2008/12/16
サンスクリット原典で読み解く「ヨーガ・スートラ」!第73号
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yastyaktvaa ruupamaadyaM prabhavati jagato'nekadhaa'nugrahaaya
prakSiiNaklezaraazirviSamaviSadharo'nekavaktraH subhogii |
sarvajJaanaprasuutirbhujagaparikaraH priitaye yasya nityaM
devo'hiizaH sa vo'vyaatsitavimalatanuryogado yogayuktaH ||
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サンスクリット原典で読み解く「ヨーガ・スートラ」!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 2008.12.16. ◆ 第73号
目次
◎ 特集「クリヤーヨーガ(kriyaayoga)の鼎立について」
part 2
◆「スヴァーディヤーヤ」
◎ 編集後記・次号の内容
=◎ 「クリヤーヨーガ」の鼎立について part 2 ===========
こんにちは。
「サンスクリット原典で読み解く「ヨーガ・スートラ」!」
の発行者、誠です。
前号に続いて特集号、「クリヤーヨーガの鼎立について」の第2弾、
「スヴァーディヤーヤ」についてです。
前号同様、「長文注意報」発令中です(笑)。先が長いですので、
腹ごしらえを済ませてから(笑)読み進まれてください・・・
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◆「スヴァーディヤーヤ」
前号の続き「クリヤーヨーガ」のふたつめ、そして私が正三角形の右の
底角に位置づけた、「svaadhyaaya スヴァーディヤーヤ」についてです。
この「スヴァーディヤーヤ」、前の「タパス」が「苦行」と見做される
のと同様、伝統的には特に「ヴェーダ聖典の学習」を指すとされます。
ですが、元の単語の意味は2:1解説で触れましたように、
「自身の」などを意味する「sva スヴァ」と、「読むこと、学習、章」
などを意味する「adhyaaya アディヤーヤ」とからなっており、
私はその点に鑑みて、より単語の直訳に近く、また意味を広いイメージで
捉えることのできる「自身の学習」と訳してみました。
以下は前号同様、大本の単語の意味などから、ヨーガスートラが本来
この言葉に込めてくれたであろうところを読み取ってみたいと思います。
(2:1、「スヴァーディヤーヤ」の単語の意味、意図解説バックナンバー
http://archive.mag2.com/0000235863/20080110090000000.html)
さて、この「svaadhyaaya スヴァーディヤーヤ」、上に書きましたように、
伝統的にはヴェーダ聖典の学習とされましたが、後世ではヴェーダ以外の
聖典も増えましたので、特にヴェーダとこだわることなく、現代ではこの
名前をつけた出版社もあるぐらいで、広く教典、聖典の学習を
「スヴァーディヤーヤ」と見做すようです。
ところが、これまた単語の大本の意味が示すように、私は「自身の学習」
がこの「スヴァーディヤーヤ」であると思うのです。
以前、「現在・過去・未来、全てのことが自分と無関係なことはないので、
あえて「教え」を垂れる世界でなくても、どんなものごとからでも啓示を
受けることはできる」と書きましたが、
見る目、受け取る感性など、受け取る側の条件が備わりさえすれば、
森羅万象が「聖典」であり、教えを垂れていないものはない、と言えると
思いますので、あえて説かれた、書かれた「聖典」で学習する必要もないの
ですね。
この、森羅万象、どんな事物をも「聖典」として学ぶ態度が、本来の
「スヴァーディヤーヤ」であると、私は思います。
(第62号「閑話休題」コラム
