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2009/07/29

週刊マガジン・ワンダーランド 第150号



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.wonderlands.jp/

   マガジン・ワンダーランド(小劇場レビューマガジン)

   2009年 7月29日発行 第150号                          毎週水曜日発行

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【目次】
◇東京デスロック「演劇LOVE2009~愛のハネムーン~」
 コミュニティの誕生、成熟、崩壊、再生へ 編み直す演出で成長する作品
 カトリヒデトシ
◇東京デスロック「演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~」(LOVE 2009 Kobe
ver.)
 自足的世界から現在に投企する 前後半を結ぶ「LOVE」
 藤原央登
◇ピエール・リガル「プ・レ・ス」(第1回)
 「寛容のオルギア」があぶり出したもの コンテンポラリー・ダンスは今
 堤広志

▽連載【レクチャー三昧】
 第50回 連載50回となりました
 高橋楓

■web wonderland から===================== http://www.wonderlands.jp/ 

◇流山児★事務所「ユーリンタウン-URINETOWN The Musical」
 鏡に映る苦い自画像 「水洗」の枠を超えて
 都留由子
◇流山児★事務所「ユーリンタウン-URINETOWN The Musical」
 猥雑だけど洗練、「遊び心」も みる人を変える力持つ
 小林由利子
◇流山児★事務所「ユーリンタウン-URINETOWN The Musical」
 猥雑な匂いや生々しい息遣いをむせかえるほどに
 大泉尚子

◇劇団、江本純子「セクシードライバー」
 脱線しまくりの超リアル不条理会話劇 歌や踊り封印の新ユニットで
 山内哲夫
◇SPAC「ふたりの女~唐版・葵上~」(宮城聡演出)
 愛と憎、狂気と正気の <極> に、もの悲しい波長の空間が
 阿部未知世


◇ワンダーランド支援会員を募集中!
http://www.wonderlands.jp/info/members2009-1.html

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◇東京デスロック「演劇LOVE2009~愛のハネムーン~」
 コミュニティの誕生、成熟、崩壊、再生へ 編み直す演出で成長する作品
 カトリヒデトシ

 現在、演出に専念している多田淳之介の最後のオリジナル作である「LOVE」
の再演を見た。
 今作は「演劇LOVE2009~愛のハネムーン~」というツアー。1月の韓国公演
を皮切りに、6月に埼玉県富士見市のキラリ☆ふじみでプレビューの後、桜美
林大学(神奈川)、青森、7月に神戸、そして来年2月に鳥取と各地で公演して
いく。再演に全く関心のなかった多田が初めて取り組む再演ものにして、初の
国内巡業作品である。

 この作品は2007年原宿リトルモア初演の「演劇LOVE~愛の3本立て」の1本と
して、「東京デスロックの現在形」として初演されたものである。次々舞台上
に現れてくる人物が無言で立ったり座ったり見つめ合ったりという振る舞いだ
けで、コミュニケーションをとり仲間になっていく。そのコミュニティが成熟
した後疲弊して、崩壊していく過程をも無言で行っていくという舞台は話題を
呼び、デスロックの代表作となった。

 さて、それでは「LOVE」という作品はどのようなものか。
 無言劇であるため8人の役者たちのキャラクターは記号的なものになる。セ
リフによる人格や性格の規定はできないので、役者本人の見た目と舞台上で演
じられたしぐさから現れるキャラクターとは不分明なものになる。舞台上で見
える印象がキャラクターとなるということは、普通演劇で言われる「役」を演
ずる「役者」とは異なる「人間」として理解しなければならないだろう。

 すると、佐山和泉は気が強く己が道をゆずらない人間に、坂本絢は、地味目
な風貌にかかわらず、確固たる自我を表に出す人間に見える。同様に佐藤誠は
見た目は怖いが配慮を持った優しさを持つ人間に、山本雅幸は見た目は頼りな
いが、周りを明るく引っ張る力を発揮する人間に見える。山本の見せる優しさ
は印象的で、作品の中でコミュニティの推進力として働いていく。強い個性を
持たない山本であるために「先駆者」として適任なのだろう。高橋智子は気の
強さを持つものの、長身のしなやかな体で長い手足を美しく使い、踊りのシー
ンでの印象が強くなる。井坂浩は思わず笑ってしまう風貌で、いじめられっ子
風である、なかなか仲間に入れない人間を表する。夏目慎也はマンガ的な見た
目だが実は根性がよくないという印象を与える人間で、井坂との張り合いによっ
てコミュニティの中での力関係の存在を浮き彫りにする。

 桜美林版を元にまとめる。
 YMOの「TOKIO」がかかり幕が開く。
 前半はすべて立ち座りと視線の交錯、そして笑顔で進行していく。佐山が登
場し、客席に正対した後下手側に座る。坂本は静かに佐山に相対する。立ち座
りの応酬がある。ここで、立ち座りが互いの気持ちが理解しあえるか、気が合
わせられるかというコードとなることが理解される。人間関係が生じると目を
交わしほほえみあうのである。

 佐藤以下は登場すると、既にある人間関係に新参者がどう振る舞い、受け入
れられるのかが立ち座りによって表現される。佐藤は女性たちの機嫌を伺いつ
つ仲間に加わる。山本は佐藤が当初対抗心を見せつつも仲間に入っていく。4
人そろい、ここでコミュニティが立ち上がったことが分かる。

 華やかな雰囲気で登場する堀井。その堀井をめぐる駆け引きの中で、佐山と
佐藤が対抗心からスクワットをする。和解した二人が座ろうとすると、全員で
の笑顔のスクワットが始まる。コミュニティの結束が強化されていくさまであ
る。

 坂本がピョンと横に飛びつつ手をパッと開くという、新しい動きをする。新
しい動きによりコミュニティの温度があがり、活性化していく。そこに新らし
く登場する高橋はスムースにくわわれるが、井坂は集団に違和感をもたらしな
かなか仲間に入れない。夏目は怪しい雰囲気に集団が警戒するが、長身者との
背伸びにより、虚勢が露呈し集団が受け入れていく。

