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2009/11/11

週刊マガジン・ワンダーランド 第165号


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.wonderlands.jp/

   マガジン・ワンダーランド(小劇場レビューマガジン)

   2009年 11月11日発行 第165号                        毎週水曜日発行
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【目次】
◇劇団桃唄309『死すべき母の石』
 「東京」の物語。「東京」で暮らす人の物語。
 光原百合
◇キラリンク☆カンパニー東京デスロック
 『ROMEO & JULIET』KOREA ver.
 コンテクストを宙吊りにするゲームの可能性
 柳沢望
▽連載【レクチャー三昧】
 第65回 紙
 高橋楓

□web wonderland から===================== http://www.wonderlands.jp/ 

◇さいたまネクスト・シアター『真田風雲録』
 泥まみれの舞台 「他者」意識さす蜷川演出
 木俣 冬
◇演劇集団 円「コネマラの骸骨」
 前代未聞のボーン・ジャムセッションこそ、遅れてやってきた怒れる若者
 マーティン・マクドナーの真骨頂だ!
 佐々木 眞
◇KUNIO06『エンジェルス・イン・アメリカ-第1部 至福千年紀が近づ
 く』
 小劇場に「世界」立ち上がらせた杉原演出
 カトリヒデトシ

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◇劇団桃唄309『死すべき母の石』
 「東京」の物語。「東京」で暮らす人の物語。
 光原百合

 最初にお断り(言い訳)を。筆者は好きな劇団の舞台は集中して見ているが、
演劇全般にそれほど造詣が深いわけではない。大ファンである劇団の一つ、劇
団桃唄309の舞台『死すべき母の石』についてのこの劇評においても、演出
の技法や役者の演技についてどこがどう優れているか論じることは難しい。自
分が物語作家であるため、あくまで『桃唄309が形作る物語のどういうとこ
ろが好きか』が主眼の評になることをご容赦いただきたい。

 さて、私にとっての桃唄舞台の魅力はまず、多くの作品において、複数の筋
がアクロバティックに絡み合いながら進む構成の妙である。この点でもっとも
印象に残っているのが2005年公演の『ブラジャー』である。女性たちを窮
屈なコルセットから解放するため世界で初めてブラジャーを考案した女性、ブ
ラジャーを日本に紹介した人々、そして現代の日本で寂れかけた商店街を活気
づけようと奮闘する人々などいくつかのエピソードが並行して進み、昔ブラジ
ャーを縫っていたミシンとボビンケースが離れ離れになって、現代日本で再会
するまでの物語がエピソードすべてを貫いてまとめるという入り組んだ内容
だ。しかもこの劇団の舞台の特色として、暗転は基本的に使わない。ある人物
が舞台を横切りながら帽子をかぶる、その動作一つで違う時代、違う国に場面
が移ることもあった。一瞬でも気をぬけば筋においていかれる危険はあるが、
最終的にすべての筋が落ち着くところに落ち着いたときの感銘は忘れがたい。
とはいえ、作・演出の長谷基弘は、謎解きの推理小説のようにすべての謎をす
っきり割り切って解決することはしない。どこかに謎のままの要素、別の解釈
を許す余地を残すのが常だ。この不安定感も桃唄309の舞台の独特な持ち味
になっている。

 そしてそれと同じくらい心引かれるのは、こういった複雑な筋立てと微妙な
不安定感がときに前衛的な雰囲気をかもし出すにもかかわらず、桃唄の舞台の
根本にはいつも、素朴で力強いテーマがあることだ。たとえば2003年公演
の『俺たちの進化』は、人類の歴史を、猿人・原人の時代から共同生活を営み
社会を作り様々な技術や文化を生み出していく過程に沿って、それぞれの時代
のエピソードを紹介しながら一気に下っていくユニークな構造の物語だった
が、最後に心に残ったのは、いつの時代にもかわらぬ「家族の絆」というテー
マだった。

 さて、そんな桃唄309の最新公演『死せる母の石』。中野に完成したばか
りの劇場、テアトルBONBONのオープニングシリーズの一つであった。
 開演前の舞台上には、四角錐を中心とするオブジェがいくつも置かれ、白く
塗られた角の部分が照明に浮かび上がって、先鋭な不安定感をかもし出す(こ
のオブジェのいくつかはなかばで切ってあり、シーンによっては下半分を椅子
やスツールとして使用していた)。やがて舞台の一角に設けられたDJブース
にDJ(工藤ケンタ)が登場。曲が流れ始める(この舞台では、工藤氏が実際
にこの場で舞台全体の音響を担当すると同時に、ときおり挿入される酒場らし
き店のシーンでは店員の役も演じていた)。