http://archive.mag2.com/0000235863/20080131100000000.html)
ですが、それには「受け取る側の条件さえ備われば」という前提があり、
漠然としすぎて、普通はなかなかそうも行かないので、その「教え」を
語ることに特化して作られた、教典、聖典を学習するのが一番
分かりやすく、手っ取り早い方法であると言えるわけです。
この点を踏まえて、このスヴァーディヤーヤに関する一般的な
考え方をいくつか挙げて、それらを検証する形で、ヨーガスートラ本来の
ものであろうスヴァーディヤーヤ観を浮かび上がらせてみたいと思います。
まず、よくヨーガの世界では、例えば「ヨーガをする上で、
ヨーガスートラの知識は欠かせない」というような殺し文句(?)が
あります。
ですが、ヨーガスートラ解説のメルマガを書いている私が言うのも
なんですが(笑)、ある条件を満たしてさえいれば、ヨーガスートラの
知識など全く必要ないのですね。
ではその「ある条件」とは何かと言いますと、これはもう、当たり前と
言えば当たり前なのですが、「ヨーガを体現していること」です。
これについて詳しく書いてしまいますと、ヨーガスートラ全体の
読み解きの楽しみが減ってしまいますので、この「ヨーガを体現すること」
の定義など、あえて詳説する野暮を避けたいですが、このように、
「ヨーガをする上で、〜を読んでいないといけない」というような見方は、
正しい意見とは言えないと思います。
ですので、このスートラ解説のメルマガを読まれて、あまりの小難しさに、
「ヨーガをするのに、こんなしちめんどくさいことが分からないと
いけないの!?」と憤慨してこられた方も多々いらっしゃるかと
思うのですが(笑)、その点は大いにご安心いただきたいわけです(笑)。
でもまた、これとは反対に、「ヨーガの実践上、教典、聖典の学習など
全く役に立たない」という、上とは対極に位置する考え方もあります。
ですが、これについても私は正しくないと思い、やはり条件を満たしさえ
すれば役に立つ、と言えると思います。
では、こちらでの「条件」とは何かと言いますと、これまた上と同じで、
「ヨーガを体現するために用いること」です。つまり、ヨーガを体現する
ために用いるという条件において、聖典の学習は大いに役に立つ、と
考えます。
ヨーガスートラは、その「ヨーガを体現するため」のガイドブック、
または地図なのですね。ここにはその「ヨーガを体現」した先達が、
後進の私たちをその境地に導く様々な工夫を凝らしてくれているのです。
ですから、これを活用することによって、安全に、かつ最短で、ヨーガを
体現するための道具として用いることができるわけです。
そもそも、道具としての聖典の学習には一定の「使い方」があります。
普通の地図やガイドブックでも、読み方に一定のルールや作法が
ありますよね。
また例えばパソコンを使うにも、電源を入れて、また何か作業をするには、
キーボードの打ち方を学び、また個々のソフトの使い方を学んで、
初めて一定の作業をしはじめることができます。
これと同じように、聖典の学習にも一定の用い方、接し方などの作法が
あり、それを知らないと、ヨーガを体現する道具としての充分な機能も
目的も果たしてくれないのです。
ですので、聖典を役に立たないとする意見は、パソコンの電源の
入れ方を知らずに、パソコンが動かない!と憤慨しているのに似ていると
思います。
またはもうひとつ考えられるのは、反対に、すでにご自身がヨーガを
体現してしまって、聖典の学習の必要がなくなってしまった場合の意見が
考えられます。
これにつきましては、地図に喩えるとわかりやすいですが、目的地に
着きさえすれば、もう地図は必要ないのですが、まだ着かない途上に
おいては、やはり地図はあった方が便利なわけです。また本当にその方が
ヨーガを体現して学習が必要なくなった段階に至ったのかの保証もない
ですよね。
数千年間の先人の蓄積による「聖典」は非常に幅広く、また
奥の深いものがあり、どのような偉人賢人聖人でも、これらを全く
