2008/09/10
『臨終の一念』 10
この話は、9月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『臨終の一念』 10 十三、 「何時も一念なれども命の長短によりて念仏の多少も不同なり。 にわかに終われば一 念、延ぶれば三念十念、万遍、只命の長短によるべし。」 ― 他阿上人法話 ― 一遍だと思うて、一遍だけだと思うたらいかんぞということです。臨終は何時来るかわ からんから、今が臨終だ、今が臨終だと思う。平生即臨終だと思いなさいということで す。 そうしていつも今が臨終だと思うて称えていると本当の臨終がきたときは何もうろたえ ることがない。 十四、 「信心有り気なる人の往生を遂げざるは臨終を知らざる故にて候。 臨終は何時の年何 時の月、何時の日の何時の刻とは兼ねてより知り難ければ、念仏相続と申す事の候な り。」 何時死ぬときが来るかわからんから絶えず念仏する。その念仏の中へ臨終が来るという ことです。 十五、 「数遍は数遍の為に非ず相続の為、相続は相続の為に非ず臨終一念の為。」 ― 他阿上人法話 ― 念仏は一遍よりも三遍と多ほうがいいに決まってるわけですね。 然しそれは単に称えるだけじゃなくて兎に角、続ける。 続けるために南無阿弥陀仏と常に称える。相続するために念仏を称える。 相続が目的で念仏するんじゃないんだ。その相続というのは臨終の一念のためなんだと いうことです。 つまり、皆さんがなにかの稽古事をして晴れの舞台へ出ることがあるとしますね。 そのために随分稽古をなさいますね。 臨終は稽古じゃないですが、本番にどじを踏まないための用意に稽古をするわけです。 それと同じなんです念仏もね。臨終にさえ一遍念仏を称えたらいいんだとおもうて平素 に念仏を称えてなければ、臨終が来たときに失念、錯乱、顛倒してしまう。 稽古事でも一所懸命に稽古をしたつもりでも、舞台へ出たらとちってしまう。 ということもあるはずです。況や死ぬほどの問題では、そうは問屋が卸さない。 平素の健康な心で判断してたら危ない。ということですね。 十六、 「まさしく臨終の時刻知り難ければこそ善導和尚は「恒願一切臨終時」とは釈せられた り。 心に臨終を知らざれば唱う所の名号を臨終と定むるなり、されば何時にても申す 所臨終なり、されば何時死するとも臨終違うべからず。」 ― 他阿上人法話 ― 善導和尚は、全てのときを臨終と思いなさいといってるのですね。 何時のときも臨終だと思いなさいといってるわけです。 兎に角、臨終は心顛倒せず、心失念せず、心錯乱せずということで迎えなければなりま せんわけです。 和尚さんの檀家さんの話になるのですが、その檀家さんの親戚の人が死ぬときに七転八 倒したそうです。 そして落ちる落ちるといいながら死んで行ったそうです。 落ちるから畳に縛ってくれと。 その人は地獄へ落ちていったのでしょうね。落ちるといっても、布団に寝ているのだか ら肉体が落ちるのではなくて、心が霊魂が落ちるのだけれども身体が落ちていくように 思うのですね。 それは心が錯乱してるからでしょうね。 側に居た人が、どうしたんだとびっくりしてる間に死んでいったそうです。 実際にそういう話もあるのですから。あの清盛もそうですよね。厳島神社を建てたけれ ども、他に悪いことをいっぱいしてますね。 だから清盛が死ぬときに閻魔の丁から火の車が迎えに来たという話が源氏物語に出てま すね。あれも本当だろうと思いますね。 兎に角、あの世があるということが前提です。いい所へ行けるならいいですが、何処へ 行くやらわからないというのが問題ですね。



