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カール・ロジャースのカウンセリングと東洋思想を比較してみます。似ている面もあり、でも同じには論じられない面もある。こころや人間存在に対する考え方の東西比較をお楽しみください。

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2008/03/31

カウンセリングと東洋思想 第12号 二曲三体(その1)

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                      2008年3月31日
  カウンセリングと東洋思想

                第12号 二曲三体(その1)

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 カール・ロジャースのカウンセリングと東洋思想との接点を
求めて、いろいろ考察してみたいと思います。


             †††



■ はじめに ===============================================

 みなさん、またまた超お久しぶりです。前回は「初心忘るべ
からず」について書いて自分にハッパをかけたつもりでしたが、
どうやらその言葉さえも忘れてしまうという、すごい健忘症に
罹っているようです。(笑)

 そこで今回は再び初心に戻って、能の基本的稽古である二曲
三体について論じ、それをカウンセリングと対比してみたいと
思います。





■ カウンセリングと東洋思想 ===============================


  (12)二曲三体(その1)

 能にはさまざまな演目があるが、その基本は舞・謡と物まね
三種だという。世阿弥の『至花道』には、

   当芸(とうげい)の稽古の条々。その風体(ふうてい)
  多しといへども、習道(しゅどう)の入門は二曲三体
  (にきょくさんたい)を過ぐべからず。二曲と申すは
  舞歌(ぶが)なり。三体と申すは物まねの人体(じんた
  い)なり。

とある。今回は、そのうち二曲についてのみ扱っていきたい。

 まずは謡のほうから見ていこう。西洋音楽と比較すれば、謡
にはきちんとしたリズムが無いように思われる。西洋音楽の楽
譜と違って、謡ではフシを示す符号もあまりにも簡略すぎる。
しかし、それなりに拍子や節回しはあるのであって、勝手にや
っているわけではない。おそらくは謡の師匠から口伝えで習う
微妙な節回しこそが重要なのである。さらにいえば、その節回
しから生ずる情趣こそが重要なのである。「節(ふし)は形木(か
たぎ)、……曲は心なり。」(『至花道』)とも言われる。

 一般に、同じ楽譜で歌っても楽譜どおり・型どおりにしか歌
えない人々と、そこに情趣を交えることができる人々とがいる。
世阿弥の『風姿花伝』(第七別紙口伝)には、

   上手と申すは、同じ節懸(ふしがか)りなれども、曲
  を心得たり。曲と云ふは、節の上の花なり。……およ
  そ音曲にも、節は定まれる形木、曲は上手のものなり。
  舞にも、手は習へる形木、品かかりは上手のものなり。

とある。上手・下手に関しては、舞でも歌と同じことが言える。
これは立ち居振る舞いが優美な人と粗放な人の違いのようなも
ので、たとえ手足を動かした位置が同じでもそこから伝わって
くるものは微妙に、というか場合によっては全然違うだろう。
たとえば慇懃無礼な振舞いのように、正反対の心を伝えている
場合もある。

 名人ともなれば、ひとたび覚えられた楽譜はあくまでも参考
程度になり、むしろ情趣を表現することが目標となる。そして、
その場合に基本となるのは心である。金春禅竹の『五音三曲集』
には、
 
   是(これ)みな心地より起れる曲味なれば、その心を
  含み謡ふを、音曲とは可心得(こころうべき)なり。心
  なくして謡ふは、たゞ音斗(ばかり)にて、曲はなき物
  也。

とある。曲を習うとは、心の表現を習うことなのである。

 さて、そのような情趣は、言葉の意味とは別のものである。
言葉の意味がわからなくても雰囲気はわかるというのは、たと
えば外国の歌などを聴いていれば感じることだろう。世阿弥の
『五音曲』には、「女・童の心耳にも感ずるところ、これすな
わち曲にてやあらん。また、声懸とや云はん。」とある。意味
がまったく分からない人々にも声の質となって伝わる情趣があ
る。そして、言葉の意味にふさわしい心が発声にこもっている
かどうかで、そのような声の質が決まると言えよう。

 謡には祝言・恋慕・哀傷などさまざまなジャンルがあるが、
最終的にはその心を伝えるのが目標だと言える。同じく『五音
曲』では、さまざまな種類の謡に関して次のように言う。

   その文言(もんごん)に従ひて、節・曲を付けたる懸
  りなれば、その曲体(きょくたい)をよくよく習得(しゅ
  とく)して、能一(のういち)に謡ふは、節体(ふしてい)
  の形木なり。さて、その上に文(あや)をなすを曲と云
  ふ。この位までを究むるも、いまだ似たる曲分(きょく
  ぶん)なり。この位をすでに忘れて、覚え知らず、感聞
  (かんもん)に顕(あら)はるる所、これ真(まこと)の声
  懸(こわがか)りなり。この位を得たらんを、曲主(きょ
  くしゅ)とは申すべきなり。

感動させようと工夫しているうちは、まだ本物ではない。聴衆
に自然と感動を生じさせるのが本物の曲であり、そのような曲
を謡うのが真の発声のあり方である。


 それでは最後に、舞についてもう少しだけ言及しよう。世阿
弥の『花鏡』には、「舞は声を根本となす」という考え方があ
る。

   舞は、音声(おんじょう)より出(い)でずは、感ある
  べからず。一声(いっせい)の匂ひより舞に移る境(さか
  い)にて妙力(みょうりき)あるべし。また、舞ひ納むる
  所も、音感(おんかん)へ納まる位あり。

