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2008/07/16

【お城ファン倶楽部 No.145】日本100名城(その17)上田城

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【お城ファン倶楽部 No.145】日本100名城(その17)上田城
                              2008/07/16(Wed)
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 上田城と言えば真田の城として、二度にわたって徳川軍を退けたことで知られてい
ます。現在では高遠城とともに、信濃の桜の名所と知られ、とりわけ本丸東虎口櫓門
前の枝垂れ桜は圧巻です。真田氏の勢力拡大にともなって昌幸によって築城された上
田城ですが、長男信之のときに前回取り上げた松代に移封となり、そのあとに入った
仙石氏や松平氏によって大きく改修されていますが、百間堀など真田時代の面影が随
所に残っています。


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 上田城
  所 在 地:長野県上田市二の丸
  史跡区分:国指定史跡(昭和9年12月28日に指定)
       南・北・西の各櫓は県宝
  入 場 料:なし
       北・南櫓は市立博物館と共通で250円(8:30〜17:00、水曜休館)
       ただし、12月〜3月は両櫓は休館となる。
  交通機関:車の場合は上信越自動車道で上田菅平ICで下り、国道 144号線を西
       に上田市内方面へと向かう。2kmほどで国道18号線とぶつかるので、
       右折して国道18号線を長野方面へ向かう。案内板にしたがって上田城
       址公園入口交差点を左折すると、すぐに右手に上田城が見えてくる。
       観光会館前を右折した市民会館前に駐車場があるが、尼ヶ淵下の駐車
       場の方がずっと大きくお薦めである。そのまま道なりに坂を下った天
       神2丁目交差点を右折すると、500mほどで尼ヶ淵の駐車場となる。
       公共交通機関の場合は、長野新幹線またはしなの鉄道上田駅で下車す
       る。駅前の道を 500mほど緩やかに登ると中央2丁目交差点となるの
       で、ここを左に曲がる。そのまま 500mほど進むと、上田城である。
 http://www.odc.ueda.nagano.jp/ueda.htm
 http://yamajiro.hp.infoseek.co.jp/ueda-jou/
 http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Ueda/
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro3/ueda/index.html
 http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/koushinetu/ueda/ueda.htm
──────────────────────────────────────


◆戦国の智将真田昌幸によって築城される

 上田城は天正11年(1583)に、戦国の智将真田昌幸によって築かれた。この地には土
豪の小泉氏の城館があったと言われるが、その詳細は不明である。真田氏は信濃の在
地領主の一人で、戦国時代に真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領したことで真田氏を
名乗ったという。甲斐武田氏の信濃侵攻にともなって一時上野に逃れるが、天文10年
(1541)に武田晴信(信玄)が父信虎を駿河に追放すると、晴信に帰属して領地を回復し
ている。ただ最近の研究では、幸隆が武田氏に属したのは天文12年(1543)あるいは同
15年(1546)といわれている。

 天文22年(1553)に葛尾城落城とともに村上義清が越後に逃れると、真田幸隆は旧領
を完全に回復している。幸隆には信綱、昌輝そして昌幸らの男子があったが、天正3
年(1575)の長篠の戦いで当主信綱と次男昌輝がともに討ち死にしてしまい、武藤家を
継いでいた三男昌幸が真田に復して家督を継いだ。昌幸は武田家中でも大きな存在で
あったが、天正10年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされると信長に臣従して滝川一
益の与力となった。

 その信長もわずか3ヶ月後に本能寺の変に斃れると、甲斐・信濃・上野をめぐって
徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが争うこととなる。天正壬午の乱である。一益が神
流川の戦いで氏直に敗れると、昌幸は氏直に臣従する。しかしすぐに家康の誘いに乗
って、徳川方についている。この頃に上田・小県地方制圧の拠点として、上田築城を
開始している。翌天正12年(1584)に徳川家康と北条氏直の間で和議が成立し、その条
件として昌幸の領していた上野沼田領を氏直に割譲することとなった。これに反発し
た昌幸は、家康と決別する。


◆地の利を活かして2回の徳川軍攻撃を退ける

 天正13年(1585)には次男信繁(幸村)を人質として上杉景勝に送って、景勝に臣従す
ることとした。このため上田城は当初大手を北側に設けることとしていたが、徳川へ
の備えから東に変えている。この昌幸の造反に対して、家康は真田氏討伐のために上
田城攻めを行う。徳川軍約7千に対して、真田軍はわずか2千といわれ、昌幸が上田
城に、また長男信幸(信之)は戸石城に籠城した。上杉からの援軍を得た真田軍は地の
利を活かした戦法により、神川の戦いで大勝する。第一次上田合戦である。