必要としない段階に至ることはまずないと言っても良いのでは
ないでしょうか。
かの天下の暴れん坊、西遊記の孫悟空がどんなに大得意で飛び回っても、
結局は阿弥陀如来さんの右手から出ることもできなかったのに似ていて、
私たちが何か新しいことを発見した、体得した、と威張ってみても、
たいていのことはもう既に先人が体得し、また書き残していることが
ほとんどなのですね。ただ見識の狭さゆえにそれと知らないだけなのです。
これら聖典が役に立たない、というふたつの見方は、どちらも学習途上の
段階、すなわち、私たちがこの世界を生きている段階、には適応しない
意見と思い、聖典が全く役に立たない、という意見も正しくない、
と私は考えます。
もうひとつこの考えと少し似ているのが、聖典の学習を単なる頭脳作業と
見做して、一段低く見る見方です。つまり、教えを知的に理解しただけでは
実際には役に立たない、という考え方です。
これにつきましてもやはり一面的な見方と思います。
この「スヴァーディヤーヤ」を含めた3つ、ヨーガスートラはあえて
「kriyaayoga クリヤーヨーガ」と名づけた範疇に含めています。
「kriyaa クリヤー」は「実行、仕事、処理、行動、行為、努力・・・」を
意味します。つまり、スヴァーディヤーヤも単なる机上の頭脳作業ではなく、
「行為」であり、また「ヨーガ」であることを言いたいために、わざわざ
「クリヤーヨーガ」のひとつに入れているのだと思います。
つまり、聖典の学習というのはあくまで「ヨーガ」の一項目であり、
ただの机上の作業ではなくあくまで体験であること、「ヨーガ」であること、
また、外の世界の聖典の学習と、自身の内面の探求とは異なるものではなく、
むしろ外界の聖典の学習、イコール自身の内面の探求である、ということを
「ヨーガ」という言葉で語ってくれているわけです。
反対に見れば、「ヨーガ」に直結していない聖典の学習は、
「クリヤーヨーガ」とは言えない、また、内面の探求とイコールでない
聖典の学習は「ヨーガ」とは見做せない、と言っているとも読み取れます。
私が「スヴァーディヤーヤ」を、「自身の学習」、「の」という何となく
曖昧な言葉で訳した意図もここにあり、「自身で学習」することと、
「自身を学習」することとが別物ではないという意味を込めて、どちらにも
採れる「自身の学習」としたという、奥深い訳(笑)になっているのです。
ですので、聖典の学習を頭脳作業として一段下に置く見方は、逆に
言ってしまえば、聖典の学習はあくまで体験であり、また「ヨーガ」である
と認識するに至っていず、頭脳作業の位置にしか置けていない、また
聖典への接し方や読み込み自体も「ヨーガ」というところにまで深められて
いない段階に留まってしまっている向きの意見だと考えることができます。
ヨーガスートラの1:7では、滅すべき5つの「vRtti ヴリッティ」の
筆頭に、「正しい認識」などを意味する「pramaaNa プラマーナ」が
挙げられ、その内に「学問、知識、聖典」などを意味する
「aagama アーガマ」が含まれていて、私はそこで
「インドの伝統的にも非常に重んじられて来ている聖典さえも含んだ
「pramaaNa プラマーナ」でさえ「vRtti」のひとつに過ぎず、それすらも
滅してしまった状態が「yoga」であり、そこに最大の価値を置くという
思想と、またその境地に到達する実際の実践体系とを持っているのが、
ヨーガスートラの大きな特徴だと思います」と書いたのですが、
この1:7で言われているのは、この「aagama アーガマ」が、他に
「直接の知覚」などを意味する「pratyakSa プラティヤクシャ」と、
「推理」などを意味する「anumaana アヌマーナ」と並べられていたように、
表面的な認識としての「聖典」であって、「クリヤーヨーガ」、つまり
「行為」であり、「ヨーガ」である聖典の学習とは根本的に質が違うという
ことを、この2章「サーダナの章」の冒頭で暗に語ってくれても
いるわけです。
(1:7解説バックナンバー