 人数が増えるたびに、集団が一体になるまでに様々な葛藤や試練が起こり、
ギクシャクしつつコミュニティが成長する過程がみられる。

 コミュニティが立ち上がり、成熟していく。転がってくっついたり離れたり、
絡めた足でピラミッドを作ったりという緊密感がメンバーの気持ちを高揚させ
る。やがて熱狂を生みだしていく。YMOの「ビハインド・ザ・マスク」がかかる
中、一体感をもつ集団に属している喜びといったものからか、奇声をあげ、8
人は踊り狂っていく。集団の精神は沸騰する。疲れて倒れ込んだ人びとの上に
曲がリピートする。人々は再びよろよろと立ち上がる。しかしそれは、1回目
の快感を無理に再現しようとするために、長続きしない。

 ささいな体のぶつかり合いから、たたき合いが始まる。暴力の応酬によりコ
ミュニティの一体感は消え、集団の崩壊が起こる。

 互いを警戒しつつも、疲れ切って倒れ込む中に3度目の曲のリピート。長い
無反応の時を経て、再度立ち上がり、コミュニティを復興させようとするのは、
高橋と佐藤である。
 既に破たんしたコミュニティを再建しようと、必死でみんなを鼓舞しようと
する姿。その「覚悟」に深く打たれる。もっとも美しいシーンである。力つき
て倒れる二人、コミュニティは個人の努力では再建できなかった。

 佐山が立ち上がる。ここで初めてことばが発せられる。「挨拶」である。挨
拶が伝播していく。様々な挨拶、様々な言語で叫ばれる。そして、相手の趣味
を問うことばへと移っていく。「好きな○○は何ですか?」そして「あー、い
いですね」という相づち。相手を探りつつ、無限定に受け入れていく、「こと
ばによる最初のコミュニケーション」である。絶叫しつつ一人一人が舞台から
さっていく。
 さて、コミュニティは再生するのであろうか。

 前半のコミュニティが立ち上がるまでが、青森版では全く異なった。
 まず登場するのが夏目、次が佐藤である。最初の立ち座りがオスの主導権争
いに映る。坂本の加入では主導権をあっさり奪われたり、高橋の時には、再び
男性二人の争いが起こったり、登場順が異なることにより、コミュニティの成
立過程が全く異なることになる。両版を見ることにより、構成人員だけでなく、
関係の生じ方によってコミュニティが全く違ったものになることがわかり、実
に興味深かった。

 スクワットを行うのも夏目、佐藤のため男同士の意地の張り合いから主導権
争いという姿がくっきりと浮かび上がる。その後のスクワットでは全員が一度
力を出し切り、和むことが、コミュニティの一体感が形成するために重要であ
ることがよりハッキリする。

 全く新しい、佐山が現れるが最初は通り過ぎていってしまうという展開もあ
る。集団の側が受け入れるかどうか忖度するだけだった桜美林版にはなかった、
個人がその集団を選ぶかどうか、という今日的な問題もそこには感じとれる。

 青森版のピョンは、御当地での「跳ね」なので、矢野顕子「津軽ツアー」が
かかり、ねぶた風になるのが楽しい遊びであった。井坂が袖から「ハネト」の
ように勢いよく飛びだしてくるのは地元の人には大受けであった。

 青森版では、最後に夏目一人が絶叫に加わらず、彼に向かって全員が問いを
発する。対象を定めたため、関係を構築しようとするための挨拶と問いの意味
性がより明解になった。
 また、青森は前の二か所にくらべ舞台空間が狭いため、ただ観客に挨拶、問
いが投げつけられるのでは、強圧的な、強い意味性を帯びてしまっただろう。

 実は筆者は、多田演出の才能にはかねがね感心しつつも、不満もあった。
 彼はその丁寧な性格で、ポストトークやブログで、すべての手の内をさらし
てしまうような解説を行う。明日以降あそこを何とかしたいとか、楽日にここ
までできたから満足したとか発言してしまうのは、いかがなものかと思ってい
た。日々演出が変更し楽日に完成すればよい、というのであれば、初日の観客
はどうすればいいのかという思いである。

 その問題を考えるため、今回、数か所で同じ作品を見続けることを試みた。
 まず、6/4のキラリ☆ふじみでの公開稽古ではまだ模索段階であった。初演
を見ていないものには、登場順と立ったり座ったりのタイミングと視線の交わ
し方にこだわる演出がどんな作品に結実するのか見当もつかなかった。6/10プ
レビューに、作品がようやく体をなし、その面白さを堪能した。しかし、その
後半の未完成ぶりには驚いたことを正直に書いておく。
 そして6/14の桜美林で作品として完成したものが見られた。散漫だった後半
20分がタイトになり、練度もあがり、作品の意図が一層明確になった。

 そして、6/27青森公演を見た。
 まず、青森WS版の上演。会場になったアトリエ・グリーンパークのレジデン
トである「渡辺源四郎商店」の若手中心の(驚いたことに店主の畑澤聖吾も参
加していたが)40分版を見た。それは、WS発表会といったものを越えた、単な
るダイジェストではない「作品」として確固たるものになっていた。
 8名の「愛」のコミュニケーションがはっきりと立ち現れていた。それまで
に2度本体を見ている目にも、新鮮に感じるものであった。

 WSは4日間、1日2時間から3時間程度の稽古であったと聞いた。それであのク
オリティが実現するのは驚きだった。これは「LOVE」という作品のもつ構造の
強靱さと完成度の高さを現しているだろう。同時にある程度の素養をもった役
者が参加すれば、どこででも「LOVE」を作り上げることができる、多田の演出
家としての構想力、教育力の証明になったといえよう。

 「LOVE」という作品がセリフを使わずに、人間が個人からコミュニティへと
編み上げられていく過程を描くものであること。コミュニティ内での人間関係
の葛藤、コミュニティの成熟と崩壊の過程が現れること。壊滅後にコミュニティ
を再構築するために払われなければならない努力と犠牲といったこと。もろも
ろの人間の活動の過程がすべて「愛」という概念に包括しうることを如実に表
しているからである。

