2009/01/10
『般若心経(3)』 10
この話は、1月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『般若心経(3)』 10 その空ということは、物質をいってるんじゃなくて、あくまでも我々の心が空なんだと いうことをいってるんです。空だけれども、場合によっては姿かたちを現すんだと。 そかしその姿かたちに囚われてたら悟りが進まない。空ということを分かり、そしてそ れを体験しないと、その空の世界は煩悩も何も無い世界なんですから。煩悩があったら 空とは言えないですからね。そこのところを説いてるのが般若心経なんです。 真如という言葉がでてきますが、真如というのは我々の心の本体なんです。 その真如から出てきてるのが如来なんです。如より来るから如来。というのはそこなん です。 如来様というのは真如から現れてる。 真如というのは心の本当の姿であってそれが即ち仏様なんです。 我々もその真如を持ってるんだけれどもなかなかその真如に至れない。 修行をしてだんだんと声聞となり縁覚となり菩薩となり、菩薩の段階を踏んで、等覚の 菩薩になり、如来様に成るのです。観音様なんかは如来様と等しい悟りを開いている等 覚の菩薩です。 お地蔵様もそうですね。だから心経に、観音様が深般若波羅蜜多とあるのは、如来様と 同じ境地ですね、もういっしょなんですね。つまり真如三昧。 その真如を感じる禅とはどうかというと、二種の無我を知る。二種の無我とは、法無我 と人無我と。人我というのは我々の意識が人我です。阿羅漢は意識を消すことができ る、それを 人無我。阿羅漢が滅尽定に入ったら人無我が消えるのです。意識が全部消えてしまうか ら。ところが末那識と阿頼耶識が残ってる。その阿頼耶識と末那識が法我という。これ は人格性が無いんだけれども、しかし存在する。 人我というのは人格性が我々は意識が存在するから人我という。法我というのはそうい う人格性というか、我々の意識が左右するそういう働きは全然ない。無いけれども存在 するわけです。存在する間は我というのがある。意識的に我があろうがなかろうが存在 する。それが全部消えてしまって、法無我。それが如来様の境地であり、それはそのま ま仏性そのものであり、真如そのもので、それを体得するのが真如禅だとそういう説明 をお釈迦様が説いてるわけです。 その真如、深般若というのは具体的にいえば真如三昧なんです。色や形はもう超越して しまてるんです。それが如来様の本当の実態。それが本来の空の姿なんですね。 我々の心は怒りもあり愚痴もあり貪欲もあり人格性もあり、それから主観だけじゃなく て客観も心から出てくる。然しながら最後は真如へ戻っていくものなんです。その真如 の世界は空ですから空の世界にはなんの苦厄も何も無いわけなんです。空の世界に災難 があったり苦しみがあったり悩みがあったりということはありえない。何も無い世界で すからね。 続く