http://archive.mag2.com/0000235863/20070625090000004.html?start=60)
以上、聖典の学習を絶対視する見方、また否定する見方、軽視する見方、
3つに対する検証から、ヨーガスートラが本来説いているであろう、
「スヴァーディヤーヤ」を浮き彫りにしてみました。
以上の点からわかりますように、前号で「タパス」の意味目的を
「ヨーガ」に到達するためのものと位置づけましたが、この
「スヴァーディヤーヤ」も、あくまでその点は同じであるわけです。
そして、「タパス」と違うところは、前号でヨーガに到達するために
ロケットを打ち上げる喩えを挙げ、「タパス」を、その「燃料」としての
「熱」に喩えましたが、この「スヴァーディヤーヤ」は、そのエネルギーに、
推進の方向性を与え、軌道修正をする役割を果たしてくれるもの
という点です。
燃料は多ければ多いほど速く、遠くまでロケットを飛ばすことができる
ものと思いますが、また反対に、正しい使い方と方向性とを持たない
エネルギーは、大きければ大きいほど危なっかしくてしょうがない、とも
言えるのですね。
「ヨーガ」への道のりというのは、決して平坦なものではなく、途中には
山あり谷あり、脇道があり、落とし穴もあるものと思います。この点で、
「燃料」だけのロケットでは、爆発する危険性、またどっちへ飛んで行って
しまうかわからない危険性を大いにはらんでいるわけです。
その危険に、きちんと正しい方向性を打ち出し、客観的に計算して自分の
位置を確認する物差しを与え、常に軌道修正を施してくれるのが、
この「スヴァーディヤーヤ」であると思います。
この対比、バランスが、私がこのふたつを正三角形の左右の底角に
位置づけて両立、対比させた所以です。
このふたつを、「行じること」と「学ぶこと」とに、「文武両道」
のような感じで単純に対比させることもできますし、
以前「幸せ不幸せ」について触れた時に、中国の陰陽思想について少し
触れましたが、陰陽に当てはめますと、「タパス」が、止むに止まれぬ
力をはらむ「熱」という、「陽」の範疇であり、「スヴァーディヤーヤ」が、
それを客観的に、「冷静」に「冷まして」くれる「陰」の範疇である、
と対比させることもできます。
(2:8解説、「sukha スカ」と「duHkha ドゥフカ」、陰陽思想について
http://archive.mag2.com/0000235863/20080211101000000.html)
また、「タパス」は自身の内側のエネルギーで、「スヴァーディヤーヤ」
は反対に、先人が積み上げてくれた経験の集積を、自身で検証や追体験
していく、つまり自身の内側の「タパス」を、外側の聖典を
「スヴァーディヤーヤ」することによって検証、修正していくといった、
内と外との関係として対比させることもできます。
また長くなりましたので、改めて整理しますと、
・「スヴァーディヤーヤ」とは本来、森羅万象を「聖典」として学ぶ行為を
指す。
・それを、説かれた教えを学ぶことに特化したのが、「聖典の学習」
としての「スヴァーディヤーヤ」である。
・「聖典の学習」を絶対視、また否定、軽視する見方は、
本来の「スヴァーディヤーヤ」の趣旨とは合致しない一面的な見方である。
・「スヴァーディヤーヤ」の意味・目的は、「タパス」同様、
「ヨーガ」への到達であるが、反対に「タパス」の「熱」を抑制、冷却し、
客観視させる尺度を与え、正しく方向付ける役割を持つ。この点で、
「タパス」と「スヴァーディヤーヤ」とは、対比、また両立の関係にある。
となります。
またまた長くなりましたので、パソコンの前で居眠りしている方の姿が
目の前にチラつくのですが(笑)、これで、私が「クリヤーヨーガの鼎立」
と名づけ、図式化したうちの「タパス」と「スヴァーディヤーヤ」との
両立関係を見たことになります。
この両立の上に、さらに「イーシュヴァラプラニダーナ」を君臨させて
「3つ」としたところに、私はヨーガスートラの卓越した点を見出します。
といったところで、お後がよろしいようで、ちょうど時間と
なりました〜(笑)ということで、「イーシュヴァラプラニダーナ」は
