2006/08/16
[リスクマネジメント No. 41]戦艦大和の最後
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 発行人が監修・執筆している通信教育講座 工学研究社「メーカー社員のリスクマネジメント実践講座」 http://www.kogaku.co.jp/kouza/e35c.html _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 日付:2006-08-15 [リスクマネジメント No. 41]戦艦大和の最後 4年前の2002年は、日英同盟締結百周年であった。これに引っかけて、9月にマ ルタとイギリスを旅行した。マルタ島は1917年から第一次世界大戦終結の1918年 まで、日英同盟に基づいて日本海軍が護衛のための特務艦隊を派遣した、縁の地 である。私の祖父は駆逐艦榊の一員として地中海まで赴き、オーストリア海軍のU ボートの魚雷攻撃により、間一髪死ぬところであった。被弾が5分早ければ、祖父 は艦長とともに戦死していたことは、第36号で書いた。 マルタはまた、ネルソン提督縁の地でもある。エジプト遠征の途中マルタ島を 占拠したナポレオン軍を追い払った。その後マルタはイギリス領となった。そこ で、イギリスのポーツマスを訪れてヴィクトリー号を見学し、続いてテムズ川に 係留展示されている1938年進水の巡洋艦ベルファストを見学し、日英同盟が署名 発効されたランズダウン邸(現ランズダウンクラブ)を訪問した。 ウィキペディア:日英同盟 http://tinyurl.com/zp8tm ウィキペディア:マルタ共和国 http://tinyurl.com/zqzs9 駆逐艦榊の被雷 http://tinyurl.com/lmgy7 ウィキペディア:ホレーショ・ネルソン http://tinyurl.com/z3pky ウィキペディア:ビクトリー号 http://tinyurl.com/g4qmv HMS Belfast http://hmsbelfast.iwm.org.uk/ ウィキペディア:ランズダウン侯 http://tinyurl.com/oyfm5 The Lansdowne Club http://www.lansdowneclub.com/home/about_the_club そもそものきっかけは、10年前、C.W. ニコルさんが、第一次世界大戦時の日 本海軍の小説を書いているが、日本国内で資料が見つからなくて困っているとい うのを新聞で読み、海軍省発行の第二特務艦隊の公式記録「遠征記」を私が見つ け出してきたことによる。片岡覚太郎海軍主計中将の手による後半部分が「日本 海軍地中海遠征記」として復刻され、C.W. ニコルさんの小説「特務艦隊」の下 敷きとなった。 片岡 覚太郎「日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦」 河出書房新社 http://tinyurl.com/e6djf C.W. ニコル/村上 博基「特務艦隊」文藝春秋社 http://tinyurl.com/ossrz いっしょに旅行をしたのは、私とC.W. ニコルさんと彼のマネージャーさん、 ご本人も海軍兵学校出身でお父上が駆逐艦桃の艦長として地中海に赴いたI博士ご 夫妻、そして阪神淡路大震災の惨状を官邸に最初に連絡した元国会議員のご夫妻 である。 旅は天気にも恵まれ、日本海軍のヨーロッパにおける足跡をたどる心に残る旅 行となった。 マルタでは、80年以上前に祖父がこの地に立ったということに思いをはせ、生 前果たせなかった戦没者の墓を、祖父の写真とともに墓参した。もっとも、墓を 訪れたのは1975年に続きこれが2回目であるが、当時の、マルタを訪れる日本人 が年間1000人にも満たず、歴史に埋没してしまった墓碑を見上げて涙したことを 思うと、最近は日本人観光客も激増して年間2万人を超え、前述の「駆逐艦榊の被 雷」のような、詳細な記録のページも見られるようになった。 さて、マルタ島の墓参も思い出深かったが、この旅の圧巻は意外なところに あった。 旅行の後半、テムズ川に係留されている巡洋艦ベルファストを訪れたが、巡洋 艦ベルファストと同時期に建造された日本海軍の軽巡洋艦に矢矧(やはぎ)があ る。 ウィキペディア:矢矧 http://tinyurl.com/gj6z8 実は、一緒に旅行させていただいたI博士は海軍大尉(かいぐんだいい)として 巡洋艦矢矧に乗り組み、1945年4月7日、通称戦艦大和沖縄特攻作戦として知られ る天一号作戦に従事した。第二艦隊として戦艦大和に随行した矢矧は、大和撃沈 の直前に炎上撃沈した。