2008/09/04
『臨終の一念』 4
この話は、9月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『臨終の一念』 4 「精勤習心の者は終時悔恨無し」 一所懸命に努力して仏道に精進をする人は、臨終のときに後悔することはない。 「心意既に専ら至らば錯乱の念有る事無し。」 常に仏道に志す。或は人道に志すという善いほうへ善いほうへと心が精進する。 そういう人は死ぬときがきても錯乱が起こらない 「習心専至ならざる者は臨終に必ず散乱す」 一所懸命にならない者は、健康なときは浮かれてしまった人は臨終のときに心が散乱す る。散ってしまって統一ができない。錯乱状態になってくるわけですね。 五、 「水火に入る苦みなのめならず。 其の志深からずば如何が堪え忍ばん。 苦患あれば 又心安すからず。 仏の助けよりほかには正念ならんこと極めて難し。」 ― 発心集 ― なのめならず、というのは並々ではないという古い言葉です。 水火の苦しみとは並々ではない、大変な苦しみだということです。 「其の志深からずば如何が堪え忍ばん」その水火の苦しみをちゃんと理解できてた場合 ですね。 例えば、自分の身体に油をかけて燃やして死んでいきますね、その人にとってはひとつ の信念に燃えてますから。 わかりやすくいえばそういう状態ですね。そういうふうに信念が深ければ耐え忍ぶこと ができるが、ちょっとのことじゃ水火の苦しみとは、耐えられることじゃない。 「苦患あれば又心安すからず。」 それに付随した精神の錯乱とか、顛倒とか、そういう心理状態になってくるということ です。 だからそういうことになってくるから、仏様のお助けによって正念にしてもらうわけで す。私たちはいまのこの状態は失念、錯乱していないから正念ですね。 ところが臨終のときに必ずしも正念にいけるだろうな、と平素は思うているけれども、 そうはいかない。その苦しみによっては顛倒、錯乱、失念になってくる。心識混迷する というそういう状態を迎えることになるから、そういうことにならないように日頃から 仏様のお助けを求めていかなければ、いざそのときに正念にはならないということで す。 これは発心集という書物を書いた鴨長明ですが、あの方は詩人で有名ですが、浄土に非 常に帰依した方で、歌よりも西方浄土を願った人なんですね。そのために隠遁した人で す。ここにご紹介をしましたのは、その発心集のなかの一説です。 先ほどの正念といいますのは、顛倒、錯乱、失念ということに対して、正念というので す。そういう状態にならないことを、正念というのです。 従いまして、臨終の一念は平生百年の業に勝ると、この言葉を頼りにしているわけで す。 臨終のときに正念にならなければ、後生の用意ができない。平生、悪行をしていても、 臨終の一念でもって極楽往生できるのです。臨終の一念を確かなものにしようと思え ば、そのまえに正念でなければならないのです。


