2009/08/12
週刊マガジン・ワンダーランド 第152号
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.wonderlands.jp/ マガジン・ワンダーランド(小劇場レビューマガジン) 2009年 8月12日発行 第152号 毎週水曜日発行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【目次】 ◇TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作) 置いてきぼりにされたメロドラマ・ジャンキー 観客の場所はどこ? 都留由子 ◇TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作) それが露わにされるとき 大泉尚子 ◇TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作) 「観る」とはどういう行為なのか問いかける 金塚さくら ◇ピエール・リガル「プ・レ・ス」第2回 「ダンス」や「アート」の概念を揺さぶる 堤広志 ▽連載【レクチャー三昧】 第52回 「生理的に嫌い」 高橋楓 ■web wonderland から===================== http://www.wonderlands.jp/ ◇ヤン・ファーブル「寛容のオルギア」 「人間的な、あまりにも人間的な」ヤン・ファーブル 竹重伸一 ◇東京デスロック「演劇LOVE2009~愛のハネムーン~」 コミュニティの誕生、成熟、崩壊、再生へ 編み直す演出で成長する作品 カトリヒデトシ ◇東京デスロック「演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~」(LOVE 2009 Kobe ver.) 自足的世界から現在に投企する 前後半を結ぶ「LOVE」 藤原央登 ◇ピエール・リガル「プ・レ・ス」(第1回) 「寛容のオルギア」があぶり出したもの コンテンポラリー・ダンスは今 堤広志 ◇ワンダーランド支援会員を募集中! http://www.wonderlands.jp/info/members2009-1.html ===================================================================== ◇TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作) 置いてきぼりにされたメロドラマ・ジャンキー 観客の場所はどこ? 都留由子 TAGTASプロジェクトの「百年の<大逆>」前編と後編を観た。TAGTASとはト ランス・アヴァンギャルド・シアター・アソシエーションの略で、今回筆者が 観た「百年の<大逆>」は、円卓会議、リーディング、映画の上映などととも に、その設立公演のひとつ。一週間の間隔を置いて前編と後編が上演された。 正直に言おう。前編を見終わって客席に座ったまま、呆然としてしまった。 いわゆる「普通のお芝居」になじんできた筆者も「アングラ」と呼ばれる作品 はいくつか見たことがある。しかし、この「百年の<大逆>」はその印象とも 違う。「アヴァンギャルド」だからか?いや、早まってはいけない、後編を観 よう。 そして、後編を観た。よし、とにかく書いてみよう。 まず前編。舞台の上で行われたことは、たぶんパフォーマンスと呼ばれるも のだ。その方面には疎いのだが、たぶんそうだ。 ほとんど何もない舞台。下手にダンスのレッスンバー、上手に明治時代の法 廷の証言台みたいなのと、スクリーン。おもむろに証言台に人が現われ、盛ん に本をめくりながら、証言台を持ち上げて一歩ずつ客席に向かって歩みつつ、 何ごとかしゃべり始める。お昼のワイドショー番組の証言映像のようにイコラ イザーがかかっていて、何を言っているのかよく分からない。補うかのように、 ホリゾントには一文字ずつ文字が投影される。言葉がほとんど聞き取れないの で、現われる文字を一所懸命たどる。が、途中でいやになって、聞き取る努力 も読み取る努力も放棄。 一方、舞台の上では、何やらダンスが行われている。上手のスクリーンには 神祇官、太政官などと筆文字で書かれたものが映し出される。 これはダンスではなく、舞踏ってやつか、などと思ううちに、新たに、とて も薄着の女性がふたり出てきて、さらに踊り始める。わたしの前の客席で盛大 に舟を漕いでいた男性三人が、ばらばらの席だったにもかかわらず、ほとんど 同時に目覚めて、三人とも同じように身を乗り出して舞台を観始めた。薄着の 女性の身体というのは、強力に人を覚醒させるものらしい。上手のスクリーン では、ヨーロッパ系のように見える男性が、神経の病気と思われる痙攣の発作 を起こしている。フィルムは古びていて、たぶん戦前の医療用記録フィルムみ たいなものだろう。 流しのおじさんみたいな人が現われ、あちこち行ってますが、ここのお客さ んが最高です、みたいなことを言う。続いて、死刑囚だという犬の首輪のよう なものをつけた若い男性が、水戸刑務所の所内放送(があるのかどうか知らな いが)のDJを始める。そして最後に「陛下!」などと言う。 やがて、白シャツ黒ズボンの男性と、白いブラウスに黒スカートのポニーテー ルの女性が、日本国憲法と大日本帝国憲法の条文を交互に唱え始める。