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2009/04/15

週刊マガジン・ワンダーランド 第135号



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.wonderlands.jp/

   マガジン・ワンダーランド(小劇場レビューマガジン)

   2009年 4月15日発行 第135号                          毎週水曜日発行

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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 http://www.wonderlands.jp/info/seminar09the.kohenji1.html

【目次】
◇劇団サーカス劇場「カラス」
 抒情から喜劇へ 新生サーカス劇場の挑戦
 芦沢みどり(戯曲翻訳家)
◇劇団サーカス劇場「カラス」
 「友達」を探し求める物語 ガード下に漂う甘いにおい
 小畑明日香(学生)
◇パラドックス定数「インテレクチュアル・マスターベーション」
 「わくわくした。以上」から踏み出して「一抹の淋しさ」を考える
 川口典成(演出、劇団地上3mm主宰)

▽連載【レクチャー三昧】
 第35回 ばらけ過ぎ?
 高橋楓

■web wonderland から===================== http://www.wonderlands.jp/ 

◇マレビトの会「声紋都市―父への手紙」
 棲みついた〈坂〉と言葉 〈ノスタルジック〉な身体をめぐって
 森山直人(京都造形芸術大准教授)

◇河村美雪+伊東沙保+岸井大輔「play away」
 複数的な創造プロセスを切り出すパフォーマンス
 柳沢望

◇ワンダーランド支援会員を募集中!
http://www.wonderlands.jp/info/members2009-1.html

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◇劇団サーカス劇場「カラス」
 抒情から喜劇へ 新生サーカス劇場の挑戦
 芦沢みどり(戯曲翻訳家)

  見えるかい 亀が歩いてる
  時間という名の亀が
  少女を惑わすウサギより速く
  アキレスの眼にもとまらぬほどに
  三〇世紀 東京は森
  見てごらん 鉄の木立の上に 一千万のカラスがとまる

 これは幕開きと第二幕の途中で歌われる劇中歌だ。この歌詞が劇のすべてを
物語っているとは言わないけれど、内容を暗示すると同時に観客を劇世界へ誘
い込む呪文のような言葉であることは間違いない。亀が眼にもとまらぬ速さで
歩くという撞着したイメージは、人に眩暈を起こさせる。でもそれは時間とい
う亀なのだから、虚構の中では古代だろうと未来だろうと、ひとっ飛びに行っ
てしまうだろう。歩みののろい亀さんが、アキレスの目の前を通り過ぎて三十
世紀の東京へ。気が遠くなるほど膨大な時間はまた、一瞬でもある。多いは少
ないで、少ないは多い。あるいは、速いは遅いで、遅いは速い?さあ、お芝居
の始まり、始まりいっ!

 サーカス劇場の舞台を観るのはこれで三度目になる。唐十郎の圧倒的な影響
を受けたという清末浩平が作・演出・出演し、森澤友一朗がプロデュースして
出演する二人だけの劇団だった。だった、というのは今回から体制が変わり、
清末は劇作に専念して演出を外部から迎えることになったからだが、二人以外
の出演者が公演ごとに入れ替わるのは、今後も変わらないようだ。

 筆者がこれまでに観たのは第十四回公演の『隕石』とその次の『幽霊船』
(天幕公演)だけなので、エラそうなことは言えないが(と言いながら言うわ
けだけど)、この二作に共通していたのは劇の時間が過去へと向い、その過去
は歴史的な事件の記憶と結びついていたことだろうか。そして時間は直線的で
はなく、空間は異次元へワープし、歴史的事件をめぐる登場人物も虚実ないま
ぜで、観客は時空感覚を揺さぶられる。そう、今思い出したけれど、『幽霊船
』の歴史的登場人物は、人物と言えるかどうか、放射能の灰を浴びた第五福竜
丸だった。二作とも原子爆弾にかかわる話であり、そこには犠牲となった人々
への鎮魂の想いが伏流水のように流れていた。非連続な時間の中で、様々な人
物が現れては消えるスピード感のある劇の展開。その奥から抒情性が立ちのぼ
って来る、というのがサーカス劇場の魅力だとわたしは勝手に思い込んでいた
のですね。
 では新体制になって初めての『カラス』はどうだったか?

 舞台は東京のとある繁華街の鉄道ガード下。登場するのは自転車に荷物をく
くりつけたホームレス風のおばさん(彼女が劇中歌を歌う)、泥棒学校の先生と
生徒たち、大麻煙草の売人二人、刑務所に入りたい労働忌避の若い男、失せも
のを探して彷徨する青年、気持ちが行き違ってしまったサラリーマンとOLのカ
ップルなどなど。これらの都市住民がある日の夕方、ガード下を通りかかって
偶然出会い、出会ったことでさまざまな悲喜劇がスパークし、火花の一つが偶
発的な殺人を引き起こす。そしてガード下の薄汚れたコンクリートの壁にまた
一つ、血痕のシミを残して夜は更けて行く・・・というのが大雑把な筋書きだ
。
 この一風変わった都市群像劇から受けた印象は、前二作とはかなり違うもの
だった。

 舞台表現上の大きな違いは、戯曲の喜劇性が前面に押し出されたことだろう
か。もともと清末の書くセリフには、古風だけれど感覚的には新しい、つまり
リニューアルされたユーモアといったようなものが漂っていた。『カラス』で
もそれは健在だったが、セリフは舞台表現としてさらに方向性を持ち、言い換
えれば身体化された言葉として機能していたように思う。だから言葉がそこは
かとなくおかしい、というよりそれが発せられる状況がおかしくて、大笑いし
てしまう。これは喜劇のツボであり、いったんこのツボを押された観客は、も
う笑わずにはいられなくなる。

