2009/06/24
週刊マガジン・ワンダーランド 第145号
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.wonderlands.jp/ マガジン・ワンダーランド(小劇場レビューマガジン) 2009年 6月24日発行 第145号 毎週水曜日発行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【目次】 ◇「化粧 二幕」 舞台こそが化粧 金塚さくら ◇「化粧 二幕」 「劇」を動かしているものは何か 「母性」が観客と出会うとき 坂本俊輔 ◇「化粧 二幕」 二人の女優と一人の女 または彼女たちは如何にして心配するのをやめ劇場を 愛するようになったか 島田健司 ◇「化粧 二幕」「楽屋」 家族の解体から新しい人間関係へ 女優と楽屋をモチーフに 鈴木厚人(劇団印象-indian elephant-主宰、脚本家、演出家) ▽連載【レクチャー三昧】 第45回 情報公開 高橋楓 ■web wonderland から===================== http://www.wonderlands.jp/ ◇二騎の会「一月三日、木村家の人々」 訪れるものの形象、宙吊りの悲喜劇 柳沢望 ◇演劇博覧会「カラフル3」観戦記(下) 「地域演劇祭」の原型に 地元劇団の奮起に期待 カトリヒデトシ ◇DULL-COLORED POP「ショート7」 エロチシズムの上で弾けるポップコーンのように 三橋曉 ◇「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(清水邦夫作、蜷川幸雄演 出) 青春に取り憑かれた「夢想者」たち 燃えたぎる身体が放った鋭い閃光 高野しのぶ ◇BATIK「another BATIK〜バビロンの丘にいく」(構成・演出・振付:笠井叡) 神話的ヴィジョンの魅惑と個としての肉体の不在 竹重伸一(舞踊批評) ◇珍しいキノコ舞踊団 ×plaplax 「The Rainy Table」 ファンタジーの世界を描き出す ダンスと映像の掛け合いの面白さ 中西理(演劇・舞踊批評) ◇演劇博覧会「カラフル3」観戦記(上) 「これからの演劇界」を考える機会に 全国から25カンパニーが結集 カトリヒデトシ ◇ワンダーランド支援会員を募集中! http://www.wonderlands.jp/info/members2009-1.html ===================================================================== この5月から「劇評を書くセミナー 座・高円寺留学コース」が始まりました。 新たにスタートした公共劇場での公演を取り上げ、演出家や俳優の話を聞いたう えで劇評・レビューを書き、その舞台を多角的に考えてみようというねらいです。 最初に取り上げたのが、こけら落としの舞台「化粧 二幕」でした。セミナーで は受講者が書いた17本を議論しました。その中から4本を掲載します。いずれも セミナーでの議論を踏まえて修正・補足されました。じっくり読んでもらうと、 客席の受け止め方のよってさまざまに変化する舞台の諸相が浮かんでくるはずで す。 --------------------------------------------------------------------- ◇「化粧 二幕」 舞台こそが化粧 金塚さくら 埃だらけで薄汚れた楽屋の、そこだけが聖域か何かのように白い布で覆われて いる。ちゃぶ台より少し大きいくらいの、平机。起き上がった女座長は威勢よく 座員に檄を飛ばし、かと思うとぶつぶつ何やらひとりごちる。夏の夕暮れ、あと 一時間もしないうちに舞台の幕が開く。 ひとしきり天気の心配などしていた女座長が、やがて机の前に腰を落ち着ける。 そうして彼女が、ざっと勢いよく白い布を取り払えば、その聖域にはごちゃごちゃ と取っ散らかりながらも極彩色の、化粧道具一式。 さあこれから、役者が役になるための神聖な儀式に、私たちは立ち会うのだ。 水白粉を刷毛で塗りたくり、スポンジを顔に叩きつけながら彼女は言う。厚く 塗りなさい。座員への訓示として。顔は厚く塗らなければならない。化粧をケチっ て薄くしたために潰れた一座もある、私たちはお客に夢を売るのだから、素顔を チラつかせて幻滅させてはならない。 本当に、よくできた戯曲なのだと思う。一人芝居において、役者の身体はコミュ ニケーションの相手もなしに一体何をしていたらいいのかというのは、常にひと つの問題だろう。「観客」を相手に語ることはできるとしても、その間ぼうっと 座っているわけにもいくまいし、かといって一人でばたばた動き回って不自然に なっても困る。いかにして間を持たせ、手足に行き場を与えるのか。「舞台に出 るために化粧している」という作業を与えるとは、実に見事な解決方法なのだっ た。 見事な解決法というなら、「“中丸のおじさん”のための口立てのおさらい」 という形で語られる『伊三郎別れ旅』も、きわめてスマートに処理された劇中劇 だ。母のない子の伊三郎、子のない母の茶屋のおばさん、育ての親の渡世人−と、 “五月洋子”がいくつものキャラクターを一人で演じ分けてゆく。様々な表情を 見せる“五月洋子”自身を含めて、これぞ一人芝居の醍醐味。 五月洋子が『伊三郎別れ旅』作中の台詞を口に乗せれば、私たちの目の前には 登場人物が生き生きと立ち現れる。見た目からしてがらっと印象が変わるのだ。 倅になったり母になったり合間で五月洋子に戻ったり、まったくこの人はくるく るとよく変わる−と舞台上に出現する虚実ないまぜた人間模様を無邪気に楽しん でいるうちに、しかしある瞬間、はたと気づく。彼女は今、伊三郎という若いや くざ者の顔かたちに、拵えの途中ではなかったか。 白塗りの顔には若い男を表す化粧。眉はうっかり片側だけで、頭には丸く紫の 羽二重ばかり。そんな中途半端ななりでも、膝を合わせてするする歩けばおっ母 さんだし、股を開いてしゃがみこめば倅になる。観ている間に作業は進んで、一 幕の終わりには脚絆に手甲のいなせな若い渡世人の姿が完成する。なのに、むし りのついた髷の鬘を被っていても、ぐっと背を引き衿を抜いておっ母さんを演じ てみせれば、その姿は紛れもなく初老の女に変わるのだ。片眉しかないことに気 づき、「あらあたし酷い顔してる」などと呟いていてもう一方を急いで描き足す “五月洋子”は、そそっかしくも可愛らしい、紛れもない女だ。 伊三郎となるべく化粧を施している姿に、なぜこうも様々な人物を見得るのか。 一体、私たちの見ているものとはなんなのだろう。 拵え途中で股旅の渡世人になったり茶屋のおっ母さんになったり。その違いは、 衿を抜くか、逆にぐっと前に引っ張るか、それだけなのだ。その切り替えだけで ガラリと別人になってみせる。確かにそうした小細工は判りやすくジェンダーを 規定するお約束の記号ではある。しなしなと衿を抜いていれば女、しだらなく衿 が開いていれば男−私たちはそうやって情報を“読んで”いる。