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2009/08/02

『スピリチュアル文献を翻訳』第38号

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 スピリチュアル文献を翻訳
 2009年8月2日第38号 発行部数:111部
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 ZBです。『スピリチュアル文献を翻訳』第38号をお送りします。モー
リス・ニコル著『心理学的注解』より、『エニアグラム』をご紹介してい
ます。今回は『エニアグラム6』です。文中にある『ワーク』とは、グル
ジェフ・ワークのことです。


      1944年3月11日  バードリップ

          エニアグラム
            6

 エニアグラムのポイント6で与えられるショックについて引き続きお話
ししよう。これは一般的には自己想起と呼ばれる第一の意識的ショックで
あり、人間の中では機械的には生じないものであるということを簡単に振
り返ろう。このようなことを繰り返すのはそれを把握することがそれほど
大切だからである。秘教的な心理学の全体的考えが西洋の心理学と大きく
違うのは、人間に意識があると見なしていないということにある。秘教的
な心理学は人間を全てはただ起こるだけで、自分には意識があると想像し、
意志を持っていると想像し、不変の自我を持っていると想像し、為すこと
ができると想像している眠りの状態にあると見なしている。秘教的な心理
学の教えによると、これらは全て幻想であり、人間は自分が持っていない
ものを自分のものであると見なしている。このような属性を身につけ始め
る最初の段階は、様々な角度からそれについてお話ししているポイント6
のショックに属している。ショックとはただ突然の不快な体験だと考えて
いる人々もいる。確かにショックにはそのようなものもあるが、しばしば
それは非常に有益となる。しかしポイント6でのショックについてはもっ
と広い概念が必要である。ものの見方の全面的な変化、マインドの全面的
な変化が起こるのはここなのである。我々は物事が我々が思っているよう
なものではないということを実際に理解しなければならない。我々も他人
も眠っており、為すことができず、真の意志を持たず、本当の不変の自我
も持っていないこと等を実際に理解しなければならない。このようなこと
を実感するのは、それが徐々にであれ、突然であれ、一つのショックであ
る。我々の機械性を実感することが自己想起の一つの定義であると以前に
述べたことを覚えておられるであろう。我々が為すのではなくそれが為す
のであるということを実感したとき、我々はある種の自己想起を味わって
いるのである。しかしどんな形であれ、自己を自己から分離することがで
きなければ、自分の機械性を実感するということがどういうことであるか
を把握することはできないということを理解されるであろう。あなたは全
てのものを「私」と呼ぶが、これは我々が自己と他者に対して犯す最大の
過失の一つである。我々は実際は多数なのであるが、我々は自己を一つで
あると見なし、他人に対してあたかも自分は一つであるかのように振舞っ
ている。無批判に、そして誠実にかなりの期間に渡って自己を観察すれば、
自分がどれほど機械的であるかに気付き始め、「これをしているのは私だ」
とはほとんど言えず、「これをしているのはそれだ」としか言えないこと
に気付き始めるであろう。そしてあなたはそれに同意し、そしていわばそ
れを「私」と呼んでいることに気付くであろう。けれどもこれは意識的な
プロセスではなく、全てのことに問題がないと思わせる背後で進行する自
己正当化の一種であり、そのために全ては「私」のなせる術であると信じ
るのである。例えば、あなたの中では内的なおしゃべりが続いている。そ
うしているのはあなたであるかのようにそれは続いている。実はあなたに
話しかけているこの複数の「私」があなたの名前でそうしているか、ある
いはむしろあなたはそれらがあなたであると信じているのである。その時
まったく突然、より意識的な「私」、ワークの「私」があなたに話しかけ
るかも知れない。「なぜあなたはワークの中にいないのか」と。そして全
てが完全に変化し、おしゃべりは完全にやみ、それをしている複数の「私」
は皆逃げ去って隠れてしまう。

 いつも自分自身のやり方で行くか自分自身のやり方で試すならば、ポイ
ント6でのショックを自己に与えることはできない。いつも自分自身のや
り方で行くということは眠りの中にとどまるということであり、機械的で
あり続けるというであり、機械にとどまることである。自分自身のやり方
を持っていて、ものごとがスムーズに行くのであれば、あなたは自己に反
抗せず、意識的でもない。二つのものがクロスするとき、我々は意識のわ
ずかな瞬間を得る。我々は一瞬間、わずかだけ目覚める。人生に反抗して
ワークを課することがなければ、大きな意味でのクロスを持つことはない
であろう。なぜならば、ワークと人生とでは方向が違っているからである。
このクロスは人生の中で行き来する、自分自身のやり方で処理する小さな
クロスとは比較にならない、全く違う種類のクロスである。一旦それが形
成され始めるとそれは消え去ることなく、いつでも感じ取られる。あなた
は自分のやり方を持つことができないことを知っている。あるときには明
瞭に、またあるときには不明瞭にではあるが、あなたはいつでもそれを知っ
ている。ものごとが容易であるように思われるなら、自分を偽ってこれが
望んでいるものであると想像することはできないことをあなたは知ってい
る。ワークのリアリティーが人生のリアリティーよりも大きなものになる。
人生においてものごとが容易となり、しばし人生と仲良くし始めても、そ
れは背後のワークの存在をしめ出すことはない。人生は安楽を与えること
ができ、ワークも安楽を与えることができるが、両者はその味わいが異なっ
ている。全くこれはこのショックをいかに与えるかを知り始める前に、眠
りと目覚めの間の違いを内的味わいによって知らなければならないという
意味で、第一の意識的ショックとの関連で述べたことと関わっている。

