2008/11/30
カウンセリングと東洋思想 第14号 能「井筒」と自己受容
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 2008年11月30日 カウンセリングと東洋思想 第14号 能「井筒」と自己受容 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 カール・ロジャースのカウンセリングと東洋思想との接点を 求めて、いろいろ考察してみたいと思います。 ††† ■ はじめに =============================================== このところずっと気力が続かなくて、すぐに低空飛行に陥っ てしまいます。(u_u; さて、今回は能「井筒」を素材として、 カウンセリングにおける自己受容を論じます。 ■ カウンセリングと東洋思想 =============================== (14)能「井筒」と自己受容 まずは、能「井筒」の概略を書いておくことにしよう。 諸国一見の僧が在原寺にやって来て、在原業平と紀有常の娘 を弔おうとしていると、一人の女がやって来て、業平の墓らし きところで花水を手向けて弔いをはじめる。僧があやしんでそ の事情を尋ねると、女は業平夫婦の物語を始め、最後に自分が その紀有常の娘だと言って井筒の陰に姿を消してしまう。 その後、アイ狂言があって、大和国の櫟本(いちのもと)に住 むという者が僧に答えるというかたちで、さらに詳しく夫婦の 事情が説明される。 紀有常の娘はめでたく業平と夫婦になったものの、業平は河 内国の高安に女を作る。紀有常の娘が妬む気色もなく、つねよ りも機嫌よく高安へ送り出すので、彼女に二心があるのではな いかと疑った業平は、高安へ出かけるふりをして物陰から様子 を伺うと、彼女は香を焚き花を供えて数珠を爪繰り、縁側に出 て高安のほうを見やり、「風吹けば……」の一首を詠む。その 様子を見て、業平は自分が間違っていたと思って高安に通うの をやめた。 僧はその話を聞いた後、夢にその女と出会うことを期待しつ つ、その寺の苔の筵に仮寝する。後場では、井筒の女は在原業 平の形見の冠直衣を身につけて登場する。序の舞を舞い、井戸 を覗き込んで自らの姿を水に映し、そこに在原業平の面影を見 て、「見ればなつかしや」と漏らす。そして寺の鐘が鳴り、夜 が明け、夢が覚める。 一般には、夢から覚めるのは僧であると理解されている。そ の前に僧が仮寝したのだから、客観的にはそうなのだろう。し かし私は、井筒の女が在原業平への思いという夢から覚めたと いう意味をここに重ねておきたい。前場では井筒の女によって 「迷ひをも照らさせ給ふ御誓ひ、……定めなき世の夢心、何の 音にか覚めてまし」と阿弥陀信仰が吐露されており、それが最 後の「夢も破れて覚めにけり」に呼応しているからである。 −◆− さて、これをカウンセリングの観点から眺めてみると、これ はいわば二股かけられた女のケースだと言える。墓は、彼がも う決して帰って来ない恋人であることを象徴する。にもかかわ らず、その面影を再現させようと墓参りをして弔っている。こ れは“昔の男”を思い出す行為である。業平が高安通いをやめ たにしても、井筒の女がその後も笑顔を作って自分の気持ちを 抑圧していたとすれば、自身の笑顔に邪魔されてその気持ちは 決して業平と出会うことはない。そんな決して出会えない気持 ちが亡霊としてここに登場していると言えよう。 前場においては夫婦の頃の話から子供の頃の話へと遡ってい く。これは精神分析的な話の展開である。亡霊となってまでつ づく現在の寂しい状況は、すべて「筒井筒……」の歌から始ま っている。そこまで遡らないと、現在を完全には語れないので ある。 謡の本を見ればわかるように、じつはこの前場のシテ(井筒 の女)は、シテの台詞だけをみると、あまりたくさんのことを 語っていない。むしろ地謡が状況説明している。これは第一に、 観客に井筒の女の状況を理解させるためだろうと思われる。し かしまた、井筒の女が直接言葉にできない何か、すなわち精神 分析的には前意識とか無意識の内容だともとれる。カウンセリ ングにおいても、直接に語られることは一部にすぎず、カウン セラーは地謡に相当する部分をあとで本人や他の人から詳しく 聞くことで補っていく。