 この一連の上演をとおして見て分かったことがある。
 多田は決して、時間がなかったというような凡百かつ愚鈍な理由から未完成
な作品を上演しているのではないことだ。彼は一回の上演のたびに、作品を
「成長」させていこうとしているのである。
 上演ごとに、作品を見つめ直す。例えば桜美林と青森では空間の大きさの違
いにより、この物語性のない作品においては特に慎重に演出を変えねばならな
い必然性があるだろう。だから演出の変更は納得がいかなかったところに手直
しを加えていくというのではなく、絶えず作品そのものを考え直し、根本から
「編み直し」ていく努力を続けていることだといえる。それは言ってみれば、
「走りながら考える」ているのである。

 作品が進化していく過程を見られることは、演劇を愛するものにとって極上
の楽しみを与えてくれることになることは間違いない。
 しかし、同じ舞台をくり返し見るというのは、決して観劇において常態のこ
とではない。たゆまず変化していく舞台作品を見つづける喜びが多くの観客の
ものとなっていくのは、今後も難しいことだろう。
 しかし、一度の観劇でももちろん面白い。けれどくり返し何度も見ることも
面白いのだという、観劇方法のもう一つ別な在り方を模索していけるのは現在
のところデスロックにおいて外はない。
 多田淳之介は貴重な取り組みをしていると明記しておきたい。

【筆者略歴】
 カトリヒデトシ(香取英敏)
 1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校勤務の後、家業を継
ぐため独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。
ウェブログ「地下鉄道に乗って-エムマッティーナ雑録」を主宰。「カトリ式
小劇場の歩き方」をワンダーランドに連載中。
http://plaza.rakuten.co.jp/ksh21c/


【上演記録】
東京デスロック『演劇LOVE~愛のハネムーン~』
 韓国公演(2009年1/9水 光州芸術文化会館)
 「Fujimi Preview」(2009年6/10水 キラリ☆ふじみ、6/4木 公開稽古 
キラリ☆ふじみアトリエ)
 「 Obirin ver.」(2009年6/13土、14日 桜美林大学プルヌスホール)
 「Aomori ver.」(2009年6/26金~28日 アトリエ・グリーンパーク WSver.
同時上演)
 「Aomori Work Shop ver.」(2009年6/21日~24水 アトリエ・グリーンパー
ク)
 「LOVE2009 Kobe ver.」(2009年7/3金~5日 神戸アートビレッジセンター、
神戸WS 7/10金~12日 神戸アートビレッジセンター)

director:多田淳之介
actor:夏目慎也 佐山和泉 坂本絢 佐藤誠 高橋智子 堀井秀子 山本雅幸 
井坂浩
(Korea ver. 夏目慎也 佐山和泉 石橋亜希子 笠井里美 坂本絢 佐藤誠 高橋智
子)

照明:岩城保
制作:服部悦子
助成:財団法人セゾン文化財団
協力:青年団、(有)レトル、krei inc、森下スタジオ、シバイエンジン


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◇東京デスロック「演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~」(LOVE 2009 Kobe ver.)
 自足的世界から現在に投企する 前後半を結ぶ「LOVE」
 藤原央登

 舞台作品を創るために、その担い手達の関係性がいかに濃密で、意思疎通の
取れたものであるかどうかは非常に重要である。その成果は、制作面での効率
の良さや、舞台での均整のとれたアンサンブルとして表れる。だが濃密な関係
は、外部性が欠如し自足した小宇宙を形成する悪しき方向へ進むことがままあ
る。そして、それを優しく承認する受け手が馴れ合いという意味での他者不在
の単一自己を完成させてしまう。プロかアマか。演劇に限らず芸術に胎胚し、
分かちがたく関連するこの背反要素からは逃れることができない。だからこそ
創り手には、自己満足的に完結しがちな劇集団という制作工房を常に今現在と
切り結ばんと進んで投企する意思が必要となる。加えて受け手側、少なくとも
劇評をものする者は創り手の意思を丹念に掬い上げ、時に方向を修正し自覚さ
せるくらいの気概がなければならない。

 昨年の7月、初の地方公演(『3人いる!』)に神戸を選んだ東京デスロッ
ク。その後、劇団は東京を離れ埼玉のキラリ☆ふじみのレジデンスカンパニー
となった。昨年の神戸公演が現在の形態へ少なからず影響したと言って良いか
もしれない。今年は、『演劇 LOVE 2009~愛のハネムーン~』と題して韓国・
埼玉・神奈川・青森を経て、最終地を昨年同様7月の神戸で締めくくった。

 2007年公演の『LOVE』を公演地に合わせその都度改変したというから、再演
を現在形で発展させ続ける熱の入れようを感じさせる。この作品は、言語の有
無によって前半部と後半部とに分かれる。舞台背面いっぱいを覆うスクリーン
に常に投影された、タイトルにもある「LOVE」の4文字が、そのことを強く印
象付ける。字義通り終始「LOVE=愛」が充溢し、作品の方向性を規定する。つ
まり、「LOVE」という共通テーゼから伸びて並列された、始原的コミュニケー
ションであるボディランゲージ(前半部)と言語を介する近代的文明コミュニ
ケーション(後半部)は、あらゆる人間への平等で全幅な愛と、イロニー的に
ならざるを得ない文明人の愛という違いに対応しており、さらにこのような人
と社会の関係を描き出す制作工房=劇団(を構成する人間)の2つの在り様に
も重なってくる。冒頭で私が記した外部性の欠如を指針としたプロ・アマとい
う要素はここに関連するのだが、そのことについて述べる前にまずは作品内部
へと迫ってみたい。