聞き取 れない証言やダンスや「陛下!」との間に何か関係があるのだろうか?この憲 法の条文は極めてはっきり発語されるので、何を言っているかはよくわかる。 「何を言っているかわかる」ことが、ただそれだけですばらしいことのように 感じられる。とは言え、何を意味しているのかは判然としない。 舞台奥から帽子と浴衣の女性がゆっくり登場し、低い声で何か言う。大逆事 件について永井荷風の書いた文章のようだ。やがて、先ほどの流しのおじさん と、ダンスパフォーマンスのときに下手でマネキン人形のように立っていた男 性と三人で、爆裂弾を投げつける相談を始めた。この人は菅野スガらしい。 新たに、着物を着て、ピンクの細い角棒をたくさん持った男性が現われ、儀 式めいて棒を投げたり、拾ったり、並べたり、立てたりし、ダンスを始める。 曽根崎心中の天満屋の段、お初が徳兵衛と九平次のもめごとに気をもむ場面の 浄瑠璃が使われている。曽根崎心中と大逆事件? 疑問符でいっぱいになっているところに、リュックを背負った男性登場。 「わたしの名前は山田零」と語り始める。再び、何を言っているかわかるとい うことだけで、ほっとする。が、どうも意味は取れない。日本史の重要なこと はすべて「ヤ族」がかかわってきた、という主張のようだ。そして、この人は 着ているものを脱いで、黒いパンツ一枚になってしまうのだ。だけど、せっか く脱いでくれたのだが、それは、さっき薄着の女性が居眠りしていた男性に対 して持っていたような覚醒作用は持っていなかった、少なくとも筆者に対して は。とても残念なことだ。 置いてきぼり感に満ちた公演<前編>が終わった。 さて後編。後編ではパフォーマンスのほかに「ディスカッション」が入るこ とが最初に告げられる。曰く、前編では問題提起はできたが、「閉じてしまっ て、公演としては失敗だった。後編ではその反省としてディスカッション+パ フォーマンスという形で行いたい。ひとつひとつの演目の間にディスカッショ ンをはさむ形で」。 おお、前編は問題提起だったのか。何を?誰に?それにしても、公演として は失敗だったなんて言っちゃっていいのか?前編しか観ないお客はどうなるん だ? ひとつひとつの演目の間にディスカッションをはさむ、ということは、それ ぞれ独立した演目を順番に並べて上演していたということか。それならそう言っ ておいてよ、全体としての意味を取ろうとして苦労しちゃったじゃないか。前 編では、全くクレジットがなかったが、今回は遠藤さん、清水さん、佐々木さ ん、笛田さん、脇川さん、山田さんの順番です、とアナウンスがあった。 びっくりしたのは、パフォーマンスの内容が前編とほとんど同じだったこと だ。違っている部分はあった。前編のパフォーマンスを撮ったビデオをスクリー ンに映すとか、客席から舞台へ上がった女性が菅野スガの供述調書を語るとか、 男女がひたすらハンバーガーを食べ続けるとか。しかし全体の印象に大きな違 いはなく、前編と後編の関係はよくわからない。もしかして、前編が「失敗だっ た」ので同じことを手直ししてやり直した? ひとつのパフォーマンス後にディスカッション。ディスカッションとは討議 とか議論の意味だと思っていたが、この場合は説明ということらしい。舞台上 に並んだTAGTASのメンバーが、表現したかったことは○○で、とか、○○さん のこのシーンですけど、などと発言。え?言葉で説明するんだ! それに、そ う言われても、どれが誰のパフォーマンスなのか、そのシーンがどこのことな のかよくわからない。当然、ディスカッションに参加するのは、もっぱら TAGTASのメンバーで、そのためディスカッションは、まるで仲間内の話し合い を公開しているかのようで、ここでも置いてきぼり感が充満する。前編は閉じ てしまって失敗だったと言うけれど、このディスカッションを開いていると言 うのだろうか? それでもようやく、客席からも、台詞が全く聞き取れない、ナルシズムとし か思えない、などの声が上がる。それぞれについて説明はあるものの、説明に 留まり、議論がかみあい、積み重なって理解が深まっていく手応えは感じられ ない。 順次、パフォーマンスが行われ、ディスカッションでは、ドゥルーズの「意 味=身体」、ホッブスのリバイアサン、パゾリーニやデリダなどの名前が何の 説明もなく当然のことのように出て来る。マルクスやゲバラの名前も出てきた ような気がするが、小難しい言葉の連打にすっかり集中力を欠いてしまった筆 者は記憶が定かではないことを告白しなければならない。土方巽が断食をして 公演に臨んだことも誰もが知っている常識だったようだ。 そしてディスカッションに時間を取られ、「バラシをしなくてはならなくて 時間がないので端折って」公演は終わった。 後編の収穫はあった。まず、ここでは「出演者の名前や経歴やそのパフォー マンスについて知っている」ことが前提になっていて、何の予備知識もなく客 席に座って見る者には、この公演の観客は務まらないとわかったことだ。 そう言えば、TAGTASの第一宣言に書いてあった。「物見遊山や、浅薄な好奇 心を抱いて来た者や、利益を漁りに来た者は、意気阻喪するだろう」。予言は 的中した。さすがである。でも、それならぜひ最初にそう言っておいて頂きた かった。