、
そのフィードバックが
自分にも返ってきます。
個人主義的な価値観には限界があり、
今後、
日本固有の『場』という考え方は
大変有効になるようです。
しかし、『察する』『空気を読む』
『リーダーの顔色を伺う』
など、従来のあいまいな場では、
決して上手くいきません。
これからの「場」は、
リーダーが方向性を明らかにし、
参加者も場への参加意志や貢献を
明確にすることが大切です。
そのためには、
本質的なことを話し合ったり、(対話)
場に積極的に関与する(コミットする)
ことが大切です。
また、場は遊び、食などの
「楽しさ」「喜び」に、
反応します。
(まるで、場は、それらを食して
成長しているかのように)
また、ときには、リーダーの役割交換も
場の新陳代謝には有効です。
という話でした。
当初、場の説明は、
3回目まででおしまいにするつもりでした。
ところが、書いているうちに、
『場』に参加できない人が増えているのは
何故だろう、という疑問が大きくなったのでした。
場に参加できない人。
授業をしないで、教室で遊んでいる子、
会社の飲み会に参加しない社員、
といった、場にいても同化しない人から、
それこそ、学校に行かない人、
仕事をしない人、など多種多様です。
それらの理由を分析できるほど、
わたしは物事を知りません。
しかし、わたし自身が現在、
似たような生活をしていることから、
彼らは、場に対して
『不信感』や『警戒心』
のようなものを感じていることは
容易に想像できます。
実際に、
肩書きもなく、
生活基盤の保障されていない、
今のわたしは、
まっとうな人から見ると、
「場」への参加を拒否しているように
見えるようです。
しかし、
こうしているからこそ、
分かったことがあります。
それは、
「場」から離れている人ほど、
正確かつ客観的に
場の本質をとらえることができる
と、気づいたのでした。
例えば、
教育に関して連日
様々なニュースが報じられています。
学習指導要領の改訂など
かなり大きなニュースも舞い込みました。
しかし、現場の人は、
自分の今の仕事との関連で物を考えます。
目の前のこどもで
精一杯だからです。
わたしも教師をしていたときは、
自分たちが負担となりそうなところだけ、
大変だ、忙しくなりそうだ、
とぼやいていました。
離れてぼんやりと見ると、
明確に分かります。
したがって、
不登校の児童、ニートの若者が、
学校や社会、という「場」を見ていない、
と考えるのは早計です。
むしろ安易に、
『場』にあわせて
自分の考えを変えてしまう方が
場に適応することに精一杯で、
全体像を見失っているのかもしれません。
わたしたちは、彼らを
「我がまま」「無責任」と否定する前に
その声を聞く必要性を感じます。
不登校の子どもたちの「目線」こそ
学校を変える有効な切り口
かもしれません。
ところが、引きこもったり
学校に行ったりしない、
そんな感覚のシャープな人の特色として、
言語化することが苦手です。
苦手というより、
もしかすると、言語化することは、
難しいのかもしれません。
あるいは、
その感情を表現するために
適した言語がないのかもしれません。
わたしも仕事を辞めた理由をよく聞かれます。
「要するに学校がイヤだったんでしょ?」
そう乱暴に結論づけられるのです。
ちょっとニュアンスが違うので、
説明しようとするのですが、
上手く伝わりません。
分かってもらえたようでも、
かみ合っていないことがあります。
反省すべき点はわたしにもあります。
軸がない、のです。
どうしたいのか、
どうなりたいのか、といった
方向性があいまいだったりしたのです。
そういう双方に軸のない会話は、
「もどかしさ」ばかりが表にでます。
こうしたやりとりは、日本にいながら、
外国の人と話しているようです。
不登校の子にそのことを説明したら、
「なんとなくわかる」と
賛同してもらいました(笑)。
その子も、
学校の先生に言う言葉、
親にいう言葉、
信頼できる人に話す言葉
それぞれ違う、というのです。
言ってみれば、バイリンガル状態です。
そんな現代事情を加味してか、
国語科では、
「聞く・話す」
という観点が現行の指導要領に
設けられています。
「よい場」をつくるためには、
必要不可欠な能力です。
ところが、一歩間違うと、
同じ日本語で「話して」いるのに、
分かり合えない、理解できない、
といったことが生じるのです。
日本語が、
主語のわかりにくい、あいまいな言葉体系
であることも原因でしょうが、
わたしは、
コミュニケーションが、様々な要因で、
言葉だけのやりとりだけになりさがっている
せいだろう、と考えています。
今度の学習指導要領の改訂で
小学校で英語が必修になるといいます。
もともとAET学習などをしていたので、
現場には混乱はないでしょう。
しかし、わたしが気になるのは、
英語が好きな子の中にわりと、
コミュニケーションを
おっくうがっている子がいたことでした。
『英語を話す方が日本語を話すより楽でいい』
真顔でそういった子もいました。
話を聞いていると、
「今何時ですか?」「6時です」
などと、英語が、感情表現や
心情説明をしない言葉だと
思っているのです。
本当に人に何かを伝えたいのであるならば、
自分の心情や感情を表現しなくてはなりません。
相手の心情や感情を理解しなくてはいけません。
そういったことが、様々な理由で
めんどうなのです。
その子だけを責める問題ではありません。
実際、その子の保護者が過干渉だったりしたので、
そう言うのもうなずけるのです。
言葉は、道具であり、
大切なのは、『その向こうにある相互理解』
本当に『話す』とは何なのか。
わたしたちは考えなければならないのです。
意味の分かる日本語でさえ、
「いみわかんねぇ」と一蹴してしまう今、
本当に必要なのは、英語なのでしょうか。
先日、知人から、
バイリンガルの苦悩
というのを聞きました。
あれだけ、多才な人にも
苦悩があるんだな、と驚きました。
特に、小さくしてバイリンガルになると、
大なり小なりのアイデンティティークライシス
(自分がなんだかわからない状態)
を経験するというのです。
言語はともかく、価値観が違うのは、まいった、
とその人は言います。
家ではグッド!な行為が、
一歩外に出たらバッド!