 作品の前半部は身体運動のみの、単純だけれど濃密なコミュニケーションが
展開される。作品が動き出すまで、つまり何が行われているかを理解するまで
がとにかく長い。カラフルに照らされたスクリーン、流れるYMO『RYDEEN』。
気分が盛り上がり、そろそろ何かが始まるだろうかとの思いはしかし、曲が終
わっても何も起きないことであえなくハズされる。その後、ようやく女性が一
人現れるが、これまた客席に正対したまま長い沈黙。この無音空間はいささか
私を居心地悪くさせる。一人また一人と時間をかけて3人になるまで耐えた時
点で、なんとなく劇を掴みかけてくる。3人寄れば人間関係がほぼ展開される
と言うが、何かのゲームなのか、立ったり座ったりを3人が互いの顔色を見な
がら組み合わせを変えて行う。その様子をつぶさに見守ることで、彼らの関係
性と内的会話が確かに読み取れてくるのだ。そのようにして以後も一人ずつ人
が加わってゆく。

 始めは新参者を訝しく牽制するが、その中の一人が受け入れに動くことをきっ
かけに、全員に伝播し、仲間になってゆく。それを逐次繰り返してゆくことで、
人の輪は次第に大きくなる。それは、題して「仲良くなる」とでも呼びたくな
るような人と人とのコミュニケーションが成り立ってゆく過程の丁寧な描写で
ある。冒頭に抱く居心地の悪さは、彼ら自身のコミュニケーション同様、舞台
と観客とのコンセンサスが醸成されてゆくに従って消え、空間全体が一つの親
和的共同体に発展してゆく。身振りや目線、表情で何を思い、何を伝えようと
しているか、共同体の関係の動きが理解できるようになるのだ。彼らの関係の
構築を参画的に見守ってきたため、ちょっとした機微にも素直に同調し、時に
笑ってしまう。

 相手の微妙な変化に敏感に反応し、素直に受け反応する。相手もまたそれに
応じて返す。これを全員で様々に組み合わせて反応し合う。コミュニケーショ
ンの原初的な単純さや基本がここにはある。彼らのその様を見ることは、共に
コミュニケーションを成り立たせる場への参加に極めて等しい。そのため、全
体が一つになった時、分かり合えたと思い、爽快で充実した気分にすらなる。
だからやがて、音楽に乗って全員で狂喜の如くダンスする様に私も自然に興じ
る。数度繰り返されるダンスで、彼らは次第にリアルに疲弊してゆくが、反比
例するようにどんどん躁状態になり、そのピークを迎えようとする彼らにとっ
ては、さらなる強固な連帯感を築く材料でしかない。彼らと私達はまさに一つ。
スクリーンの「LOVE」そのままに、空間は愛で満ち溢れている。

 膨らみきった風船のようにパンパンになったナチュラルハイはしかし、ほん
の些細な事で破裂する。ダンスが終わり、各々ハイタッチをする彼らは変なノ
リになっている。よくあることだ。そのふざけたノリのタッチがちょっと強かっ
たのかそれともズレたのか、はたまた手と違う部位にされたのが気に食わなかっ
たのか、いずれにせよ、それのやり返しという子供じみて動物的な反応をみせ
る。おふざけはやがて彼らを本気にさせ、乱闘場面へ昇華してしまう。先ほど
の友愛とは真逆のベクトルへと一気に突き進むのだ。しかし、この諍いをも含
め良くも悪くも互いに素直な反応が可能となるのは、自分はもとより、隣人を
も自分のこととして愛するが故である。ということは、そういった者達の住む
世界そのものが愛に満ちていることを意味する。つまり、自他の境界が融解し
た一人称的な単一世界が前半部なのだ。スクリーンの「LOVE」の文字は、その
ものズバリの意を終始意味している。根底に共同体を信頼する熱度に支えられ
た彼らの行動はしたがって裏表がない。でなければ、意思疎通のとれたあのダ
ンスへ至ることはない。

 以上述べた前半部の無垢な愛は、後半部から逆照射されたものだ。裏を返せ
ば、後半部があるからこそ、この作品が生きたとすら言って良い。もっとも、
見ごたえで言えば確かに前半部に軍配が上がる。始原的コミュニケーションの
体現はまた、演劇の基本であることを再認識させるからだ。それをここまで見
事に表現する点は目を瞠るものがある。しかし、それだけでは正直言って物足
りない。言語が発せられる後半部では、「LOVE」の意味が素直なものではなく
非常に文明社会らしい関係性、すなわち上っ面で他人行儀といった抵抗を介し
たイロニーを伴ったものへ変質する。このことが重要だ。それは例えば、客席
に背を向けた夏目慎也を取り囲んだ他の人物が「すきな○○は何ですか?」と
次々に質問し「ああいいですよねぇ」と同意するシーンに顕著だ。夏目は何も
答えない。次から次へ質問を受けるだけだ。矢継ぎ早の質問の意図は、仲良く
しようとするものでもあろうし、会話の糸口を探ろうとするとりあえずの挨拶
なのかもしれない。いずれにせよ、手ごたえがなく温度の低い、如何様にも取
れる空虚な言葉群だ。虚の言葉は誰が受け取ってもいい性質を持つが故、我々
に問いかけられたもののようにも聞こえる。そして、同じような言葉を繰り返
し聞く内に、声は機械的なもののように聞こえ、時に怒っているのではないか
と思い、居心地が悪くなる。この居心地の悪さは、劇冒頭のものとは明らかに
質が違う。

 ここでの居心地の悪さとは、人と人の間の決して埋まることのない距離を意
識させる。間にあるもの、それが言語だ。言葉の意味を見出すか否かは受け手
に丸投げされ、当事者同士は深く介入せずに曖昧な領域を作る。意志伝達を迅
速に且つ正確に遂行するための共通ルールとしての言語がかえって距離を取ら
せるというわけだ。意思疎通の迅速さと正確さは、文明発達のための必須条件
であり、それが今日までの近代社会を齎した一端を担っていることは間違いな
いが、そのようにして手にした成熟社会の代わりに失ったものもここにある。
挨拶や機嫌を伺う言葉でほぼ占められる後半部はだから、他人行儀に構えて間
合いを計る「私たち」が描かれている。また、文字としての言語はボディーラ
ンゲージのように、人と人が正対しじっくり相手を受け止め、徐々に距離を詰
めてゆく作業がない。そのため、人から遊離した言語記号が、その裏の文脈や
感情を抜きに一人歩きすることも起こる。後半部の「LOVE」には純粋な意はな
く、愛を装った欺瞞的な世界と人を示すイロニーにならざるを得ないのだ。と
は言え、我々は原始時代へ戻ることなどできやしない以上、ギスギスとした世
界で生きるしかないのであれば、それを意識的に受け入れるしかない。欺瞞で
あることを知りながら、それでも「LOVE」と肯定しようとする姿勢に、私は多
田淳之介の、現代社会と正対しようとする意志が顕著に表れていると考える。