 テクストの喜劇性が前面に出たのは、演出を劇団唐ゼミ☆の中野敦之に委ね
たからだろうか。中野は唐十郎に師事した気鋭の若手演出家で、これまた唐の
圧倒的影響を受けた清末作品を任せるにはうってつけだったのかもしれない。
その中野が『シアターアーツ』2009年春号のシンポジウム(注1)で、あなた
のように若い人が「唐さんの持つ<陰々滅々>の言語と、どのように格闘して
いるのでしょう」と問われて、陰々滅々の中にある朗らかさが唐十郎の劇世界
の豊かさだと答えている。中野が唐作品の読みをそのまま清末作品の読みに当
てはめたと言うつもりはないし、そもそも清末作品の言語は陰々滅々とは縁遠
い。だから舞台から受ける印象の違いは演出が変わったからだ、とは言い切れ
ない。でもやはり、これまでにないカラリと乾いた軽みは、演出によるものだ
ろう。

 だがもっと注目すべきは(べきは言い過ぎかも)、戯曲そのものだろう。冒
頭の劇中歌で「三〇世紀 東京は森」と歌われているので、すわ時間は未来か
と思いきや、そうでもない。劇が対峙している時間は明らかに現代だ。という
のは・・・たとえば登場人物たち。

 失せものを探している青年が失くしたものは記憶だが、彼は記憶喪失症にか
かったわけではない。ケータイに(と劇では言っていないが)彼の交友関係の
すべてが収まっているので、それを落とすことは彼にとって記憶を失うことと
同じなのだ。また強盗をして刑務所に入りたい男の労働忌避は、派遣労働の生
活環境に嫌気がさしたからであり、OLの気持ちがサラリーマンの恋人から離れ
て行くのは、自分と相手の凡庸な人生に、これまた嫌気がさしたからだ。これ
らの人物はみな、21世紀の都市生活者のプロトタイプだ。

 これに対して泥棒学校の先生と生徒たちはといえば、二十面相、ルパン、五
右衛門、鼠小僧といった古今東西のセレブ泥棒の末裔だし、ホームレス風のお
ばさん(役名はカラスおばさん)は両性具有の存在だし、泥棒指南書を書いた
カリスマ泥棒のゴウダ氏はどうやらカラスの化身らしいので、こちらはわたし
たちと地続きというよりは虚構性が濃厚だ。にもかかわらず、虚構の中の彼ら
だって現代の都市をあてどなく彷徨う存在であることに変わりなく、つまりは
虚実の程度に関係なく登場人物の全員が、エサをあさって都会をウロつくカラ
スだと言えなくもない。
 「見てごらん 鉄の木立の上に 一千万のカラスがとまる」。

 そこで思い出すのが、アリストパネスの『鳥』である。訴訟に明け暮れるア
テナイに愛想を尽かした男二人が、神話伝説の英雄で今は鳥になっているテレ
ウスを説いて、空中に鳥の都市を建設させるという諷刺劇。鳥の視点から人間
世界を揶揄した喜劇であり、ファンタジーでもある。『カラス』も、鳥を媒介
として都市群像を描いているわけだから、その意味で批評的ではある。でもね
、さすが21世紀ともなると、鳥対人間なんて単純な構図は成立しない。カラス
は一応まだ野生動物なんだと思うけど、今やそれすら怪しくなっている。この
作品では人間がカラス化しているくらいだ。

 劇の最後に、一夜の悲劇を見届けようとするカラス(泥棒志願の若い女)と
カラスおばさんが目にするのは、殺された青年が壁の中に消えて行く幻影だ。
記憶を失くした男が壁のシミになるという痛ましくてショッキングなシーンだ
が、ここから立ちのぼって来るのは抒情というというよりむしろ、同時代への
沈痛な想い、というか悲鳴に近い。

 お先真っ暗の情けない状況を目の前にして無力感にとらわれた時、もう笑っ
てしまうしかないという方向と、愚直に闘う方向がとりあえずは考えられる。
今回の公演はどうやら本も演出も、笑ってしまう方向へ行ったようだ。現実を
笑いのめすことも社会批判の一つの方法だし、それがサーカス劇場の新しい挑
戦であるなら、試してみる価値はある。

 でも、愚直に闘う方向にも捨てがたい魅力がある。中原中也の仏訳者である
イヴ=マリ・アリューが、あるエッセイ(注2)の中で抒情詩について興味深
い指摘をしている。それは抒情詩の受容のしかたが日本とフランスではかなり
違っていて、歴史的に見てもフランス人は抒情詩を、反抗を予感させるものと
捉えており、抒情はセンチメンタルなだけでなく、プロテストでもあるという
のだ。

 過去の歴史的事件の記憶を掘り起こした清末作品には、このプロテストを含
む抒情性があったと思う。今回、それが後退した感じがするのは、少し残念な
気もする。

(注1) シンポジウム「唐十郎の世界」/2008年12月21日、世田谷文化生活情
報センター・セミナールーム/『シアターアーツ』2009年春号所収。
(注2) 「中原中也―その政治性」/イヴ=マリ・アリュー(大槻鉄男訳)/
『中原中也 群像 日本の作家15』/小学館

【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
 1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。1982年から主
としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリ
ー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・
ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサ
ム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)、「フェイドラの恋」(サラ・ケ
イン)ほか。2006年から演劇集団・円所属。
・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=20

【上演記録】
劇団サーカス劇場第16回公演「カラス」
http://circus.main.jp/
新宿・タイニイアリス(2009年3月5日-15日、3月12日24時〜レイトショー)

脚本:清末 浩平(劇団サーカス劇場)
演出:中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)
キャスト:
森澤 友一朗(劇団サーカス劇場)
浅倉 洋介(風琴工房)
熾田 リカ
尾崎 宇内
久米 靖馬(クロカミショウネン18)
佐丸 徹(vivit)
神保 良介
平野 剛督
水野 香苗(劇団唐ゼミ☆)
宮崎 敏行
八重柏 泰士
ワダ・タワー(クロカミショウネン18)