 ここから始まる『死すべき母の石』と題する舞台は、ある意味では「東京」
という街そのものが主人公である。東京といっても作中で登場人物の一人が言
うように、地域の人々との繋がりが今でも息づいている下町とは違い、「都会」
という抽象的な言葉でも言い換えられる、一種のバーチャルな場としての「東
京」である。

 始まったとたん、いくつかの筋が入れ替わり立ち替わり現われ、場面もめま
ぐるしく転換していくので、観客はいっときの油断もならず舞台を見守ること
となる。主な筋は、タイトルにも登場するとおり「母」(あらきひとみ)を殺
され、その衝撃で家に引きこもって自分との対話を繰り返す「息子」(佐藤達)
の話、遺体の死に顔を安らかにするためメークを施すことを仕事にしている女
性たち(山口柚香とスガナミ)の話、人が死んだ場所に興味を抱いて写真を撮
り続ける写真家(澤唯)の話、雑踏で人々が交わす断片的な言葉を収集して記
録している医師(洪明花)の話、ゲーム感覚で詐欺を働くグループの話、など
など。これらはすべてバラバラなエピソードと見えて、たとえば殺された「母」
の遺体にメークを施したのが山口演じる女性であったり、澤演じる写真家が
「母」の殺された現場に興味を持って住居に侵入し、「息子」と鉢合わせして
なじみになってしまったり、その写真家と洪演じる医師が同じ酒場を行きつけ
とする友人同士だったりと、微妙に関わりを持つことが、舞台が進むにつれて
浮かび上がってくる。

 こういった関わり方は、「東京=都会」という場の象徴の一つのようで興味
深い。
 「東京=都会」では、大勢の人間が集中しているがゆえに、濃密に関わりあ
っていては身が持たない。あたかも他人のことには興味を持ちすぎないことが
マナーであり生きるコツであるかのようにふるまうこととなる。そのため東京
では、人間関係が極めて希薄だと思われがちだ。しかし、「関わりが薄い」こ
とは「関わりがない」こととイコールではない。大勢の人間が集中しているが
ゆえに、当人同士の知らないところで、人はどうつながっているかわからない。
その繋がりは薄いどころか、時にはくもの巣のように入り組んで人を捕らえる、
不気味な濃密さを持ってしまうのではないか、そんなことを思わせる。
(一方人々は、犯罪に関わることなどについては、興味を持ってもマナー違反
ではないと免罪符が得られたように、無責任な好奇心をむき出しにすることも
ある。劇中で佐藤演じる「息子」は、事件後のマスコミ取材などに振り回され、
「東京には、本当の意味では、一人になって考え事する場所がない」と悲痛な
声を漏らす。これもまた「東京」のもつ一面だろう)。

 「東京」を象徴するもう一つが、劇中で何度も登場する雑踏のシーンである。
せわしげに行き来する人々の会話が断片的に聞き取れるのだが、「え、犬?」
「すっげえかわいい」、「あのあたり前住んでたんだよ」「なに食べる?」、
「以前お話したと思いますが、金利の関係でですね」などのセリフは、実際に
長谷基弘が街角で収集した言葉なのだそうだ。その中にときおり、この舞台の
中で起こる事件に関するセリフと思えるものが混ざる(「息子だろどうせ」
「わかんね」「だってさ、土地」など)。一見なんの関わりもないと思えるも
のの中に、関わりのあるものが潜んでいるのだ。昔あった「辻占」という風習
をふと連想した(劇中には、そういったものすべてが何者かの陰謀であるとい
う幻想にとらわれ、疑似科学的な分析を繰り返す人物として女木という男性
(吉原清司)が登場していた。この人物が人ごみで発作を起こして倒れたとき、
洪演じる医師が声をかけるまで皆無関心であるという場面もまた、「都会」の
特徴を現しているのだろう)。

 もう一つ興味深いことがある。限られた数の出演者で多くのキャラクターを
演じなければならないとき、同じ人物が何役も演じ分けることは小劇場では珍
しくない。しかし今回の舞台では、それを逆手にとった演出がなされているら
しい。
 たとえば、ゲーム感覚で詐欺行為を行うグループの一人を演じるあらきひと
みは、冒頭で殺される「母」の役も演じている。あらきが別々の役を演じてい
るのかもしれないが、実はこの「母」が本当に詐欺グループの一人だったとい
う解釈も可能である(彼女を殺した犯人は最後まで明示されないが、よからぬ
グループの仲間割れで殺されたのではないかと解釈可能な要素がいくつも提示
されている。ただし犯人は別にいるという推理も可能で、それについては見る
人それぞれの解釈に任せられている)。このような例はほかにいくつもあり、
誰かが見せている顔はほんの一部で、裏には複数の別の顔を隠しているのでは
ないか、という冷やりとするような感覚を生み出す。

