カウンセリングと東洋思想  RSSを登録する

カール・ロジャースのカウンセリングと東洋思想を比較してみます。似ている面もあり、でも同じには論じられない面もある。こころや人間存在に対する考え方の東西比較をお楽しみください。

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2011/11/30

カウンセリングと東洋思想 第20号 まずそのものになる

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                      2011年11月30日
  カウンセリングと東洋思想

                第20号 まずそのものになる

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 カール・ロジャースのカウンセリングと東洋思想との接点を
求めて、いろいろ考察してみたいと思います。


             †††



■ はじめに ===============================================

 順調に半年毎の発行を続けています。(笑)

 東洋思想の部分に関しては今回もまた能の話から逸れて、俳
句の話などに脱線します。これは、次回に予定している世阿弥
の思想を紹介するためには是非とも確認しておきたい事柄だか
らです。東洋思想の理解にはある程度の修行的体験が不可欠で
すが、ここではそれを解説によって補っておこうと思います。





■ カウンセリングと東洋思想 ===============================


  (20)まずそのものになる

 俳句は、心に感ずる対象を切り取って十七音の中にそのまま
写し取る文芸である。そこでは客観を志向しつつも、凡庸な日
常的客観を超えた美的な自然の世界が表現されている。それは
対象認識の深化であると同時に、作者の主観ないし人間味の表
現でもある。いや、文芸者はこれこそが客観の真実だと主張し
たいのであろう。高浜虚子はこのような客観写生のあり方を次
のように明らかにしている。

  私は客覿の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内
 部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。
 即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内
 部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな
 句がいゝと思ふのである。
            (「ホトトギス」大正13年3月号)

 そのような文芸的世界がいかに顕現してくるのか。松尾芭蕉
の弟子である服部土芳の『三冊子』(あかさうし)にそのあた
りのヒントがある。

  松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞(ことば)
 のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へといふ所を
 おのがまゝにとりて終(つい)に習はざる也。習へと云ふは、
 物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所也。たとへ
 物あらはに云ひ出ても、そのものより自然に出る情にあら
 ざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意の
 なす作意也。

 私意すなわち自分の考えを離れなければ、対象そのものの微
妙な姿は顕現してこない。松や竹やその他さまざまの俳句の題
材を句にするとき、師匠を真似るのでもなく、また自分の考え
るがままに受け取って表現するのでもない。むしろ物の現われ
の中に分け入って対象と一つになり、その世界のなかで生じて
いる何ものかに感じ入り、そこからおのずと出てくる言葉こそ
が俳句となるのである。

 それは自他一如の世界だから、表現上は客観描写でありつつ
作者自身の誠の情でもある。そして、この事情を少々難しく表
現しているのが西田幾多郎の次の一節である。

  私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ
 方向に於て、何処までも自己自身を否定して物となる、物
 となつて見、物となつて行ふと云ふにあるのではないかと
 思ふ。己を空(むなし)うして物を見る、自己が物の中に没
 する、無心とか自然法爾(じねんほうに)とか云ふことが、
 我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。
                (『日本文化の問題』)

 自他一如の世界に至るためには、自己否定が不可欠である。
これは、私意の放棄に他ならない。己を空しくして対象と接す
るとき、知覚や思いは自分の頭からではなく対象の側からやっ
て来る。すなわち、対象の側で対象自身を見、対象の側で対象
を考えることになる。そして、空しくなった自己がそれをただ
ただ受け容れるのである。そのような心が無心であり、そのよ
うな対象の現われが自然法爾である。

 日本人はこのように無心や無我の境地で対象をあるがままに
受容する生き方に憧れ、また、禅宗などではそれを修行の目標
としてきた。



            -◆-



 ロジャースは、クライエントの存在を歪曲せずにそのままに
受容するために、カウンセリングのやりとりのなかでは「カウ
ンセラーが自分自身を脇に退けておく」という態度を提起して
いる。さもないとカウンセラーは自分のもっている心理学理論
や価値観によってクライエントを解釈したり評価したりしてし
まうからである。


  セラピストが、解釈したり素材の重大さを評価したりな
 どする人間として入っていく治療的関わりにおいては、セ
 ラピストの歪曲(distortion)もそのセラピストとともに入
 っていく。セラピストが、〔クライエントとは〕別個の人
 間として(as a separate person)自分自身を脇に退けたま
 まに(keep himself out)しようと努力しており、しかも彼
 の取組み全体が、自分がほとんどクライエントの完璧な代
 役(alter ego) となるように完全に相手を理解することで
 あるような治療的関わりにおいては、個人的な歪曲や、話
 がかみ合わなかったりすること(maladjustment) はさほど
 多く生じそうもない。
      (C.Rogers, Client-Centered Therapy [1951])

 ロジャース派のカウンセリングではクライエントの言葉をそ
のまま“なぞる”ことが多いが、それは俳句の世界で言うとこ
ろの“写生”に近いだろう。凡庸な俳句はしばしば事実の報告
に終わってしまうが、下手なカウンセリングもまた単なる機械
的なおうむ返しに過ぎなくなってしまう。他方、優れたカウン
セリングはクライエントの人生(または生命の働き)を写し取
るのであって、必ずしも言葉を忠実に写し取るのではない。

 写し取ったものは誠の情であり、またカウンセラーとクライ
エントの一体感のようなものでもある。共感(または感情移入)
とは、このような状態のことを言う。ただし、それは自他の融
合ではなくて、クライエントの内的世界がその時点で共有され
ることである。あくまでもカウンセラーの自己自身は別の場所
に保存されている。

 カウンセリングは、コミュニケーションにおいて自他一如と
なる。しかも、コミュニケーションの(すなわち意思を伝える)
主体は基本的にクライエントの側にある。そして、カウンセラ
ーはただそれを映し出すだけに自らの役割を留めようとする。
だから、あまり自分流の感じ方は表現しない。しかし、そのよ
うに自己抑制をしつつも、クライエントの話に忠実に寄り添い
ながらその範囲内で自分の感情がクライエントの側からやって
来ることもあろう。それが共感である。

 現実には、その共感の言葉はクライエントの言葉そのままか
もしれない。しかし、その繰り返しの句の中にはカウンセラー
の誠の情が入っているだろう。





■ 編集後記 ===============================================

 今回取り上げた西田幾多郎の哲学はとても難解です。たとえ
ば「絶対矛盾的自己同一」という西田の有名な言葉があります
が、そんな自己矛盾した概念なんか理解できるはずがありませ
ん。(笑) 彼の哲学を十分に理解するためには禅の素養が不可
欠なのですが、今回はたまたま解りやすい部分を抽出すること
ができました。

 仏教をはじめ東洋の実践的思想では修行によってさまざまな
境地が開けてきますが、次回からは能におけるさまざまな境位
を紹介していきましょう。それとカウンセリングとを私がどの
ように結びつけていくのか、お楽しみに。


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◆『カウンセリングと東洋思想』(ID:0000179139)
◆発行者:曽根 剛
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