アイ狂言では、今度は同じことが子供 の頃から時系列的に説明されていく。子供のカウンセリングで 言えば、いわば親から客観的情報をもらっているようなものだ ろう。 後場では、まず序の舞に注目したい。外からみると何をやっ ているんだかさっぱり分からず、舞台の上をただボーッとして 歩き回っているかのようである。しかし、このときに業平のこ とを思い出しているとしたらどうだろう。カウンセリングでも、 思い出すことによる沈黙の時間がある。クライエントは外面的 にはほとんど動かないが、決して固まっているわけではない。 内面では心を柔らかくして、思いが現われるままに受け取って いるのである。心を虚にしてこの序の舞をボーッと眺めている と、そのあとのシテの台詞が心に染みる。観客にそのような心 の虚を作っているのがここの序の舞だと言えよう。 井筒の女は、もはや決して会うことのできない業平の復活を 願った。そして、形見の冠直衣を身につけて井戸を覗き込むこ とによってリアルに業平を復活させ、そして一体化したと言え る。ただ見ただけならばまた会えなくなり、再び会いたいとい う思いに駆られるだろう。しかし、深く一体化したならば、も はや業平は要らなくなったかもしれない。精神分析的な言い方 をするならば、業平の表象に備給されていたリビドーが撤収さ れたということになる。もう少しわかりやすい喩えにすると、 借金を返してもらったらその人にはもう用はないということで ある。 実際、問題解決に至らない能がいくつもある。これもまたそ の一つと見られているのだろう。しかし私は、「死んだ者(去 ってしまった者)はもう帰って来ない」と諦めること(心に明 らかに納得すること)が解決ではないかと思う。もちろん、心 から納得するためにはリビドーの撤収が不可欠である。「井筒」 の場合には、業平の形見の冠直衣を身につけた移り舞いによっ てそれがある程度成功したのではないかと思われる。 カウンセリングにおいては、「解決できない問題はどうしよ うもないのだと明らかに知って諦める」というのも一つの解決 ではあるまいか。クライエントが諦めずに執着しつづけるのも 許容しなければならないから、カウンセラーは敢えて諦めさせ る働きかけはしない。しかし、諦められるような心理態度を可 能にすること、この能で言うならば「序の舞」が舞えるような 心理的雰囲気を作ってやることが、カウンセリングには求めら れるだろう。ロジャースのいう「許容的雰囲気」には、そんな 仏教的なニュアンスも含まれていいのではなかろうか。 ■ 編集後記 =============================================== 創刊当初は中国哲学や仏教思想などとの関連でカウンセリン グや心理療法を論じようと思っていたのですが、能にはまって しまいました。でも今回は仏教思想とも結びついた解説になっ たと思います。諸行無常・諸法無我が仏教の基本であり、この 思想の日本的展開が“待つ女の諦め”として能「井筒」に表現 されているのではないでしょうか。 「井筒」のストーリー解釈については、私もいろいろと見解 を述べてみたいのですが、煩雑になるのでここではカウンセリ ングに関連することに絞りました。詳しい解説は私のブログ記 事(http://happy.ap.teacup.com/psycholobby/76.html)に書 いていきますので、よろしかったら御覧ください。 このメルマガはまだしばらく低空飛行が続きそうです。(u_u;;; ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆『カウンセリングと東洋思想』(ID:0000179139) ◆発行者:曽根 剛 ◆サイト:http://happy.ap.teacup.com/psycholobby/ ◆掲示板:ご意見・ご感想は↓ http://6615.teacup.com/s1magazine/bbs ◆メール:上記サイトまたは掲示板からお願いします。 ◆発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/ 登録・解除・バックナンバー閲覧は↓ http://archive.mag2.com/0000179139/index.html ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