になる。
自分が『何者』なんだろう、
と悩むそうです。
よって立つものがない。
不登校の子や引きこもっている子、
わたしのように立ち止まっている人間は、
自分が何者かよくわからない、
という
「アイデンティティークライシス」
を起こしている状態です。
つまり、
「自分語」がない状態なのです。
そんな状態の自己を
それこそ場の誰かに説明しても
なかなかわかってもらえないでしょう。
それは、外国に行き、
日本語を知らない外国の方に
深いコミュニケーションを求める
ことに似ています。
もしかすると、不登校の子は、
学校が外国になっているのかもしれません。
そこでの
自分を認め。
自分の有用な視点や
個性的な価値観を認めるために。
やはり、
自分語の獲得が必要です。
それは「かく」ことによって
深められていく気がします。
絵でもかまいません。
文章でもかまいません。
何かのオブジェをつくってもいい。
体で表現してもいい。
誰にも見せる必要はありません。
誰かにジャッヂしてもらう
必要もありません。
ただ心のままに表現する。
そうして自分の見方
考え方、視点、感性……。
「自分語」を
獲得していくのです。
そして、自分語の語彙を増やしていく。
いつか場に持ち寄り、シェアするために……。
わたしたちには、「場」が必要です。
その場で、自分らしく自己を表現する。
それこそが、
「生きる」ということでは
ないでしょうか。
自分語を理解しようと
耳をすましてくれるところ、
これこそ、「場」だと思うのです。
わたしたちは、じつは、聞くことが
もっとも苦手です。
「対話」は、
相手の話を聞くことが基本です。
決して主張することではありません。
聞くことなのです。
聞き終える前に、ついジャッヂしてしまいがちです。
あるいは、始めから答えが決まっていて、
それ以外のものは
「無視」してしまうきらいがあります。
耳をすます。
耳を傾ける。
その声を決して、ジャッヂしない。
もし、可能であるのならば、
相手を認める言葉をそえてかえしてあげる。
じつは、『場』というのはそれだけで
成り立つのかもしれません。
長い、長い場の話でした。
最後まで本当にありがとうございました。
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編集後記(長いです)
「場」の話を書き始めたのと同時に、
河合隼雄さんの
『泣き虫ハァちゃん』という本を
書店で見つけ、衝動買いしました。
氏の初の自伝的小説であり、
最後の作品、だそうです。
わたしは、著書でしか、氏を知りませんが、
氏が審査員をされているという理由だけで、
ある児童文学の賞に
応募し続けたことがありました。
他の著書の中で、何度も
「自分には物語は書けない」
とおっしゃっていましたが、
わたしは、いつか、氏は
物語を書くのだろうな、
と思っていました。
しかし、その時期は
人生という場の
極めて終焉に近い時期なのだろうな、
と勝手に想像していました。
ですから、その本を手にしたとき、
その本のもつ意義を
深くかみしめました。
やはり、最後は
ユングでも心理学でもなく
自己の物語、
しかも子どものころの物語なのだろうなぁ、
と感慨に浸りました。
そのことをきっかけに、
最近忘れかけていた、
自分が「児童文学」
を選んだ理由を思い出しました。
シンプルなのに、
人類の普遍性や人間としてのあり方を
まっすぐに唱えることのできる、
数少ない世界。
だから、
わたしはそこを選んだのでした。
たましいの物語。
氏はファンタジーをそう言っていました。
氏は、自分のたましいの声にひかれて、
ここに、自己が幼かった頃の物語を
つむいだのでしょうか。
そう思うと、あまりにももったいなくて
この物語を読むことができません。
やっぱり人は、「かく」存在なんですね。
いかなる人にもある、「かきたい」
という想い。
わたしはそれを
応援する人になりたいなぁ
と再認識しました。
さて、『ハァちゃん』……。
その背表紙をしばらくながめる生活が続きそうです。
最後までありがとうございました。
発行人 <「ばなな作文教室ばなな」講師=小塙 雅多加 >


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