 話が少し寄り道するが、桃唄309の舞台にはもう一つ、「都会」に形成さ
れる思いがけない人々のつながりをテーマにした作品がある。2005年の
「ファイブ・ミニッツ」がそれである。とある事件前の五分間に錯綜する人間
たちの繋がりが、一体どこから発生していたかをさかのぼってサスペンス風に
構成した舞台で、こちらも大変面白い内容だった。この「ファイブ・ミニッツ」
と「死せる母の石」はその点で共通するテーマを持ちつつ、大きな違いもある。
前者は最終的にちょっとしたカタストロフィ的な出来事が起こるので、様々な
問題が一応リセットされ、それを切り抜けた人々の心境はすっきり明るいもの
となるが、「死せる母の石」のほうはなかなかそれを許さないというところだ
ろう。

 佐藤演じる「息子」は、「母」の死からなかなか立ち直ることができない。
死の現場を撮り続けていた写真家は病死し、ほかにも数人の登場人物が死ん
でいくらしいと暗示される。もどかしい思いが蓄積されていく。
 しかし、それでは「東京=都会」に対して暗く冷たいまなざしを向けたまま
で終わる物語かと言えば、決してそうではない。「息子」が苦しんでいたのは、
母を殺した犯人がわからないせいもあるが、生前の母とうまくいっておらず、
最後に会ったときにもケンカをしてそのままだったという悔いが彼を縛ってい
たからだ。しかし引きこもって自分との対話を繰り返すうちに(最初は、一人
の女性(竹田まどか)と対話しているように見えるが、実は彼女は脳内の存在
であることが段々とわかってくる。さらに長谷によれば彼女は実のところ人間
ではなく、「息子」が母の死を確かめるように執拗に、その死体のあった場所
に置いては崩し続ける「紐」なのだそうだ)、ラスト近くでようやく外の世界
に出て行く覚悟を決める。彼が雑踏に足を踏み入れたとき、吉原演じる女木が
よろめくところと出くわし、あやうくそれを支えて助ける。その瞬間雑踏は、
それまで何度か演じられたような殺伐とせわしない場から、人々が明るい笑顔
で行きかう場へと変わる。この場面は実に鮮烈だった。世界はこうして、ほん
のささやかなことでがらりと表情を変える。それはおそらく見る人の意識がそ
うするのだというメッセージを、これほど短い時間で鮮やかに見せてくれた例
は、ほかに思いつかない。

 舞台ラストは再び、母と息子が最後に会ったシーンへと戻る。息子が悔いて
いたように、息子は母のパチンコ中毒を責め、母は息子が定職につかないのを
責め、とケンカに近いやり取りがあるのだが、それでもなぜか、母は息子を、
息子は母を思いやっているのがわかり、しみじみした情感が伝わってくる。息
子もやっとそのことに思い至り、自分の中の悔いと折り合いをつけることがで
きたのかもしれない。

 「東京=都会」は怖い。冷たい。危険だ。そういう言い方は可能だろう。こ
こでの「東京」はまた、「人間」と置き換えることも可能だ。ということはつ
まり、「東京」を形作るのは「人間」であり、人間次第で「東京」の姿も変わ
ってくる。これもまた、実に素朴で力強いメッセージではないだろうか。

 次の桃唄309の舞台では、果たしてどのような筋立てのアクロバットを見
せてくれるか、またどのような力強いメッセージがその中に織り込まれている
か。今から早くも楽しみで仕方がない。

【筆者略歴】
 光原百合(みつはらゆり)
 1964年、広島県生まれ。大阪大学大学院修了。尾道大学准教授で文芸創
作を教えるとともに作家として活動する。2002年に第55回日本推理作家
協会賞(短編部門)受賞。演劇を扱った作品(小説)に『最後の願い』がある。
他の主な著書として『十八の夏』『イアオニアの風』など。

【上演記録】
戯曲・演出 長谷基弘
出演:吉原清司 森宮なつめ 吉田晩秋  山口柚香 佐藤達  國津篤志  
貝塚建 洪明花 (ユニークポイント) 澤唯 (project サマカトポロジー) 
竹田まどか あらきひとみ 井坂浩 スガナミ (地球割 project) 

会場:東京/中野 テアトルBONBON
2009年10月15日~25日
チケット:一般 前売/予約 3,000円 当日 3,500円 
学生 前売/予約/当日 2,000円 
小中高生 前売/予約/当日 1,000円

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◇キラリンク☆カンパニー東京デスロック
 『ROMEO & JULIET』KOREA ver.
 コンテクストを宙吊りにするゲームの可能性
 柳沢望
 