この公演はお客を選びます、いくらチケット代を払ってくれても、誰 でも観ていい作品ではありません、と最初に言っておかないのはアンフェアだ。 もうひとつ、わかったことがある。この公演のお客は、出演者についてだけ でなく、デリダやドゥルーズやホッブスやパゾリーニや、さらに、マルクス、 ゲバラ、土方巽などについて、ちゃんと知識がなければならないのだ。 さらに、後編のディスカッションを聞いて本当にショックだったのは、前編 を観た筆者は、パフォーマンスが提起していたことを、なにひとつ感じ取って はいなかったということだった。ダンスを見ても、そこから訓読システムにつ いて考えることはなかった。神祇官とか太政官とか書いたものを見ても、国体 にいかに抵抗するかについては全く考えが及ばなかった。 筆者が無教養なのは認めよう。デリダもドゥルーズもホッブスも読んだこと はない。土方巽が公演の前に断食することも知らなかった。利益を漁りに来た つもりはないが、お前は物見遊山で浅薄な好奇心を抱いて来たのだろうと言わ れれば、そうかもしれない。TAGTASの水準からすれば、まさに筆者はTAGTAS第 一宣言の中に出てきた「メロドラマ・ジャンキー」だ。ついでに言えば、トラ ンス・アヴァンギャルド・シアター・アソシエーションと言われても、何のこ とだかわからない。 それでも、この公演に関心を持ち、お金を出してチケットを買ったのだ。長 い長いTAGTAS第一宣言もちゃんとプリントアウトして目を通し(理解したとは 言わない)、ちょこっとだけれど大逆事件についても調べて、どんな作品なん だろうとドキドキしながら、期待して劇場に来たのだ。若いアイドルの出る作 品ではなく、TAGTASという聞きなれない団体の、大逆事件をモチーフにした作 品を選んで、しかも前・後編の二回にわたって観に来たのだ。自分の意志でそ うしたのだから恩に着せるつもりはないが、他の観客はみんな面白く観て、満 足して帰宅したのだろうか? その後、TAGTASの参加者、清水、脇川、佐々木、山田、笛田の五氏のお話を 聞く機会を得た。お話はとても興味深いものだった。「百年の<大逆>」の上 演までにどれほどディスカッションが繰り返されたか、その意味で五氏がいか に真摯だったかがよく分かるお話だった。国家による未曾有の大冤罪事件(し かも、十二人もが死刑になった)なのに、まるでなかったことにされている大 逆事件に対する問題意識には、目を開かれる思いだった。芸術家ならではの鋭 敏な危機意識というのはまさにこういうものを言うのだろう。そのことを実際 の上演から感じ取り難かったのが返す返すも口惜しいが、もちろんそれは筆者 の凡庸な感受性が責められるべきであろう。 そして同時に、観た人の「もうすこし『面白い』ということを意識してもい いのではないか?」という意見に対する佐々木氏の「あなたの『面白い』とい う基準になぜわたしが合わせなくてはならないのか」という発言から、TAGTAS では「お客が面白いと思う」ことに全く重きがおかれていないこともよくわかっ た。 そうか、あの置いてきぼり感は、ここから来たのだ。お客がどう思うかがた いした問題ではないのなら、劇場に観客の場所はない。パフォーマー同士が真 摯に討議して創り上げたものを舞台に乗せることで目的は達成されるのだから。 筆者の好みではないが、そういう作品もあっていいし、きっと「百年の<大逆 >」はそういう作品だったのだろう。時代の前衛が時間をかけ、心血を注いで 創り上げたものを、メロドラマ・ジャンキーが直ちに理解できるはずもなく、 お客がどう思うかなど、問題ではないに違いない。誇り高きアヴァンギャルド が、メロドラマ・ジャンキーが面白いと思う基準になぜ合わせなくてはならな いのかと問うのは当然である。 しかし、それなら、観客は何のために客席にいたのだろう? それなら、デ リダやドゥルーズやパゾリーニをよく理解し、TAGTAS第一宣言に共鳴し、 TAGTAS諸氏についてもよく知っている人だけを集めて上演すればよかったでは ないか? 一般向けにチケットを販売して舞台作品として上演した理由は何な んだろう? TAGTAS第一宣言にいう「メロドラマ・ジャンキー」である筆者は、舞台作品 には「何か」、それははっきり言葉で説明できないものかもしれないが、伝え るもの、伝えたいものがあるのだと思っていた。もちろん、創り手側と受け手 側に(TAGTAS諸氏と筆者のように)教養においても問題意識においても、大き なギャップがある場合、伝わりにくいということはあるだろう。お客には分か りにくい難解な作品だって世の中にはいっぱいある。それにしても、「あなた の『面白い』という基準になぜわたしが合わせなくてはならないのか」とお客 に向かって言うのである。清水氏も「上演までにどれだけのディスカッション があったかが問題で、出来上がりは問題ではない」と発言していた。なるほど そのとおりかもしれない。だからディスカッションに時間を取られたら、作品 を「時間がないから端折」ることにも不都合はないわけだ。 五氏のお話を伺ったところからすると、伝えた(かったのかどうかはよくわ からないが)い内容はすばらしいことだったようだ。しかし、やはり同じ問い を繰り返したい。観客の必要はどこにあるのだろうか? 上演という形を取っ ているのに、お客がいる意味がないというのはどういうことだろう? 