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身体は結局のところ人の最後の拠り所なのかもしれない。Fugitive Gesturesでは基本的に現在、日本で上演されているダンス・演劇含めた身体パフォーマンスの批評を隔週でお送りします。

  • 周期 隔週刊
  • 最新号 2007/04/26
  • 発行部数 32
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2007/04/26

Fugitive Gestures 010, とりあえず、舞台へ


4/21(土)14:30、18:30開演 at 楽道庵 
By 坂本知子、平松歌奈子、光永龍太郎


少し前に、読売新聞で「書を持ち街へ出よ」というなかなか面白い連載をやっていた。
かなり大まかに言えば、「書を捨て」て、街へ出るのではなく、知を持ちつつも、持ったまま、外界へ出てみよう、という趣旨のもの。
かつては、実社会からある意味断絶され「象牙の塔」と呼ばれた学問の場としての大学から、その知識を企業で活用し、実社会に役立てていく。
そのような動きや人を特集したものだ。
書を携えて街へ出よう。うん、確かに、と思う。

この記事を読んだ時に舞台のことがふと頭に浮かび、この言葉を踊りや演劇などの舞台芸術に当て嵌めてみようとして、なかなか上手くいかないことに気付いた。
何故なら、舞台の場合は、書を持つ・持たないは置いておいて、まず何よりも「そこへ行く」ことが前提となるからだ。
「とりあえず舞台へ出かけよう」、とか、「とりあえず、劇場へ入ってみよう」。
ごく当然のことなのだが、そうとしかならない気がしてしまう。
観る人の身体を舞台なりスタジオなり路上なり、何かが上演される場に運ぶこと。まずそこから始まる。
つまり、“とりあえず”でも何でも、その場に行ってみなければわからない、ということだ。
「わからない」というのは、その場に行った人でないと内容を理解出来るわけがないという意味ではない。
それよりも、その場に行かないと、何が起こるかは演じ手も観る者も、誰も分からない、ということ。
そういう意味で、やはり、“とりあえず”は踊りには外せないのかもしれない。
とにかく「その場に行って見る」。
そのことが瞬間芸術において如何に大切か、ということを、今回の3人のパフォーマンスは改めて、思い出させてくれたように思う。


昼、夜の2回公演で、30分前会場。
神田にある「楽道庵」という名の建物に入り、二階へ上がる。すると既に3人が体を動かしたり、調整したりしている。
やがて音楽担当の光永の、所謂「開演にあたって」のアナウンスがあって、自然に作品に移行してゆく。
踊りは坂本と平松のデュオ、平松ソロ、坂本ソロ、デュオ、一瞬光永も入るトリオ、そして再びダンサー二人のデュオ、という構成になっている。
最初のデュオでは、二人とも仰向けになって、壁を両足で押す。すると水平に飛ぶロケットのような感じで、身体が床の上を滑りながら平行移動する。
二人でそれを繰り返すことで、二人の位置と、その身体によって出来る空間が変化してゆく。

そのうちに、坂本が暗がりへ消えてゆき、平松のソロになる。直線的だがのびのびとした彼女の身体は次第に展開してゆき、周りの空気を動かしてゆく。
そもそも尺八奏者であるこの会場、楽道庵のオーナーが、邦楽演奏のために建てたと言う建物は、天井の木の組み方や柱から、昔ながらの日本建築といった感がある。
西洋音楽のための建造物ように音を反響したりしないような造りになっている、とオーナーは話していた。
その丸い柱を平松はぐらぐら揺らしたり、後の他の場面では、四角の柱を重く、平手打ちしたりする。
個人的には平松の踊りを何度か見たことがあるが、そのような平松は珍しく感じられた。
揺らされているのが柱なのではなく、彼女自身という印象を受けたためだろう。
ちょっと停滞気味な地点から、自分を揺さぶっていこうようにも見え、その度合いが今までの彼女と比べると目新しく映ったのかも知れない。