 東京デスロックを主宰する多田淳之介が演出し、韓国人俳優たちと作り上げ
た『ROMEO & JULIET』KOREA ver.を見た。これは、韓国で
制作されて評判を呼び、再演もされた舞台作品の「キラリ☆ふじみ」上演版だ。
多田淳之介は埼玉県富士見市の公共劇場「キラリ☆ふじみ」の次の芸術監督に
決まっている。今回の上演は、いわばそのお披露目的な意味合いもあるのだろ
う。
 内閣官房参与になった平田オリザは、劇場法の制定を積極的に唱えてきたが、
青年団演出部にいた多田淳之介が若くして公共劇場の監督になるということ
は、今後の日本の公共劇場の行方を占うパイロットケースともいえるだろう。
 そうしたパースペクティブにおいて、今回日韓共作で『ROMEO & 
JULIET』が、地方の小都市で上演されたことの意義を考えてみたい。

 今回の『ROMEO & JULIET』KOREA ver.は、2008年2月
に、今回と同じ「キラリ☆ふじみ」で複数の演出家が同戯曲を共同演出した
『大恋愛』という企画の一部を発展させて独立の作品としたもの。松岡和子訳
の戯曲を元に多田自身が台本を構成し、それを韓国側の翻訳者が韓国語版に訳
したものが上演に使われたという。
 残念ながら同時上演された日本版を見られなかったので、その間の対照関係
は度外視して、以下、単独の作品として論評する。

 舞台は、まるで大きなトランポリンのように白いシートに覆われた横長の長
方形のスペースがメインで、その縁を赤い正方形のビニールレザー調のクッシ
ョンのようなものが取り囲んで並んでいる。
 正面のスクリーンに字幕が様々に映写されることを除けば、ほかに視覚的要
素はほとんどない。いたって簡素な美術であり、そこに役者達の身体が浮かび
上がる。ある種、ポップでモダンなセノグラフィーだ。

 韓国語による開演の挨拶が終わり会場が暗転すると、大音響の重低音で
Perfumeの『GAME』が再生され“Let's Play The Game”の一節が響き渡
る。それは、この舞台を貫くモチーフがゲームであることを予告していた。

 一転、静まり返り照明に照らされて舞台には、無言で、ひとり、またひとり
と俳優が入場してくる。全員が、喪服を思わせる黒い衣装を身につけている。
そして、顔を見合わせながら、タイミングを合わせて座ったり、立ったりする。
それがやがて、椅子取りゲーム式に、全員でタイミングを合わせて立ったり座
ったりする無言のままの一種の遊びのように展開していく。
 これは、人間関係の様々なパターンをゲームのように示していくことで、ド
ラマの根底にある劇的図式を浮かび上がらせる試みであるようだ。パンフレッ
トでそれぞれの役者にはHUMAN1からHUMAN10という符号的な名前
が割り振られている。舞台の上にいる存在には、任意の個人という以上の意味
合いは無いということだろう。

 輪になって駆け引きが進むその沈黙のゲームは、やがて、ペアになって極端
に顔を近付けて戯れるような展開となる。そして最後には、役者達は舞台の上
手、下手の二手に分かれて、対立して行く。
 思いつくままに単なる任意の関係パターンを素描するような場面から始まっ
た舞台が『ロミオとジュリエット』のドラマに入っていくのは、この、対立の
図式からである。あらかじめ親密さや対立の様々な図式を提示することは、原
作となる『ロミオとジュリエット』という戯曲もまた、その組み合わせのひと
つのバリエーションであると告げていたかのようだ。
 
 『ロミオとジュリエット』の物語には、その背景に、モンタギュー家とキャ
ピュレット家の敵対関係があって、それが悲恋の物語を展開させる根本に据え
られた図式になっているわけだが、上手下手に別れた役者たちは、矢継ぎ早に
セリフを重ねて挑発しあい、罵りあうようにして、韓国語でセリフを投げかけ
はじめる。

 対立の図式において言葉をぶつけ合う両サイドの役者達は、前傾姿勢をとっ
て、挑むように、言葉を投げかけていく。役名がHUMANに抽象されていた
のと同様に、役者と役柄の関係は固定されるわけではないようだ。
 ロミオとジュリエットが舞踏会で出会い、惹かれあう場面で、お互いに慎ま
しさと大胆さの間で駆け引きをしながら親密さを深めていくセリフのやりとり
でさえ、敵対図式の延長線上に置かれて、まるで罵りあうような調子で投げ付
け合うように演じられていた。
 
 しかし、このように対立の図式を強調するのは、対立を背景にしながらシェ
イクスピアのセリフに繊細に織り込まれている、それぞれのキャラクターの立
ち位置の違いやコンテクスト間の入り組んだ交渉を捨て去ることでもある。そ
の交渉の中から一つの筋が必然であるかのように導かれていく悲劇としての展
開も抽象化されてしまい、全てが単なる対立の図式に還元されたかのように冒
頭の場面は進んだわけだ。