しかしそれにし たって、目の前の「伊三郎」の姿かたちは、なりかけも含めて、茶店で働く老い た女とはあまりにもかけ離れている。 化粧も鬘も服装も、眼前にある姿かたちとはまったく無関係に、私たちの目は 演じられている「個性」の本質を掴み取る。声の出し方、喋り方、立ち居振る舞 い、ちょっとした仕草。観客を幻惑する舞台の魔法は、役者の姿かたちが作るの ではなく、演じることそのものによって生み出されるのだろうか。 そこにいるのは股旅姿の若い渡世人。しかしその姿のままで、おっ母さんは出 現する。むろん口立ての言葉を止めれば、“五月洋子”が出現する。その五月洋 子は、女だてらに一座を切り回す気風がよくてガラっぱちな女座長のこともあれ ば、茶目っ気たっぷりの愛嬌が時折一瞬あだっぽい可愛い女なこともあるし、苦 労の果てに生活のにおいの染み付いた古い時代の母のこともある。最後、魔法が 消えて、崩壊していく劇場の真実が明らかになったとき、そこにいるのはひどく 小さな、ひとりぼっちの老婆だ。廃墟に棲みついた寄る辺のない、しぼんだよう な年寄りなのだ。工事の轟音に怯えた目をさまよわせる姿は、それまで一度も、 どこにも見たことがなかった人物で、そのことにひどく驚く。 化粧など、何ほどのもの。その役作りに何の役にも立っていないではないか。 それでも役者にとって化粧が神聖な儀式であるのは、彼らのためにこそ化粧が 重要なものであるからに他ならない。観客のためではなく。 化粧は自分の目から赤裸々な自身を隠し、客席より注がれるたくさんの視線か ら生身を護る鎧となる。観客は構わないのだ。役者がまったくの素顔で現れよう と、私たちは演じられているキャラクターをしっかり捉え得る。私たちは確かに 美しいものを愛ではするが、美しい顔を見るためだけに劇場に足を運ぶわけでは ないのだ。化粧を薄くしたために潰れた一座が本当にあると言うならば、それは 観客が素顔に幻滅したためではないだろう。化粧に守られなかったから、観客の 容赦ない眼差しに皮膚が負けて心が折れて、役者が舞台に立っていられなくなっ たからに違いない。 考えてみれば、私たちの日常もそうなのだった。女は外を出歩くために化粧を するが、それは何も通りすがりの他者の目を楽しませるためではないのだ。必ず しも理想的でない自分自身の素顔を、ありのままに直視されることは怖ろしい。 他者の目に自分の欠点が映っていると思うと、その欠点は自分の中でいっそう存 在感を増して不安を煽る。だから一番外側の、表層に偽りの虚像を塗りつける。 人目をうまく欺いた、と自分自身に思い込ませて、自分を安心させるのだ。ファ ンデーションを塗って毛穴が隠れたと安堵し、コンシーラーでクマが消えたと喜 ぶ。眉の形を変え、睫毛をわずかばかり長く伸ばし、頬や唇に色をつけて、多少 美しくなったはずだと自信を得て、見られることにどうにか耐える。それはまっ たくの独り相撲なのだ。実際のところ、他者の目にとっては、素顔と化粧をした 顔とでそれほど大きな違いはない。きれいになったと言ったって、ほんのわずか な変化にすぎない。同じ顔はどうしたって、同じ顔でしかない。 化粧とは幻想だ。それも、見る者にとってではなく、本人にとって。自分自身 をうまく騙して、絶望しないでいるためのまやかしだ。 そこはもはや劇場ではなく、瓦解する工事現場であることが暴かれるラストで、 私たちはこの舞台そのものが五月洋子の化粧であったと知る。現実に押し潰され ないために、自分自身に信じ込ませる物語。バリケードのように虚構で壁を築い て、絶望から自分の身を守る。 無駄なことなのだ。他者の目にはまったく真実がバレている。白日のもとに曝 された五月洋子は、愚かで憐れで、ひどく小さい。都合の良い物語の続編を捏造 し、幻想の城にどうにかしてハッピーエンドを持ち込もうと足掻いても、それで 現実の何が変わるわけでなく、彼女の独り相撲は滑稽だ。けれど、その姿は痛々 しく切実で、愚かだと笑うことはできない。 『伊三郎別れ旅』の続きの物語に、彼女はすべての希望をかける。その妙案で 自分の人生を埋め合わせようと、逸る口調で懸命に語る。一幕で、気風のいい女 座長の舞台裏の「素顔」を、私は呑気に楽しんでいた。化粧の手際に無邪気に感 嘆し、「座員」との遣り取りに、何も知らずに笑っていた。真相に足をすくわれ て、どこか取り返しのつかない思いでその必死の演技を見つめる。 目の先で、五月洋子の化粧は仕上がっていく。まがい物の母と息子をつくり上 げ、ひらりと飛び乗る机には化粧道具が載っている。「伊三郎!」「おっ母さん!」、 一人二役、互いを呼び合うその顔は晴れやかだ。 ここは彼女の聖域。毎日毎日繰り返される、これは彼女の神聖な儀式。崩壊の 轟音の中、私もそこに立ち会っている。 【筆者略歴】 金塚さくら 1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。 有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。 【上演記録】 座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕」 作 | 井上ひさし 演出 | 木村光一 出演 | 渡辺美佐子 座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日−31日) http://www.za-koenji.jp/detail/index.php?id=8 上演時間 約1時間35分 入場料金 全席指定4,500円(税込) 協賛:株式会社資生堂 企業メセナ協議会認定 後援:杉並区、杉並区文化協会 企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク ===================================================================== ◇「化粧 二幕」 「劇」を動かしているものは何か 「母性」が観客と出会うとき 坂本俊輔 『化粧 二幕』の公演を見終えた後、ワンダーランドのセミナーの一環として、 主演の渡辺美佐子さんと舞台監督の田中伸幸さんから直接話を伺う機会が得られ た。海外公演での観客の反応、「ゴキブリ」のくだりが生まれるきっかけとなっ た地方公演のエピソード、渡辺さんの演技に対する姿勢など様々な話を聞くこと ができ、舞台とは異なる面から劇を理解する上でも大変参考になった。気がつい たのは、お二人の話には観客との距離に関係したものが多く、すし詰めの観客を 間近にして行われた下北沢のザ・スズナリ劇場での初演を、渡辺さんはとても感 激した、と感慨深く語っていたことや、逆に1000人を超えるような地方の大ホー ルで公演を行った際は、舞台を客席に近づけるよう田中さんが苦心された話など、 観客との「近さ」にこだわりをもっていることが感じられた。 お話の途中では、渡辺さんから「舞台でお見せしたものが全てなので、皆さん の忌憚のない意見をお聞きしたい」との提案があり、幾人かの参加者からは舞台 上の事実と、五月洋子の妄想の区別に関する意見が寄せられた。