 徳川軍に勝利した真田昌幸は智将として評価され、信濃における独立した戦国大名
として認知されることとなった。このような状況から昌幸は、上杉に預けてあった次
男信繁を大坂城に人質として差し出して、豊臣秀吉に臣従することとなった。天正17
年(1589)には秀吉によって沼田領問題の裁定が行われ、北条氏直に利根川以東が割譲
された。替わって昌幸には箕輪領が与えられたが、この箕輪領の名胡桃城が北条方に
攻められ、秀吉による小田原攻めの口実となったのは周知のところである。

 秀吉死後の関ヶ原の戦いでは昌幸と次男信繁は西軍につき、長男信幸は東軍に与し
た。家康本隊とは別に徳川秀忠率いる別働隊約3万8千は中山道を西に進んで、信濃
に入った。上田城に籠もる昌幸・信繁に対して開城を求めたが、老練な昌幸は回答を
先延ばしにして時間稼ぎを行った。秀忠は上田城攻撃を決めて攻めかかるが、地形的
に大軍の長所を生かし切れず、逆にわずか2千の真田軍に翻弄されてしまった。結局
上田城を落とすことが出来ず、関ヶ原に向かったがすでに戦いは終わってしまってい
た。これが、第二次上田合戦と呼ばれるものである。

 関ヶ原は東軍の勝利に終わったため、西軍の真田昌幸・信繁父子は助命されたもの
の高野山(のちに九度山)に流罪となった。真田の旧領は信之と改めた信幸が、3万石
を加増されて沼田3万石を含めた9万5千石を与えられた。しかしながら、上田城そ
のものは関ヶ原の翌年に、徳川軍によって破却されている。真田領を安堵された信之
は沼田にいたが、元和2年(1616)にようやく上田に移っている。しかし上田城は破却
されていたために、三の丸の跡地に居館を構えた。


◆真田氏に替わり、江戸時代は仙石氏と松平氏が上田を治める

 元和8年(1622)になると真田信之は松代に移封となり、上田には仙石忠政が小諸城
から6万石に加増されて入った。寛永3年(1626)から忠政によって上田城の再建が始
まったが、2年後の同5年(1628)に忠政が亡くなったことにより一時中止となってい
る。なお、忠政の上田移封は忠政が幕府に願い出たことによるといわれ、この決定に
不服を持った信之は関係書類を燃やしてしまったという。このために、忠政が上田に
入ってから領内の政治を行うのに大変に苦労したという。

 忠政のあとは正俊、政明と仙石氏が3代続き、宝永3年(1705)に但馬出石へと転封
になった。上田城再築は正俊の時代の寛永18年(1641)頃にほぼ完成したといわれ、現
在残る櫓はこの仙石氏時代のものである。なお、仙石氏は出石で明治維新を迎えてい
るが、出石は皿そばで有名である。上田でそばの味を知った仙石政明が、上田のそば
職人を出石に連れて行ったことに由来するという。

 上田には出石から松平忠周が替わって入り、以後7代 166年間続いて明治を迎えて
いる。寛政元年(1789)に旧三の丸にあった藩主邸が全焼し、翌年に再建されている。
現在この藩主邸跡は県立上田高校となっているが、今も残る表門は現存でこのときに
再建されたものである。また、幕末の文久2年(1862)には、藩主邸の東側と北側の土
塁上に土塀(築地塀)を建てている。この土塀を含めて土塁や堀も、上田高校に残って
いる。松平氏5代の忠学(たださと)は軍政改革や土地制度の改革を行うとともに、藩
校明倫堂や武芸稽古所(演武場)を設置している。明倫堂のあったところは現在は上田
市役所や第二中学校となっており、残念ながら遺構は残っていない。

 戊辰戦争が起こると上田の松平氏は新政府軍に与して、北越に出兵している。明治
2年(1869)の版籍奉還、同4年(1871)の廃藩置県を経て、上田城は廃城となる。さら
に、同7年(1874)には城地や建物が民間に払い下げられてしまった。本丸には7基の
隅櫓があったが、現存の西櫓一つを残して解体・売却されている。このうちの2基は
上田市内の遊郭として長く使われていたが、昭和になってから市民によって買い戻さ
れ、現在の北櫓および南櫓として再移築された。また、平成6年(1994)には南櫓と北
櫓の間に、東虎口櫓門と袖塀が古写真をもとに復元された。


◆復元された本丸東虎口の二基の櫓と櫓門は大きな見どころ

 上田駅から駅前の道を直進し、中央2丁目交差点を左に曲がってすぐのところの道
が鈎の手になっている。ここが大手門の跡で、手前には堀があった。ここから内側が
三の丸となり、少し先の市役所前交差点を左に曲がると突き当たりに藩主の屋敷であ
る御家形があった。現在は上田高校となっているが、寛政2年(1790)に再建された表
門が現存し、現在でも校門として使われている。また、御家形を囲む堀や土塁なども
一部残っている。