 そして、バルコニーの場面では、それまでの対立の調子は消えて、役者達が
冒頭のゲームでペアを作ったように舞台に散らばり、まるで複数のカップルが
それぞれロミオとジュリエットであるかのように、すこし落ち着いた親密さの
図式が舞台に重ね書きされて行った。

 さて、開演から上演の概要が理解されるにいたるまでを、上演の展開に沿っ
て素描してきたが、舞台展開をなぞるのはここまでに留めておく。この上演作
品の可能性と限界を論じるためには、導入としてこれで十分だろう。

 この上演では、それぞれのセリフが人物像に結びつかない仕方で声に出され
ている点で、キャラクターそれぞれが帯びているコンテクストは失われてしま
っている。たとえば、乳母やマキューシオのセリフに含まれるような性的で猥
雑な要素はほとんど省略されている。
 それら原作の多層的なコンテクストは、省略された代わりに、たとえばロミ
オとジュリエットが初夜を迎える場面において字幕によって性的な含意が強調
されるなど、別の仕方で舞台に描かれていたと解釈できるかもしれないが、こ
こで問題なのは、諸要素がドラマとして展開されず図式的に整理されてしまっ
ていること自体である。

 もちろん、原作戯曲の微細なドラマは、テキストの次元ですでに読み解ける
ものとしてあり、そのまま演じられなくても良いと考えることもできる。そし
て、原作戯曲のドラマとは一見かけ離れた舞台表象を提示することで、上演行
為が戯曲の解釈可能性を拡大するということも、有りえるかもしれない。

 
 他の場面を取り上げながら考えてみよう。たとえば、ジュリエットがロレン
スの用意した薬を飲むシーンや、その後、乳母が倒れ伏したジュリエットを見
つけるシーンでは、K-POPというか、ダンスミュージック調の韓国POP
音楽が大音量で流されていた。
 ジュリエットや乳母のセリフを声に出す女優は、まるでライブステージで客
席に語りかけるシンガーのように、声に出される悲壮な言葉とは裏腹に、満面
の笑顔で晴れやかに客席に語りかけてみせる。
 同じように、ロミオが追放されるシーンでは、尾崎豊のライブ音源が使われ
て、マイクを持った俳優が大げさに客席に語りかけてみせる。

 つまり、この上演で示された舞台表象は原作戯曲とはかけ離れた意味合いを
原作の意味内容にぶつける一種のアイロニカルなパフォーマンスになっており、
原作とは遠いところから原作の内容を受け取るという、逆説的な解釈作業を促
すものである。
 それがアイロニカルであるだけ、原作の悲劇性がより強く印象付けられたか
もしれない。原作からかけ離れた演技のアイロニカルな感覚は、日韓の文化的
な近さと遠さにまつわる思いを観客に抱かせたかもしれない。

 あるいは逆にこのような演出には、原作戯曲が持っている劇的構造を、現実
を解釈させる劇的図式のようなものとして提示する作用もあったかもしれない。
たとえば、POP音楽のライブへのなぞらえを、こんな風に解釈できる。古典
戯曲の主役が特権的な人物として表象されることは、POPカルチャーの文脈
でスターが表象されることと似通ったことであり、POPカルチャーのヒーロ
ーが現代の悲劇を演じることもある、などなど。

 別の場面を取り上げてみよう。この舞台の後半で、「だるまさんが転んだ」
のように、役者の一人が何度も振り返って、そこに向かって歩いていく俳優が
倒れこんで行くという場面がある。それぞれの役者は、剣を突き出すように白
い菊の花を手前に突きつけていて、鬼に当てられたように、順番に床に倒れこ
んでいく。
 これも、セリフが描き出す場面とはかけ離れた演技ではあるが、登場する若
者が順番に全て死んでしまうというこの戯曲の一面を、ある意味象徴的に表し
てはいる。つまり、必ずしも戯曲を裏切ってはいないのだが、そこで示されて
いるのは戯曲から抽象された図式の組み合わせである。

 こうした演出は、原作戯曲の新しい解釈を引き出したり、すぐには見えてこ
ないドラマを浮かび上がらせたというよりは、原作戯曲の強固な劇的構造を骨
格として浮かび上がらせ、そこに様々な衣装をかぶせて見せたに過ぎないよう
に思われる。
 この舞台は、シェイクスピアの原典が持っているドラマ的要素を抽出し、そ
の図式をなぞるように、ゲーム的なパフォーマンスを配置していくことから成
り立っている。ただ、ここで原典から要素を抽出することと、ゲームのように
パフォーマンスを行うことは、どちらも、テキストとパフォーマンスのそれぞ
れを、いわば絵文字のような単純な記号で表せるものに置き換えて扱うに等し
いことではないだろうか。
 その記号化されうる図式の水準において、テキストとパフォーマンスのある
種恣意的な併置が可能になっている。だからこそ、戯曲自体と日韓の文化的相
違という複雑なコンテクストに拘束されないような、テキストと演技の組み合
わせが可能になったと言えるだろう。