観客は 「何か」を伝える相手ではないのだろうか? 観客に伝えるのでなければ、誰 に伝えるのだろう? それならそもそも上演形式にする必要があったのだろう か? 創る側が「あなたの『面白い』という基準になぜわたしが合わせなくてはな らないのか」とお客に向かって言い放つのなら、お客の側も、「あなたの『面 白い』という基準になぜわたしがお金を払わなくてはならないのか」と言って も特に差し支えはないだろう。木戸銭を取らずに上演し、帰りに、いいと思う だけの金額を支払うという、「つまらなかったらお代はいらない、お代は見て のお帰りだよシステム」を、今後、採用されることを勧めたい。 なお、念のためにつけ加えるが、お客はみんな「わたしの『面白い』という 基準に合わせてほしい」と思っていると考えているのなら、それはちょっと違 うのではないかと思う。少なくとも筆者は「わたしの『面白い』という基準に 合わせてほしい」と考えてはいない。自分の『面白い』という基準に合わなく ても、上演中身じろぎもできないような作品、さっぱり理解できないのにすご いということだけはひしひしと分かる作品、あまりに圧倒的で決して忘れられ ない作品、まばたきするのも惜しい気のする作品など、観てよかったと思う作 品はあるし、何より、今までの自分の「『面白い』という基準」を揺さぶり広 げてくれる作品、その作品を面白いと思うこと自体に自分でびっくりするよう な作品にぜひ出会いたいと思うからである。(2009年7月4日、7月11日観劇) 【筆者略歴】 都留由子(つる・ゆうこ) 大阪生まれ。大阪大学卒業。4歳の頃の宝塚歌劇を皮切りにお芝居に親しむ。 出産後、なかなか観に行けなくなり、子どもを口実に子ども向けの舞台作品を 観て欲求不満を解消、今日に至る。お芝居を観る視点を獲得したくて劇評セミ ナーに参加。 ・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=81 【上演記録】 トランス・アバンギャルド・シアター・アソシエーション(TAGTAS)結成プロ ジェクト 座・高円寺(2009年07月03日-12日) 全プロジェクト構成・演出 | TAGTAS ※円卓会議総合司会:鴻英良 通貫報告:TAGTAS ◎=上演『百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-』前篇(7/03-04) ◇=ドラマ・リーディング『魔女傳説』(7/04) (作:福田善之 構成・演出:福田善之+TAGTAS 出演:渡辺美佐子+TAGTAS) ☆=上演『百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-』後篇(7/10-11) ○=ドラマ・ワークショップ『明治の柩』 作:宮本研(7/08) ●=ドラマ・ワークショップ『冬の時代』 作:木下順二(7/09) A=円卓会議「<大逆>と日本近代演劇の起源」(報告者:TAGTAS)(7/04) B=ドキュメンタリー映画『ルワンダ』上映とレクチャー「虐殺と演劇をめぐっ て」(講師:鴻英良)(7/05) C=円卓会議「『魔女傳説』とその時代」(7/07) (報告者:菅孝行、佐伯隆幸、佐藤信、福田善之) D=円卓会議「革命の身振りと言語I:演劇の自由と倫理」(7/11) (報告者:井上摂、遠藤不比人、鈴木英明) E=円卓会議「革命の身振りと言語II:ビオス・ポリティコスの実践と方法 (報告者:内野儀)(7/12) F=レクチャー「前衛の系譜」大貫隆史+河野真太郎、マニフェスト・アクショ ン「TAGTAS第二宣言」(7/12) <会場> ◎◇☆…座・高円寺1 ○●…カフェアンリ・ファーブル ABCDEF…座・高円寺稽古場 スタッフ: TAGTASプロジェクト2009参画者 青田玲子、石井康二、伊藤大輔、遠藤寿彦、大貫隆史、落合敏行、柿崎桃子、 熊本賢治郎、久保田寛子、河野真太郎、佐々木治己、清水信臣、竹重伸一、寺 内亜矢子、豊島重之、羽島嘉郎、羊屋白玉、日野昼子、笛田宇一郎、山田零、 脇川海里ほか(50音順) 照明 河合直樹 (有)アンビル 音響 曽我傑 舞台監督 佐藤一茂、高橋和之 宣伝美術 Studio Terry“OVERGROUND” 映像 藤野禎祟 記録 村岡秀弥 写真 宮内勝 主催:TAGTAS 後援:杉並区 提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク ===================================================================== ◇TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作) それが露わにされるとき 大泉尚子 前衛=アバンギャルドという言葉をとんと聞かなくなって久しい。こないだ 若い人に暗黒舞踏の説明をしようとして、「前衛的な踊り…」と言いかけて思 わず赤面してしまい、あわてて「当時は前衛的と言われた踊り…」と言い直し た。何か、口にするだけでもちょっと気恥ずかしい感じがするんだけど、それっ て私だけでしょうか? ともあれ、TAGTAS(トランス・アバンギャルド・シアター・アソシエーショ ン)は「2008年、シアターという形式を共有しようとする諸個人が、互いの領 域を横断しながら協働していく関係をつくる場として」発足したとのこと。