 もし人生と同一化すれば、あなたは人生の中にいるということをあなた
は理解している。あなたは影響Aだけに反応している。あなたは人生が与
えるあらゆる感情の中にいる。あなたはあらゆる不安の中にいる。その時
あなたはワークからはるか遠くにいる。ワークは夢であるかのように見え
るであろう。あなたはポイント6でのショックを自己に与えることからは
るかに遠ざかるであろう。あなたは人生を再解釈し、ワークに照らしてそ
れを見なければならないことを理解している。しかしあなたが人生の複数
の「私」の中に完全にあり、人生の心配、不安、摩擦、野心に完全に埋没
している限り、どうして人生を違って解釈することが期待できるであろう
か。ワークの複数の「私」だけがこれをすることができる。人生の複数の
「私」は人生という一つの言語だけしか知らないが、ワークの複数の「私」
は人生とワークの二つの言語を知っている。そうでなければ我々にとって
有機的生命の機械に奉仕する以外に希望があるであろうか。自己と異なる
ものが自分の中になければ、どうして自己を自己から分離することができ
るであろうか。自分が一つであると考えているなら、どうして自己を自己
から分離することができるであろうか。ここにポイント6でのショックと
いうもう一つの局面が入り込む。それは困難なときにはワークの複数の
「私」にいつも主要な評価を与えようとすることである。どのような状況
においてもワークの述べていることに従うようにしなくてはならない。ど
のようにしたらワークの仕方で行動することになるかを考え、それをして
いる自己を知覚し、視覚化し、それに従おうとしなければならない。もち
ろん、そうするためにはワークとそれが教えていることを想起しなければ
ならないであろう。そういうわけでワークを知り、実際に研究し、実際に
その教えを理解する努力をし、生き生きとマインドにとどめ、新たな関連
を見出すことが大切なのである。

 さて、自分自身の機械性を認識するものとしての自己想起の初歩段階の
定義を振り返ってみたい。ある決まった話し方をしている自己に気付いた
とき、我々は一枚か二枚のレコード盤にも例えられる態度で話しをしてい
るということを実感する。一旦そのような考えを提示されれば、他人の中
にレコード盤を見ることはさほど難しいことではない。自己のレコード盤
を見、その働きを捉えることは、もっとずっと難しい。ある味わいによっ
て、そしてまた力の喪失という内的フィーリングによって後になってから
それを認識することができる。機械的に考えるか、機械的に感じるときは
いつでも我々は力を喪失する。外に向かって話す言葉で表現されるものと、
内に自分の内部で流れているものの両方の決まったレコード盤に気付いた
とき、自己の機械性とは何かについて理解し始める。もちろん、もし正当
化するのであれば、すなわちもしあなたが話しているときに外的、内的に
話すための十分な何らかの理由を見出すのであれば、そのようなことはで
きない。自分が同じことを何度も何度も話しているのを発見したとすれば、
それは機械的だということである。この種の機械性に気付いたとき、自己
についての幻想は破壊され始める。あえて説明するつもりはないが、自己
についてワークすれば、誰もがくぐり抜ける、誰もがある段階で出会わざ
るを得ない体験である、非常に興味深い闘いが起こる。ポイント6での
ショックが実際に与えられる前に、自己についてのこの幻想が破壊されな
ければならない。いつも持っているような自己についての幻想に満たされ
ているときにこのショックを与えようとすれば、より意識的になるどころ
か、逆にますます眠り込むようになる。我々は自分の位置を認識しなけれ
ばならない。ロープと絶壁の話を覚えているであろうか。人はそのどちら
にも全く気付いていない。絶壁を見て、それから自分の本当の位置を認識
し、それから頭上のロープを見るのである。どういう意味か、理解できた
であろうか。人間は危険に遭遇するまではロープを欲しがりはしない。全
てに問題はないという幻想に浸っている限り、危険に気付くことはない。
同様に自己についての幻想に浸っている人、まだあばかれていない何かに
浸っている人は、自己想起の正しい努力をしない。何故なら絶壁もロープ
も彼には見えないからである。

 さて、ロープとはワークである。ロープはちょうど我々の上にある、よ
り高次のレベルの秘教である。秘教の治癒の影響が我々に届くのは意識の
第三の状態においてであって、第二の状態においてではない。第一の意識
的ショックは第三の状態に属する意識、気付き、光に我々を引き上げる。

 さて、自分の機械性を認識することは自己想起の一形態であると言われ
ている理由を理解していただけたであろう。それは我々が陥っている危険
に気付き始めることを意味する。何故なら我々が自己の中で当然のことと
思っているものは幻想であり、我々は存在していないということを見始め
るからである。そして一旦、自己についてのこの幻想が破壊され始めると、
ワークの影響があなたに達しているばかりか、あなたに教えているのを感
じることが可能となり始める。しかしながら自己の現在のパターンが正し
いと信じていれば、当然ながら自己についてワークすることは難しい。何
故ならそうすべき個人的な理由がないからである。不足がないと感じてい
るのなら、どうしてワークすることができようか。何も失っていないと感
じているのなら、どうして捜すことができようか。すでに知っていると感
じているのなら、どうして教わることができようか。自己に基本的に満足
しているのなら、どうして自己を変えることができようか。


『エニアグラム6』終了


 以上の翻訳は Gurdjieff Society のワークとして、ZBが行なったもの
です。

 誤訳等、お気付きの点がありましたら、メールにてお知らせください。

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