 この作品は、前半部と後半部が「LOVE」という因子で接続、並置されること
によって、互いの世界と人間が合わせ鏡が如くよく映し出されるという劇構造
を成している。この「LOVE」の構造を、多田が「演劇LOVE」と正面きって主張
するように演劇の問題に置き換えてみれば、劇団のプロ・アマのそれになぞら
えることができる。すなわち、「LOVE」が無自覚に信じられる前半部は、擬似
他者の観客を含めた共同体内という身内で自足するだけのアマチュア意識。対
して、捻じ曲がって複雑な回路を示す「LOVE」を見据え、批評的に捉える後半
部をプロフェッショナルに。多田は、公演後の作品解説で、前半部と後半部は
一連なりだという旨の発言をした。すなわち、二足歩行を始めた人類が、道具
を使用するまでの進化過程だとのことである。その見方に則れば、演劇の基本
をよく体現し、それで完結するアマチュア精神の先にプロフェッショナルに辿
り着くという、なるほど劇団の成長という連続性が認められる。しかし、それ
は優しい見方だ。私は前半部と後半部を各々別世界に住む現代人の様相と受け
取った。そして双方を比べた時、現代社会を示すイロニーを含んだ後半部が前
半部を批評するものとして映ったことが興味深かった。演劇としてどれだけ良
くできてても、前半部だけでは物足りなかったろうと私が考えるのは、外部へ
の扉を閉ざし空中楼閣を保守することは、アマチュア精神でしかないからだ。

 しかし、そのようにして両者に優劣を付けるだけではあまりに図式的になる
との思いも湧いてくる。かと言って、多田のように連続したものと捉えて一方
向への動きだけを規定するのでは、内省なくやみくもに発展を突き進める内、
今後さらに我々はそのことで取り返しの付かないものを捨てることになるかも
しれない。問題はどちらが上下というものではなく、不即不離に絶えず双方を
往還して自身を相対化することが重要なのだろう。そこに、文明発展の脅迫観
念に追いたてられながら、その中で埋没することなく現代を肯定しながら生き
る一助があるのかもしれない。それを演劇で思考しようとする劇団にとっても
同様である。いずれにせよ、多田が言う「演劇LOVE」が単なる青臭い居直りや
全面肯定ではなく、少なくともそのことへ触れようとする意識があることを、
感触の違うブロックを並列したことから感得することができた。
(7月4日 神戸アートビレッジセンター KAVCホール マチネ)

【著者略歴】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学文芸学部卒
業。劇評ブログ『 現在形の批評 』主宰
(http://plaza.rakuten.co.jp/playplace83/)。他にAICT関西支部発行『act』
・『Corpus―身体表現批評』等に劇評執筆。国際演劇評論家協会(AICT)会員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=17

【上演記録】
東京デスロック(http://deathlock.specters.net/) 『演劇LOVE 2009~愛
のハネムーン~』「LOVE2009 Kobe ver.」
神戸アートビレッジセンター KAVCホール(2009年7月3日~5日)
【LOVE director】
多田淳之介
【LOVE actor】
夏目慎也 佐山和泉 坂本絢 佐藤誠 高橋智子 堀井秀子 山本雅幸 井坂浩
【スタッフ】
LOVE 照明:岩城保
LOVE 制作:服部悦子
LOVE 宣伝美術:宇野モンド
LOVE 助成:財団法人セゾン文化財団
LOVE 協力:青年団  (有)レトル krei inc 森下スタジオ シバイエンジン

主催:東京デスロック
共催:神戸アートビレッジセンター(指定管理者:大阪ガスビジネスクリエイ
ト株式会社)


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◇ピエール・リガル「プ・レ・ス」(第1回)
 「寛容のオルギア」があぶり出したもの コンテンポラリー・ダンスは今
 堤広志

●まずはヤン・ファーブル『寛容のオルギア』評判記

 「今どきのコンテンポラリー・ダンスはどうなっているの?!」。最近こうし
た質問をよく受ける。実は本稿も同様の執筆依頼による。そのため、本題であ
るビエール・リガル振付・出演『プ・レ・ス』(※1)の舞台評に入る前に、そ
の前提となっている「今どきのコンテンポラリー・ダンス」をわかりやすく把
握できるような例示と概説に大半を割くことにした。また長話になるが、お付
き合い願いたい。

 例えば、初夏に来日したヤン・ファーブルの『寛容のオルギア』(2009年
6/26-28@彩の国さいたま芸術劇場)についても、いろいろな人からよく意見や
感想を求められる。話題の公演に接して感想等を言い合うことはダンス関係者
の間ではよくあることなので、私も批評家仲間(演劇も含む)に聞いてみたりす
る。すると評価が真っ二つに分かれていて、かなり面白いことになっている。

 整理をすると、大きく2つの傾向に大別できるように思う。まず、演劇を専
門とする評論家には得てして好評のようである。グローバル経済に依存して生
きざるを得ない現代人の無自覚な暴力性を、モンティ・パイソン風の毒の効い
た笑いで痛烈に批判していくさまは圧巻だし、ラスト近くにはその風刺の矛先
を観客や劇場制度、さらには自分たち自身へも向けていく。テーマが明確であ
り、趣向も凝っている。ストレートに理解がしやすく、構成にも破綻がない。
だから、定められた目標に向かって徹底したパフォーマンスを展開していく出
演者たちの演技は、賞賛に値するものと映るだろう。