個人的には解体 工事の人夫の声や、生き別れの息子(のはずだった)田上晴彦との再会の場面も 含め、全てが五月の作り出した「劇」だった、という解釈が気に入っている。た だ、渡辺さんの見解では田上との再会は劇中の事実としてある、もしくはあった ということで、この舞台はそういった解釈の自由度の高さ、またその変化を楽し めることが魅力の一つなのだろう。 ただ、理解し難い、というか腑に落ちなかったのは最後のシーンだ。舞台の後 半、劇場の崩壊以降の場面は五月が逃げ込まざるを得なかった妄想の世界と、容 赦のない現実との激しいせめぎ合いと捉えることができるが、もし五月の妄想が 現実の侵食によって破綻したのならば、五月は「だれもいない」ことに気付いて 「劇」をやめるか、劇場の崩壊と共にその存在を消すような結末になるはずであ る。逆に、五月の妄想がなんらかの形で現実を凌駕したのであれば、彼女の心的 世界をそのままに、美しい形での母と子のやりとりで締めくくられるべきだ。し かし実際には、眉墨と白粉のまだらに混ざり合った異形の化粧をし、それでもな お恍惚の表情で「おっかさん!」と叫ぶ五月の姿があり、これでは五月の狂気の グロテスクさだけが際立ってしまうし、妄想と現実の対立はどうなったのだろう かと肩すかしをくらったような気分にもなる。脚本の井上ひさしが書きたかった のはこういったものなのだろうか。 渡辺さんの話によると、『化粧』の台本を書く前の段階で井上ひさしが考えて いたのは、ある母親役を演じているとそのうちにその母親へと役柄が変わってい き、「母の、そのまた母の…」とどんどん遡っていく、という芝居だったそうだ。 後にそれは女座長の一人芝居へと変更された。この二作の共通点は単純に見れば 「母」だが、より詳しくは「母と子の関係」というテーマが『化粧』に引き継が れた、と考えるべきだろう。加えて『化粧』は生き別れのわが子を偲ぶ女座長を 中心とした芝居なので、描かれているのは「母親の感情などを中心とした、母親 側から見た母子関係」で、これをもう少しまとめて「母性」が主題とされている と表現してよいのではないかと思う。するとこのテーマとラストの異様さとは余 計に結びつかないのだが、あらためて問い直したいのはこの「母性」とラストシー ンの関連と、五月の妄想と現実との対立は一体どうなったのだろうか、というこ とだ。 このことを考えるには、この舞台が結末に向かってどのように進んでいくのか を整理する必要がある。その際にここでは、舞台上で起きることの意味だけでな く、それが観客にどのような影響を及ぼすかも合わせて考えていきたい。 まず舞台の内容は、五月の妄想と劇中の事実との区別が曖昧になるように構築 されているが、それに加えて、作り事であるはずの舞台と観客側の現実との境界 も曖昧になる、というやや複雑な構造になるよう演出されている。「よく見えな い鏡ねえ」という台詞や多数発せられる渡辺さんのアドリブ、また五月がゴキブ リを追いかけて客席に飛び込んでくることなどは、渡辺美佐子という実在の人物 を見ているのか、五月洋子という仮想上のキャラクターを見ているのか混乱させ る効果をもたらす。冒頭でも少し触れたが、こういったことが演出としてある程 度意識的に行われているのは観客に五月を、テレビを眺めるような感覚ではなく、 もっと距離の近い生々しい存在として感じさせるためだろう。 また、一見自明だが非常に重要なのは、この劇が一人芝居である点だ。仮にこ の舞台を2歳くらいの子供が観た場合、この女の人はいったい一人でだれと会話 しているのだろう、と子供ながらにいぶかしむだろうが、ふつう観客がそう思わ ないのは、ほとんど無意識のうちに五月以外の人物の存在を理解して人物像を想 定し、それを舞台にあてはめて観るからである。一方五月は中丸のおじさんやT BSの局員を幻視としてリアルに「見て」いるわけだが、ここのポイントは、見 えない登場人物を見ることは観客にとって、気付かないうちに現実からも、また 舞台上の事実からも遠ざかって、五月側に近づいていくことにつながるという点 だ。つまり全面的に正しいのは2歳の子供の見方であり、五月や観客はそれぞれ 誤った現実認識をしている。 そのため、衝撃的な形で五月の狂気が露わになるとき(これもそうなるように 演出されているそうだ)、観客は意識レベルでは五月が狂っていることへのおど ろきや同情などを感じるだろうが、無意識レベルでは、たとえ一時間程度とはい え、自分が「五月側」に足を踏み入れていたことに対するおそろしさのようなも のを経験している。そしてこの、恐怖を感じているがそれを自覚していない、と いう状態は、劇場が崩壊した瞬間の五月の心理状態にかなり近いはずである。 ただし、ややこみいった話になるが、観客と違って五月は現実感を失うことに 恐怖を感じているのではない。五月は現実などとうに捨てている。劇場の崩壊は そのまま五月の「劇」の崩壊とみなせるが、それでも五月が繰り返し演じるのは やはり「母子関係」だ。ここでようやく母性とラストシーンの関連という元々の 問いに戻るが、つまり五月は母性を失うこと、より正確には母性の対象を失うこ とをなによりも恐れて自分の「劇」を繰り返している。なぜなら母性とは対象な くしてはその力が発現されることはないし、だからこそ一人二役の構造の「劇」 を演じ続けることが必要となってくる。この対象を必要とする、という母性の性 質は「愛情」といったものと似ているかもしれない。愛情を感じる、とは自分以 外の人やものにそれを感じることだし、自己愛と呼ばれる状態も、対象は「自分」 として必ず存在している。 だが、母性の力は愛情ほど生易しいものではない。五月の狂気とは結局、母性 の力が強大になりすぎて、自我が正常に機能しなくなった状態と考えられる。つ まり母性とはその対象だけでなく主体にも影響を及ぼすのだが、その二つを幸福 に包み込むだけでなく、それを飲み込んでしまうほどのおそろしい力をも備えて いる。ラストの五月の異様な化粧は、母性のそうした暗い面を暗示し、また同時 に五月が完全に母性にとりこまれたことを表しているのだろう。もはや主格は逆 転し、五月が自分の母性を守るために「劇」をしているのではなく、五月の母性 が五月に「劇」をさせている。 そして五月の母性の力が及ぶのは五月だけにとどまらない。それまで舞台を観 てきたことにより、五月とかなりの程度まで感覚、感情を共有してきた観客の母 性も影響を受ける。ここで「観客も」としなかったのは、母性の力はその対象に 対して「母−子」「包み込む−包み込まれる」という関係の上で発揮されるので、 その関係上にいない観客は直接の対象というよりも、その力に感化されていると いったほうがより正確なように思うのだ。だから舞台の最後に五月が化粧台に飛 び乗り、観客側に向かって「おっかさん!」と叫ぶとき、観客は自身の母性に突 き動かされ、「母」としての立場を取ることを選択できる。 個人的な意見では、五月の狂気は劇中の現実に一度はかなりのところまで接近 しながらも、そこにたどりつくことはなかったという意味で敗北したと思ってい るが、五月が繰り返しなぞり続ける母子関係に観客が「母」として参加したとき、 五月洋子の「劇」は内閉した狂気ではなく、虚構の世界という枠を飛び越えて、 人間との生きた接触をもつ「開かれた」劇として、われわれの現実世界上に成立 し得る、と考える。 