 ここで問題なのは、この併置可能な水準が、テキストとパフォーマンスの双
方を貧しくすることによって開かれているのではないか、ということだ。テキ
ストの微細なドラマは消し去られ、パフォーマンスの微細な質は見失われる。
その点で、コンテクストから自由でありえる分、逆に、舞台の質は制限されて
いたのではないか。

 この上演では、それぞれの役者の発声は基本的に朗々と響き渡るもので、演
技の質もその声音と通い合うように、若い役者それぞれのすこし力んだ緊張が
伝わってくるようなものだった。そこには一定の素晴らしさがあっただろう。
しかしそれは、一定の枠にはまったもののように思われた。
 たとえば、冒頭の椅子取りゲームのような駆け引きで示されているのは、目
配せであったり、仕草であったり、明確に分節可能な、あらかじめの枠という
か解釈格子の中に納まるような、ある種の記号化された身振りの交換だっただ
ろう。
 一般に、対面的なコミュニケーションにおいて成り立っている微細な情報交
換は、情報交換として意識されないレベルですでに感知されている雰囲気や印
象の質感として享受されるものではないか。この上演では、そのような明示的
な記号よりも下にあるレベルにおいては、演技はそれほど豊かでは無かったよ
うに思う。
 たとえば、韓国と日本の文化的な差異が、じゃんけんをする手の出し方や、
踊る仕草の違いに見出せるように思えたこともあったが、そうした違いは、公
演の枠の中ではどちらでもいい相違に過ぎないという印象が残った。上演の枠
組みにおいては、踊っているという記号、じゃんけんをしているという記号で
あればよかったのだから。

 そうしたどこか恣意的な演出は逆に、原作のゆるぎない劇的構造を浮かび上
がらせた点で、シェイクスピアを権威付けられた演劇史の殿堂に据え直したの
であり、一見恣意的に演じられた様々なパフォーマンスもまた、戯曲に結び付
けられ解釈に晒されることで制限され束縛されていたのではないか。
 もちろん、テキストからもっと離れることもできるし、パフォーマンスをも
っと徹底した貧しさにおいて提示することもできる。たとえば、ベケットの
『Quad』などは、ドラマの図式性をゲーム的に示すことを極北まで徹底した
例だろう。そうした点で、今回の上演はある種折衷的な不徹底さの領域に留ま
っていたように思われる。
 
 さて、80年代末に梅本洋一は『視線と劇場』(弘文堂)において、日本には、
戯曲に従属せず、自律した舞台造形を行うような作家としての演出家が演劇の
主流にほとんど登場しないと嘆いて見せた。
 日本の近代演劇において、舞台を造形する作家としての演出家が作家として
あまり前面に出てこず、象徴的な演出が後退したのは、伊藤熹朔や千田是也が、
ゴードン・クレイグの演劇理念を審美主義と名指す批判によって退けることで
新劇の基調を据えたことが大きな理由のひとつだろう。そこに、ある種の演劇
史的な欠落が生じている。この上演をそのような日本近代演劇史から振り返っ
て見ると、まるで西欧演劇の受容が制限されてきた結果生じた欠落を穴埋めす
る作業のひとつだったようにも思う。
 そうだとして、フランスにおいて進んだ公共劇場の整備とそれに伴う演出家
の前景化がどのような結果につながったのかについてもまた、梅本洋一の指摘
を振り返っておくべきだろう。ひとことで言えば、演出家が優位に立つ舞台造
形は上演史に対するコメントの付け合いのようなものになって、自閉して行っ
てしまったというのだ。
 演出家優位の演劇は、西欧では、20世紀に既にやりつくされたことだったと
も言える。公共劇場が演出家を作家として前景化させるだけに留まるなら、そ
れは遅れてきた近代化であるに過ぎない。

 さて、今回の上演を日韓の文化交流が進むステップとして見るならば、平田
オリザが関わった『その河をこえて、5月』のような、ある種の国家的事業の
ようにしてではなく、若い世代同士の間で、もっとカジュアルなコラボレーシ
ョンとして共同制作が実現したように思える。そうだとすれば、これは明らか
な前進だ。
 この上演において最も劇的だったのは、舞台表象のあり方や演技の質である
よりもむしろ、この上演を日韓両国の若い世代が共同して実現したという事実
そのものではなかっただろうか。
 平田オリザは、リアリズム的な舞台を共同制作したため、共に舞台に立つ日
韓の役者それぞれの文化的コンテクストの違いにより敏感にならなければなら
なかったが、今回の舞台は、図式的な抽象性を持っていたからこそ、そうした
コンテクストの相違を逆に無造作に舞台に提示することに成功していたように
も思う(注)。ひょっとすると、そうした方向に、演劇における異文化交流の
可能性がより多く開かれているのかもしれない。
 日韓共作による舞台作品は、失敗作や駄作も許容されるほどに、もっと一般
化するべきだろうし、もっと野放図に感受性やアイデアの交換がすすんだ方が
いい。そうした面で、今回の上演は、成果としてはあくまで過渡的なものと評
価すべきであったとしても、日韓の演劇界に可能性を大きく開いたのではない
だろうか。
(所見:10月28日)