 ところが、舞踊評論家の多くからはあまり芳しい評判は聞かない。おそらく、
はじめから理に落ちてしまうところがつまらないのだろうし、そこにアーティ
スト独自の身体観やダンス的ムーヴメントを見いだすことができないため、
「ダンス」としては評価がしにくいのだろう。また、消費文化を謳歌する現代
人の姿を戯画化したキャラクターに扮して、出演者たちが政治的または性的な
役割を過剰に演じ通してみせることは、単なる代理表象としか受け取られない
のかもしれない。

 この作品に限らず、コンテンポラリーダンスを熱心に観ている舞踊評論家に
は、役という代理表象を演じること自体が前時代的な表現と受け止められ、同
時代(=コンテンポラリー)な表現としては共感できないとする感性が強く働く
ようである。クラシック・バレエからモダン・ダンス、ポストモダン・ダンス
を経て、コンテンポラリー・ダンスへと発展してきたダンスの系譜は、西洋絵
画の進展と同様に、表象から手法、あるいはコンセプトへと展開してきた。芸
術進化の最前線では、感情移入の対象としての代理表象など、とても古臭い表
現様式であり、ものの見方であると一蹴されてしまうのである。

 ましてや、虚構の物語を何度も再現して演じるために、伝統的で効果的なメ
ソッドをトレーニングし習得していくことなど、もはや時代遅れでしかないと
言わんばかりである。大仰なジェスチャーやパントマイム的な動きなどの物語
的要素が一瞬でも発見されれば、その舞台全体が「演劇的でつまらないもの」
との批判にさらされることになる。コンテンポラリー・ダンスの批評家は代理
表象の臭いが感じ取られた時点で、それを作者の主観的な美意識や問題提議の
一方的な強要と感じ、独自の自由な解釈や思考が制約を受けることを恐れる。
そして即座に(おそらく無意識的に)、検討する余地のない作品として烙印を押
し、批評の俎上から排除してしまう。

 コンテンポラリー・ダンスの世界においては、おそらくはこうした理由から、
極力物語性のない作品が尊ばれ、とかく「リアル」であることが要求され、い
きおいヘタうま的なダンスとか、その場限りの即興パフォーマンスとか、一発
芸的な「ネタ」が無条件に賞揚されがちになる。ノー・テクニックもしくはア
ンチ・テクニックな取り組み、あるいはサイト・スペシフィックなロケーショ
ンが評価されるのも、こうした流れの中にある。

 舞踊評論家の中でもバレエを専門とする人ならば、代理表象も演技も表現と
して評価できよう。というより、そうしたフィクショナルなドラマ的要素を評
価できなければ、バレエは単なる容姿や技術の品評会になってしまう。あるい
は特定のスターダンサーへの憧憬や観客個人のフェティシズムを満足させるだ
けの饗宴でしかなくなってしまう。それゆえ評論も自ずとダンサーへの讃辞を
書き連ねたものとなるだろう。

 だが、たとえ代理表象に肯定的なバレエの評論家であったとしても、今回の
ファーブルの舞台は評価し難いものかもしれない。マスターベーションを競い
合う露骨な性描写を冒頭から展開するような過激でお下劣なパフォーマンスは、
ファンタジックで耽美的なロマンスを尊ぶ多くのバレエ評論家からすれば、品
性の問題からとても受け入れ難いに違いない。

●アーティストの本質を見極めるということ

 ともあれ、上記2つの傾向とは別に、さらに突っ込んだ見方もある。それは、
ファーブルの舞台には期待を持って接するけれども、結果として納得がいかな
いというものである。これはつまり総論賛成・各論反対のような立場だ。ファー
ブルの才能を高く評価し、モンティ・パイソンも好きだけれども、それゆえに
期待を裏切られた、あるいは物足りないという、かなりこだわりの強い人のそ
れである。例えば、冒頭のマスターベーションの訓練シーンも、どうせやるの
なら本当に“事”を致さねば意味がないだろうという意見がある。

 これには一理ある。というのも、ファーブルの舞台ではそうしたことを実践
することの方が、むしろ「自然」と考えられるからだ。ファーブルが2005年に
アヴィニヨン演劇祭のアソシエート・アーティストとして招かれた際には、実
際にマスターベーションや放尿をして見せる「挑発的」なパフォーマンスで物
議を醸したという(※2)。ただし、それは決して露悪的なセンセーショナリズ
ムでも奇を衒った売名行為でもなく、アーティスト自身が表現すべきテーマや
衝動を見定めた上で、必要に駆られて敢行する表現なのだろう。そして、出演
者たちもそんなファーブルの美学を理解した上で「本番」の行為に臨んでいる
のだと思う。それゆえにファーブルは表現の極北で矢面に立ち、果敢に闘うパ
フォーマーのことを「美の戦士」と呼ぶのである。

 そもそもはファーブルは、自然や身体に対する執着が尋常ではないアーティ
ストである。1958年ベルギーのアントワープ生まれた彼は、20歳を過ぎた時に
初めて自分の曾祖父が『ファーブル昆虫記』を書いた自然学者ジャン・アンリ
・ファーブルであると知る。そして、昆虫記に出てくる「青の時間」という言
葉にいたく感動した。それは「夜の動物たちが静まり、昼の動物たちが目をさ
ます、その間の静寂――青の時間」という一節で、夜行性の動物が眠りにつき、
昼間に活動する動物が目覚める、生と死の交錯する崇高な薄明の一瞬を指す。
ちなみに、ミクニヤナイハラ・プロジェクト『青ノ鳥』も、この「青の時間」
やヤン・ファーブルの表現に少なからずインスパイアされた作品のようである。

 アーティスト活動の最初期、70年代末にファーブルは自宅前にテントを張っ
て住み込むパフォーマンスを実行している(※3)。ミミズや昆虫を捕まえては
「フランケンシュタイン博士みたいな研究」をし、自分の嗅覚が敏感になった
と感じて以来、身体を深く考察するようになる。81年の『Bicアート・ルーム』
では、ギャラリーで三日三晩を過ごすパフォーマンスを敢行。「72時間監獄に
いるようだった」と語っているが、そこまでして表現したいものが彼の中には
あったのだろう。Bicボールペンによる青色の描線で、ただひたすら紙面や壁
面を埋め尽くしていった。このドローイングは後に「青の時間」シリーズとし
て彼の代名詞にもなっていくが、それを始めたのも「紙の上を歩く昆虫の足跡
をなぞったことがきっかけだっだ」という。

