2008/09/05
『臨終の一念』 5
この話は、9月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『臨終の一念』 5 六、 「大方、人の死ぬる有様あわれに悲しき事多かり。 物の心有らん人は恒に終わりを心 に懸けつゝ苦しみ少なくして善知識に逢わん事を仏、菩薩に祈り奉るべし。 若し、悪 し病をも受けつれば、其の苦痛に責められて臨終思うようならず。 終わり正念ならね ば一期の行いもよしなく、善知識のすすめも叶わず。」 ― 発心集 ― 物の心有らん人というのは、仏道に心を向けるとか、後生に心を向けるとか、そういう ちゃんとした心得の有る人ということです。そして常に臨終ということを心に傾けてい る。 臨済宗の或る偉いお坊さんが、禅宗の方にしては素晴らしいと思う法語があったそうで す。 自分が死ぬときは、願わくば小脳小病で終わりたいと。 昔の禅宗の偉い坊さんの言葉のなかにあるそうです。 願わくば、苦しい悩みや病気の苦しみがあなく臨終を迎えたいということですね。 この言葉を読んで、和尚さんは珍しいなと思ったそうです。今の禅宗の方は後生のこと を言わないから。 禅宗も昔はそうだったと思うのです。 昔は浄土門、聖道門にかかわらず、皆後生ということを考えたと思うのです。 白隠禅師は悪いことをしたら地獄へ落ちるということを子供の頃から信じてる。 地獄へ落ちるのが恐ろしくて、それを逃れるにはどうしたらいいのか、ということから 仏道に入ったというのですから。 ですから昔の禅宗の坊さんというのと、今の禅宗の坊さんではだいぶ考え方が変わって ると思いますね。 「終わり正念ならねば一期の行いもよしなく、善知識のすすめも叶わず。」 というのは、臨終のときに枕辺に善知識を呼んで、心に如来様のお姿を思い浮かべよと 言うのですが、ところが苦に攻められて思うように精神統一ができないわけです。 仏様のお姿を思い浮かべることが出来なければ、南無阿弥陀仏と称えよということで す。 一期というのは一生のことです。一生の間に、あの人はいい人だったといわれるような 人でも、臨終に病の苦しみに攻められたらそれは役に立たない。前世の業のほうが強い わけですね。 病に苦しむというのは前世の業ですから。こうして善知識に教えてもらっても、苦しみ のほうが先立ってちゃんと聞けないということです。だから臨終の正念を忘れてはいか んというお諭しですね。 七、 「能く能く執心、忘念をば、わきまえて平生猶慎(へいぜいなおつつし)むべし。 況 や臨終には殊に用意有るべきものなり。 平生の心はゆるく、善悪共に勇猛なること少 なし。 臨終には執心も信心も烈しき心有りぬべし。 大論に「臨終の一念は平生百年 の業に優る」と伝えるは此の由なり。 されば能く能く臨終は心すべき事なり。」 ― 紗石集 ―