(注)平田オリザ「他者を理解するとは、どのような行為なのか?」(『21
世紀文学の想像(6)声と身体の場所』(岩波書店)所収)で語られた、『そ
の河をこえて、5月』の製作過程に関する報告を参照のこと。

【筆者略歴】
 柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
 1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。
個人ブログ「白鳥のめがね」。http://d.hatena.ne.jp/yanoz/
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=9

【上演記録】
キラリンク☆カンパニー東京デスロック
『ROMEO & JULIET』KOREA ver.

原作:  W・シェイクスピア
構成・演出:  多田淳之介

出演:キム・ユリ(Kim You Lee)、カン・チョンイム(Kan Cheong Im)、
イ・ユンジェ(Lee Yoon Jae)、クォン・テッキ(Kwon Taek Ki)、
キム・ソンイル(Kim Song Ll)、オ・ミンジョン(Oh Min Jung)、
イ・クノ(I Kuno)、パク・キョンチャン(Park Kyoun Chan)、
佐山和泉、チェ・ソヨン(Choi So Young)

スタッフ
照明:岩城保 舞台美術アドバイザー:濱崎賢二
音響:泉田雄太 宣伝美術:宇野モンド

韓国語翻訳:ミョン・ジンスク(Myung Jin Sook)
通訳 / ドラマトゥルク(韓国公演):イ・ホンイ(Lee Hong Lee)
演出助手(韓国公演):カン・ミンベク(Kang Min Baek)
制作協力:第12言語演劇スタジオ(12th Tongue Studio) ソン・ギウン
(Sung Kiwoong)
制作:服部悦子

会場:☆ふじみ マルチホール
10/24(土)19:30、10/25(日)14:30、10/27(火)19:30、10/28(水)13:00
チケット:(日時指定・全席自由・整理番号付)
前売・予約 一般=3,000円 当日=3,500円 
学生・シニア[65歳以上]=2,000円 当日=2,500円
セットチケット=5,000円(韓国ver. 日本ver.を各1回ずつご覧いただけ
るお得なセットチケットです)

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 連載【レクチャー三昧】第65回 紙

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 芝居やレクチャーに通いつづけていると、ちらしプログラムハンドアウト参
考資料等々、紙が雲霞のごとくに集まってきます。(紙が「うんかのごとく」
というのは正しい言い回しではありませんが、ほんとにそんな感じです。)
むろん、お勉強していれば書籍や雑誌も積み上がってくる一方です。
素人でさえこんなんなのに、いったい劇評家や研究者たちは、どうやってこい
つらを収納・管理しているのだろう、このうえ映像資料もあるわけでしょう?
と不思議でしょうがありません。お宅で係争の種だったりして(我が家ですら
既にそうです)。逆に、「別々に同じ資料持ってるのって家賃がもったいない
から、結婚しない?」という口説き方もあるそうですが。
(高橋楓)

*無料でも予約が必要なことがございます。必ずウェブサイトでご確認下さい。
*各情報の真偽・変更・取消・思想信条背景等につき一切の責任を負いません。
各自ご確認の上お越しください。
*【レクチャー三昧】カレンダー版(ウェブサイト)もご活用下さい。
ただし、当「マガジン・ワンダーランド」でお知らせした催しが全て転載され
ているわけではありません。
http://www.wonderlands.jp/info/lectures.html


▽舞台芸術の本質を追求する
2009年11月25日(水)19:30~
神楽坂die pratze
非会員300円
講師は 武藤容子(ダンサー)、林慶一(パフォーマー)、矢内原美邦(ニブ
ロール)、玉邑浩二、大数みほの諸氏
http://www.geocities.jp/azabubu/jtantalk_2.html

▽ベントゥーラ・ポンス監督講演&「バルセロナ(地図)」上映
2009年11月25日(水)18:30~
セルバンテス文化センター東京地下1階オーディトリアム
英語字幕付
無料、要申込
http://www.tokio.cervantes.es/jp/default.shtm