 その後も、タマムシとかカナブンとかコガネムシといった無数の甲虫の屍骸
を素材としたドレスや彫刻、インスタレーションなどを発表している。何の予
備知識もなければ、それらは単にキモイ作品にしか思われないかもしれない。
だが、彼が「自然」を素材・題材として「身体」を探求するアーティストであ
り、人間を昆虫や動物と等価に捉えているのだと知れば、とても理解はしやす
いはずだ。硬い甲殻の内側に体液を循環させている昆虫と同様に、人間の皮膚
の下にも血液や体液が流れている。排泄水や分泌液が体外に放出されるのも、
至って「自然」な現象と考えているのではないだろうか。だから舞台では、そ
うした自然現象をあらためて再提示しているに過ぎないとも考えられる。

 こうして見ると、「本番」の行為をする・しないといった差異に、表現上の
真実味や説得力を見いだそうとすることは、至極真っ当な見方だと思われる。
それはアーティスト本来の才能や作品の企図を十分に理解した上での批判とい
えるからである。しかし、「公序良俗」を尊ぶ日本の興行界(特に公共ホール)
において、そうした「本番」をそのまま上演することは現実的に考えても極め
て難しい問題だろう。また、実際にそれを望む観客も少数派なのではないかと
思われる(ちょうど2005年のアヴィニヨンがそうであったように)。

 なお、これは私の憶測に過ぎないのだが、それだからこそファーブルは『寛
容のオルギア』では、あえて「本番」的なパフォーマンスは封じ手として、逆
にパロディ・コントのような創作に取り組んだのではないだろうか。つまり、
前作で「本番」を実践することへの批判や非難があまりにも激しかったために、
その問題の本質を解明してみせることをテーマとしたのではないだろうか。アー
トを品良く消費しようとするスノッブな観客たちへ向けて、楽屋オチ的なネタ
も含めてギャグにまぶして徹底的に叩きのめそうとした、いわばアヴィニヨン
の報復戦であり、極めて知的かつ巧妙に仕組まれたバックラッシュ(反動・反
発)だったとは言えないだろうか。もしそうだとするならば、私はそこにファー
ブルのアーティストとしての荒ぶる魂を感じざるを得ないのである。

♯♯註
※1)ビエール・リガル振付・出演『プ・レ・ス』は、2009年6月13-14日静岡芸
術劇場で公演。
http://www.spac.or.jp/09_spring/
※2)2003年の開催が中止となったフランスのアヴィニョン演劇祭は、04年から
毎年違ったアソシエート・アーティストを起用する新しいスタイルとなった。
04年の第58回にはドイツのトーマス・オスターマイアーが、05年の第59回には
ベルギーのヤン・ファーブルが迎えられ、「創造と発見のフェスティバル」と
して意欲的なプログラムを実施して「新生アヴィニョン」をアピールした。05
年のファーブル作品は、『涙の歴史』 (7/8-13@法王庁宮殿中庭) 、『わたし
は血』 (7/15-17@法王庁宮殿中庭)、『喪失の皇帝』『盗作の王』(7/25-27@ア
ヴィニョン市立劇場)といった新旧のパフォーマンスに加え、展覧会も企画さ
れるなど、会期中の3週間いつでもファーブル作品が見られる状況となった。
しかし、一方ではコンテンポラリーダンスではなくもっと古典劇や現代演劇が
見たいという観客の不満も強くあり、ファーブルの「挑発的」な表現を非難す
る、いわゆる「アヴィニョン論争」が巻き起こった。
※3)この段落の「」書きの部分は、トークショー「talk・talk・talk/
NINAGAWA『千の目(まなざし)』」でゲストに招かれたヤン・ファーブル自身の
コメントによる(2006年6/29@彩の国さいたま芸術劇場・小ホール)。なお、ファー
ブルの初期のアート活動については、『JAN FABRE ヤン・ファーブルとの対話』
(二瓶優子訳/1994年ペヨトル工房刊)を参照として執筆した拙稿「ヤン・ファー
ブル『わたしは血』」(「TOKION」No.56:2007年2月号)から抜粋している。

【筆者紹介】
 堤広志(つつみ・ひろし)
 1966年川崎市生まれ。文化学院文学科演劇コース卒。編集者/演劇・舞踊ジャー
ナリスト。美術誌「art vision」、「演劇ぶっく」「せりふの時代」編集を経
て、現在パフォーミングアーツマガジン「Bacchus」編集発行人。編書は「空
飛ぶ雲の上団五郎一座『アチャラカ再誕生』」(論創社)、「現代ドイツのパフォー
ミングアーツ」(三元社)。

【上演記録】
▽「プ・レ・ス」(Shizuoka春の芸術祭2009)
 静岡芸術劇場(2009年6月13日-14日)
 http://www.spac.or.jp/09_spring/press
振付・出演:ピエール・リガル(カンパニー・デルニエール・ミニュート)
音楽:ニール・ボルデュール
上演時間:60分

製作:カンパニー・デルニエール・ミニュート、ゲイト・シアター(ロンドン)
共同製作:ランコントル・アンテルナシヨナル・ドゥ・セーヌ=サン=ドゥニ、
テアトル・ガロンヌ(トゥールーズ)
助成:DRACミディ=ピレネー、トゥールーズ市、オート=ガロンヌ県議会、キュ
ルチュールフランス=トゥールーズ市助成協定
協賛:キュルチュールフランス、フランス大使館、エールフランス航空
協力:東京日仏学院


▽ヤン・ファーブル『寛容のオルギア Orgy of Tolerance』(2009年1月初演)
 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(2009年6月26日-28日)
http://www.saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2009/d0626.html
演出・振付・舞台美術:  ヤン・ファーブル
出演:ダンサー、ミュージシャン、俳優10名(予定)
料金:S席7,000円(メンバーズ6,300円)A席5,000円(4,500円)学生A席
(3,000円)


