<ハトポッポ批評通信 第151号>金銭、夫婦、開化(4)
<ハトポッポ批評通信 第151号>
・前号の前書きに書いたように、今月の配信は今回で終わります。この月末にぼくは中国
のアモイに飛ぶので、次回の配信はアモイからになります。予定では9月14日(日)に、
来月最初の配信を行なうつもりですが、ネット環境や資料の郵送の事情から遅れるかもし
れません。まあ、のんびりのほほんと待っていて下さい。なるべく前書きだけでも、14日
に配信するようガンバリます。はい。
・中国でぼくが使うメールアドレスはこれまでのものとは別になりますが、これまでのア
ドレスからでも転送されるよう設定しておきます。ひとまず以下のアドレスは新たに取得
してありますが、どちらに送信してもこちらに届きます。
aojun1_poppo@yahoo.co.jp
・先回りで少し宣伝をしておきます。
9月1日発売の「論座」(朝日新聞社)10月号の中の「本から時代を読む」というコーナ
ーに寄稿しました。「第二の敗戦」というテーマで五冊の本を紹介しています。ぜひぜひ
御一読を。「論座」はこの号で休刊になります。ちとさびしい。
9月7日頃に発売の「群像」(講談社)10月号に、短いコラムを執筆しました。「オリン
ピック・イヤー」をめぐるあれやこれや。少し暗い話かも。
いつ発売になるかぼくもよくわかってないのですが、9月中に発売になると思う「KAWADE
道の手帖」(河出書房新社)に、「法の外」というタイトルの評論を寄稿しました。小林
多喜二と『蟹工船』(ブーム)をめぐる評論です。ガチで論じてます。これもよろしくで
す。
・「金銭、夫婦、開化」は今回が最終回です。間に合った。
<金銭、夫婦、開化(4)>
漱石が執拗に描いた金銭と夫婦の地獄を、ここまでおおざっぱに追ってみました。その貨
幣と性のメカニズムは、近代化の初頭において日本がくり広げた「敗亡の発展」(『それ
から』六)の産物、つまり外発的開化の所産と言えます。この開化の矛盾は、金銭と性の
力が集中する家庭という場で浮きぼりになります。漱石は、開化と家庭の問題を並行して
思考します。『彼岸過迄』の中で須永市蔵の叔父は次のように語ります。
「僕はかつて或学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化を解剖して、
かかる開化の影響を受ける吾等は、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥いるに極って
いるという理由を、臆面なく聴衆の前に曝露した。そうして物の真相は知らぬ内こそ知り
たいものだが、いざ知ったとなると、却って知らぬが仏で済ましていた昔が羨ましくって、
今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論なども或はそれに似たものかも知れま
せんと苦笑して壇を退ぞいた。僕はその時市蔵の事を思い出して、こういう苦い真理を承
わらなければならない我々日本人も随分気の毒なものだが、彼の様にたった一人の秘密を、
攫もうとしては恐れ、恐れては又攫もうする青年は一層見惨(みじめ)に違あるまいと考
えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺いだ。」
(『彼岸過迄』「松本の話」五)
この引用文の中の「或学者の講演」というのは、漱石自身の講演『現代日本の開化』を指
しています。また、市蔵の秘密というのは、彼が小間使の腹から生れたという出生の事実
のことです。この実の母は、市蔵を生むと間もなく死んでしまいました。
市蔵の家庭は、おそらくは『それから』の代助の家庭と同様に、なんらかの見えざる因縁
を抱えこんでいるように思えます。豪奢な通人だった祖父、軍人(主計官)として高い地
位に昇り貨殖にも長けながら陰性な性格だった父、性格は優しくても昔気質の教育の影響
で「家名を揚げるのが子たるものの第一の務」(「雨の降る日」五)と考える母(実の母
親ではありません)。この母が市蔵に千代子との結婚を暗に奨めるのも、「血統上の考え
から、身縁(みより)のものを嫁にしたい」(「松本の話」六)という願望からです。
これらの因縁は、<母は誰か>という市蔵の運命の疑問に凝縮してゆきます。彼はこの疑
問を胸にたたみこんで、「内へとぐろを捲き込む性質」(「松本の話」一)、つまり一切
を自己という<個人>の内で解決せざるをえない性格へと成長していきます。彼が千代子
との結婚に対して優柔不断な態度をとるのは、彼の中で家族の因縁がまだはっきりしてい
ない事情と、おそらくは相関しています。
しかし、この<個人主義>においてこそ、彼は「在来の社会を教育する為に生れた男」(
「松本の話」二)となるのです。家庭という地獄の真相の報告者こそが、個人として開化
の矛盾を苦しみ抜きながら生きる者となります。
『行人』の一郎は言います。「要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、その
また不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している」(「塵労」三十二)。