【筆者略歴】 坂本俊輔(さかもと・しゅんすけ) 1982年、東京都生まれ。国際基督教大学経済学部卒業。卒業後は学習塾の講師 として主に小中学生の国語を担当。現在はアルバイトをしながら演劇、音楽、絵 画、ファッションなどを勉強中。2009年5月から「劇評を書くセミナー 座・高円 寺留学コース」に参加。 【上演記録】 座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕」 作 | 井上ひさし 演出 | 木村光一 出演 | 渡辺美佐子 座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日−31日) http://www.za-koenji.jp/detail/index.php?id=8 上演時間 約1時間35分 入場料金 全席指定4,500円(税込) 協賛:株式会社資生堂 企業メセナ協議会認定 後援:杉並区、杉並区文化協会 企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク ===================================================================== ◇「化粧 二幕」 二人の女優と一人の女 または彼女たちは如何にして心配するのをやめ劇場を 愛するようになったか 島田健司 座・高円寺のオープニングで600回の上演を迎える渡辺美佐子の一人芝居『化 粧』。再演という上演形式の定着に恵まれず、大量に作られては消費され、また 作られては消費される奔流のような日本の演劇状況において、1982年の初演から 27年の歳月をかけて打ち立てられたこの記録は継続することが可能にする演劇的 醸成とはいかなるものかを僕たちに示している。 新たな劇場を建てるため、十日後に取り壊されようとしている芝居小屋。その 芝居小屋の楽屋で大衆演劇の女座長・五月洋子は自らの出演を控え、鏡台の前で 化粧をしている。楽屋にいる座員を叱咤し楽屋にやってくる客をもてなしながら も彼女は口上(挨拶)の稽古、これから打つ芝居の口稽古に余念がない。やがて 促されるままに、そして芝居の口稽古に仮託するように彼女は自らの半生を振り 返る。一座と自分を見捨てて去った夫のこと、どうにもならない状況で乳児院に 預け、どこかの家に貰われていった我が子のこと、そして芝居に対する思い…。 やがて、彼女は生き別れになっていた息子と芝居小屋の楽屋で20年ぶりに再会す る。二人は互いを許し合い、母子としての新たな出発を誓うのだが、彼女の芝居 の幕は少しずつ降ろされようとしていた…。 一人芝居なのだが二人の女優がそれぞれの一人芝居を舞台上で演じている、僕 が『化粧』から受けたのはそんな印象だ。確かに舞台の上に立っているのは五月 洋子という役を演じている渡辺美佐子ただ一人なのだが、僕には五月洋子と渡辺 美佐子が別々の人物として一人芝居を演じているように感じられたのだ。この二 人の女優は舞台上で顔を合わせることはなく、渡辺美佐子が「現実」を、五月洋 子が「幻実」をそれぞれ生きていて、芝居の後半で舞台にカタストロフィが訪れ たときに渡辺美佐子の一人芝居から五月洋子の一人芝居へと一瞬の間に入れ替わ る。この入れ替わる一瞬の刹那に、通常の演劇を観る場合には意識することなく またいでしまっている「現実」と「幻実」の敷居の存在を、その敷居に足を取ら れてつまずいてしまったといえるほど僕はかなりはっきりと知覚することができ た。 まず僕たちが目にし、そして劇のほぼ全般を通して対峙するのが渡辺美佐子の 一人芝居である。舞台上には積み重ねられた行李、梁に載せられた小さな扇風機、 乱雑に化粧道具が置かれている鏡台(ただし鏡は不可視なものになっている)が 舞台装置として設置されている。その装置はどれをとってもみすぼらしく、その みすぼらしさは美しい装置を配した舞台や、何もない裸の舞台に比べると僕たち の日常に近く、例えば舞台上にある座布団からは防虫剤の匂いが客席まで漂って きそうな印象を受ける。そのみすぼらしい生活臭の立ち込める舞台の上で一人動 き回る渡辺美佐子が体現しているものも大衆芝居の華やかさではなく、その陰の 部分、雑多で俗っぽい大家族の母親のような姿である。舞台上には親戚の気が置 けない賑やかなおばさんの家のような、場末の汚いけれど気の良い主人のいる居 酒屋のような親しみやすい雰囲気が流れている。 しかし、このような親しみやすさにも関わらず、僕は舞台上で行われている行 為や流れている時間に意識を溶け込ませることを拒否されているような、舞台の 前に立っている何かにとおせんぼをされているかのような気がした。どうしても 舞台上で俳優と一緒に舞台空間を共有しているという感覚をつかむことが出来な かったのだ。そこには僕を客席に縛り付け、舞台に上がらせまいとする力が働い ていた。最初は居心地の悪さを感じたが、すこしずつ体が慣れてくると、僕の目 の前に現れたもの、僕が感じ取ることが出来たものは渡辺美佐子の一分の隙もな い身体行為だった。鏡を見ずに化粧をし(とても難しいらしい)、衣装を着け、 目の前にいない相手に向かって話しかけ、これから演じる『伊三郎別れ旅』の芝 居稽古までやってみせる渡辺美佐子。劇場は完全に渡辺美佐子に掌握され、渡辺 美佐子だけを観る場になっていた。 渡辺美佐子は絶えず動き続け、絶えず言葉を発し続ける。そこには静止も沈黙 も存在しない。僕が舞台上の出来事に感情移入できなかったのは、渡辺美佐子の この隙のなさゆえだったのだと思う。僕が芝居の間隙をうかがって舞台に上がろ うとすると、舞台上の渡辺美佐子は「ここはあたしだけの場所よ」と言わんばか りに僕を突き放す。舞台の上には渡辺美佐子しかいないし、渡辺美佐子しかいて はならないのである。観客の衆人環視のなかに逃げ場もなくさらされる一人芝居、 そんな孤独な状況に立ち向かう女優の覚悟を観客に示しながら、舞台上の渡辺美 佐子という女優は僕たちに渡辺美佐子という演技を観させてくれる。その声、そ の仕草は情感たっぷりに五月洋子を演じていたとしても、行為の主体としての渡 辺美佐子だけを浮かび上がらせるのである。 この渡辺美佐子による舞台の独占は芝居の後半まで続くのであるが、終幕部で この芝居の真実がポンと明るみに出たとき、渡辺美佐子の一人芝居は終わりを告 げ、渡辺美佐子の肉体は五月洋子に通じる単なる覗き穴へと変貌する。舞台上に はポツンと五月洋子だけが残され、彼女の一人芝居が始まる。遠く隔たっていた 舞台は急速に接近してきて、僕の意識は渡辺美佐子という形質を触媒にして出現 した五月洋子によって舞台の上に瞬時に引きずり上げられ、最後の瞬間まで五月 洋子にしがみつき、五月洋子とともに舞台の暗闇の中へと没していった。 渡辺美佐子の作り出す客席と舞台の間の距離はある説得力を『化粧』という芝 居に与えている。渡辺美佐子が話しかける人物は舞台上にはいない、しかし僕た ちはその存在を強く感じることができる。