 もとの道に戻り直進すると、正面が東虎口となり、その先が二の丸である。二の丸
と三の丸を仕切る堀はかつては水堀であったが、現在は空堀となっている。またこの
堀底には昭和47年(1972)まで上田丸子電鉄北東線(真田傍陽線)が走っており、現在で
も公園前駅の小さなホームが残っている。二の丸入口は東虎口で大きな石垣が残って
いるが、虎口は失われている。右手に行くと上田市立博物館があり、櫓が閉鎖されて
いる冬期はここに100名城のスタンプが置いてある。また上田城の復元模型が展示
されているので、ここで上田城を概観しておくのも良い。

 二の丸から土橋を渡ると、正面に二基の櫓と両櫓をつなぐ櫓門がある。二基の櫓は
北櫓と南櫓で、一時期は上田市内で遊郭として使われていた。また、櫓門は近年復元
されたものであることはすでに述べた。この東虎口は本丸への大手で、右手は水堀と
なっているが、左手はすぐに尼ヶ淵の崖となっている。櫓門の手前右手には、真田石
と呼ばれる大きな石が石垣に組み込まれている。いわゆる鏡石で、築城時に真田昌幸
が太郎山から切り出したという。長男信之が松代に転封になったときに、家宝として
持ち出そうとしたが、びくともしなかったという話が残っている。


◆本丸にある真田井戸には抜け穴の伝説が

 本丸は一辺が約 150mのほぼ正方形で、南は尼ヶ淵の崖となっている。三方を、か
なり幅の広い水堀が囲んでいる。南側はすぐ近くまで千曲川が流れ、高い崖となって
いるために防御は完璧である。このした地形や北に北国街道が走っていることから、
当初真田昌幸は北側に大手を設ける考えであった。しかし徳川氏と袂を分かつことと
なったために、徳川氏による攻撃を想定して東側に大手を移している。

 本丸の周囲はかなり高い土塁で囲まれており、四隅には櫓台が設けられている。こ
のうち北西隅の櫓台を二の丸方面から見ると、隅が欠けていることが分かる。鬼門除
けである。本丸南側には真田神社があり、真田氏、仙石氏および松平氏の歴代城主が
祀られている。しかしながら元々は松平氏を祀る松平神社で、戦後になって真田氏と
仙石氏が祀られて上田神社となり、さらに真田神社となった。これは立川文庫の「真
田十勇士」が猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者の活躍などで、一躍大ヒットになるなど
の影響があったのではないかと思われる。現在でも真田氏の人気は絶大で、築城から
江戸時代を通じて上田城には仙石氏と松平氏の方がはるかに長くいたのに、上田市は
真田の城下町として売っている。

 話が脇道にそれてしまったが、真田神社の裏手には真田井戸が残っている。この井
戸には抜け穴があり、ここから城北の太郎山の麓まで通じているという伝説がある。
これはあくまでも伝説で史実とは考えられないが、こんなところにも真田氏の面目躍
如という感じがする。この真田井戸の先には西櫓があるので、忘れないように。この
西櫓は仙石氏時代に創建されてからこの場所にずっとあり、厳密な意味では唯一の上
田城建築物の遺構と言える。なお軒丸瓦には、仙石氏のあとに入った松平氏の家紋で
ある五三の桐が刻まれている。


◆昌幸時代には天守があった可能性も、また尼ヶ淵から見上げる櫓群は絵になる

 仙石氏から松平氏時代の上田城本丸には現存の3基の櫓を含めて、全部で7基の櫓
があったが、いわゆる天守は存在しない。しかしながら、真田昌幸時代にも天守がな
かったかどうかは、意見の分かれるところである。ほぼ同時期の小諸城、松本城や高
島城などの信濃の城にはすべて天守が上がっていたことや長男信之の沼田城には天守
があったこと、さらに寛永年間作成といわれる絵図に「御天守跡」との記載があるこ
となどから、昌幸時代に天守があっても不思議はないと思われる。

 搦め手となる西虎口櫓門から本丸を出ると、西櫓のところから尼ヶ淵の駐車場へと
下りる道がある。車の場合にはここから登ることとなるが、ぜひとも下に下りて見上
げて欲しい。尼ヶ淵からの攻撃がまず不可能であることと、この下を流れる千曲川の
流れから城を守るために苦労して石垣を築いていることを見て欲しい。またここから
見上げる西櫓や南櫓は絵になる風景で、絶好の撮影ポイントでもある。

 二の丸は現在城跡公園となっていろいろな施設が設けられているために、あまり当
時の面影は感じられない。本丸の両側に植えられた桜が咲く春には、多くの花見客が
押し寄せる。東虎口の枝垂れ桜とともに上田城の桜は大変に綺麗であるが、人でごっ
た返すのでこの時期に行くことは避けたい。二の丸の西側は市営野球場に、また北側
は陸上競技場となっているが、ここはかつての百間堀の跡である。ここには矢出沢川
が流れていたが、この川の谷をせき止めて堀としたものである。この百間堀は、昌幸
による築城当時からのものである。