すでに見てきたように、音声とは心の発現である。そして、心
を根本として発せられた動作こそが、強く他者に訴えると言え
よう。また動作の結末も、心を表わした情趣の中に溶け込んで
いく。動作は心から生じて心へと還るのである。

 このように、謡であれ舞であれ最終的には心が根本となるべ
きであり、型が心を表現している状態が「曲」であると考えて
よかろう。したがって、二曲を習うとは、心を表現するための
工夫であり、いずれはその先にある心に演者の軸足を置き直す
ための基礎訓練であるとも言える。



            −◆−


 これをカウンセリングと対比させるならば、謡はカウンセラ
ーの言語的応答に、舞はカウンセラーの所作ないし態度に相当
するだろう。

 しばしばおうむ返しと揶揄されるカウンセラーの言語的応答
は、実際にはクライエントの心を描写する行為である。現象的
にはクライエントと同じ言葉を使っているが、それは単におう
むのように音だけ発声しているのではなく、そこにはカウンセ
ラーの心がこもっている。なぜなら、クライエントの心を描写
するためには、カウンセラーはその内容を心の中で咀嚼しなけ
ればならないからである。そのようにして言葉に情趣が加わっ
たときに、はじめてクライエントは自分が理解されたと感じる。

 ロジャースの言葉を使えば、「セラピストの声の調子(tone 
of voice)は、彼が患者の気持ちを完全に分かち合うことができ
ていることをつたえている」(ロジャース「治療的パーソナリテ
ィ変化の必要十分条件」)という状態の関わり方だと言えよう。
重要なのは、この“分かち合う”という態度であって、無闇矢
鱈と感情をこめることではない。基本的にクライエントの言葉
をそのまま使って応答するというやり方をとるかぎり、言葉に
情緒を従わせるのであって、情緒が言葉を越えて過剰になって
はならない。

 これは歌の場合も同じで、自分の感情でいっぱいになってい
る場合には、むしろ上手い歌とは言えない。感極まって歌の途
中で歌手が泣き出したら、観客はそれこそ興ざめである。むし
ろ観客を泣かせる歌でなければならないし、そのためには自分
の感情を抑えて観客を泣かせるような歌い方をしなければなら
ない。カウンセラーの言語的応答も、心の中ではその感情的ニ
ュアンスを正しく十分に把握していても、表現としては自分の
感情を過剰に出してはならない。

 しかしながら、クライエントの話をしばらく聞いていって、
彼の内的世界の大まかな略図が得られると、今度はクライエン
トの発した具体的な言葉にこだわらないという段階に入る。重
要なのは心であって必ずしも言葉そのものではないのだから、
クライエントの心さえしっかり把握していれば、たとえ違う言
葉でも同じ曲調を作り出すことができるのである。曲調すなわ
ちそこに現われている情趣が同じであるならば、クライエント
は自分が理解されたと思う一方、たとえ言葉が同じでもそこに
伴っている情趣が同じでなければ理解されたとは思わない。ク
ライエントが伝えたいのは気持ちであって、言葉はそれを載せ
ていく媒体(vehicle)にすぎないのである。


 さて、そのような分かち合われた心から生じる動作こそが、
能における舞に相当する。カウンセラーは椅子に座ったまま能
以上に動作を控えているが、それでもうなずく行為は必ずして
いるはずである。もしもカウンセラーが全くうなずかなければ、
それはむしろ無視、軽視、拒否などを意味するだろう。カウン
セラーは、発せられた言葉を受け取ったことを示す動作として
必ず最低限のうなずきをしているし、その同意具合の違いによ
って首の振り方が自ずと異なっていることだろう。また、理解
できない場合には首を傾けたり、否定したい場合には首を横に
振っている。

 首の動かし方のみならず、顔の表情も非常に変化するし、姿
勢が変わったり座り直したりなど、あまり気にもとめない動作
がカウンセリング場面にはたくさん含まれている。これらは心
を根本にして現われてくるものであり、あえてその動作だけを
しようとすると、かえってぎこちなく、あるいはわざとらしく
なる。共感的な心から生じた自然な振舞いこそが、クライエン
トと心を分かち合っている証となるだろう。


 以上のごとく、カウンセリングの訓練でもいちばん最初は言
語的な応答法や振舞いについて基本的な形を学ぶだろうが、す
ぐ次の段階から、それらに“クライエントの”心をこめる基礎
訓練がなされていくだろう。自分がどう感じているかではなく
クライエントがどう感じているかが根本になるべきであり、後
者こそが伝え返され、分かち合われる。





■ 編集後記 ===============================================

 またまた半年もさぼってしまいました。あいかわらず発行が
遅れてしまって申し訳なく思っています。m(_ _)m

 言い訳めいたことを述べますと、古典はゆっくり味わってこ
そそれに触発されて深みのある内容が出てきますので、それに
関連させた記事は、やはり一夜漬けでさらっと文章化できるよ
うな代物ではありません。とはいえ私もだいぶ長いこと世阿弥
の言葉を心にとどめているわけですから、そろそろ記事がかけ
る段階に入ったかなとも思っています。

 ま、あとは書く気力が充実していればということになります
が、これが一番の難題だったりして・・・。(苦笑) それでも
次回は二曲三体の続きなわけですから、そんなに間をあけずに
発行したいとは思っています。

 ところで、下記のサイトを「曽根剛のホームページ」からブ
ログ「 PsychoLobby 」に変更しました。ただいまホームペー
ジは完全に放置状態ですが、ブログのほうはたまに心理学関連
の記事を書きますので、よろしかったら御覧ください。

 では、次回をお楽しみに。


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