それは渡辺美佐子の演技の巧みさによ るところもあるのだろうが、その不在者の存在感を最も強く主張するのは見えな い登場人物の曖昧な輪郭を想像力という濃く太い線で縁取る観客の目線の力だろ う。観客は渡辺美佐子と空間を共有するのではなく、渡辺美佐子に協力して『化 粧』という舞台を作り上げる。それは信じることで参与することができる作業で ある。その作業を通じて『化粧』は存在できるのであり、その目線を確保するた めに観客を舞台に上げずに距離を確保する必要があったのである。 27年間600回という上演をこなすには持続力とともに俳優としての魅力が絶対 的に必要となる。しかも、舞台の上で絶えず注目を浴び続ける一人芝居ならなお のことである。僕は『化粧』の観劇前に渡辺美佐子という女優を圧倒的存在感と 迫力を備えた怪物のような姿として想像していた。しかし、舞台の上に現れたの は怪物などではなく、普通の渡辺美佐子だった。「普通の渡辺美佐子」という言 葉はおかしいが、僕が『化粧』の渡辺美佐子から感じたのは、まさに「普通の渡 辺美佐子」という印象だった。 なにが普通なのか? それは彼女が渡辺美佐子であるということが「普通」な のである。はみ出ることなく、足りないこともなく渡辺美佐子という形のなかに ピッタリとおさまっている渡辺美佐子。ただ本人であること、まさにそのことに よって観客の注目を集め、期待に応えること。それは、「芝居」という非日常的 な状況のなかで「私」という存在が何の脚色もなく現れていると思わせるほど自 然な振る舞いで舞台の上に立つことだ。僕の目にはそれらのことが27年間600回 という継続と時間のみが醸成しうる奇跡のように写った。そのような演技の地平 に降り立つためには、芝居が俳優を叩き、俳優が芝居を叩くことによって、例え ば職人の手とその手になじんだ道具のように、芝居と俳優が「この相手でなけれ ばだめだ」という関係になることが必要なのである。そのような芝居と俳優のオー トクチュールのようにピッタリとした雰囲気は舞台を観に来た者だけが秘密の儀 式のようにその姿を垣間見ることができる魅力である。 その域に達するには膨大な時間と反復が必要なのだと思う。たしかに、ある程 度の時間をかけて稽古をつんだ他の俳優が『化粧』を演じても渡辺美佐子のよう な演技は可能なのかもしれない。しかし、それはあくまで「渡辺美佐子のような」 演技であり、「普通の渡辺美佐子」という演技ができるのは、やはり渡辺美佐子 しかいない。なぜなら『化粧』の「普通の渡辺美佐子」の「普通」な一挙一動に 僕たちが感得するのは過去に演じられてきた動作の重複の厚みと、その厚みを無 視するように現在目の前で実際に行われているもののズレであるからだ。渡辺美 佐子は過去の上演の全てを背負って一回の舞台に立つのである。 なぜ、この『化粧』が座・高円寺のこけら落とし公演に選ばれたのだろうか? 僕が舞台を観て頭に思い浮かんだことは「人柱」という言葉である。「人柱」 とは、建築物を建てる際に神にささげる目的で人を生贄として生き埋めにした風 習である。『化粧』は渡辺美佐子演じる五月洋子が取り壊される舞台小屋ととも に闇の中へ没していくというラストで幕を閉じる。このラストは最後まで芝居小 屋を離れなかった女座長・五月洋子と、いままで演者として『化粧』を演じてき た渡辺美佐子が二重性を伴って芝居に生きるものの執念を現前させる凄まじいシー ンである。彼女たちの魂は崩壊する芝居小屋とともに没し、その場所には新たな 劇場が建つ。僕にはその新たな劇場というのが、自分がいま座っている座・高円 寺のような気がしてならなかった。そして思うのである。凄まじい執念を宿した 二人の女優の魂を人柱として建てて出発しようとしているこの劇場は、はたして 彼女たちの魂に恥じることのない劇場になるのだろうかと。 【筆者略歴】 島田健司(しまだ・けんじ) 1986年、埼玉県生まれ。現在、大学と座・高円寺の劇場創造アカデミーに在学 中。優れた観客の視点を学ぶため2009年前期の「劇評を書くセミナー」に参加。 いまのところ、どんな舞台を観ても楽しいという幸福な日々を送っている。 【上演記録】 座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕」 作 | 井上ひさし 演出 | 木村光一 出演 | 渡辺美佐子 座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日−31日) http://www.za-koenji.jp/detail/index.php?id=8 上演時間 約1時間35分 入場料金 全席指定4,500円(税込) 協賛:株式会社資生堂 企業メセナ協議会認定 後援:杉並区、杉並区文化協会 企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク ===================================================================== ◇「化粧 二幕」「楽屋」 家族の解体から新しい人間関係へ 女優と楽屋をモチーフに 鈴木厚人(劇団印象-indian elephant-主宰、脚本家、演出家) 座・高円寺のこけら落とし公演「化粧」と、シアタートラムのシスカンパニー 公演「楽屋」が、ほぼ同じ時期に上演されていたのは、僕にとっては嬉しい偶然 だった。どちらも“楽屋”が舞台で、“女優”をモチーフにした芝居であり、チ ラシも“化粧”をしている女優の写真。しかも、名作と呼ばれている戯曲の何度 目かの再演(「化粧」の初演は1982年、「楽屋」の初演は1977年)と、共通点の 枚挙に暇がない。もちろん、「化粧」は一人芝居であり、「楽屋」は女優四人の 芝居だから、そこのところは大きく違う。ストーリーだって全然違う。観劇後の 僕の満足度(つまり、僕が感じた芝居の出来)だって、180度違った。しかし、 その違いをつぶさに見比べると、太いつながりを感じずにはいられなかった。 「化粧」は、かんぴょう巻きのようなお芝居だった。かつては、定番だったも のが、若い人を中心にどんどん食べられなくなっている、そういう類の話。なに せ、主人公が大衆演劇の座長・五月洋子。その本番直前の楽屋に、かつて洋子に 捨てられた息子が自分を捨てた母を迎えに来るという筋で、しかも、その芝居小 屋でこれから上演しようとしているのは、「伊三郎別れ旅」という親に捨てられ た伊三郎が産みの母を訪ねる話。伊三郎を演じるのはもちろん五月洋子だ。一人 芝居だから五月洋子扮する渡辺美佐子が一人きりでこの筋を演じる。会話の相手 は観客には見えない。座員も、息子も、息子のお連れのテレビ局の社員も、みん な見えない。見えない相手を見えている態でお話が進んでいく。 対する「楽屋」だが、こちらは見えてる役者を見えてない態でお話が進んでい く。つまり、幽霊が出てくる。お寿司に喩えるならカリフォルニアロール。西洋 風だがお寿司はお寿司。巻かれているネタは50代、40代、30代、20代の女優一人 ずつと、海外戯曲。