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 連載【レクチャー三昧】第50回 連載50回となりました

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 昨年8月20日、第2期ワンダーランド始動とともにスタートいたしました【レ
クチャー三昧】、おかげさまで無事に連載50回、ほぼ一年目を迎えることとな
りました。あらためて、この企画にお誘い下さり、この場を提供して下すって
いるワンダーランド編集長北嶋孝さん、支援会員の皆さま、読者の皆さまに御
礼申し上げます。引き続きご支援・ご愛読のほどどうぞよろしくお願い申し上
げます。(高橋楓)

*無料でも予約が必要なことがございます。必ずウェブサイトでご確認下さい。
*各情報の真偽・変更・取消・思想信条背景等につき一切の責任を負いません。
各自ご確認の上お越しください。
*【レクチャー三昧】カレンダー版(ウェブサイト)もご活用下さい。
ただし、当「マガジン・ワンダーランド」でお知らせした催しが全て転載され
ているわけではありません。
http://www.wonderlands.jp/info/lectures.html


▽ジャック・アタリ講演会 「金融危機後の世界」
2009年09月16日(水) 17時00分 
早稲田大学早稲田キャンパス14号館101教室 
フランス語、日本語同時通訳付
無料、要申込、登録受付開始8月18日
http://www.institut.jp/agenda/evenement.php?evt_id=1547

▽現代映像プロデュース論~最もホットな人の、最も新しいビジョン~
東京藝術大学横浜キャンパス馬車道校舎
無料、要申込
▽▽第2回2009年8月27日(木)19:00~
演題:未定
講師は丸田順悟氏(株式会社マッドハウス 代表取締役社長)
http://animation.geidai.ac.jp/pd2009/
http://www.geidai.ac.jp/info/20090706_01.html

▽バレエ・リュスからの100年と現在のダンスを追う
2009年9月12日(土)17:30~19:00
彩の国さいたま芸術劇場映像ホール
無料、予約不要
講師は薄井憲二氏(社団法人日本バレエ協会会長)、芳賀直子氏
http://saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2009/d0729.html

▽第20回NINAGAWA千の目(まなざし)
2009年8月23日(日)開演12:00
彩の国さいたま芸術劇場映像ホール
無料、要申込(はがき)、抽選(150名)、申込締切2009年8月12日(火)必着
会員優先枠有り
蜷川幸雄氏とゲストの対談シリーズ。今回のゲストは麻美れい氏
http://saf.or.jp/thousand_eyes/2009/vol020.html

▽男女平等への人類の歩み-世界の潮流、日本の視座
2009年7月31日(金)13:00~17:00
神奈川大学横浜キャンパス1号館804
通訳有
無料
講師は ヒラリー・チャールズワース(オーストラリア国立大学教授)、シン
・ヘイスー(前国連女性差別撤廃委員会委員 韓国)、セシリア・レイチェル
・キサンビン(フィリピン国家人権委員会委員 フィリピン)、大谷 美紀子
(弁護士 日本)の諸氏
http://www.kanagawa-u.ac.jp/06/kouenkai/

▽よみがえりの哲学~プロが語る「生命体」と「芸術作品」の修復・再生~
2009年9月5日(土)13:30~16:45
お茶の水女子大学大学講堂徽音堂(きいんどう)
無料、申込不要
http://www.ocha.ac.jp/information/20090723.html

▽エドガー・アラン・ポー生誕200年記念大会
三田文学スペシャルイベント’09
2009年9月19日(土)、9月20日(日)
慶應義塾大学三田キャンパス内北館ホール
無料、予約不要
講師は巽孝之(慶應義塾大学教授)、高山宏(明治大学教授)、井上健(東京
大学教授)、安藤礼二(文芸評論家)、鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
等の諸氏
http://www.muse.dti.ne.jp/~mitabun/event0.html

▽泉鏡花の東京異界案内
2009年9月16日(水)14:00~15:30 
江戸東京博物館1階会議室 
1,000円、要申込、定員 130 名、申込締切 8月31日(月)  
講師は湯川説子氏(学芸員)
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/09natu/culture09natu.html#11

▽明治学院コンサート・シリーズ 第16回≪モーツァルトのニ短調≫ 
2009年 9月6日(日) 15:00開演 (14:30開場) 
明治学院大学 白金キャンパス アートホール
無料
http://www.meijigakuin.ac.jp/event/archive/2009-07-22.html

▽世界の中の日本~環境・健康・人権・家族-4つの視点~
共立女子大学B101
無料、各回要申込、定員200名
▽▽地球温暖化を防ぐ国際協力の政治学 変わるアメリカ、変われるか日本 
2009年9月19日(土) 13:00~14:40(100分) 
講師は細野豊樹氏(国際学部准教授)
▽▽日本人と食塩文化 その功罪と遺伝素因 
2009年9月19日(土) 15:00~16:40(100分) 
講師は上原誉志夫氏(家政学部教授)
▽▽世界の中の日本と人権問題
2009年9月26日(土)13:00~14:40(100分)
英語での講演、逐次通訳付
講師は Christopher Anthony Pitts (クリストファー・アンソニー・ピッツ) 
氏(共立女子短期大学文科准教授)
▽▽家族の絆といじめ問題 日米国際比較 
2009年9月26日(土) 15:00~16:40(100分) 
講師は植木 武氏(共立女子短期大学生活科学科 教授・生活科学科長)
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/extension/index.html


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【編集日誌】
☆今週は東京デスロックの全国公演を2本、取り上げました。同じタイトルの
舞台がそれぞれの公演でどのように変わるのかを追ったものと、神戸公演をみ
たものと。長期公演をいくつかのポイントで見て批評するというスタイルはこ
れまであまり例がありません。これからも試みる機会があるかもしれません。
☆ピエール・リガル「プ・レ・ス」はShizuoka春の芸術祭参加作品です。今回
は3回続きの第1回。「プ・レ・ス」への言及はこれから登場します。ご期待く
ださい。(北嶋)

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