I博士はその矢矧の生存者である。頭部にやけどを負いな がらも辛くも生き残った。 「軍艦の構造はね、世界中同じようなものなんだよ。」 巡洋艦ベルファスト艦内で、I博士は自分の本来の居場所に戻ってきたようで、 なんとなく浮き浮きしているようでもあった。博士に艦について説明してもらっ たが、これまでにもなく饒舌であった。キャプテンシートに座って「やっぱり、 矢萩の方がいいなぁ」と、おどけてみたりする。しかし、艦内の弾薬庫の床の ハッチを開けようとし、ハッチの下にある計算室が平時は艦内で一番安全である が戦時は死の棺桶となり、矢矧でも8名が艦と運命を共にしたことなど、淡々と語 られる。 そして、高射砲の前まで来た時にさらりと語られた一言には、言葉を失う。 「この辺りでね、僕のクラスメートが戦死したんだよ。」 高射砲の前で、私は博士に思いきって質問をぶつけてみた。 「戦艦大和は、なぜ特攻作戦に出たのですか?」 博士は、間髪を入れず答えた。 「死に場所を探したんだよ。」 しばらくの沈黙のあと、博士は言葉をつないだ。 「瀬戸内海に大和を浮かべたまま降伏するなんていうことは考えられなかった。 だから、出撃を決めたし、作戦決定後それまでの戦闘の悲壮感と違って、みんな さばさばしていたなあ。全然雰囲気が違いましたよ。」 「だから、新しく船に乗った者は皆下ろして、それで沖縄に向かった。死ぬこと がわかっていたからね。」 「矢矧から海に放り出されて漂っていると、水平線の向うに煙が見えて、大和が 撃沈されたのがわかったね。」 「一面重油だらけで炎を浴びたから首から上が火傷して、1年くらいまゆ毛が生え なかったな。」 博士の訥々とした語り口とは反対に、その内容は驚くべきものであった。最初 から死に場所を得るために大和は出撃していたとは。すでに連合艦隊総司令部は 日本の負け戦を覚悟していて、死に場所を探しつつもあわよくば米軍に一矢を報 いたいということであったのだろう。 一般には戦艦大和は沖縄まで片道の燃料しか積んでいなかったと広く信じられ ているが、実際には往復の燃料を積んでいる。 博士のこの話を聞いて、戦国時代の武将のことを思った。負け戦と決まっても 一矢を報いようとし、戦を引き起こした一方の責任者としてその責を負い自害し ていく。そして、武将は責任を取るとともに、妻子や家来はなんとかして生存さ せようと努力する。武士道の滅びの美学のようにも言われているが、それは滅び ではなく生き残るとともに厳しく責任を取る姿なのではないだろうか。そんなこ とが、戦艦大和の最後と重なる。 大和の出撃も、「次」のことを考えての出撃であった。だから、新任者は船か ら降ろした。 出撃に当たって、乗務員の雰囲気がどのようであったか、当事者でなければ絶 対わからないことである。現在であったら死に場所を探してなんて言うことは考 えられないのかもしれない。しかし、博士はさらに、次のように語っている。 「日本は、アメリカとやってはいけない戦争をやってしまったんだよ。」 この言葉の裏に、死に場所を選ぶという形でやってはいけない戦争のけじめを つけようとしたのではないかという思いが見え隠れする。昭和10年代、昭和12年 から始まる日中戦争から日本は一気に軍国主義へと傾いていくが、軍国主義は断 じて日本伝統の武士道の延長線上にあるものではない。そういう意味でも、太平 洋戦争の最終局面でのこの特攻作戦は、日本人が、軍国主義の異常な状態の呪縛 から本来の姿に戻りつつあるひとつのきっかけとなったのではないだろうか。軍 国主義の行き着く先を、見せつけたと思う。 I博士はその後建築家として日本有数の設計事務所の社長となり、霞が関ビル、 新宿京王プラザホテル、新宿三井ビル、都立大学等の設計にかかわり、高層建築 の世界的権威となった。私の父もそうであるが、当時20代で戦争に駆り出された 世代がその後の日本再生の先頭を走った。死んだ人たちの分も背負った人生であ るかのようである。 そういう意味でも、今の日本は尊い犠牲の上に成り立っている。そのことを、 決して忘れてはならない。 ---------- 国際派を目指す人のためのリスクマネジメント講座 ・発行人 荒木純夫(あらきすみお) 株式会社ビューポイント情報科学研究所 http://www.vpi.co.jp/ ・転載は発行人の署名を必ず含めてください。署名なしの転載は固くお断りします。 ・発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/ ・配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000176001.html ----------