そう、「楽屋」は四人芝居で、チェーホフの「かもめ」を上 演中の楽屋が舞台。どこかの西洋風の劇場なのだろう。「化粧」の畳の楽屋と対 照的に、床はフローリングだった。屋根というか、天井があるセットも「化粧」 の楽屋と大きく違うところ。より密室感が強調されている。その「楽屋」の楽屋 で、出番に備えるニーナ役のベテラン女優がいて、その脇で化粧をしている二人 の女優がいる。この二人が幽霊。生前、プロンプターしかできず、女優らしい役 をもらえなかった女のお化けだ。そこへ、寝巻き姿の若い女優が現れる。幽霊を 演じるのが、渡辺えりと小泉今日子。ベテラン女優が村岡希美。若い女優が蒼井 優。それぞれ50代、40代、30代、20代の女優で、「化粧」の渡辺美佐子が70代な ので、二つの芝居を観ると、ほぼ全ての年代の女優を鑑賞できるのもおもしろい。 渡辺美佐子が70代というのは本当に驚きである。ある時は、チラッと見える鎖 骨に色香が漂い、ある時は舞台から飛び降り、客席を駆け抜ける。ただし、そう いった役者の熱演だけで、「化粧」の、戯曲と時代の流れの間にできた溝を埋め られていたかどうかについては疑問が残る。つまり、僕にはおもしろくなかった。 観客席は沸いていた。少なくとも僕の両隣の白髪のお客さんは心の底から楽しん でいるようだった。そんな温かい雰囲気に包まれながら、僕は居心地の悪さを感 じていた。間違えて、女性専用車両に乗ってしまった時のような、いや、一車両 丸々シルバーシートの電車に乗ってしまったような、バツの悪さ。慌ててそこか ら出ようと思っても、もうドアは閉まっていて降りられない。「化粧」は僕のた めの、いや、僕らのための演劇じゃない、そんな気がした。 僕が楽しめなかった理由の一つは、観客席で起こっていたことと同じく、「化 粧」に内包されているアイロニーが、新しさと古さをただ対立させてしまってい るだけだったからだ。大衆演劇の座長の息子が、その大衆演劇がつぶれる最大の 要因のテレビの人間になっているというアイロニー。取り壊される芝居小屋での お話を、新築の座・高円寺でやるというアイロニー。それでも、対立はドラマだ から、まだ見れる。「家族」の扱い方のあの陳腐さはなんだろう? 二幕では、 五月洋子は息子に対面するや否や、愛情を爆発させて甘え始める。それまで息子 はいないと強がっていたことも忘れてである。ところが終盤、五月洋子が産みの 母というのが、勘違いだとわかると、もう息子ではないテレビの男はあっという 間に楽屋から去っていく。そして、見えない相手を見えてる態でお話は進んでき たけれども、実は見えない相手は物語の中にも実際にはおらず、狂った主人公が 一人、幻を見ていたという構造が明るみに出る。 僕は、「家族」を持つこと、求めることが幸福であるという価値観(=化粧の 二幕の途中まで)でドラマが満たされるのには耐えられなかった。今の時代「家 族」なんて絶対の存在じゃない。そんなのは、自分の「家族」を見ればわかるで しょ? しかし、かといって、そういう「ホームドラマ」的なものからの「梯子 外し」(=ラストの夢オチ)にも共感できない。ストーリーの構造的なおもしろ さのために、キャラクターが振り回されたように見えたし、ベタであれネタであ れ「家族」的幸福を否定する者の、孤独な末路に見えてしまったからだ。幻だと 知りつつ家族を夢見るべきか、孤独だと知りつつ現実を直視すべきか。私は一体 どっち? と、幽霊のように浮遊する僕の想いを回収してくれたのが、今回の 「楽屋」というお芝居だった。 まず、「楽屋」は新旧という対立軸を演劇的な方法で包み込むことに成功して いる。例えば、前述の二人のお化け。渡辺えりが演じるのは戦中生まれ(お化け だから生まれたのではなく死んだわけだが)のお化け。小泉今日子が演じるのは 戦後生まれのお化け。戦中と戦後では、海外戯曲の翻訳が違う。だから、渡辺お 化けは旧訳で「マクベス」や「かもめ」の台詞を覚え、小泉お化けは新訳で覚え ている。生前できなかった役を、台詞を合わせて練習しているのに、戦中と戦後 で言葉がだいぶ違うので、噛み合わない。そのやりとりがまるで漫才のようでと てもおもしろい。 噛み合わないようで噛み合っているのがさらにおもしろい。 なぜなら、二人が覚えているのは、違いがあるとは言え、どちらも二人が愛した、 いや愛している「マクベス」であり「かもめ」なのだ。翻訳の新旧など軽々と乗 り越えてしまっている。 ベテラン女優と若い女優の対立も興味深かった。若い女優の登場シーンは鮮烈 だった。彼女が突然、かもめのニーナの台詞を発すると、実は穴が開いていたフ ローリングの床から、照明が彼女の真っ白な寝巻き姿を照らすのだが、照明なん かなくても光り輝いてるかのようなまばゆさだった。蒼井優の、あの透きとおっ た声と存在感。観客の誰もが彼女こそニーナだと思っただろう。しかし、若い女 優は傲慢だった。ベテラン女優に自分が最もニーナにふさわしいのだからと、そ の若さでニーナの役を奪おうとする。追い詰められていくベテラン女優。口論の 末、つい近くにあったビール瓶でその若い女優の頭をぶっ叩いてしまう。よれよ れと楽屋を出て行く若い女優を尻目に見ながら、鏡に向かって「女優は忍耐」と 一人語る、ベテラン女優演じる村岡希美の独白も素晴らしかった。奪う者、奪わ れまいとする者の対立を越えて、女優という生き物の凄みを見せつけられた。 また、「化粧」と違って、出てくるキャラクターの誰一人結婚していないのも おもしろい。男の話が出てきても恋人止まり。ましてや、「出産」して「母」に なるなんて、微塵も考えていないように見える。旧時代の女の幸せが、このフロー リングの楽屋にはない。家族の匂いが全くない。 彼女たちは孤独かもしれない。しかし、その孤独は狂気には向かわない。「化 粧」の五月洋子のように自らを壊す方向には向かわない。ベテラン女優が去った 後、若い女優も幽霊となって戻ってくる。結局、ビール瓶での殴打が元で死んで しまったのだ。三人揃ってしまった幽霊たち。そこで一人がチェーホフの「三人 姉妹」をやろうと言い出す。そして、それぞれオリガ、マーシャ、イリーナの衣 装に着替えていく。ト書きに着替えの記述はないので、演出のアイディアだと思 うが、この静かなクライマックスは静謐でありながら、それまで劇中でなされた どんな化粧よりも劇的で、かつ美しかった。マーシャとイリーナを抱きよせたオ リガの台詞がひそやかに響いたところで、劇は終わる。この三人のつながりを、 僕はまだ擬似家族という言葉でしか呼び表わすことができないが、これからの時 代を示唆する関係性になっていくのではないかと感じた。 【筆者紹介】 鈴木厚人(すずき・あつと) 1980年東京生まれ。脚本家/演出家。劇団印象-indian elephant-主宰。慶応 大学SFC卒業。CM制作会社を経て、2004年4月から演劇活動に専念。