2008/09/03
『臨終の一念』 3
この話は、9月1日から始まっていますので、初めての方は 最初からお読み下さい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『臨終の一念』 3 「。――― 又若し人、臨終の時一念の邪見を生ずれば増上の悪心なるをもて即ち能く 三界の福を傾けて即ち悪道に入るなり。」 今これから死んで行くというときに、ふっと、邪険が起こってくる。邪(よこしま)な 心が起こってくるというのです。 例えば、日頃は忘れていたある人のことをぱっと思い出してきて恨む。あの人にあんな ことをされたということを、今まで忘れていたことが、死ぬ間際になってふっと起こっ てくる。という例えです。 増上の悪心というのは、あとにも出てきますが、臨終の一念は、日頃の百年の業に勝る という言葉があるのです。臨終のときのその一瞬の状態というのは日頃の百年の業に勝 るというのです。 例えば、健康な我々のこと状態が百年ですよ、百年間我々が善い事をしたとします、善 い事ずくめで一生暮らしてきたとします。その人が死ぬという臨終の一念に、はっと邪 険が起こってくる。今まで思っていないのに死ぬ間際に邪険が起こったとしますと、そ の臨終の一念で百年の業を打ち消してしまうのです。せっかくの百年の業が一瞬にして 打ち消されてしまう。 そしてまたその逆もあるわけです。 百年間悪ばっかりしてきた人が、ところがこの人が臨終のときにはっと仏心が起こっ た。そしたらその百年の業が消える。善悪ともに臨終の一念はそれぞれ百年の業を消す のです。 この場合は、悪心ですね。邪険ですからね。増上というのは非常に強いという意味です ね。 だから三界の悪いところの福を傾けて、悪いところばかりではない、いいところもあり ますね。人間界も幸福な人もありますし、天上界も、ずっと上へいくほど幸福な三界の 福。そういうところへいけるような場合もあるのです。 極楽往生できなくても三界の善い所へ生まれていくこともできる場合もあるのです。 その三界の福を打ち消してしまうというのです。せっかく百年も善いことをして、その まま死ねば例えば天上界へ生まれるはずの人が、臨終の一瞬の悪心を起こしたがために 三界の福を壊してしまった。そして悪道に落ちていってしまった。ということです。 四、 「盛(じょう)年にして患いなき時は懈怠(きたい)して精進せず、衆の事務を貪営し 死の為に呑まるるに臨みてまさに善を修せんことを求む。 精勤習心の者は終時悔恨無 し。 心意既に専ら至らば錯乱の念有る事無し。 習心専至ならざる者は臨終に必ず散 乱す。」 ― 大荘嚴経論 ― 「盛(じょう)年にして患いなき時は懈怠(きたい)して精進せず」 日頃、健康なときは後生のためにと思うて精進しないで、なんとなく浮かれて日を送 る。 「衆の事務を貪営し死の為に呑まるるに臨みて」 することは日常我々が生活をするために金銭的な、そういう欲望のために心を労して、 そして後世のことは気がつかない。 そして死ぬときになってはじめて後悔する人は後悔する。 後悔できればまだ幸せですね。心識混迷になってきたら後悔の念も起こらないですか ら。 そのときになってはじめて後悔する。後悔して間に合う人もあれば遅い人もある。 それは宿善の致すところですね。