平松の後に続く坂本のソロで、坂本は「歩いて飛びたかった」、と終演後のポストトークで話していた。
そんな彼女は観客に背を向けて、スキーのジャンプの滑走のように深く前傾して、前に行ききったと思う瞬間後方へ跳び、両手を広げて空を仰ぐ。
それをひたすら繰り返した。
そんな風に上を見上げる彼女の見る景色は、どんなにか心地の良いものなのだろうか。彼女の背中を眺めるに、そう感じられた。

その後のデュオは主にコンタクトやリフトで、お互いの身体の重みを使って、支えあい、押し合い圧し合い、動いていく。
この後半のデュオは、それまでの時間の経過もあって、よく展開していたと思う。
そのうち二人は「あっち向いてホイ」を始め、空間と自分と相手の身体のフォルムと、戯れる。
そのうち音楽の光永も現れて、光永を中央にした三人のユニゾンもあり、非常に愉快なトリオだった。
光永が音楽に戻った後の最後のデュオは、若干もたついた印象を受けなくもなかった。
だが、基本的には前に出てきた振りの繰り返しや変形であるため、作品としての締まりはあったと思う。


ポストトークで光永は“似ているようで違う”二人のダンサーを表して、左右の手の表と裏を交互に並べて見せた。
その2人のダンサーの質感の相似と相違は、観客側にも“見えて”きた。
同じような振りをしつつもやはり両者違って、けれども愚直な程に自分の求めるものを追い続けるかのような姿勢は両者に共通しているよう。
その質感の相反は見えたと思う。

そして何よりも良かったのはやはり音楽が録音でなく、その場のその空気の中で、ダンサー達の息遣いを感じて奏でられた音楽だったこと。
そして、三者がそれぞれのものを持ち寄って出来た作品であったことだ。
同じくポストトークで、作品をつくる過程の話が出た。
それに依ればこの作品は例えば、最初に何かコレ、というコンセプトがあったのではないという。
光永が用意した一曲のデモテープを基に、各々がイメージを膨らませて、単独作業と共同作業を重ねて出来上がった作品らしい。
ある意味、その光永の曲が、作品の音のテクストだったとも言えるだろう。
ともあれ、三人が共に時間と空間を共有し、各々のものを合わせて新たなものを作る。
それが本人たちの臨んだことの一つであり、それは今回、この楽道庵において、非常に上手く機能していたと思う。

このような共同作業、所謂コラボレーションというのは、最近盛んに行われているが、簡単なようで、実は意外と難しい。
それは単なる寄せ集めではなく、融合させて新たに創作してゆくわけで、個と個の対立もあれば擦れ違いもあるだろうし、時には安易な迎合もあるかもしれない。
今回の作品がどこまで、個と個を凌ぎ合わせて出来たものかは分からない。
だが、とにかく相乗効果は生んでいたと思うし、何より、三人の三人による時間と空間を創り上げていたと思う。

だからこそ、この楽道庵のトリオは「そこへ行って見る」ことの重要性を思い出させてくれたように思う。
私自身はしばらく忘れていたその大切さと感覚を、ふっと思い出したように皮膚に直に感じた。
だから、とりあえず、舞台へ行こう、劇場へ行こう。何が起こるかは分からないが何か起こるかも知れない場所へ行こう。そう思う。
近所のツタヤでDVDを借りて家でゆっくり鑑賞する。それもいい。それも日常とはちょっと違った豊かな時間を過ごせるだろう。
だが、往復1・2時間の道のりをわざわざ「その場」へ出掛けてみる。
と、ツタヤのそれとはまたちょっと別の、豊かな空気感に触れられるかもしれない。
自分の身も「その場」に持って行くことで、その場の空気を吸い、そこで起こることを肌で感じ、共にいるからだたちと出来事を共有する。
時間も労もちょっとかかるかもしれないけれど、それも悪くないな、と思う。
とりあえず、街へ出て行く、必要はありそうだ。


4月21日 @楽道庵


「個の凌ぎ合い」や作品における個の役割については、まだ不十分なため、次回も引き続いて扱いたいと思います。

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