▽サウダージ・アナログサウンド ブラジル音楽の夕べ
2009年11月28日(土) 16:30~18:00 
立教大学池袋キャンパス太刀川記念館3階多目的ホール 
無料、予約不要、先着順150名
講師は 高場将美氏(音楽ジャーナリスト)
http://www.rikkyo.ac.jp/events/2009/11/6079/

▽一枚の写真が社会を変える ~フォトジャーナリズムの現在~
2009年11月29日(日) 14:00 ~ 16:30
早稲田大学小野記念講堂
無料、申込不要
講師は田沼武能(日本写真家協会会長)、広河隆一(DAYS JAPAN編集長)、
古居みずえ(アジアプレス・インターナショナル)、佐藤賢二郎(毎日新聞社
外信部)、熊切圭介(日本写真家協会副会長) の諸氏
http://waseda-events.jp/?y=2009&m=11

▽鴎外―現代に問いかけるもの 
2009年11月28日(土) 15:30 ~ 17:00 
早稲田大学戸山キャンパス36号館681教室
無料、申込不要
講師は竹盛天雄氏(早稲田大学名誉教授)
http://waseda-events.jp/?y=2009&m=11

▽知的財産法の未来
2009年11月28日(土)13:00~17:30
明治大学駿河台校舎アカデミーコモン3階アカデミーホール
要申込、申込締切11/18
 http://www.meiji.ac.jp/laws/tizaishinpo.html

▽歴史認識共有の地平 独仏共通教科書と日中韓の試み
2009年11月24日(火)17時
ドイツ文化センター(東京)図書館
無料
http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja5242687v.htm

▽持続可能な社会の構築―スウェーデンからのメッセージ―
2009年11月26日(木) 14:00 ~ 17:00 
国立国会図書館 東京本館 新館 講堂 
無料、要申込、先着順300名
http://www.ndl.go.jp/jp/event/events/ips2009.html

▽アフリカ、ザンビアでの音楽指導 報告会&ミニライブ
2009年11月28日(土) 14:00~16:30
ジャパンファウンデーション JFICホール[さくら]
非会員500円
http://www.jpf.go.jp/jfsc/member/event/0911.html

▽記憶の居場所
2009年12月5日(土) - 6日(日)
慶應義塾大学三田キャンパスおよび周辺地域
二日間3,000円、要申込、定員150人、申込締切11月28日(土) 
講師は 石内都氏(写真家)、鷲田清一氏、熊倉敬聡氏等
http://artmeetscare.seesaa.net/article/130081554.html#more

▽芥川と椎名文学―『復活』をめぐって
2009年12月5日(土) 13:30~15:30 
明治学院大学白金校舎本館9階キリスト教研究所 
講師は小林孝吉氏(文芸評論家・明治学院大学キリスト教研究所協力研究員)
http://www.meijigakuin.ac.jp/event/archive/2009-10-20-1.html

▽映像人類学とアート」人類学的表現の新地平を求めて
 -映像とアートが紡ぐ記録と表現の新たな関係-
2009年12月14日(月)15:30-19:30、12月15日(火)13:30-19:30 
慶應義塾大学三田キャンパス東館G-SEC 6F
無料、要申込
映像上映とシンポジウム
講師は Sarah Pink(Loughborough University)、Karl G. Heider
(University of South Carolina) 
新井一寛(京都大学)、内田順子(国立歴史民俗学博物館)、村尾静二(総合研
究大学院大学)、宮坂敬造(慶應義塾大学)の諸氏
http://www.art-c.keio.ac.jp/event/log/312.html

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【編集日誌】
☆今週は、ミステリー作家の光原百合さんに、以前からお好きだという劇団桃
唄309の公演『死すべき母の石』、気鋭の評論家柳沢望さんに、東京デスロ
ックの『ROMEO & JULIET』KOREA ver.を論じていただきました。光原
さんの評論は、作家らしく物語の魅力とメッセージ性に焦点を絞り、柳沢さん
は辛口で鋭い切り込みを見せます。読み応えたっぷりの二本となりました。

☆ 先日友人の結婚式で余興の寸劇に参加、俳優デビュー(?)しました。
十分ほどで台詞もわずか。それでも随分緊張しましたし、実に難しいものだと
思いました。余興のお約束で拍手も気前よくいただきましたが、実際どうだっ
たのだろう、自分の演技は?などと、もはや誰も気にしていないことをぐずぐ
ずと思い悩んでいます。ちなみに役柄は「結婚できない男2」でした。

☆ 気圧の谷の影響で、雨の多い一週間になるようです。お出かけには傘を忘
れずに。これを書いている今も雨が降っています。そう言えば森繁久弥さんが
お亡くなりになりましたね。涙雨でしょうか。
(水牛健太郎)

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発行 ワンダーランド
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Tel& Fax: 042-422-5219  info@wonderlands.jp
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