 二の丸の西側には現在市民体育館などが建てられているが、小泉曲輪のあったとこ
ろである。この曲輪は大変に広いが、その役割は捨て曲輪ではないかといわれる。た
だ菊花文様の入った軒瓦片や金箔瓦のかけらが出土していることから、真田時代には
何か重要な役割を果たしていたのではないかと推察されている。また二の丸北側には
北虎口の石垣の残り、かなり修復されているものの見どころのひとつである。二の丸
堀跡からは金箔の施された鬼瓦も出土しており、豊臣系の城であることを窺わせる。

 上田城の縄張を見ると、本丸を中心にその東・北・西を二の丸がコの字型に囲んで
いる。さらに二の丸の西側には小泉曲輪が、また東側には三の丸と大手門が設けられ
るという、いわゆる梯郭式の縄張となっている。城の南には千曲川が流れ、尼ヶ淵と
いう崖によって守られている。また北側と西側には矢出沢川を引き込んで外堀とし、
唯一攻め口となる東にも蛭沢川や湿地帯があるという攻めにくい立地である。また上
田城の北約3kmのところには石垣の石を切り出した場所でもある太郎山があり、砦を
設けて守っていた。


◆真田氏発祥の地に残る関連城郭もぜひ訪れたい

 上田城というと真田の城というイメージが強いが、実際に真田氏が上田城にいたの
はそれほど長くはない。上田に来て真田関係の史跡めぐりをするのなら、やはり真田
に行くべきである。真田(現上田市真田町)は上田城の北東約6kmに位置し、かつては
上田丸子電鉄が走っていた。現在は車か、バスで行くこととなる。ここには戸石城を
はじめ、真田本城、真田氏館など多くの遺跡が残っている。

 戸石城(砥石城)は武田信玄が大敗北を喫した「戸石崩れ」でも知られ、また第一次
上田合戦では真田信之がここに籠城した。かなり険しい山城であるが、曲輪跡や切岸
などが残っている。戸石城というのは単一の城ではなく、米山城など周辺の山城を含
めた城郭群でもあるので、時間をかけて攻めるのも良いでしょう。

▼戸石城については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro3/toishi/index.html
 http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/toishi.htm
 http://yamajiro.hp.infoseek.co.jp/toishi-jou/page016.html

 真田本城は松尾城とも呼ばれ、その名のとおり上田に移るまで真田氏の本城であっ
たといわれる。曲輪跡や堀切などの遺構は大変によく残っているが、本城というには
ちょっと小さな城という印象である。真田氏は周辺の山々に山城ネットワークという
べき支城網を構築しており、有事にその司令部的な役割を果たしたのではないかと思
われる。

▼真田本城については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Sanada/index.htm
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro3/sanadahon/index.html
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukannagano/sanadahon/sanadahon.html

 真田本城の1kmほど南西に真田氏館跡があり、こちらが居館として使われたと考え
られる。ここは大変に広く、現在でも「御屋敷」と呼ばれていることから居館であっ
たことは間違いない。現在は御屋敷公園として整備され、土塁や堀などがよく残って
いる。また、ここには真田氏歴史館が設けられ、真田幸隆をはじめとする真田氏の歴
史を古文書や武具などで示している。さらに歴史館に隣接する真田庵では、郷土料理
を出している。ただ営業期間は4月から10月までなので、注意して下さい。

▼真田氏館については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukannagano/sanadayakata/sanadayakata.html
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro3/sanada/
 http://www.city.ueda.nagano.jp/sanada/archive/bunkazai/oyasiki.html

 真田といえば池波正太郎さんが執筆した「真田太平記」を思い出すが、その池波さ
んが上田に来る度に必ず寄ったといわれるのが「刀屋」というおそば屋さんである。
ここの名物は大盛りそばであるが、初めて注文するとびっくりすること請け合いであ
る。大盛りというよりも、文字どおりの山盛りである。お昼時には地元の人たちで混
雑するので、時間に余裕を見て行ってください。

▼「刀屋」については、下記サイトをご覧下さい。
 http://www.nichimen.or.jp/kikou/01/02.html
 http://gourmet.yahoo.co.jp/0004503206/M0020001009/
http://www.nichimen.or.jp/kikou/01/01.html


◆上田城関係の参考書
 上田城を散策するにあたって参考となる書籍には、以下のようなものがあります。
・小学館ウィークリーブック「週刊名城をゆく第17号 上田城・松代城」   560円
・歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城14 新発田城・松本城」(学研)   730円
・「郷土の歴史 上田城」(編集発行・上田市立博物館)           900円
 上田城博物館で売っています。上田城の歴史、概要など、上田城を多方面から解説
 している。

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