2009/01/02
『般若心経(3)』
この話は、1月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『般若心経(3)』 2 般若の世界、禅定の世界というのは、この五識の世界じゃなくて意識の世界なんです。 もうひとつ別のいい方をすればこの五つの識を消していく。禅定に入ってその五識を消 していく。そして意識だけになってしまう。そういう修行が禅の修業なんです。 ですから五識は日常の生活のためには必要な五つの精神ですよね。五識が欠けてくると 日常の生活が不完全になってくる。だから五識が働くということは我々の日常の生活が 営まれるということです。 ところがその五識を消す。五識を消すということは、日常の生活とそこで断絶するとい うことになるわけですね。その修行をそのままとらえたらね。 座禅は動きながらではなかなか五識は消えませんから、動けるということは身体の心識 が動いてるんだから、そうですね身体の意識が活動してるんですから歩いたりできるわ けなんですよね。日常の生活は生きていなければいけないから食べる。それには口が働 かなければいかん。 人の話を聞こうとすると耳の識が働かなければいかんというふうに、そういう五識が働 いて日常の生活が営まれるわけです。 ところが今いいましたように般若の世界。即禅定の世界というのはその五識があっては 邪魔になるんですよ。五識を消すことが禅定なんですね。 ですからそれはどうしてもじっと座ってなければいけませんね。 歩きながらじゃ無理だと思いますし、歩きながらじゃ心識が動いてるんですから、どう しても一定の場所に座って、そして瞑想をして心を消していく。だから外界と遮断して いかなければいかんのです。そういう修行が禅の修業だということです。 前にもお話してますけど、眼、耳、鼻、口、身。そして意。つまり意識。上に意根があ って意識が働いて、そして対象として法と、こうなってます。 般若心経にもあとで出てきますが、この諸法の法はという言葉が出てくるのですが、こ の法という言葉は広い意味と狭い意味とに使い分けをするわけです。広い意味では全て が法なんです。全てのあらゆるものがこの物質も精神も含めて法というのです。 二つに分けたら仏教では物質と精神と二元論になりますね。仏教は一元論だとおっしゃ るのは間違いですね。この般若心経のお話は従来の誤りを正すということです。従来の 誤りということは、皆さんも書店にある般若心経の解説本をお読みになったことがある と思うのですが、そういう方々が解説している般若心経に対する見解は違うということ です。 般若の世界というものはこういうものではないんだということを申し上げたいわけで す。 それにはいくつかポイントがあるのですけれども、まずはその今いう法というものは、 広い意味では物質もあり精神も含めて、場合によって「法に二種有り。一は色法、二は 非色法」。 色というのは、この場合は物質で、非色法というのは精神といいますが霊魂といっても いいし、心といってもいい。精神を識と使うことが多いですね。物質と精神と二つなん です。 続く


