鶴原顕央の【映画批評と物語構成論】  RSSを登録する

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2009/10/13

映画批評0133「空気人形」

┏ 映画批評と物語構成論0133 ┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏


    『空気人形』
      Air Doll (09)


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ペ・ドゥナなしでは成立しなかった企画でしょう。

この映画には原作マンガが存在するわけですが、
そのマンガを「映像化」するにあたっては
ペ・ドゥナなしでは成立しえなかったはずです。

ポスターを見てもペ・ドゥナ。
パンフレットを見てもペ・ドゥナ。
横をむいたペ・ドゥナ。後ろ姿のペ・ドゥナ。
この映画に限っては、ARATAも板尾もオダギリも
岩松了と同じ小ささでしか掲載されていません。

そんなペ・ドゥナの魅力に溢れた映画です。

板尾創路演じる中年男性が、ビニール製のダッチワイフを持っていて、
そんな「空気人形」が、ある日、心を持って、ぎこちなく歩き出して……
我々観客はスクリーンに大写しになったビニール製のハダカの胸を観ながら、
 「乳首はリアルに造られているんだなー」
と感心して(見入って)いると、いつのまにかペ・ドゥナに変わっている!
 (練りに練ったであろう快心のタイミング!!)

それはペ・ドゥナに変わってはいるけども、「人間」に変わったわけ
ではありません。あくまで「人形」のままです。

服を着て、人間のように振る舞い、デートをするようにはなっても、
中は「空気」なので、光を透過してしまって、影が薄い。
それをペ・ドゥナが恥ずかしがる。
そんなシーンがあります。

ならば「軽すぎて自動ドアが開かない」、「強風に飛ばされる」、
そんなお茶目なシーンがあってもいいはずですが、それはありません。
いちいち風に飛ばされていては物語が進まないので
「心を得たことで、ある程度の重さを得た」──
あるいは「魂の重さ」のぶんだけ重くなった。
そう解釈する。それを暗黙の了解としているのでしょう。

しかし、中盤、「部屋のなかでフワフワ浮いて遊ぶ」シーンがあって、
このシーンだけが全体と矛盾しています。
 (終盤にもう1回浮きますが、あれは完全に夢のなかの世界なので、
  あれはあれ単体の「夢」のシーンとして矛盾なく成立しています)

影が薄かったり。重かったり、軽かったり。
暗黙の了解なんて存在しないんじゃないのか?
都合よくルールが変わっているんじゃないのか?

ファンタジックな映画に「ルール」と言ったら厳密すぎますが、
ひょっとしたらそこまでは深く考えていないのではないでしょうか。
ペ・ドゥナが働くことになる古いレンタルビデオ屋の自動ドアが
感圧式ではない、動体検知式のドアだとも思えず、
いやむしろあそこでは自力ではドアが開かず、店員のARATAに
助けてもらう。そしてそれが彼との運命的な出会いとなる。
そんなシーンが必要だったようにも思えます。

しかしすると今度は「風に飛ばされるシーン」も必要になってくるわけで、
 (ARATAと2人でバイクに乗っていると、うしろに飛ばされる!)
 (船上バスに乗っていると、橋の下を通過した瞬間に、飛ばされる!)
しかしそんなシーンはギャグすぎて見たくありません。
 (キタノ映画ならアリ!)

だとすればやはり「部屋で自分でフワフワ浮いて遊ぶシーン」だけは
カットすべきだった。
そう断言できます。
 (原作にはそんなシーンはありません)
 (そもそも原作は「影の薄さ」や「重さ」について言及していません)
 (「影の薄さ」を言及した以上は「軽さ」についても言及すべき)
 (だから部屋でフワフワ浮いている)(=「軽い」)
 (ならば「自動ドア」が開かないシーンも必要だったはず)
 (=軽かったり、重かったり)(=矛盾)

さらにもう1点。
ペ・ドゥナ演じるタイトルロールが、都会の人びとと出会っていく、
さまざまな出会いと別れを経験していく
のではなく、登場人物があらかじめ配置されている。
序盤のうちに矢継ぎ早に登場人物全員が登場する。
 「ああ、このオジイサンとあとで知り合うのね」
 「ああ、この女の人があとで関係してくるのね」
それが気になった人も多いことでしょう。
富司純子と星野真里の役は要らないんじゃないのか?
そんな気もします。

是枝監督はけっこう迷ったのではないでしょうか。
都会の人びとの「空っぽ」感、「孤独」感。
それを表現するためには、ある程度の人数が必要。
しかし主人公が「ダッチワイフ」である以上は男性との関係がメインになり、
逆に、主人公が女性と絡みすぎると「孤独」とは別の、
新しい課題が噴出しうる。
 (つまり「性」。女性同士で語る「男性との性」)
 (しかし「性」そのものについては充分語り尽くしている)

都会の人びとの「空っぽ」感を表現すべく
劇中では3人の女性(と1人の少女)が登場しますが、
少女は「無垢」な存在として(もちろん「性」とは関係せずに)登場し、
あとは余貴美子が「年増」のギャグ要員として登場するだけで、
「枯れた」富司純子と、「同じ年頃」の星野真里は
直接ペ・ドゥナには関わりません。

まるで『魔女の宅急便』のように
すべての世代の女性が登場しているのに
 (女の子、おねえさん、おばさん(=おかあさん)、おばあさん)
残念なことに、それらの女性が未消化だった。

それは本来「おかあさん」が果たすべきだった役割を
人形造形師のオダギリジョーが担ってしまった。
 (台詞「おかえり」。そして新たな門出を見送る。=That's 母親)
それが最大の要因でしょう。

だからといってどうしようもない。
ダッチワイク職人を女性に替えたら、それはそれで違和感があり、
主人公が「ダッチワイフ」である以上は、女性が物語に絡みにくい
いかんともしがたい構造。
かといって「都会の人びとの空虚感」を放棄するわけにもいかず、
富司純子と星野真里が絡まずに終わる。
こればっかりはしょうがありません。


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     次週は『ワイルド・スピードMAX』を取り上げます!
         ──スピード?
             ──MAX?
                 ──スーパーモンキーズ!!


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