スタッフ:
脚本・劇中歌作曲 清末浩平(劇団サーカス劇場)
演出・音響 中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)
美術 大泉七奈子
照明デザイン・操作 須賀谷沙木子(clore)
照明操作 桜かおり
舞台監督 宮田公一(Y's factory)
宣伝美術 だり子(薔薇色乞食)
web 相澤知里
制作 清水建志
プロデューサー 森澤友一郎(劇団サーカス劇場)
チケット:一般前売3000円、一般当日3200円、学生前売2000円、学生当日2200円


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◇劇団サーカス劇場「カラス」
 「友達」を探し求める物語 ガード下に漂う甘いにおい
 小畑明日香(学生)

 バイクが上手でうなる音から幕開き、ガードレールの隙間を自転車とバイク
が走り抜けて歌。♪時は三〇世紀トーキョー♪とのことだが歌ってる大女は長
いざんばら髪にポシェット下げて要するに舞台は荒廃した未来、である。が、
アングライメージの意匠をちりばめつつも「カラス」はにおいがはっきりちが
った、字義通りの意味でそのことを書きたい。

 サーカス劇場「カラス」には血のにおいがなかった。
 直前に梅が丘BOXで、燐光群の「屋根裏」を見ていた。冒頭が劇的だった。
不定形な台形の「屋根裏」内部で二人の男が膝つき合わせている。二人ともこ
の「屋根裏」を最初に持っていた男の話をしている。「ずっとここから出てこ
なくなって、そのうちペットボトルにおしっこするようになって、においが外
まで漏れて。」「全部拭き取ったみたいだけどわかるんです、これ血のにおい
でしょう?」

 あざやかな台詞だ、が、アングラ演劇にかぎらず日本の表象文化は「血のに
おい」が大好きだ、とも同時に思う。「屋根裏」は、「屋根裏」の中で死んだ
弟と「屋根裏」を作った奴を探す兄が出会う話だった。兄弟という血縁関係、
ひきこもるのに最適な小さい空間、その空間のルーツをさがす筋立て、燐光群
のこの代表作は典型的な、血を辿る物語である。「屋根裏」が白っぽい木材の
箱だったのに対してサーカス劇場「カラス」はガード下が舞台だ。だが物語の
随所で大麻を想起させる「草のタバコ」を吸う場面があり、どぶ臭いどころか
場内の空気は甘い。探しているのはルーツではない。「友達」である。

 「カラス」は、大女ことカラスおばさんと、大切なものを失くした男が登場
する、友達を探し求める人達の物語である。町中のカラスに餌付けしているカ
ラスおばさんが、泥棒学校に入学しようとガード下に来た「カラス」というあ
だ名の女の子を、自分の待っていたカラスだと勘違いする。一方で、その女の
子が盗みのターゲットにしようとした男は、すでに大切なものを失くしており
、友達の情報が全部記録された「あれ」を失ったから俺は世界中の人間と友達
になれる、と言い放つと周りの人間を次々と「友達」にしてそれを口実に自分
への奉仕を要求する。

 男が失くした「あれ」は、「小さな画面で、きまった友達の名前だけが並ん
でいるもの」で、はっきりとケータイの暗示である。唯一無二のパートナーを
求める人達の気持ちを逆手にとって男はあらゆるもの、地位や仕事先や心まで
失わせる。また、カラスおばさんは、昔「真の友になろう」と言ってくれたカ
ラスを探すために東京中のカラスに餌をやってみんなから嫌われている。また
、「真の友」の化身である女の子が、他の人と友達になるのを許さない。男と
カラスおばさんの姿勢は、どちらも「友達」に対する態度としては異様で、実
際、相手や相手との関係を二人とも破壊する。それでもケータイを持たない男
は自由気ままに生きて幸せかと思いきや、ふと熱がさめて自信なさげになった
隙に「友達」の一人に殴り倒され、血まみれの体を壁になすりつけて「血のし
みが残っている間俺のことを忘れるな」と絶叫し壁の中に消える。

 「カラス」には血のにおいはなかった、ただ血を求める人達がいた、それが
不快だ。非常にリアリティがある。だから苦しい。劇評を書かない人はもっと
苦しいだろうと思う。

 もし、演劇について特に語らない人間だったら、アングラ的な見た目ばかり
をことさらに嘲笑するだろう。たとえばブログコミュニティやSNSがここま
で広まった社会の底では「未だにミクシィに誘われたことのない人」が押しつ
ぶされている。彼らが表に出てきたのが今回のサーカス劇場の舞台である。
「カラス」は甘い、人工的ないい香りだ、その中で今更のように血縁関係の代
替物を探している人達のことが私は怖い。雑誌やアニメのキャラのようにフラ
ットな、時々の気分で「いい匂い」を付け替える生活を「友達欲しい」の絶叫
は破壊するからだ。男やカラスおばさんの振る舞いは親をふり回す子どものよ
うだが、マイミク切られて逆上する人と考えれば珍しくない。ケータイなくし
て人間関係を一新したと思ったら誰からもおぼえておいてもらえない不安に襲
われる、男の顛末もリアルでグロテスクだ。苦しい。こうゆうネオ現代みたい
な舞台設定の話ってもっと軽やかになってもいいんじゃないか?