パ ンフを見ると、俳優・ダンサー・演出家・パフォーマーから批評家まで、さま ざまな人が参加している。今回の「TAGTAS結成プロジェクト」では、舞台上演、 ドラマ・リーディング、映画の上映会、円卓会議、レクチャーとさまざまな形 態をとりつつ、幸徳秋水の大逆事件をモチーフに、舞台芸術をとらえ直すとい う。 というわけで「百年の〈大逆〉前・後篇」の上演を見た(以下の内容は、記 憶とメモが頼りなので、間違っているところがあるかもしれない)。 まずは前篇。少し開演時間に遅れて行ったのだが、黒い服の男が、無音でダ ンスをしている。上手天井から金属性のロープで、かなり大きい輪が水平に吊 られており、正面奥には黒っぽい男もののジャケット、下手にはダンスのバー が置かれて、装置はシンプルでモダンな印象。 白いスーツの男が現れ、何かを読み上げている。だが、声にひどくエコーが かかっているし、とぎれとぎれなので、内容はほとんど聞きとれない。上方の スクリーンに「天照大神」など短い文字が次々と出る。もしかしたら「古事記」 かもと思う。 客席から女が立ちあがり「私は臣民、私は…」と繰り返す。映像には「神祇 官」「人民」などの文字の入った、系統図のようなものが映し出される。「テ ロリズム」「テロリスト」という言葉の入ったセリフが続くが、滑舌が悪い。 女と男が、日本国憲法と大日本帝国憲法を交互に述べる。こちらは明瞭な朗読 調。 ここまできて、舞台上で発せられる言葉は、観客に伝えようとしているもの とそうでないものに、はっきり二分されている感じがある。だが、その意図は 最後までわからない。 女が登場し語り始める。「明治42年…24名が死刑…無政府主義だから…」 と、これはどうやら大逆事件のことらしい。上手では、レオタードを着た女が、 ダンスをしている。「俺、菅野スガ、俺、虫、俺、天皇制のダンス、俺、侵入 してくる…」と、羅列的なセリフ。 ギターを持った男が死刑囚という若い男を紹介する。白い服の死刑囚は、ス ポーツの話を始めるが、ついには「死刑にしてくれ!」と叫ぶ。暗転。 浴衣を着た男が、ピンク色の長短の棒を小道具にし、邦楽をバックに、当て 振りのような感じで踊る。そのうち、大音量のアメリカンポップスのような曲 が流れ、ブレイクダンスが始まる。棒を、拍子木のように床で打ち鳴らしたり しながら。 客電がつく。「戦死者を、まず誰から追悼するか、まずアジアの死者たち、 そして日本人の死者たち。それとも日本人の死者たち、そしてアジアの死者た ちなのか…」という声が聞こえてくる。 舞台上で赤いシャツの男が言う。「私は山田という者です。名前は零…」。 「…だから私は身も心も裸になります」と言いながら服を脱ぎ、パンツ1丁に なり、ぎりぎりのところまで下げる。長い語りの中には「家康は穢多非人を弾 圧したが、一族だけ免れたのが皇族」というくだりも。 上手で、男が食パンを積んでいる。「…東アジア反日武装戦線『狼』の一員 でした…お召列車爆破事件…1974年、真夜中、荒川鉄橋に爆弾を仕掛けた… 三菱重工本社前で爆破、8人死亡…死刑判決」といったセリフ。 「我々は呼びかける。何を呼びかけるのか。そして『我々』とは誰なのか…」 から始まる長い文章(これは後で「TAGTAS宣言」とわかった)が、映像で流さ れてジ・エンド。 フゥーッ。読んでる人も辛いでしょうけど、書いてる方もシンドイのよね。 こう連ねただけでも、実に散漫なとりとめのない舞台空間を思い出して、溜め 息が出る。ストーリーのないパフォーマンスであることは予想通りだが、何か を感じるとっかかりがない。セリフや映像に、大逆事件、天皇制にかかわるモ チーフをちりばめたコラージュ? 時折、ダンスが入るのは、身体性も兼ね備 えてるというアピール? 各テキストがどこかに提示されているならまだしも、 そうではないので、拡散的なイメージが浮かんでは消えるに過ぎない。 前篇で懲りたのでもう詳細は書かないが、後篇で面白かったことが2つ。 まず始まる前に、階下のお手洗いに行った時のこと。下の階の会場では、地 元のお子たちのピアノの発表会が開かれるとこだった。幼稚園や小学生のお嬢 ちゃんたちが、パステルカラーのドレスを着てはしゃいでいる。それも、ほと んど全員が同じようなフワフワのフリフリで、デパートで定価で買えば2、3 万円はしそうなやつ。で、〈アバンギャルド集団〉とピアノの発表会という取 り合わせがすごくいい。5月のオープニング公演以来通ってきたが、座・高円 寺って素敵な劇場だなあ!とはじめて思う。 舞台では開口一番、前篇は通常の上演形式に閉じてしまい失敗だった、後篇 では、上演と議論が作品を織りなすような形で行いたいという前振り(じゃあ、 前篇だけ見た観客はどうなるのよ???)。そして、6つのパフォーマンスがあ るのだが、相互の摺り合わせをするためには数年はかかりそうなので、それぞ れを順に行うということが述べられる(エーッ、そんならここも、順番こでや る発表会だったの? 毎晩のように朝まで議論しながら飲んでるって話だけど、 取っ組み合いをしてでも、複数のチームがひとつのものを作ることで生み出さ れるダイナミズムっちゅーもんは、見るべくもないのか?!)。 2つ目は、オジイチャンの大声のヤジ。不明瞭なセリフには「一言も聞こえ ないぞ! 