さらに次の号で解説させていただきたいと思います。
=◎ 編集後記・次号の内容 =====================
◇ 編集後記
前号に恥ずかしい間違いがありました。お気づきの方は
いらっしゃいますか? 今号では訂正してありますが、正三角形の
「底角」の「底」が、前号では「低角」となっていたのです。
低い位置にあるので「低角」でも意味が通じないことはありませんが、
「底辺」に位置する角として、やはり「底角」でないといけませんよね。
この「底角」、なぜか私のパソコンでは変換リストになく、「低角」
としか出ないのです。配信に際しては何度も草稿を見直し、また、
読者さまの視点で見るためにテスト配信を繰り返しては読み返し、万全を
期しているつもりでも、こういった間違いがあるのは、私の品角が
下がるようで、お恥ずかしい限りです。
(上の「品角」は、「底角」の「角」に引っ掛けたシャレですので
念のため(笑))
また、いくつか文字が抜けている部分があったのにもお気づきの方が
いらっしゃるかもしれません。これは、以前どこかで書きましたが、
パソコンが古くなり、あまりの動作の遅さに、ついに新パソコンを
導入しました。
場所塞ぎにならないように、ノートパソコンにしたのですが、手を乗せる
部分の真ん中にある、タッチパッドと言うのでしょうか、マウス代わりに
なる部分が、私のハンドパワーのせいか(笑)、触ってもいないのに、
パソコンを打っていると勝手にカーソルが頻繁に飛ぶのです。
ですので、飛んだ先で文字が消えてしまったり、反対にそちらに違う
文字が入ってしまったり、などが起きてしまうのです。
これらも見直しているつもりなのですが、一度書いたと思ったものを、
別の視点で見直すことはなかなか難しいようで、何回も見直しても
やっぱり配信後に読むとどこかしら間違いがあるようです。
この、タッチパッドの問題、私だけでしょうか?? センサーの感度を
下げるとか、切ってマウスに換えるとか、方法があるのでしょうが、
まだ使いこなせていない段階です。
ヨーガや気功などをされる方は、案外こうした機械モノとの相性の
悩み(?)を抱えていらっしゃる方が多いのではないでしょうか?
勝手に動いたりとか、または止まってしまったりとか(笑)。
そうした力は使いたい時には使って、使いたくない時には引っ込める、
というコントロールも重要だと思いますが、パソコンを打つのに
熱中していると、ついつい勝手にハンドパワー炸裂(笑)となってしまう
ようで、熱中すればするほどカーソルが飛ぶという皮肉な(?)
現象になっています。
(この文から、文章の間違いは自分のミスではなく、あくまでパソコンの
せいだと、強く、図太く主張していることを「スヴァーディヤーヤ」して
いただけましたらと思います(笑))
(誰ですか、「あんたの文は「聖典」じゃないじゃん!」とツッコミを
入れるのは!?(笑))
◇ 次号の内容
次号はさらに番外3部作(?)の最終編、
「イーシュヴァラプラニダーナ」と、3つの総括をお届けする予定です。
またまた、ハンドパワー炸裂・カーソル飛び飛びの超大作(笑)となると
思いますが、年内には配信を完了させて、キリよく年越しを迎えたいと
考えています。
次号もどうぞ、お楽しみに。
(第73号 完)
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サンスクリット原典で読み解く「ヨーガ・スートラ」!
発行者 誠 s-tadao@rio.odn.ne.jp
◎ 発行者ホームページ 「実用サンスクリット学習講座!」
http://sanskrit.rakurakuhp.net/
◎ ホームページ連携音声ブログ「実用サンスクリット学習講座!音声編」
http://samskrita.seesaa.net/
◎ 発行システム『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
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