 バットを振り回して「金よこすか野球するか」と言う男が登場する。バット
男は日雇い労働者で一緒に野球をする友達がいない。友達になってやるからバ
ットよこせ、と脅された挙句そのバットで殴られるが、殴られた痛みだけを支
えにして友達のために働く。「働く」と言っても強盗だ、最初は日雇いの仕事
を捨てて友達と金銭を奪うために始めたバット男の強盗は友達のための労働に
されてしまう。

 ひょっとしてこれって21世紀トーキョーの社会派プロレタリア演劇なんじ
ゃないだろうか。泥棒学校は専門学校らしく、怪人二十面相三世以下ルパン、
五右衛門、ねずみ小僧は、名だたる血統の泥棒なのに、学校を潰されると職が
ない。そうだ、唐組でもテラヤマでもアングラでもいいけど荒唐無稽な物語の
持つ世界の広がりが「カラス」にはないんだ。見た目はたしかに小劇場演劇ブ
ームを髣髴とさせるけど、SF的な舞台設定なのに破天荒なエネルギーがない
。だって泥棒学校の人達ってさ、普通に稼業に励んでたらいきなり職場を引っ
かきまわされたあげく、なんか伝説の泥棒とやらが来て勝手に学校はつぶれち
ゃうし職はなくなっちゃうしで最後、傷ついて去ってくだけなんだよ。だけど
それだと幕が下りると同時に三十世紀トーキョーそのものも消えちゃう、そし
てルーツや血縁関係がない分そうしたものによりかかりたい欲望が後にべっと
り。

 作り手の問題意識を受けて砂噛むまでの余裕はないんだわ、なんでならわた
くしすでに心の内にカラスおばさんやらを抱えて、舞台そのままの現代社会で
「友達欲しい」と叫ばないように生きてるのですから。救済が欲しいわけでも
ない。人物が劇中の世界観や暗喩を盛り付ける器になってしまっている感じが
いやだ、だって言いたいこと言うために登場させた人物なら「友達欲しい」の
叫びなんてちょっと内向的なシュプレヒコールじゃん。「友達が欲しい!」
「そうだ、友達が欲しい!」みたいな。

 「カラス」は現代の病理を鋭く描いた作品だと思う。だけど、論文の材料に
なるために作っちゃあいねえべ。場面としては暗いけど、バット男が友達をバ
ットで殴り殺すシーンに個人的には一番浄化を感じた。ガードレールに金属バ
ットががっつんがっつんぶち当たって沈黙、「俺を逮捕してくれ。もう考えた
くないんだ」とバット男が呟いて泥棒たちに連行される場面、いや、本当にめ
ちゃめちゃ暗いです、救済の場面などではないのだけれど、血の跡を残して壁
の中に潜っちまった男よりも、暗い留置場に一人でいるだろうバット男のほう
にリアリティを感じる。彼となら「友達」になれるような気すらする、終演後
にも自分の物語を持つバット男は三〇世紀トーキョーを引きずって、「カラス
」の登場人物の中で唯一、暗喩以外の何かを持っているように見えるからだ。

 「友達が欲しい」叫びを私は知っている、その思いの中には人工的な匂いの
ものに対するアレルギー反応がある、しかし人工的な甘い匂いを「いいにおい
」だと感じながら生きているのもまた事実なのだ。うそ臭い人はきらいだが、
虚構の世界にくるまれないまま真実の叫びと向き合うのも苦痛なんである。

【筆者略歴】
小畑明日香(おばた・あすか)
 慶應義塾大文学部4年。中学時代からの脚本執筆や役者経験を経て現在に至
る。「中学校創作脚本集2」(晩成書房)「中学校のクラス劇」(青雲書房)
などに脚本収録。2007年10月Uフィールド+テアトルフォンテ『孤独な老婦人
に気をつけて−砂漠・愛・国境−』(マテイ・ヴィスニユック作)などに出演
も。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/index.php?catid=3&subcatid=18

【上演記録】
劇団サーカス劇場第16回公演「カラス」
http://circus.main.jp/
新宿・タイニイアリス(2009年3月5日-15日、3月12日24時〜レイトショー)

脚本:清末 浩平(劇団サーカス劇場)
演出:中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)

キャスト:
森澤 友一朗(劇団サーカス劇場)
浅倉 洋介(風琴工房)
熾田 リカ
尾崎 宇内
久米 靖馬(クロカミショウネン18)
佐丸 徹(vivit)
神保 良介
平野 剛督
水野 香苗(劇団唐ゼミ☆)
宮崎 敏行
八重柏 泰士
ワダ・タワー(クロカミショウネン18)

スタッフ:
脚本・劇中歌作曲 清末浩平(劇団サーカス劇場)
演出・音響 中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)
美術 大泉七奈子
照明デザイン・操作 須賀谷沙木子(clore)
照明操作 桜かおり
舞台監督 宮田公一(Y's factory)
宣伝美術 だり子(薔薇色乞食)
web 相澤知里
制作 清水建志
プロデューサー 森澤友一郎(劇団サーカス劇場)
チケット:一般前売3000円、一般当日3200円、学生前売2000円、学生当日2200円


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◇パラドックス定数「インテレクチュアル・マスターベーション」
 「わくわくした。以上」から踏み出して「一抹の淋しさ」を考える
 川口典成(演出、劇団地上3mm主宰)

 パラドックス定数は、私が上演を楽しみにしている、小劇場界では数少ない
劇団のひとつである。数年前に渋谷のスペースエッジという場所で上演された
、薬害に関する公開講座を扱った話を観劇して以降、ほぼすべての公演に足を
運んでいる。このパラドックス定数という劇団の演劇が、他の劇団の追随を許
さぬほどに舞台芸術として洗練されており、硬質な台詞によって役者の魅力を
最大限に引き出しているということは特筆すべきことであろう。毎度毎度、期
待しながら劇場に向かう。劇団員の役者を、また見たくなってしまう。そうい
うひとつの中毒である。この劇団の「レビュー」を執筆するに当たって、はじ
め、私は以下のようにこの文章を書き始めたのだった。

 舞台上の登場人物、役者が魅力的である。舞台上で交わされる会話に手に汗
にぎり、みずからの感覚が興奮しているのを感じる。
 舞台に集う人々は、真剣に語り合い、誠実に目の前の人間と戯れる。
 素舞台の劇場空間は、役者たちの発する言葉とその肉体によって満たされて
いく。
 