聞きとれなきゃ討論できないじゃあないか!」。また、前篇で登場 した「山田零」が、ほとんど同じパフォーマンスをやったのだが、そのパンツ ギリギリ状態に「脱いでいいよ、どうぞ!」「もっとやれよ!!」と。個人的に はあそこで脱がれてもシラケただけだろうが、この方の、王様は裸だ!的ヤジ には大共感。舞台上では、〈内なる天皇制〉ということが盛んに言われていた のだが、作品に違和感を感じても、異議申し立てもせず、諦めてすごすご帰っ てしまうのは、観客としての内なる天皇制に屈服することなのかもと思った次 第だ。ま、後で聞いたところによると、くだんの男性は、ドイツ演劇の偉い先 生だったそうだけれども。 ところで男のヌードについては、苦ーい思い出がある。ある劇場に、公演当 日の手伝いに行った時のこと。上演前のホールに入ると、大画面に男性器のク ローズアップの映像。まわりでは見知らぬスタッフたちが、黙々と仕込みに専 念している。担当者とその場で待ち合わせていたので、引くに引けず、目のや り場もなく立ち尽くすのみ。その時のいたたまれなさ、やるせなさといったら…。 でも結果的には、その日はとても面白いものを見た。出演したのは「Chim↑ Pom」(気付かなかったのがバカだが、まんまのネーミングじゃん!)という、 映像中心のパフォーマンス集団で、記憶に鮮明なのが「ERIGERO」という作品。 当時、紅一点だったエリイというギャル風のメンバーが、ピンクの液体を飲ん で、洗面器にピンクのゲロを吐くというのを延々とやる。ミニのワンピースを 着たエリイちゃんは、体を張ってるわけだが、さほど苦しそうな顔も見せない。 ゲロもなぜだか、ピンクだとポップな感じがする。 当たり前のことだけど、ペニスもゲロも、普通に存在してたり、体験してた りするのね。ただ服を着て隠してる、人前ではやらないというだけのことで。 これらのパフォーマンスが、その隠されていたものを、浮力を得たかのように フッと露わにしたということは言える。最近は、表現における、この「フッと」 感にけっこうこだわっていて、「ERIGERO」はその点で好き。 それから、女のヌードはそれほどではないのに、男のヌードを見ていたたま れないのは、それを見るコードがこちらにないからじゃないかなあと思う。女 のは、ヘアヌードを含めて見慣れている。電車で隣の人が読んでる雑誌とか、 なにげに開けてしまった息子のスポーバッグの底の方とか。日常に溢れてるか ら、体の中に受け入れる装置というか仕組みがあって、見た瞬間に消化できて しまう。村上龍の『半島を出でよ』で、北朝鮮の軍人工作員が日本に潜入して きて、雑誌などに氾濫する女性ヌードに戸惑う場面があったが、さもありなん。 私たちの中にも、男のヌードの受信装置はないのだ。 存在するのに目に触れることなく隠されているもの、言い換えれば、見て見 ぬ振りとか、あるものをないことにしとくっていうものは、ほかにもたくさん ある。たとえば、さんざん肉を食べているのに、その動物が解体されるとこも そうだし、人が死ぬということに関してもそういう傾向が強い。最近では、エ ンバーミングとか言って、遺体を、まるで生前さながらに生き生きとさせる技 術が進んでいて、親が亡くなった時やってもらったという話も聞く。 で、そういう隠されてるもの(物や行為に限らず、観念とか事件の深層とか いった抽象的なものも含めて)が、表現の中で、スコーンと的をついて露わに されたとき、ものすごく衝撃を感じる。そして、返す刀で見ている自分自身が 露わにされる。もしかしたら〈前衛〉って、そういうものなんじゃないのかな あ。その意味では、この「百年の〈大逆〉」の上演は、私にとっては前衛的で はなかった。なぜ今、大逆事件なのか、どう大逆事件なのかも、見出せなかっ たし。 作品中、唯一惹かれるところがあったのは、後篇でのダンスの1シーン。女 性が黒い透け感のあるレオタードで、舞踏っぽく踊る。右手が何かに強く引っ 張られていて、自分の意思ではない、何らかの力の影響であるかのような動き。 同時に、上方のスクリーンには、激しい痙攣によって、自由な動きが妨げられ ている男の映像が流される。舞台上の発言では、これはどうやら、兵役に従事 したトラウマによる〈戦争神経症〉の患者であるらしい。 暗黒舞踏の身振りが、障害を持つ人の動きに通じることがあるのは、すでに 指摘済みだろうし、ダンスが特に新鮮だったわけではないが、ドキュメンタリー 映像の迫力が支えとなって、そこに緊張感が生まれていた。 さらに、それにもまして強い印象を残したのは、その時、舞台の前の方に立っ ていた男性。手足を軽く曲げた中途半端な姿勢、しごくダンス的でなくカッコ 悪い体勢のままで、かなりの長時間静止していたのだ。そのハンパな立ち方が 凄く、踊らないで踊るとはこういうことかと思った。暗黒舞踏の始祖・土方巽 は、舞踏とは命がけで突っ立つ死体であると言ったんだっけ。終演時の私の拍 手の大部分は、突っ立ちっぱなしだった彼へのものである。 【筆者略歴】 大泉尚子(おおいずみ・なおこ) 京都府生まれ。芝居やダンス、アート系イベントが好きな主婦兼ライター。 「アサヒ・アートスクエア」インターン。時には舞台のスタッフボランティア も。 ・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=59 ===================================================================== ◇TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作) 「観る」とはどういう行為なのか問いかける 金塚さくら 舞台は薄暗く、奥までほとんど剥き出しだ。装置と呼べるものは上手に立て られたパネルと、下手に据えられたダンスレッスン用のバーしかない。もうひ とつ、簡素な演台が奥に置かれている。 演台の向こうに男が立つ。ヘッドホンを着けカセットテープらしきものをセッ トし、手元のノートに目を落として論説文のようなものをゆっくりと朗読し始 める。「本当のことを話す者にとっては-」 音読みがどうとか訓読みが何だとか、どうやら言葉について何事か述べてい るらしいが、何を言っているのか解らない。声はいくつもの高低に別れてばら ばらにエフェクトがかかり、必死に耳をそばだてても何を言っているのかよく 聞こえないのだ。くぐもった不協和音は異国の呪文のようにうねるばかりで、 意味を伝えてこない。 やがてステージの真正面に四角くスライドが表れる。男が読んでいる文章を 一文字ずつ、後を追うように大写しで投影してゆく。聞こえない言葉が視覚的 に補完されるかと期待して懸命に読もうとするが、一文字ずつに分断された巨 大な明朝体はもはやただの図形だ。どんなに目を凝らしても、文章として“読 む”ことはできず、結局こちらも意味を伝えない。 こうして始めから、言葉は解体されていた。 気がつけば舞台の隅にはひっそりと、黒い服のダンサー。いつの間にか踊り だしている。 演じ手は順に現れる。朗読する男。踊る男。高いところから黙って下りてく る男。生真面目に「私は臣民である」と宣う女。食パンを持って舞台に上がり、 茫然と立っている男。派手な眼鏡をかけて新聞を読む和装の女。「侵入してく る!」と叫びながら壁に衝突するようにして踊る女。ピンクの棒切れに布人形 をぶら下げて踊る浴衣の男。語る男。話す男。赤裸々な話をするために服を脱 いで裸になる男。 彼らはそれぞれに言葉を発しはするが、それを手掛かりとして「ストーリー」 を見出すことは困難だ。彼らの語る言葉は、何かを説明したり物語るための台 詞ではないのだ。ここでは社会で通用している枠組みの外側で言葉が発されて いた。むしろ敢えて外側へ外側へと向かうことが目指され、現代国語のシステ ムから逃れようとしていた。少なくとも私にはそのように思えた。 一見脈絡の読めない個々のパフォーマンスに、それなりに共通するものを見 出すとすれば、おそらく「言葉」に対するある種の警戒心があったと思うのだ。 「言葉」とは多分に権威主義的なものだ。言葉の“正しい使い方”は時の権 威によって定められ、人々は諾々とその取り決めに従っている。しかもたいて いは、その「正しさ」とは誰かが決めたものなのだということを意識すらして いない。それは自然発生的な法則だと信じ、無批判に「権威」の望む通りのや り方で言葉を発しているのだ。 言葉はひどく危険な道具でもある。言葉を通すと、深く考えもしないものを 安易に理解したようなつもりになれるし、他者の意見をまるで昔から自分もそ う考えていたかのように錯覚できる。巧みな言葉はするりと心のうちに入り込 み、思考回路を形づくって、人を内側から支配する。 有史以来ずっと人は言葉に欺かれてきた。彼らのパフォーマンスは、意図的 にせよ結果的にせよ、そうした糾弾と警告を浮かび上がらせるようだ。史書に は勝者の言葉で勝者の正しさが説かれ、一兵卒の犬死には美々しい言葉で飾り 立てられ英雄譚となり、群衆は誰かの言葉の尻馬に乗ってろくに検証もせずに 「犯罪者」を裁く。言葉に踊らされて無数の悲劇が起こった。見てもいないも のを信じ、知りもしないことを語り、何かを理解したようなつもりになって簡 単に決めつける。そうして罪ではないはずのことが処罰の対象となる。 言葉は信用ならない。だから彼らは言葉に依らないのだ。安易な意味づけを 拒み、何事も簡単に語ることを許さない。 「大逆」、すなわち“その存在”に関して異を挟むことが極刑に値する罪と なる。疑問すら寄せ付けないそうした存在がつまり「権威」であるなら、大逆 をテーマとするパフォーマンスにおいて、彼らが言葉に対して警戒し、規律か ら逃れようとするのは納得のできることだ。 彼らの手で言葉はすっかり解体し尽くされ、私はがらんどうになった前篇の 劇場を後にする。しかしこの状況下で、ステージに延々と映し出される彼らの 「宣言文」が饒舌なのはなぜなのか。 後篇の舞台もまた薄暗く、奥まで剥き出しであった。装置もほとんど同様で、 しかし前篇でバーの置かれていた下手には、オーケストラピットのように椅子 と譜面台が並んでいる。舞台奥には今回も簡素な演台がひとつ。 やがて数名の出演者が舞台に上がり、思い思いといった風に椅子に座る。そ うしてマイクを手に持ち、自己紹介から始めて簡単な経緯の説明をするが、そ れはあっという間に討議の様相を見せ始める。 いきなりの展開にこちらが困惑をしているうちに、彼らの会話に被さるよう にして演台の向こうに男が現れる。ヘッドホンを着けカセットテープらしきも のをセットし、手元のノートに目を落としてゆっくりと朗読を始める。