2008/09/07
『臨終の一念』 7
この話は、9月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『臨終の一念』 7 「但し、既に教に逢い知識にも逢い乍ら平生の志薄く」 なんとなく、一所懸命になっていないということですね。 仏縁もあり、善知識もありながら、志が深くない。そういう人が、さて臨終ということ が起こってきたときに正念が乱れる。 そのときに正念が乱れたならば「三心も如何がとこそ覚ゆれ」 三心というのは、極楽へ往生する三心というのが観無量寿経に説いていますね。 至誠心、深心、回向発願心。これが極楽往生のための三つの心です。それを三心といい ます。 法然上人も言っていますように、極楽往生したいと願うならば、南無阿弥陀仏と称えま しょう、こもり候なりと言っていますように、深心がどうの至誠心がどうのといちいち 理解しなくても、ただ南無阿弥陀仏と称えて往生を願いなさい。 そのなかに三心がこもり候なりと法然上人が言ってますね。 一遍上人もそう言ってる。だから一心に南無阿弥陀仏と後生を願って拝んでいたらその なかに三心が篭ってるのです。 三心というのがどうだったかとはっきり理解しようとすると偉い上人でなければ理解す ることができないですから。 だから正念を失ってしまったら三心が出て来ないというのです。 「下品下生の人は始めて逢い、勇猛なれば罪障も滅し日輪の迎いにも預かれり。」 下品下生の人とは、悪の限りをしてきた人で、その人が始めて仏法に逢うわけです。 そして勇猛心になったということですね。勇猛は一所懸命になったということです。 一所懸命にお経を称えたわけです。 罪も許されて、日輪の迎えとは、一番いいのは阿弥陀様がお迎えに来てくださる。 次に化仏が迎えに来てくれる。そして下品下生になってきたら蓮の花が迎えに来るので す。 阿弥陀様でも化仏でも、必ず観音様が蓮の花を持ってる。蓮台ですね。 その蓮の花へ乗るわけです。そして極楽の池に蓮の花が行くわけです。その蓮の花が日 輪のように輝きながらお迎えにくるのです。 その蓮の花が日輪のように光り輝いて目の前に現れるので、それが太陽のように見える 蓮の花だということです。日輪というのは、そういう意味です。 今の人は、その善知識、仏法に逢いながら志が薄い。 日頃の行いが足りないということです。 「臨終に初めて識有らん事極めて希なり」 この識というのは、善知識のことです。つまり臨終の善知識というのですが、仏縁が深 かったら知り合いの坊さんでも枕辺に来て覚悟を教えてくれるのですが、ところがそう いうふうに逢う人が少ないということです。 皆さんはどうでしょうか、現在にこのように死ぬときに、何処かの坊さんを呼んできて もらう人があるでしょうか。 臨終の善知識というのは大事なんです。知り合いに坊さんがあっても、なかなか来ても らえないのに、よほど信心が決定していないと難しいでしょうね。 兎に角、臨終の一念は後生を決定するということですね。だから正念場なんだというこ とです。 正念場には、祈りもしなけりゃならんし、願いもしなきゃならん。正念でなければ出来 ないから正念なんです。 その正念のときに百年の業に勝るのですから、たとえ一遍の念仏でも、真の篭った念仏 であったならば必ず極楽往生できること間違い無し。と、これはお経にちゃんと根拠が あるわけです。