 目の前にいる役者に魅了され、ただ時間が過ぎていく。
 至福の演劇体験である。

 とはいえ、しかし、「書き始めた」というのは正確ではない。「レビュー」
といった形で、パラドックス定数についてある程度の客観性をもって書ける文
章は、以上のものが限界であった、ということなのだ。つまるところ、

 わくわくした。以上。

 しかし、これではレビューではない。エッセイですらない。しかしながら私
が書けることは、「わくわく」したということ以外にないのである。それ以外
のことを書いても、嘘だ。主人公であった大杉栄の人生についてまとめてみて
も、この演劇がどのような演技態で行われたのかについて言及してみても、仕
方がない。いや、そうではない。題材について、演技態について、そのような
事柄に考察の発端を求めることは、このパラドックス定数という劇団と私との
関係性を考える上では、あまり意味のないことなのだ。だから、「インテレク
チュアル・マスターベーション」という芝居を見たときに感じた「わくわく」
そのものについて書いてみたい。

 おそらく、一番はじめのシーンから書き始めるのがよいだろう。そこからす
でに「わくわく」したのである。なぜか。それは、この話が「友情」の話であ
る、と知ったからである。そしてその「友情」の在り方・描かれ方が、いわゆ
る定型の友情でありながら、定型のドラマツルギーが陥る、惰性としての友情
から遠く離れていたからである。つまり、「友情」といっても、それは喧嘩を
して仲直りして万歳。殴りあったら腹の底から語りあったら友情が深まった、
というようなことではない。もちろん、それらも含まれはする。が、ドラマツ
ルギーという形での友情ではない。

 舞台上にひとりの男が現れる。おもむろに屈伸運動を始める。そこに、もう
ひとりの男が現れる。これらの二人は体格が見るからに違う。屈伸運動をして
いる男を、もうひとりの男は眺める。そして、同じように屈伸を始める。体格
の違う二人が、である。屈伸を始めるのだが、まったく同じ動きをしているわ
けではない。むしろすこしずれている。しかし、ある関係性のなか、ずれてい
る。その身体感覚のなか、なにかを理解しあう。二人は微笑する。そして会話
を始める。

  「・・よう。」「おう。」

 もうこの時点で、この二言で「わくわく」なのである。そして「友情」の話
であり、「友情」の在り方が素晴らしく描かれることは間違いないと確信する
(ここでなぜ「確信」したのかについて書くべき言葉をいまは持たない。ひと
ついえば、この場面によってノスタルジックに「友情」に関する自分の思い出
を再確認したのではなく、むしろ自分の思い出の中にそれを発見させられたの
である。そうか、あれが友情だと)。

 この始まりで、舞台上での人間関係の肌理に触れさせられた自分は、観客と
して、あとはただ彼らの共同体の一員のような気分となり舞台上での出来事を
眺めれば良い。とても心地よく、とても素晴らしい人間たちがそこには描かれ
る。興奮する。「わくわく」する。

 「肌理」と書いたのであるが、まさに「肌理」なのである。
 かれら、登場人物たちの交わしている言葉に含まれる情感。それらが手に取
るようにわかる、ということである。ひとつの言葉、ひとつの行動、なにかし
らの癖、それらひとつひとつが持つ関係性の上での意味や思いが、触覚に訴え
てくる。

 明治の話である。政治の、共産党の話である。革命の話である。なぜわかる
のか。それは、この芝居のなかではそれらは、その話題自体の特殊な本質から
描かれはしないからである。明治について、あるいは明治の政治について知ら
ずとも、登場人物たちが議論している様が理解できればよい。ひとりがある事
柄について真剣に語る。あるものが反対する。その議論の在り方自体をひっく
り返すものがある。どの議論でも、今も、昔も、同じことだ。だから、登場人
物たちの関係性が理解できれば、ともに興奮できる。

 たとえば幸徳秋水と大杉栄の次のような会話。

 大杉 自我を持った奴らがいる。
 秋水 随分、飛んだね。縛る縛られるは何処いったんだ。
 大杉 自我は力だ。力のある奴が俺の周りには大勢いて全力で俺にぶつかっ
 て来てくれる。俺はそれを束縛と感じた。だけど同時に幸福も感じた。
 秋水 何故。
 大杉 ・・・。
 秋水 それは君にも自我があるからだ。

 大杉、奇声。秋水、笑う。

 あるいは、

 秋水 権力を持つと人間は腐る。高潔な魂を持った権力者なんて聞いたこと
 もない。ならば否定しろ。国家も天皇制も権力と名のつく物はすべて否定す
 ればいい。

 短い間。

 大杉 昔、本で読んだことがある。
 秋水 (大杉を見る)
 大杉 ミハエル・バクーニンの“アナキズム”だ。
 秋水 僕が読ませたんだよ?
 大杉 覚えてる。
 秋水 君にいちばん効くと思ってね。
 大杉 短い人生がますます短くなるぞ。
 秋水 その分もっと愉しくなるよ。

 二人、笑う。

 ここで話されている自我、バクーニンなどというキーワードについて深く知
っている必要はない。ここで求められるのは、幸徳秋水と大杉栄が師匠と弟子
の関係である、ということである。あとはリアクションの連鎖を楽しめば良い
。師匠の言葉に反論する弟子がいる。師匠がその反論をまったく別の視点から
問い返す。弟子は不愉快である。師匠がもうひとこと付け加えてやる。狂喜乱
舞する弟子。その弟子をからかいながらも、暖かく見守る師匠。……。そのさ
まを見て、目の前の人間がおこなっていることに、リアクションの連鎖に共鳴
し、同期し、「わくわく」する。ますます登場人物たちを好きになってゆく。
彼らの関係性の肌理にますます触れたように思い、また触れたく願う。「わく
わく」。

