2007/05/01
「生」と「死」
「生」と「死」 生まれたからには、誰しも死に向っています。生まれたら死ぬのが、原理です。 仏教では「生」と「死」を、別々に考えるのではなく、一つのものとして考えています。 「死」は誰にでも平等に訪れます。 金持ちだから長生きできて、貧乏だと早く死ぬわけではありません。 老人だから死ぬとも限らないし、子どもだから死なないというわけでもありません。 病人だからすぐ死ぬとも限らないし、健康だからすぐに死なないわけでもありません。 そして、天命を全うする死もあれば、自ら幕を引く死もあります。 「死にたい。」そんな言葉を耳にする機会が増えました。 死ぬこと、それは、終わりではありません。 「往生」ということばがありますが、あの世に往き、そこで生まれるのです。 自分が往くあの世が、どんなところか、それは、死んでみないと分かりません。 死ねば楽になるとは、限らないということです。 それでも、死にたがる人は絶えません。 死にたいという願いは、潜在的な回帰願望なのでしょうか? 『法華経薬王菩薩本事品』に書かれていうように、 蓮華より化生して、安楽世界に住することができるなら、 自殺したいという人には、「どうぞ、どうぞ。」と言って、 背中を押せばいいのでしょうか? 死にたいと願う人は、本心から死にたいのではなく、 「死にたいくらい辛いから、死にたい。」のであって、 辛いと想うところを取り除くことができれば、 生きたいと想えるようになるはずだと信じています。 だから、僕は、辛いと想うことを取り除くために、生きていく手伝いをしています。 水谷修さんは、「生きてるだけで、いいんだよ。」と言いました。 明石家さんまさんは、「生きてるだけで、丸儲け。」と言いました。 僕は、いつも「生きろ!」と言います。 死にたいと願う人が、「死」に執着しているなら、僕は、「生」に執着しています。 その自分の執着を、人に押し付けています。 規格外の坊主が好きな僕ですが、実は良寛さんも好きな一人。 その良寛さんは、 「病にかかった時は、病気になるがよろしく、死ぬときは死ぬが宜しかろう。」 と言ました。 きっと、「死」、「生」どちらにも執着しないことが、肝要なのです。 「命があるから生きる。命がなくなるから死ぬ。」 当たり前のようですが、うまく受け入れられないものですね。 沙門 良瑞