blog『ゾウ の猿芝居』 ・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=28 【上演記録】 ▽座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕」 作 | 井上ひさし 演出 | 木村光一 出演 | 渡辺美佐子 座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日−31日) http://www.za-koenji.jp/detail/index.php?id=8 上演時間 約1時間35分 入場料金 全席指定4,500円(税込) 協賛:株式会社資生堂 企業メセナ協議会認定 後援:杉並区、杉並区文化協会 企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク ▽シス・カンパニー公演「楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜」 http://www.siscompany.com/03produce/23gakuya/index.htm シアタートラム(2009年05月10日-06月14日) http://setagaya-pt.jp/theater_info/2009/05/post_154.html 全席指定 一般7,000円 [作] 清水邦夫 [演出]生瀬勝久 [出演]小泉今日子/蒼井優/村岡希美/渡辺えり [美術]二村周作 [照明]小川幾雄 [音響]加藤 温 [衣裳デザイン]伊藤佐智子 [ヘアメイク]勇見勝彦 [演出助手]山崎総司 [舞台監督]瀧原寿子 [プロデューサー]北村明子 [企画・製作]シス・カンパニー [提携]世田谷パブリックシアター [後援]世田谷区 ==================================================================== 連載【レクチャー三昧】第45回 情報公開 -------------------------------------------------------------------- 各大学でのイヴェント・公開講座、公開義務があったりなかったり、あるいは まったく内部的なものを大学の好意で一般聴講も可、としてくれているのかもし れませんが、それにしても告知のしかたがとても親切なところ、不親切なところ、 いろいろあります。 学内の催しを一覧できるウェブサイトをしつらえてくれている大学もあり、筆 者がここ二年ほど見てきたところ、最も優れているのは早稲田大学と立教大学で した。また、こちらの二校は舞台芸術・思想・社会問題に関するレクチャーも豊 富で、閲覧するのがいつも楽しみです。催し毎に、「無料」「申込不要」/「要 申込」と明示してくれているのも安心です。 欲しい情報が、大学のウェブサイト内をあちこち掘り返さないと出てこないの も面倒ですが、一番困るのは直前、開催二、三日まえになってやっと情報を出す ところです。今どき、前日になってから「万障繰り合わせ」が出来るような社会 人、いや学生だって滅多に居やしませんでしょう。特に、大舞台を観る人たちは 三ヶ月前から切符を予約したりしているわけです。本当に一般来聴者を増やした いのであれば、一日でも早いウェブサイトでの告知をお願いしたいと思います。 なお、当【レクチャー三昧】でのお知らせが開催直前であるからといって、各 大学ウェブサイトでの掲載が遅かったというわけではありません。筆者が拾いそ びれていた場合も多いので、念のため申し添えます。(高橋楓) *無料でも予約が必要なことがございます。必ずウェブサイトでご確認下さい。 *各情報の真偽・変更・取消・思想信条背景等につき一切の責任を負いません。 各自ご確認の上お越しください。 *【レクチャー三昧】カレンダー版(ウェブサイト)もご活用下さい。 http://www.wonderlands.jp/info/lectures.html ▽シリーズ「建築のみかた」 第1回劇空間を再考せよ 建築会館中庭押入劇場 ▽▽劇場に関わる人々との交流会初日パーティー 2009年7月16日(木) 18:00〜 入場無料(ドリンク販売あり) 出演は、柳家初花氏(落語)、奥田翔氏(バウハウスダンス)ほか ▽▽劇団唐ゼミ☆特別公演『恋と蒲団』 2009年7月17日(金) 17時00分/18時30分開演(2回公演) ▽▽メイン・シンポジウム 『劇空間の理想』 2009年7月17日(金) 19時30分/21時(2回公演) 1,000円(観劇+シンポジウム)、ウェブサイトに申込フォーム有 講師は唐十郎氏(劇団唐組座長)、室井尚氏(横浜国立大学教授)、中野敦之氏 (劇団唐ゼミ座長)、大場聡氏(建築家・舞台美術家)、伊東正示氏(シアター ワークショップ代表) http://news-sv.aij.or.jp/kanto/event.htm http://news-sv.aij.or.jp/kanto/event/kenchikunomikata.pdf ▽水族館バーレスク+シンポジウム 2009年7月8日(水) 16:30〜 (16:00開場予定) 早稲田大学小野記念講堂 ▽▽第一部:水族館バーレスク「野生の芸能へ」16:30開演 出演はマディ山崎(劇中音楽ライブ)、杉浦康博(伊勢大神楽)、入方勇(見世 物地獄)の諸氏 ▽▽第二部:シンポジウム「もうひとつの演劇史」18:00開演 講師は高山宏(明治大学教授)、松井憲太郎(演劇制作・評論)、桃山邑(水族 館劇場)、中原蒼二(プロデューサー)、梅山いつき(演劇博物館)の諸氏 無料、予約不要、定員200名 http://www.waseda.jp/enpaku/event/index.html#20070421 ▽劇場の見えない活動とその課題 エデュケーション、メディエーション、アウトリーチ 2009年6月25日(木)14:45〜16:15 早稲田大学戸山キャンパス36号館2階演劇映像実習室 フランス語、日本語逐次通訳付 無料、予約不要 講師はエマニュエル・ヴァロン、藤井慎太郎の諸氏 http://waseda-events.jp/ ▽すみだ川アートプロジェクト高山明トークシリーズvol.1 〜隅田川のほとりにて、東京スカイツリーをきく〜 2009年6月29日(月18:00〜21:30メイントークは 19:00〜20:30頃 アサヒ・アートスクエア 無料(ワンドリンクオーダー制)、予約不要 講師は澄川喜一氏(彫刻家、「東京スカイツリー」デザイン監修)、 高山明氏(演出家、Port B主宰) http://www.asahibeer.co.jp/csr/philanthropy/art-cul/collabo.html#collabo_1 ▽Shakespeare Made Fit:テイト版『リア王』をめぐる一考察 2009年7月12日(日)15:30〜17:00 早稲田大学早稲田キャンパス26号館(大隈記念タワー)302教室 無料、予約不要 講師は佐々木 和貴氏(秋田大学教授) http://www.enpaku.jp/event/host/event20090712.html ▽The Trial of the Three Caskets: Law, Equity and Mercy in The Merchant of