 これが、パラドックス定数の「インテレクチュアル・マスターベーション」
という作品の「わくわく」感であった。単純に書ける。登場人物とともに笑い
、ともに泣き、ともに喜び、ともに苦しみ、……、そうして生きていることを
実感する。充実した人生の断片を生きられる。そういうことだ。そうして最初
の感想に行き着く。−わくわくした。以上。

 だが、もう少し、続けてみよう。「わくわく」しながら劇場をあとにした私
は、実のところ、一抹の淋しさを感じていたのだ。頭のなかには、いまだに登
場人物たちの声や表情があらゆる情感を伴って響いている。まだまだ彼らに触
れていたかった。「ああいう風に生きられたら」などと思ってしまう始末であ
る。それほど素晴らしい上演であったのだ。にも関わらず(だからこそ、かも
しれないが)、ある淋しさを感じていたのだ。祭りのあとに誰もが感じる、空
虚感というものであろうか。いや、どうも、違う。この違和感の由来を捕まえ
てみることにする。

 その淋しさは何に似ているだろうか。浮かんできた言葉は、「仲間はずれ」
ということであった。幸徳や大杉たちはあの舞台の上で、彼らのプレイグラウ
ンドで、いまも、ともに笑い、ともに泣き、ともに喜び、ともに苦しみ、充実
した人生を続けているのに、そしてさきほどまで私もそこで、彼らとともに人
生を送っていたはずなのに、ぽんっと「仲間はずれ」にされてしまった。そう
いう感じである。

 彼らにもう会えないからなのか。そうではない。彼らと私との間に確かにあ
ったはずの、繋がりが分からなくなってしまったのである。彼らが議論してい
るさまは、私の現実とも関係があったはずだ。ならば、それを抱えて生きてい
けるはずだ。それなのに、舞台上の葛藤は、ただ舞台上のものだ、という印象
が拭えない。なぜか。それはおそらく、登場人物たちが、やけに「仲がいい」
からなのである。「仲がいい」とはどういうことか。もちろん、「友情」の話
であったと述べてきた以上、「仲がいい」のは当たり前の話である。だけれど
も、全てがわかりあった人間同士、あるいは分かり合ったと思っている人間同
士の間に生まれるのは、ある人間とある人間の「友情」ではなく、ただ密着し
た人間への「自己愛」なのではないか。どうにも自分と通約不可能な他者の他
者たる部分(うまくいえないが、「他者そのものの冥さ」とでもいおうか)が
欠けているのではないか。だからあの舞台上に、現実を生きている「私」が介
入する場所がないのではないか。その「仲のよさ」の持つ排他性が役者のうま
さによって、絶妙に隠されていたのではないか。

(ただしこのような舞台の排他的に自足した「完結」性は、近年の演劇界に共
通した傾向として考えられるべきことかも知れない。参考までに、今年度の岸
田戯曲賞での野田秀樹氏による選評を引用しておきたい。「そこで書かれてい
るものは、その作品に登場する人間たちの間だけの人間関係である。/外側と
言うものがない。(略)/これは、人間関係という芝居の根幹のようなものを
書いていながら、実は、その関係を作っている共同体と言うものに無関心であ
るからだ。無関心でない場合は、その共同体の造型がただの借り物であったり
するからだ。」以上。下線は引用者による。また、この野田による選評は候補
作すべてに言及した部分である。)

 立ち止まって考えよう。
「舞台に集う人々は、真剣に語り合い、誠実に目の前の人間と戯れる」。それ
が私の舞台を見た印象である。彼らは交流をしていて、その「真剣」「誠実」
な交流のさまに興奮したのだ。しかしながら、「真剣に」「誠実に」とはどう
いうことだったのか。その言葉のまやかしに騙されていたのではないか。彼ら
は、また、それに同調した観客としての私も、「真剣に」「誠実に」生きるこ
とは素晴らしい、というクリシェに嵌まり込んでいただけではないか。全身で
生きている、という自己満足の交流に過ぎなかったのでは。実のところ、舞台
上の登場人物たちの葛藤は、用意された葛藤に過ぎないのではないだろうか。

 しかし、肝心なことを忘れていた。この作品のタイトルは「インテレクチュ
アル・マスターベーション」である。「知的なオナニー」あるいは「知性の自
己満足」とでもいえようか。このタイトルはとても重要だ。だとすると、彼ら
の生き様が「自己満足の交流でしかなかったのでは」「同じ人間の脳内対話な
のでは」という疑問は、題名どおり「インテレクチュアル・マスターベーショ
ン」であったということで納得がいく。しかし、この作品の意図するところは
そうではないはずだ。この上演にはひとつの答えが用意されていたはずだと思
う。

 大杉栄は師匠を失い、ひとり残される。ラストシーンだ。

  東京の空の下、一人、大杉栄が立っている。

 大杉 俺は、大杉栄だ。
    今までずっとあんたという牢獄の中にいた。
    俺はようやく自由になった。
    そして、一人の無政府主義者として今ここに立っている。
    とてつもなく空が広いと感じている。
    (略)
    この悲しみも絶望も、間違いなく全て俺のものだ。
    俺は結局俺自身からは自由になれないという事か。
    自分以外の何者にもなれないという、こんなにも素晴らしい不幸があ
    るか。
    (略)
    反逆と自由を掲げたこの俺が、革命家、大杉栄だ。

 真の「自我」を勝ち取るためには、それまでの「交流」から突き放される必
要があったのだ。それが師匠幸徳秋水の死という形でもたらされた。それ以前
、「インテレクチュアル・マスターベーション」としての「交流(真剣に話す
こと)」には、絶望的な「孤独」はなく、真の「自我」もない。だからそれら
は、まやかしの「真剣」でしかない。そのまやかしの「真剣」、つまり「イン
テレクチュアル・マスターベーション」を超え出でるものが、「東京の空の下
、一人」立っている大杉栄には圧し掛かっているはずだ。師匠を失ったという
、この世から人間がいなくなるという、絶望的な孤独とともに。それでも強靭
に「自我」を持って生きることを決意する。そういったシーンであるべきでは
ないのか。しかしながら、上演としてのラストシーンの大杉栄には、いままで
の、まやかしともいえる幸福、あるいは、自閉した関係性における幸福(イン
テレクチュアル・マスターベーション)を打ち破るような強烈さは感じられな
かった。