「本当 のことを話す者にとっては-」 読んでいるのは前回とまったく同じ論説文だ。今回も声はいくつもの高低に 別れてばらばらにエフェクトがかかり、聞き取り難い不協和音は意味を伝えな い。やがてステージの真正面に四角くスライドが表れ、男が読んでいる文章を 一文字ずつ、後を追うように大写しで投影する。もちろん、分断された巨大な 明朝体は文章としての意味を伝えない。 気がつけば舞台の隅にはひっそりと、黒い服のダンサー。討議の場にいたは ずの彼は、いつの間にか踊りだしている。 こうして舞台は前篇の流れをなぞるようにして、パフォーマンスになだれ込 んでいく。しかし前篇ときっちり同じではなく、ダンサーは前回の半分も踊ら ないうちに途中で止められ、オーケストラ席のメンバーとの質疑応答が始まる。 「これは何を意味しているのか」「“書く”というシステムを表現-」 その「ディスカッション」が最終的な納得や結論を見出す前に、そこに被せ るようにして次のパフォーマンスが始まっている。 『百年の〈大逆〉』後篇はこのように、パフォーマンスとディスカッション が折り重なるようにして進行する。演技自体はおおむね前回とほぼ同内容のも のが繰り返され、前篇の流れをおさらいしながらそれについて検証しあう、と いった体裁だ。上手のパネルに前篇の映像が映写されることもある。 私は少しばかりあっけにとられてそれらを観ていた。ちょっと待ってくれ、 と思う。言葉が解体していた前篇に対し、後篇はまるで言葉の洪水ではないか。 それも彼らの使うのは「権威の言葉」なのだ。誰かが規定した正しい発し方。 何かを説明し意味づけるための手段。それを何の躊躇もなく当然のように使っ てみせる。 言葉で理解しようとする、それは危険な行為としてこの場では封じられてい たのではなかったか。もちろん私が勝手にそう見て取っただけとは言え、確か に彼らは巷にはびこる安易な解りやすさからは逃れ出ようとしていた。ここに 「ストーリー」を求めて来るべきでないと、宣言文の中でも主張していたはず だ。前篇のアプローチと後篇のこの在りようとで、それを矛盾と感じる葛藤は ないのだろうかと他人事ながら心配になる。 彼らはおそらく、言葉の危険性にはさほど自覚的でなく、そのシステムに抗 しようとはしていなかったのだろう。単に私の深読みであったということだ。 彼らの意見交換は、それらしい言葉がとおりりいっぺんの表面をさらうだけ で、深いところへ踏み込む前に次へ進んでしまう。交わされる見解もありがち な解釈に思われて、本気で言っているのかそうでないのか疑わしくなることす らある。段取りや進行も決して手際が良いとは言えず、ありていに言って“上 手な”議論ではない。これが今すぐに有意義な効果を生み出すとも思えない。 しかし少なくとも彼らは、長いこと何かが看過されてきたのではないかと指 摘し、自他に問いを発してはいる。その「何か」とはいったい何であり、どう 解決すべきなのか彼ら自身明確な答えにたどり着いているわけではないし、我 々が見出すこともかなわない。しかし議論の疑わしさにもかかわらず、あるい はむしろだからこそ、この舞台に触れている間、演じ手も観客も誰もが「何か」 を探ろうとしてしまうには違いないのだ。 この世は欺瞞に満ちている。その中で私たちがいったい何を選び信じるのか。 彼らの舞台はそれ全体で、あらためて問い直すよう迫る。 新設の劇場、座・高円寺の幕開けにはこうして実にバラバラな作風の三作が 並んだ。しかし、企図したとおりなのか図らずもなのか、ここには何かの通奏 低音が鳴っているようだ。 演劇のお約束を逆手にとった仕掛けで観客の足元を掬う『化粧』。演劇のお 約束にツッコミを入れてメタな笑いで観客を共犯関係に巻き込む『ユーリンタ ウン』。演劇のお約束に抗い無効化して問い直そうと試みる『百年の〈大逆〉』。 三作にはいずれも舞台を俯瞰する眼差しがあった。大衆演劇の女座長も管理社 会の巡査も前衛主義の一団も、トロンプルイユのように演じ手は舞台の額縁か らはみ出している。演劇の枠組みの外側に片足を引っ掛けて、そうして「観る」 とはどういう行為なのか観客に問いかけるのだ。 観客はただ透明な存在として舞台を傍観していることを許されず、自身が舞 台の成立に密接に関わっていることを強く突きつけられる。自分の目を通して はじめて、演劇はこの世に成立する。見て、感じて、咀嚼して何かを見出すの は観客の仕事に他ならない。 「観客の目が役者を育てる」という言い方がされることがある。それはそう なのだろう。だが、それではその観客の目はいったい誰がどこで育てるのか、 かねてより疑問だった。座・高円寺はもしかしたらその問いに何らかの解答を 出そうとしているのかもしれない。 (『百年の〈大逆〉―TAGTAS第一宣言より』 前編2009.7.4、後編2009.7.10) 【筆者略歴】 金塚さくら 1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。 有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。 ・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=76 【上演記録】(略) (注)ファイルの容量制限のため、マガジンの後半は分割送信します。ご注意ください。