Venice 2009年7月18日(土) 15:30〜17:30 早稲田大学早稲田大学大隈記念タワー(26号館)302会議室 使用言語英語 無料、予約不要 講師はKenji YOSHINO氏(ニューヨーク大学法科大学院 教授) http://www.enpaku.jp/event/host/event20090718.html ▽ドキュメンタリー演劇の歴史と現在 2009年7月9日(木)19時〜21時 世田谷文化生活情報センター 日本語通訳有 ←*世田谷パブリックシアター学芸に確認済みです 1,500円、要申込、先着順、定員約20名 講師はベアトリス・ピコン=ヴァラン氏(フランス国立科学研究所・演劇博物館 上級研究員) http://setagaya-pt.jp/workshop/2009/07/post_140.html ▽文学研究と表象文化理解の方法論 ―近現代文学の語りと感性、メタファーとメッセージ 2009年6月25日(木)16:35〜18:05 東京女子大学 無料、申込不要 講師は原田範行氏(東京女子大学) http://office.twcu.ac.jp/facilities/society/lecture.html ▽ビルマ(ミャンマー)の人権、日本の人権〜在日ビルマ人の視点から〜 2009年6月27日(土) 11:00〜12:30 中央大学多摩キャンパス 8号館 3階 無料、申込不要 講師は田辺寿夫氏 http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/event/event_j.html?suffix=k&visit=12&mode=vst&topics=9158 ▽あぶり出された階層対立―タイ政治混乱の舞台裏― 2009年6月29日(月)開場18:00、開始18:15 学習院大学西2号館501教室 無料、申込不要 講師は重冨真一氏(アジア経済研究所主任研究員) http://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/lecture/toubunkouza09.pdf ▽日本文化の流入−2009年ロンドン,ニューヨーク− 2009年7月11日(土)14:00〜 日本大学会館7階701会議室 無料、要申込、先着50人 講師は松岡直美氏 http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/ko_kaiko_za.htm ▽越境の声 リービ英雄、自作と現代世界文学を語る 2009年6月29日(月)17時〜19時 東京大学文学部本郷キャンパス法文2号館2階2番大教室 無料、申込不要 コメンテーターは藤井省三氏(東京大学文学部教授・中国文学)、 司会は沼野充義氏(現代文芸論、ロシア東欧文学) http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/office/anzeneisei/anzennohi_h21.pdf http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/report.cgi?mode=2&id=212 ▽ウルグアイ映画上映会とトーク 2009年7月4日(土)17:30〜 立教大学池袋キャンパス8号館8201教室 無料、予約不要 ▽▽第1部「法王のトイレットEl Bano del Papa」上映会 17:30〜、上映時間97分 言語スペイン語、字幕英語のみ、日本語あらすじ配布 ▽▽第2部トーク「映画を仕事にするために」 〜ひとりで始めた映画祭に1万人が来場するまで 19:30〜 講師はアルベルト・カレロ・ルゴ氏 http://www.rikkyo.ac.jp/events/2009/07/5388/ ▽「世界がもし100人の村だったら」から見えてくるもの(全2回) 立教大学池袋キャンパス太刀川記念館3F多目的ホール 500円(2回分一括)、定員50名(先着順) 講師は佐野淳也氏(本学大学院21世紀社会デザイン研究科准教授) ▽▽第1回世界がもし100人の村だったら 2009年7月2日(木)18:30〜21:00 http://www.rikkyo.ac.jp/events/2009/07/5384/ ▽▽第2回フェアトレードお買い物による国際協力 2009年7月16日(木) 18:30〜21:00 http://www.rikkyo.ac.jp/events/2009/07/5385/ ▽BDとは何か? 2009年6月30日(火)17時〜 早稲田大学戸山キャンパス 33-2号館2階第1会議室(プレハブ校舎) 無料、予約不要 フランス語圏のマンガの世界を紹介 http://waseda-events.jp/ http://www.waseda.jp/bun-bonjour/02Informations.htm ▽皮膚と心 2009年6月27日(土)15:00〜17:00 早稲田大学戸山キャンパス34号館453教室 無料、予約不要 講師は山口創氏(桜美林大学・リベラルアーツ学群・准教授) http://wpsy2.seesaa.net/upload/detail/image/p2009r2-thumbnail2.jpg.html ▽チャペル見学ツアー 2009年 6月30日(火)12:30〜13:00 立教大学池袋キャンパスチャペル 無料、申込不要 http://www.rikkyo.ac.jp/events/2009/06/5394/ ====================================================================== 【編集日誌】 ☆今週は、劇評を書くセミナー 座・高円寺留学コース(前期)受講生の作品4編 を掲載しました。いずれも着眼、構成に優れた力作です。ほかにも鋭い作品がい くつもありましたが、掲載分量の関係で断念しました。次回は「ユーリンタウン」 を取り上げます。受講生の作品をこのマガジンに掲載するのは7月中旬の予定で す。ご期待ください。 ☆ハイバイ「リサイクルショップ『KOBITO』」のクロスレビュー締め切りは6月 30日です。末尾に観劇日を付けて、投稿をお願いします。詳細は次のページをご 覧ください。 http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1047 (北嶋) ====================================================================== 発行 ワンダーランド 〒202-0002 東京都西東京市ひばりが丘北4-1-9 Tel& Fax: 042-422-5219 info(アットマーク)wonderlands.jp webサイト http://www.wonderlands.jp * 「マガジン・ワンダーランド」の登録・解除は次のページから。 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