 観客は、舞台上の役者をネタに、物語をネタに、あるいは題材である明治期
の思想家をネタにオナニーをし、自己満足を得る。その満足を超え出でるとこ
ろを、「インテレクチュアル・マスターベーション」の先を、きちんと落とし
前をつけて欲しかった。そう、上演を「わくわく」しながら観て、一抹の「淋
しさ」を感じた私は思うのだ。

 パラドックス定数は「個人と社会の相克」をテーマに掲げている。その言葉
通り、「個人と社会の相克」に晒されている人物を登場させ、役者をとても魅
力的に舞台上に立たせている。だが、これはともすれば、役者を魅力的に見せ
るために、役者の苦渋している様をかっこ良く描くために、借り物の道具とし
て「個人と社会の相克」を用いている、ということになりかねない。「個人と
社会の相克」というドラマを利用して、上演を魅力的にするというのは、「個
人と社会の相克」を描いたということにはならないであろう。結局それは、
「個人と社会の相克」というドラマであり、「相克」という葛藤そのものでは
ない。私が「インテレクチュアル・マスターベーション」という作品を観たあ
とに感じた一抹の淋しさは、このことに漠然と気づいてしまったことによって
もたらされたのだろう。「個人」と「社会」の間に引き裂かれ、またそこに留
まるしかないその様を(ときにはありきたりなドラマツルギーを足場にしなが
らも、それを踏み越えて)描くことが、「個人と社会の相克」をテーマにする
、ということであろう。またそのときにこそ、ドラマツルギーに埋没しない、
あるいは、ドラマツルギーという足場に踏みとどまるしかない役者という存在
の魅力そのものが十全に発揮されるのかもしれない。パラドックス定数という
劇団にこそそのような舞台を上演して欲しいと、心から思う。

【筆者略歴】
川口典成(かわぐち・のりしげ)
 1984年、広島県に生まれる。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業。
同大学院宗教学宗教史学修士課程に在籍。劇団地上3mm主宰。脚本・演出を兼
業していたが、現在は演出に専念。これまでに安部公房『砂の女』を始め、小
説の舞台化を行う。2009年三月には『ファウスト第一部』を上演した。

【上演記録】
パラドックス定数第18項『インテレクチュアル・マスターベーション』
http://www.pdx-c.com/tokusetu/18/18.html
http://www.pdx-c.com/html/past_p_inte.html
下北沢・シアター711(3月27日-4月1日)

作・演出:野木萌葱
出演
 幸徳秋水:今里真
 堺 利彦:小野ゆたか
 木下尚江:西原誠吾
 山川 均:十枝大介
 大杉 栄:井内勇希
 荒畑寒村:山ノ井史
 内山愚童:植村宏司
スタッフ
 照明:伊東泰行
 舞台監督:金安浚平
 衣裳:渡辺まり
 写真:渡辺竜太
 販促:副島千尋
 制作補:たけいけいこ
 制作統括:赤沼かがみ(G-up)
 企画製作:パラドックス定数研究所

前売2800円・当日3000円※3月31日(火)PM3:00平日マチネのみ前売・当日共2500円
日時指定・全席自由


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 連載【レクチャー三昧】第35回 ばらけ過ぎ?

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 本来「ワンダーランド」は小劇場レビューサイト/マガジンなのですから、
それに連載させていただいている【レクチャー三昧】も、舞台関連情報に絞る
べきなのでしょうが、この、良く言えば間口の広さ、ありていに言えば節操の
無さは、我ながらちょっと目に余る気もいたします。さらっとお目通しいただ
いて、引っかかるものを感じたらウェブサイトをチェックされますよう、各自
ご判断いただきますようよろしくお願いいたします。(高橋楓)

*無料でも予約が必要なことがございます。必ずウェブサイトでご確認下さい
。
*各情報の真偽・変更・取消・思想信条背景等につき一切の責任を負いません
。各自ご確認の上お越しください。
*【レクチャー三昧】カレンダー版(ウェブサイト)もご活用下さい。
http://www.wonderlands.jp/info/lectures.html

▽ひとり芝居『天の魚』2009年公演
(石牟礼道子『苦海浄土わが水俣病』原作 )
2009年5月13日(水)〜15日(金)18時〜20時30分(17時30分開場)
休憩10分、アフター・トーク60分予定
東京大学駒場キャンパス  
無料、カンパの可能性有
主演は川島宏知氏
各回アフタートーク有:
▽▽5月13日(水)テーマ『苦海浄土』と東京大学二つの“1969
加藤登紀子(歌手)氏、最首悟 (元東京大学教養学部助手)氏
▽▽5月14日(木)テーマ“1969”から考え継ぐ 
立岩真也氏(社会学者)、鬼頭秀一氏(環境倫理学/科学技術社会論)
▽▽5月15日(金)テーマ石牟礼道子文学と群島-世界論  
福龍太(文化人類学者)氏、星埜守之(仏文学者)氏
http://www.geocities.jp/saishjuku/
*この催し情報は「ワンダーランド」読者の方から頂戴いたしました。
どうもありがとうございました。

▽公開トーク <OM−2のこれまでの活動を踏まえて
2009年5月8日(金)19:30-
日暮里d−倉庫
無料
講師は西堂行人氏(演劇評論家)、真壁茂夫氏(演出家)
http://www.geocities.jp/azabubu/membernews_j_no2.html