一郎もまた、その学者としての職業とは別に、社会を教育するために生まれた男です。だ
から彼は、家庭の問題で苦しみ抜かざるを得ません。
家庭の問題で苦しむのは、男性の登場人物ばかりではありません。非常に重要な女性の登
場人物としては、『明暗』のお延(津田の妻)も家庭の問題で苦しみます。漱石はこの最
後の未完の小説で、女性においてこそ極めて重大な個人化の契機が訪れることを、はっき
り予言しています。お延ー津田ー清子の三角関係は、たとえ悲劇的な展開を辿るにせよ、
『明暗』以前の作品で描かれた三角関係とは別な意味合いを持つ可能性があったと思われ
ます。
個人は外発的開化の矛盾を、自己の内部に<内発的に>凝縮します。漱石は『現代日本の
開化』の中で、内発的開化について次のように説明しています。
「吾々も過去を顧みて見ると中学時代とか大学時代とか皆特別の名のつく時代でその時代
時代の意識が纏っております。日本人総体の集合意識は過去四五年前には日露戦争の意識
だけになりきっておりました。その後日英同盟の意識で占領された時代もあります。かく
推論の結果心理学者の解剖を拡張して集合の意識やまた長時間の意識の上に応用して考え
てみますと、人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて
弧線を幾個も幾個も繋ぎ合せて進んで行くと云わなければなりません。無論描かれる波の
数は無限無数で、その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波
が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一
言にして云えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります。」
(『現代日本の開化』)
意識一元論の立場から見て、意識の順次の段階的推移を飛躍なく経過してゆくことが、「
内発的」の意味です。さしあたり漱石は、日本が西欧化とは別の潮流において発展するこ
とを内発的開化と考えているわけではありません。むしろ、「できるだけ大きな針でぽつ
ぽつ縫って過ぎる」(同)だけであった西欧化のプロセスを、発展の順序を正確に尽して、
吟味し消化しながら進むことを考えています。
このことを<個人>というレベルで見るなら、西欧化がもたらす社会的矛盾を個人の内部
で意識の連続として再構成して生き直すことを意味します。個人とは、社会における矛盾
を自分の中で苦しみ抜き、みずからその矛盾の意識的な根拠を編成し直す者のことです。
しかし、この個人の内発的開化に対する漱石の意識は、一見かなりペシミスティックです。
外発的開化に甘んずることなく、「体力脳力共に吾らよりも旺盛な西洋人が百年の歳月を
費したものを、いかに先駆の困難を勘定に入れないにしたところでわずかその半(なかば)
に足らぬ歳月で明々地に通過し了(おわ)るとしたならば」(同)、そのような個人は知
識の収穫の代償に神経衰弱に陥るだろう、と漱石は断じます。
開化は、いかなる意味でも、安心をもたらすものではありません。結局漱石はこの講演の
最後で「ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好か
ろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない」と語っています。
上滑りの外発的開化か、さもなくば神経を冒すような内発的開化の苦痛を選ぶか。漱石は
この拮抗関係(アンタゴニスム)の呈示によって、近代人の絶望的な袋小路を言い表して
いるのでしょうか。
そうではないのです。漱石は、たとえ内発的開化が現実的にはすぐに可能でないにせよ、
それは<思考されざるをえない>こと、いやそれどころか、思考の地平においてこそはじ
めて内発的な開化というものがまず可能になることを表明しているのです。「神経衰弱」
という言葉は、内発的開化とともに必然的に生じるところの、思考にもたらされる苦痛の
ことに他なりません。
現実においてはひとを神経衰弱に陥らせるような苦痛をともなうにせよ、内発的開化の時
間は、いわば思考そのものの時間として展開します。内発的開化とは、この時間の中でま
ず<思考されるべきもの>のことなのです。この思考は<個人>から始まります。そして
この個人は、否応なく家庭の中で孤立せざるを得ないのです。なぜなら家庭とは、そこで
開化の外発性と内発性が──金銭と性との両面から──ぶつかり合う場所だからです。
ぼくのこの結論も、漱石の『現代日本の開化』と同様に、一見ペシミスティックに聞こえ
るかもしれません。しかし本来の意味からすれば、家庭こそ思考が試される場、思考が現
実化されるための重要な場のひとつなのです。漱石が金銭をめぐる親族のトラブル、結婚
をめぐる三角関係、そして夫婦生活の戦争を執拗に描いたのは、家庭において現実化され
る個人の内発的思考の契機を明らかにするためだったのです。
(<金銭、夫婦、開化> 終わり)
<ハトポッポ批評通信 第151号>
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