2009/01/05
『般若心経(3)』 5
この話は、1月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『般若心経(3)』 5 仏教はこの空間が問題になってくるわけですが、この空間の中には細かい微粒子がある が、微粒子は物質ですけれども、その微粒子を入れてる我々の入っているこの空間とい うのは無なんですよね。 ここに物があるというような意味ではない。 空間というのは何も無い、だから無なんです。何物にも衝突するものがないわけです。 物質というのはいくら細かくたってぶつかり合う。 有対ですね。ぶつかり合う。抵抗し合う。有対とは、「有見有対。無見有対。無見無 対」この三つが色というけれども、この色というものを分けたらこの三つになるんだと いうことです。有見有対色。無見有対色。無見無対色。となります。 この有対というのは互いに抵抗し会うという意味なんです。 大きいものは大きいもの同士抵抗し合う。板に手を押し当てても向こうに通らないです ね。これを仏教では、有対といいます。有見有対は肉眼で見えて抵抗しあう。 ところが無見無対というのは、細胞のような小さいものですから目では見えない。 然しながら眼には見えないけれども互いに抵抗し合うし、結合してだんだん大きくな る。これは科学と同じですね。この二つが物質で、色法です。無見無対は非色法です。 「法に二種有り、一に色法。二に非色法。更に第三法無し」と言葉が続いています。 つまり精神と霊魂と物質。霊魂と肉体ですね。この二種類です。他に存在するものは無 い。だから仏教は二元論なんです。 般若心経に説いてる色は無見無対色の色を説いてるわけです。無見無対色は肉眼では見 えない。心眼でなければ見えないのです。禅定の世界で智慧の眼でなければ見えない。 法を観る眼が開かないと見えないのです。それは禅定に入らないと見えないというわけ です。深般若波羅蜜はそこを説いてあるのです。 それはみな心ですので、無見無対なんです。無見無対を無見有対の如く考えてるのが、 地獄や餓鬼や我々もそうですがね。あの世へ行ったら、そこに現れる一つの境涯を本当 に客観的に存在するように思う。ところがそれはそうではなくて、それは自分の心から 現れてるものであって本来は空のものなんだというのが、そのへんが禅定の世界でその へんは自分が体験をしないと分からないですね。なんでもそうですね、自分が実際を体 験してみないと納得がいかないですね。靴を隔てて足をかくということでしょうか。 それが法界というのです。その法界というものは、一番想像できるのが夢ですね。夢に 出てくるいろんな景色。あれは物質じゃないですよね。自分の心から出てきてるんで す。客観の夢の世界は、自分の主観から出てきてるんです。そういう心の世界というの は奇妙な世界ですね。 この我々の人間の世界は、客観的な対象と主観の自分と対立してるんですよね。 そして向こうから刺激を受けてはじめて意識が活動するわけです。 ところがあの世の法界というところはそうじゃなくて、自分の心の作用がそのまま表へ 出てくるんです。 続く