▽シェイクスピア祭2009
何がすごいの?シェイクスピア−舞台演出の現場から
2009年4月21日(火)14:45〜16:15 (14:15開場予定)
早稲田大学早稲田キャンパス6号館3階318室
無料、予約不要、先着80名
講師は三輪えり花氏(演出家・俳優・翻訳家・脚本家)
http://www.waseda.jp/enpaku/event/index.html#20070421

▽映されたパフォーマンスする身体―60-70年代のダンスと美術
2009年5月23日(土) 14:00〜15:30
東京国立近代美術館講堂(地下1階)
無料、申込不要、先着150名
講師は木村覚氏(日本女子大学専任講師)
展覧会「ヴィデオを待ちながら−映像、60年代から今日へ」関連企画
他にも講演あり、ウェブサイトをご覧下さい
http://www.momat.go.jp/Honkan/waiting_for_video/index.html#lecture

▽映像からみえる科学技術
2009年4月18日(土)13:30〜16:30 
科学技術館サイエンスホール
無料、要申込、定員400名
文部科学省主催
http://stw.mext.go.jp/090316/

▽上野の博物館・美術館建築について
 2009年5月10日(日)13:30〜15:00(開場13:00) 
東京国立博物館平成館大講堂  
無料(ただし入館料要)、申込不要、定員380名(当日先着順) 
上野の山のさまざまな近代建築について建築史上の意義や見どころを紹介
講師は藤森照信氏(東京大学生産技術研究所教授)
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=C01&processId=00&event_id=6282

▽画家 ドゥニ・ポルジュとの出会い
 2009年04月22日(水) 19時00分 
東京日仏学院エスパス・イマージュ 
フランス語(日本語同時通訳付)
無料
http://www.institut.jp/agenda/evenement.php?evt_id=1332

▽愛の妖精 - La petite Fadette 
 2009年5月26日(火)18:00 (17:30開場) 
日仏会館ホール
1,000円、定員120名
ジョルジュ・サンド代表作『愛の妖精』の映像作品上映と講演
http://www.mfjtokyo.or.jp/event/00264/detail.html

▽ジャーナリズムの世界
2009年4月15日〜7月22日毎週水曜日13時00分〜14時30分
明治大学駿河台校舎リバティタワー
無料、申込不要
講師は栗原猛氏(明治大学政治経済学部特別招聘教授、元共同通信社政治部次長・編集委員・客員論説委員)
http://www.meiji.ac.jp/seikei/infomation/journalism-zenki.html

▽『闘争のアサンブレア』をめぐって 
2009年5月16日(土)18:30〜
ジュンク堂書店新宿店8階喫茶
1,000円(1ドリンクつき)、電話予約可、定員50名
講師は廣瀬 純氏、青山真治氏
http://www.junkudo.co.jp/event2.html

▽環境音楽デザインの展望
2009年6月5日(金)18時00分〜20時00分 
東京工学大学大岡山キャンパス西9号館3FW932講義室
無料、申込不要
講師は佐野清彦氏
http://www.cswc.jp/lecture/lecture.php?id=68

▽21世紀の国家とアイデンティティ2009−政治と思想のゆくえ
2009年6月12日(金)17:30開場/18:00開演〜19:30
津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス津田ホール
無料、申込不要、定員400名(先着順) 
講師は姜尚中氏(東京大学大学院教授)、ダグラス・ラミス氏(政治学者)
http://www.tsuda.ac.jp/ja/news/eibun002.html

▽2009年度津田塾大学創立110周年記念連続講演会
2009年4月18日(土)〜2010年1月 9日(土)13:30〜15:00
津田塾大学小平キャンパス
無料、申込不要、当日守衛所で氏名を記入
日本語とジェンダーを再考 ─「おねえキャラ」は「どんだけ〜」流行るのか等
他講演はウェブサイトで
http://kouhou.tsuda.ac.jp/anniv110/outline/news006.html

▽政策と文化の融合
2009年4月15日(水)〜7月29日(水) 18:10〜19:40
中央大学多摩キャンパス11号館 4階 11400号室
要各回申込
複言語主義のゆくえ、大正・昭和期におけるヨーロッパ文化の移入等
他講演はウェブサイトで
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/event/event_j.html?suffix=k&visit=12&mode=vst&topics=8610

▽映画あるいは「類似の罠」完結編 
2009年6月29日(月)18:30〜
アテネ・フランセ文化センター
1,000円、先着順
講師は蓮實重彦氏(映画批評家)
http://www.athenee.net/culturalcenter/program/h/h.html

▽理学の最高峰
 2009年4月26日(日)14:00〜16:30(13:00開場)
東京大学本郷キャンパス安田講堂
無料、申込不要、定員700名(当日先着順)
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/event/public-lecture15/


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【編集日誌】
☆今週は劇団サーカス劇場「カラス」公演評が2本そろいました。これまでの
サーカス劇場作品に「抒情」を見た上で、今回の舞台が「抒情」の持つプロテ
スト性を希薄化したのではないかと危ぶむ芦沢評、文字通り舞台に発散する
「甘いにおい」をキーワードに分析した小畑評、それぞれの道をたどりつつ公
演に迫っています。
☆パラドックス定数「インテレクチュアル・マスターベーション」を取り上げ
た川口さんはワンダーランド初登場です。「わくわく」感にゾクゾクしながら
、その先に進もうとする触手に期待大です。偶然ですが、サーカス劇場の次回
公演(6月)を演出するのが川口さん。興味深い取り合わせですね。
☆劇評を書くセミナー「座・高円寺」留学コース(全8回)を5月からはじめま
す。宣伝のためあちこちの劇場でチラシの折り込みに励んでいます。腰痛にお
びえながら、顔見知りと軽口を叩きながらの作業がしばらく続きそうです。
セミナーの詳細は次のページをご覧ください。読者の参加を歓迎します。
http://www.wonderlands.jp/info/seminar09the.kohenji1.html
(北嶋)
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